ロスト・ナイト—異世界から落ちてきたのは迷子の騎士でした—

餡玉

文字の大きさ
上 下
31 / 46

30、不安と戸惑い

しおりを挟む
 あれから午後まるまる、俺は一人きりで作業にあたった。
 部屋を締め切り、淡島たちにティルナータのことを託して、ただひたすらに作業に没頭した。


 自分の過去を思い出した途端、いち早く、ここに描かれているものが何なのかを知りたくなった。

 なので俺は、一区画(淡島たちと作業するにあたって、絵画を20×20cmで区分けしていた)ずつ集中して血液を剥離するというようなやり方をやめた。血液の下にあるものの全体像を確認することができるよう、各区画に付着した血液を、それぞれ少しずつ剥がしていくことにしたのだ。

 赤黒いモザイクがかかったような状態になるだろうが、それでもいい。とにかく、ティルナータが帰ってしまう前に、ここに描かれているものの正体が知りたかった。俺は、こういう細かい作業は速い方だ。集中すれば、間に合うかもしれない……。



 引きこもって作業に没頭していると、いつの間にかアトリエに入って来ていた守衛に肩を叩かれた。


 今、大学は冬季休業中。アトリエは午後八時で締める決まりだと言って、俺は半ば強引にアトリエから追い出されてしまったのだ。

 追い出されてみて、気がついた。
 アトリエの前の薄暗い廊下に、ティルナータがひとりで座り込んでいることを。

 考え事をしながら作業にのめり込んでいた俺は、すっかり時間を忘れていた。腕時計を見て仰天し、俺は慌ててティルナータに駆け寄って、ぎゅっと冷えた身体を抱きしめる。

「……ごめん!! ティル、ごめん……!! 寒かったろ!? 本当にごめん……!!」
「いいさ。僕が好きにしろと言ったんだ。構わない」
「……うう、本当にごめん。早く帰ろう。腹減ったろ」
「……ふふ、ユウマはそればかりだな」

 ティルナータは俺の背中にそっと手を回し、俺の分厚いパーカーをぎゅっと握りしめた。言葉ではこう言ってくれているが、さみしい思いをさせてしまったことは間違いない。俺はティルナータの髪に頬を寄せて、しなやかな身体をひたすらに抱きしめる。

「……仕事は順調か」
「うん……なぁ、ティル」
「ん?」
「あのさ……いや、何でもない。帰ろ」
「うん」


 寄り添って夜の道を歩く間、俺たちはどちらも無言だった。

 俺は暗がりに紛れて、すっとティルナータと手を繋ぐ。か細い手は冷たくて、ティルの白い指を飾る細い金色の指輪たちは、氷のように冷えていた。きっと、廊下で一人俺を待っている間に、身体が冷え切ってしまったんだろう。申し訳なくて申し訳なくて、俺はぎゅっと強くティルナータの手を握った。

「帰ったら、まずは風呂に入ろうな」
「風呂……ユウマと一緒に?」
「うん、狭い風呂だけど、ちゃんとお湯張って、あったまろう。また風邪ひいちまったら、大変だ」
「……うん」

 帰宅してすぐに風呂を沸かし、入浴している間にご飯が炊き上がるように炊飯器をセットする。そして脱衣所で先に服を脱いでいるティルナータのところへ行き、俺ももぞもぞとパーカーを脱いだ。

 ふと、俺に背を向けて服を脱いでいたティルナータが、ちらりと後ろを振り向いた。ベルトを緩めてズボンとパンツを脱ごうとしている俺を、素っ裸になったティルナータはじっと見つめてる。……ちょ、そんなに見られると、恥ずかしいんだけど……。

「な、何?」
「いや……明るいところでこうしてユウマの裸を見るのは、初めてだなと思って」
「そ、そんなジロジロ見んなって。ほら、入るぞ!」

 恥じらいもなく美しい肢体を晒すティルの身体を泡で洗ってやり、先に湯船に追い立てる。シャンプーをしている俺を浴槽の中からじっと見つめるティルナータの目線を感じて、俺はそわそわしながら泡を流した。

