ロスト・ナイト—異世界から落ちてきたのは迷子の騎士でした—

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41、夢の中で見ていたもの

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「夢って? まさか本当に、ティルナータ……なのか?」

 思わず少年の肩を掴み、息急き切ってそう尋ねると、少年は俺をじっと見つめたまま、こくりと一つ頷いた。

 ぶるぶると手が震えた。
 手の中にある少年の肩の細さや、ブルゾン越しに伝わってくる淡い体温が信じられなくて、気づかないうちに指に力がこもっていたらしい。少年は眉根を寄せて、「……痛い」と呟いた。俺は慌てて、少年の肩から手を離す。

「ごっ……ごめん」
「僕だって……混乱してるんだ。さっき、あの絵の前でユウマを見たとき……一度に、これまでの記憶や感情が押し寄せてきて、頭の中がぐちゃぐちゃになって……」
「記憶……って」
「つい最近、あの絵がこの美術館に展示されることをニュースで知ったんだ。……いてもたってもいられなくなった。見たこともないあの絵を、僕は知ってる。なぜ知ってるのかも分からないのに、どうしてもこの目で見たくなった。見れば何か分かる気がして、ここへ来たんだ」
「そう、なんだ」
「この二、三年、ずっと不思議な夢を見てた。僕は、今の『僕』という人格があるのに、夢の中での出来事があまりにもリアルで、目覚めた後は、自分が誰なのか分からなくなったりもしてて……」
「……今の、『僕』?」


 少年は前髪を耳に引っ掛け、涙で濡れていた目元を拭った。耳たぶにきらりと、金色の小さな粒状のピアスが光る。


「僕の今の名は、篠野(ささの)・ティルストラフ・リシルスキー……。父は日本人で、母はロシア人だ」
「ティルストラフ……リシルスキー?」
「ティルナータと呼んでくれ。昔のように」
「あ、うん……」

 戸惑う俺を宥めるような口調で、ティルナータはそう言った。そして、目を細めて大人びた笑みを浮かべる。

「僕が生まれる少し前に、本当の父は亡くなったらしい。ひとり祖国に戻った母は僕を産み、ずっとロシアで暮らしていた。五年前に母は再婚して、今はロシアに一歳の弟がいる」
「ロシア人とのハーフか……。でもまた、なんで日本に?」
「うん……ロシアの家にはいづらくて。父は僕のことを毛嫌いしているようだし、母も、僕と父の両方に気を遣っている。そんな母を見てると、気の毒で」
「……そうなんだ」
「母は、苦労して僕をここまで育ててくれた。母の幸せを邪魔したくないんだ。だから、日本の大学を受けて、今は寮で暮らしてる」
「大学生……?」
「うん」
「大学生……ティルが、大学生……? ってことはお前、ちゃんとこっちの世界に、いるってことなんだな。もう、エルフォリアに帰らなきゃとか……そういうことは、もう……ないってこと!? ずっと、こっちにいられるってことなんだよな……!?」
「ユウマ、落ち着いて」

 ティルナータはそう言って俺の頬に触れ、懐かしげな笑みを浮かべた。この笑い方も、落ち着きのある口調も、俺に触れる手の動きも、何もかもが記憶の中のティルナータそのもので、俺は思わず白い手を握りしめる。

「僕は、ここにいるよ。ユウマのもとに、戻ってきたんだ」
「……ま、じで……か」
「そうだよ……ユウマ。僕は、僕……」

 見る間に、ぽろぽろと蜂蜜色の目から涙が溢れてくる。顔をくしゃくしゃにして嗚咽を漏らしながら泣き出したティルナータのことを、俺はぎゅっと抱きしめた。


 ——あったかい。ティルのことが恋しすぎて、俺、幻覚見てるわけじゃないよな。だって、ちゃんと俺の腕の中に、ティルの体温がある。ちゃんと俺のことを掴んでくれてる。この涙も、震える身体も、本物だよな……?


「ティル……ティルナータなんだ。そうなんだよな……?」
「そうだよ。僕だって、まだ信じられないけど……」
「どうして? どうしてこんなことが起こったんだ? 俺……嬉しすぎてパニックなんだけど、まさかこれ、夢でしたとか幻覚でしたとか……そんなオチじゃねーよな」
「そんなんじゃない……! 僕はここにいる! ユウマのそばに……!」

 声を詰まらせるティルナータを抱きしめていたら、いつの間にか俺の目からも涙が溢れ出していた。息が上がって、うまく喋れなくて、でも聞きたいことが山のようにあって、俺たちは二人してしばらく無言で泣きじゃくり、ただただ強く抱きしめあった。


 しばらくそうしていた後、ティルナータは鼻をすすりながら、こんなことを語り始めた。


「僕は……あの後、すぐに国王に即位した。戦況は思った以上に悪くて……軍議と戦闘に明け暮れる日々がしばらく続いて……」
「うん……うん」
「でも僕には確信があった。だから何も恐ろしくはなかった。どんなに悪い状況も、必ず好転すると信じていたからだ。だからこそ、僕は疲弊する兵たちを鼓舞できた。国を追われて悪夢のような日々を送っている民を、強い言葉で励ますことができた。嘘偽りの言葉ではなく、心の底から勝利と祖国の奪還を信じていたからこそ、僕の言葉は皆に届いた。そして三年ののち……僕はエルフォリア王国を奪還することに成功した」
「そっか……そうだったんだ」
「でも、一度滅んだ国の再建は、思った以上に大変だった。財政も、民の力も、何もかもが失われた直後だったからな。でも僕は、何が何でも豊かな国を取り戻したかった。僕らのふるさとを、あの美しい国を、なんとしてでも蘇らせたかった。戦争をしていた頃以上にせわしない日々が続いて、でも、確実に国は実りを取り戻しつつあった頃……僕は、自分では歩けない状態になっていた」
「えっ……!? ど、どういうことだよ」

 ぎょっとして、ティルナータの顔を覗き込む。ティルナータは困ったような笑みを浮かべて、俺の腕の中で、上目遣いにこっちを見た。

「戦争も終盤に差し掛かった頃、僕は左足に傷を受けた。邪悪な破壊魔法の仕込まれた剣で、後ろから太ももをひと突きさ。あのとき、戦場は騎乗すらしていられないほどの混戦になっていて……複数の敵兵に襲われていた若い兵に助太刀しようとした瞬間に、背後から」
「……うわ」

 俺はふと、『王の凱旋』に描かれていたティルナータの身体から流れ出す血液の色を思い出していた。そして、ティルナータが肩を貸していた若い兵士の姿のことも。

 エルフォリアに凱旋するティルナータの表情はどこまでも清々しいものだったが、まさか命に関わるほどの傷を受けていたなんて、俺は想像すらしていなかった。

「当然、治療は受けていた。でも少しずつ、少しずつ、敵兵の呪いが僕の体を蝕んでいたんだ。でも僕は、死など怖くはなかった。ただ、志半ばで息絶えてしまうことのほうが恐ろしくて、僕は魔術師たちの力を借り、必死で耐えていた」
「……そうなんだ」
「歩けなくなったとしても、国王としての仕事はできる。僕はとにかく必死だった。シュリにはよく、『もっと休め、寝た方がいい』と小言を言われたものだけど、いつ全身が動かなくなるかも分からない状態で、のんびりしている気にもなれなくて……」
「そこまでして、頑張ってたんだな……」

 シュリの名前ももちろん懐かしいが、ティルナータがボロボロになりながらも、そこまでして祖国を立て直そうと必死になっていた時に、自分がそばにいてやれなかったことがひどく悔しかった。俺はティルナータの肩を抱き寄せて、さらりとしたダークブロンドに頬を寄せる。

「でも、その甲斐はあった。国は、再びかつての豊かさを取り戻し始め、民の顔には活気が戻った。あっという間に、十五年という月日が過ぎ去っていた」
「十五年……!?」
「そう……僕も、いい歳になっていたよ。世嗣ぎも、生まれていたし」
「えっ……世嗣ぎって……」
「それも国王の務めだ。正妻、側室……たくさんの女を抱いた。皆、この国の未来のためにと積極的で、献身的で、いい女たちだった。そして王子が三人、王女がひとり……生まれた」
「そうなんだ……」