 そして二人で湯船に浸かっていると、温まった身体からため息が漏れた。ティルナータを背中から抱きしめるような格好で湯の中でひっつきあっていると、こてんとティルナータの頭が俺の肩のほうに倒れかかってきた。

 しっとりと濡れた金髪が、細い首筋に絡みついている。抜けるように白い肌の上を、細かい水滴がつうっと鎖骨の方へと流れていくのは、とても美しい眺めだった。


「……シュリに聞いたんだってな。僕の……生い立ちのこと」
「あっ、あ……うん」
「そうか……」

 ティルナータはそれだけ呟き、俺の脚の間でもぞりと身体を動かした。湯船の中からすっと手を持ち上げて、いくつかの金色の指輪に飾られた細い指を、じっと見つめている。

「ティルも……びっくりしたよな。自分が、王子だったなんて」
「うん……」

 ティルナータは、右手の人差指に嵌った指輪を左手で撫でている。見下ろした横顔は、指輪を通してもっと遠くを見つめているようにも見えた。

 シュリから真実を聞いて、この二日間、ティルナータは何を考えていたんだろう。自分の生い立ちのことについてだろうか。それとも、戦の最中に国王として立つ、自分の未来についてだろうか。

 そんなことを問いかけてみたかったけど、聞いてはいけないような気もして、俺はただただ、湯船の中でティルナータの膝小僧を撫でていた。するとティルナータはふとため息をつき、こんなことを呟いた。

「……セッティリオ様が……僕の身代わりのために生きていたなんて。……僕はあの人に、どう詫びればいいものか」
「侘び……?」
「あの人は、僕のために死んだってことだろう? 僕を生かすために、あの人は城もろとも炎に巻かれて死んで行った……僕の、せいで」
「何言ってるんだ! お前のせいなんかじゃない!」


 俺はティルナータの肩を強い力で掴み、半ば強引に身体の向きを変えさせた。


 ばしゃん、と湯が跳ねる音がバスルームの中に響く。狭い風呂の中で向かい合い、俺はじっとティルナータの緋色の瞳を見つめた。


「それは違う。俺……セッティリオってやつが、そんなふうに思うわけないだろ」
「……どうして、そんなことが言えるんだ。あの人は僕のせいで、ずっとずっと、自分を偽る人生を強いられてきたんだぞ!! 挙げ句の果て、一人きりで死を迎えて……。あの人の孤独を思うと、僕は、」
「孤独だなんてこと、あるわけないだろ!! 俺は……」