 ティルナータの過ごした十五年間と、俺が無為に過ごした七年間。ティルナータはあまりにも多くのことを成し遂げたというのに、俺ときたら……と、自分が情けなくなる。

 そんな俺の表情を気にかけたのか、ティルナータは顔を上げて俺を見上げながら、少し甘い口調でこんなことを言った。

「……女を抱く時、ユウマのこと考えてた。いつも」
「え?」
「そりゃ、彼女たちのことを大事だと思わないわけじゃなかった。でも……ユウマはこんなふうに僕を抱いてくれたな、とか。優しいキスを、たくさんしてくれたな……って、彼女たちを抱いていても、思い出すのはユウマのことばかりで……」
「ティル……」
「戦場でも……ユウマのことを考えていた。夜になると、ユウマの肌のぬくもりや、優しい声が恋しくなった。……情けない国王さ。寂しくて、隠れて泣いて、どうにもならない高ぶりを堪えきれず、一人虚しく自分を慰める……すごく、つらかった」
「……っ」


 ティルナータは囁くようにそう言って、そっと俺の太ももに手を置いた。その手が妙に熱いものに感じられて、ドキドキと鼓動が高まる。


 あの凛々しい鎧姿で、昂ぶる身体を持て余すティルナータの姿を、つい想像してしまった。どんなふうに、どんな表情で、ティルナータが己を慰めていたのかと考えると……だめだ、めまいがしそうだ。


 あまりに官能的すぎるティルナータの姿を妄想してしまった俺は、猛りそうになる自分を律しようと必死で難しいことを考えた。しばらく俺が黙りこくっていると、ティルナータはどことなく不安げな声でこう尋ねてきた。


「……こっちでは、何年経ってるんだ? 見た所、ユウマはあまり変わってないみたいだけど……」
「七年だよ。俺、今年で二十七なんだ。ティルは、大学生ってことは、十八か、十九?」
「うん……十八、だけど」


 歯切れの悪い返事をした後、ティルナータはしばらく唇を噛みしめていた。そして、うつむいたままこんなことを小声で言った。


「……ユウマにはもう、新しい恋人がいるのか?」
「えっ?」
「……七年もあれば、僕のことは忘れて、他の誰かを抱きたいと思うだろう? ……もし、そうなら、僕は……」
「そ、そ、そんなわけないだろ!! 俺が……俺がどんな想いでこの七年過ごしてきたと思ってんだよ!!」


 ついつい大声で喚いてしまった。ティルナータが珍しく目を丸くして、俺を見上げている。


「この七年、ティルのことばっか考えてた。修復したあの絵を、毎週毎週見に行って、絵の中のティルに話しかけたりしてさ。毎晩お前のこと思い出して……会いたくて会いたくて、気が狂いそうになるのを我慢して……」
「ユウマ……」
「だったの一週間だったけど、ティルと愛し合えたあの時間は……俺にとって本当に本当に、何にもかえがたいほどの幸せだった。ティルが帰ってからの孤独は覚悟してたつもりだったのに、つらくてつらくて、身体がばらばらになりそうなほどつらくて……本気で死にたいって思ったこともあった。それくらい俺は、お前しか、」


 ふわ……と柔らかなものが唇に触れた。
 ティルナータの両腕に抱きしめられ、重なり合うふたつの唇。その懐かしい弾力に触れ、俺の身体は一気に沸点に達したかのように熱くなった。


 そこにあるのは、確固たる確信だ。
 俺の身体ははっきりとティルナータのぬくもりを思い出し、その再会に歓喜している。


 嬉しくて嬉しくて、たまらなかった。
 俺は、ティルナータの細く頼りない腰や背中をぎゅっと抱きしめ、触れられなかった数年間の空白を埋めるかのように、深く深く唇を求め合う。


「ほんとうに……? ずっと僕を、待っていてくれたの……?」
「待ってた。ずっと。もう会えるわけないって諦めようとしたけど、どうしても忘れられなくて、俺……」
「ユウマ……」


 ティルナータはひときわ強く俺にすがりつきながら、ふと、俺の耳に唇を寄せた。
 そして一言、ねだるような甘い声で、囁いた。


「帰ろう、ユウマ」
「……え?」
「一緒に、帰りたい。ユウマの家に」
「……うん……うん、帰ろう。帰ろう、一緒に」


 ずっと凍り付いていた俺の心に、ティルナータの声があたたかく響いた。
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