 ——孤独なわけがない。俺は敬愛する王に頼られることを、何よりほまれと感じていた。愛らしい王子の身を守る真の騎士になれたことを、幼いながらに誇りに思っていた。

  
 多くの仲間に囲まれて、すくすくと素晴らしい成長を遂げるティルナータのことを間近で見守れることを、何よりも幸せだと感じていた。


 死の瞬間でさえ、孤独ではなかった。恐怖もなかった。心の中にティルがいたから……。



 胸の奥が弾けるような、切なく苦い想い。
 俺はぐっとティルナータの肩を掴んだまま、ぎゅっと唇を噛んで黙り込んだ。


 俺はこの気持ちを、ティルナータにぶつけてもいいのだろうか。俺はセッティリオの生まれ変わりなのだと、ティルナータに伝えてもいいのだろうか。


 そして、あの時伝えられなかった気持ちを告げて、思いのままにティルナータを抱いて……。


「ユウマ……? どうしたんだ、どうしてそんなに、苦しそうなんだ?」
「っ……」


 言って、どうなる。
 そんなことを知ったところで、ティルナータが国へ戻り、国王となるべき未来は変わらない。   


 どうせこの先そばにもいてやれないのに、そんなことを伝えて、どうなる。


 セッティリオの気持ちを知って、ティルナータが何か救われるとでもいうのか。


 それに俺は、『時田悠真』として、ティルナータを愛した。そしてティルナータも、俺を『ユウマ』として愛してくれている……。


 過去をもちだすことが、今の俺たちに必要なこととは思えない。


 でも、伝えたい気持ちはこんなにも溢れている……。


 俺は無理やり笑顔を見せて、怪訝な表情を浮かべるティルナータの頬を撫でた。


「……ごめん……でしゃばったこと、言って……」
「いや……いいんだ。ユウマの言う通りだと、思うんだ。あの人は、そう言う人だったから」
「……」

 そう言って、ティルナータは寂しげに微笑む。

「でも、罪悪感は拭えない。あの人は、僕の師であり、兄のような存在だった。すごく……大事な人だった。そんな人の命を踏み台に、僕はこうして生きながらえているんだから」
「……でも、でも! そうならなかったら、俺はティルと出会えなかった。そうだろ?」
「……うん」
「俺、ティルのことが、本当に好きだよ。……本当に、大好きなんだ」
「ユウマ……」


 湯船の中でティルナータを抱きしめる。濡れた肌が重なり合い、互いの鼓動を間近に感じた。


「……僕も、ユウマが好きだよ。こんな気持ちになったのは、生まれて初めてだった」
「ティル……」
「だからこそ、怖いんだ。こんな気持ちのまま、ユウマと離れて……僕は、僕は……」
「ティル……泣いてもいいから」


 俺がそう囁くと、ティルナータはひときわ強く、俺の身体にしがみついた。そして、堪えていたものが溢れ出すかのように、全身を震わせ、嗚咽を漏らす。


「ぼくは、僕は……っ……帰りたくない……。ずっとずっと、ユウマのそばにいたい!! ……でも、できない。僕は王になる……王になるんだ!! そして、奪われつつある国土を、民を、守って……っ……」
「ティル……」
「こわい……っ……こわいよ……。僕に、そんな力があるわけがない……僕は、……っ……」
「ティル……」


『大丈夫』と、言ってやりたい。でもそれは、今の俺が安易に口にしていい言葉ではないような気がした。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

Switch!〜僕とイケメンな地獄の裁判官様の溺愛異世界冒険記〜

天咲 琴葉
BL
幼い頃から精霊や神々の姿が見えていた悠理。 彼は美しい神社で、家族や仲間達に愛され、幸せに暮らしていた。 しかし、ある日、『燃える様な真紅の瞳』をした男と出逢ったことで、彼の運命は大きく変化していく。 幾重にも襲い掛かる運命の荒波の果て、悠理は一度解けてしまった絆を結び直せるのか――。 運命に翻弄されても尚、出逢い続ける――宿命と絆の和風ファンタジー。

Label-less

秋野小窓
BL
『お兄ちゃん』でも『リーダー』でもない。ただ、まっさらな自分を見て、会いたいと言ってくれる人がいる。 事情があって実家に帰った主人公のたまき。ある日、散歩した先で森の中の洋館を見つける。そこで出会った男・鹿賀(かが)と、お茶を通じて交流するようになる。温かいお茶とお菓子に彩られた優しい時間は、たまきの心を癒していく。 ※本編全年齢向けで執筆中です。→完結しました。 ※関係の進展が非常にゆっくりです。大人なイチャイチャが読みたい方は、続編『Label-less 2』をお楽しみください。

虐げられている魔術師少年、悪魔召喚に成功したところ国家転覆にも成功する

あかのゆりこ
BL
主人公のグレン・クランストンは天才魔術師だ。ある日、失われた魔術の復活に成功し、悪魔を召喚する。その悪魔は愛と性の悪魔「ドーヴィ」と名乗り、グレンに契約の代償としてまさかの「口づけ」を提示してきた。 領民を守るため、王家に囚われた姉を救うため、グレンは致し方なく自分の唇(もちろん未使用)を差し出すことになる。 *** 王家に虐げられて不遇な立場のトラウマ持ち不幸属性主人公がスパダリ系悪魔に溺愛されて幸せになるコメディの皮を被ったそこそこシリアスなお話です。 ・ハピエン ・CP左右固定(リバありません) ・三角関係及び当て馬キャラなし(相手違いありません) です。 べろちゅーすらないキスだけの健全ピュアピュアなお付き合いをお楽しみください。 *** 2024.10.18 第二章開幕にあたり、第一章の2話~3話の間に加筆を行いました。小数点付きの話が追加分ですが、別に読まなくても問題はありません。

女神の間違いで落とされた、乙女ゲームの世界でオレは愛を手に入れる。

にのまえ
BL
 バイト帰り、事故現場の近くを通ったオレは見知らぬ場所と女神に出会った。その女神は間違いだと気付かずオレを異世界へと落とす。  オレが落ちた異世界は、改変された獣人の世界が主体の乙女ゲーム。  獣人?  ウサギ族?   性別がオメガ?  訳のわからない異世界。  いきなり森に落とされ、さまよった。  はじめは、こんな世界に落としやがって! と女神を恨んでいたが。  この異世界でオレは。  熊クマ食堂のシンギとマヤ。  調合屋のサロンナばあさん。  公爵令嬢で、この世界に転生したロッサお嬢。  運命の番、フォルテに出会えた。  お読みいただきありがとうございます。  タイトル変更いたしまして。  改稿した物語に変更いたしました。

消えない思い

樹木緑
BL
オメガバース:僕には忘れられない夏がある。彼が好きだった。ただ、ただ、彼が好きだった。 高校3年生 矢野浩二 α 高校3年生 佐々木裕也 α 高校1年生 赤城要 Ω 赤城要は運命の番である両親に憧れ、両親が出会った高校に入学します。 自分も両親の様に運命の番が欲しいと思っています。 そして高校の入学式で出会った矢野浩二に、淡い感情を抱き始めるようになります。 でもあるきっかけを基に、佐々木裕也と出会います。 彼こそが要の探し続けた運命の番だったのです。 そして3人の運命が絡み合って、それぞれが、それぞれの選択をしていくと言うお話です。

婚約者に会いに行ったらば

龍の御寮さん
BL
王都で暮らす婚約者レオンのもとへと会いに行ったミシェル。 そこで見たのは、レオンをお父さんと呼ぶ子供と仲良さそうに並ぶ女性の姿。 ショックでその場を逃げ出したミシェルは―― 何とか弁解しようするレオンとなぜか記憶を失ったミシェル。 そこには何やら事件も絡んできて? 傷つけられたミシェルが幸せになるまでのお話です。

俺の好きな男は、幸せを運ぶ天使でした

たっこ
BL
【加筆修正済】  7話完結の短編です。  中学からの親友で、半年だけ恋人だった琢磨。  二度と合わないつもりで別れたのに、突然六年ぶりに会いに来た。 「優、迎えに来たぞ」  でも俺は、お前の手を取ることは出来ないんだ。絶対に。  

秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~

めぐみ
BL
☆俺はお前を何度も抱き、俺なしではいられぬ淫らな身体にする。宿命という名の数奇な運命に翻弄される王子達☆ ―俺はそなたを玩具だと思ったことはなかった。ただ、そなたの身体は俺のものだ。俺はそなたを何度でも抱き、俺なしではいられないような淫らな身体にする。抱き潰すくらいに抱けば、そなたもあの宦官のことなど思い出しもしなくなる。― モンゴル大帝国の皇帝を祖父に持ちモンゴル帝国直系の皇女を生母として生まれた彼は、生まれながらの高麗の王太子だった。 だが、そんな王太子の運命を激変させる出来事が起こった。 そう、あの「秘密」が表に出るまでは。

処理中です...