ロスト・ナイト—異世界から落ちてきたのは迷子の騎士でした—

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29、ティルナータのつとめ

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「ティルが……国王……?」
「そういうことだ」

 シュリはどこまでも静かな表情で、俺を見つめながら語った。

「現国王にも、昔は二人のお子がいた。しかしな、二人ともが十代のうちに早逝している」
「え、そうなのか……?」
「思えば、その頃から派閥争いは始まっていたのだろう。二人の御子は呪(しゅ)を受けて殺されたのだ……王宮では、そんな憶測がまことしやかに囁かれていた」
「派閥争い……か」
「そう、国王はひどく打ちひしがれていた。もうこれ以上、王の血を継ぐ子を失いたくはない……王は、そう心から願われた。そしてしばらく経ったのち、ティルナータが生まれた。この出産は秘密裏に行われ、王宮の中でもティルの誕生を知るものはほとんどいなかったらしい」
「……そうなんだ」
「年老いてから生まれたティルのことを、国王はそれはそれは慈しんでいたそうだ。それこそ、目に入れても痛くないというほどに。だからこそ、過去の過ちを繰り返したくはない。王は、自らの宝であるティルの身を守るため、身代わりの王子を立てることに決めた」
「ティルの身代わり……それが、セッティリオだったのか」
「そういうことだ」

 シュリは絵画を見下ろして、懐かしいものを見るように目を細めた。

「リオ様の父親と俺の父親は、国王直属の騎士として共に戦う仲間だった。それもあって俺は、幼いころからリオ様の相談相手となるよう、父から命じられていた。そして、真の王子であるティルを見守り、密かにその身を守るようにとも、命じられていた」
「……シュリが、一人で?」
「真実を知るものが少なければ少ないほど、秘密は守られるものだ。俺は、喜んでその任を受けた」
「……」
「そんな顔をするな。別につらい任務でもなかったさ。リオ様のは朗らかで明るい、気持ちのいい武人だったからな。その背に負った秘密のことも、いずれ訪れる死のことも、彼は全て受け入れていた。……そしてあの人は、誰よりもティルナータを愛していた」
「愛……?」


 俺の脳裏に、夢の中の風景が蘇る。
 大平原を馬で駆け回る、幼いティルナータの姿。
 花のようにきらめく笑顔や、拗ねてふくれる愛らしい表情。


 そして、黒く燃える業火の中で、ただただティルナータのことを想いながら死んでいったあの瞬間のことを……。


 ——痛い。胸が、痛む。……どうして? どうしてこんなにも、落ち着かない気分になるんだろう。


「強く、美しく、聡明で正義感に満ち溢れた騎士へと成長したティルナータのことを、リオ様は誰よりも誇らしく思っていた。月に一度、国王にティルナータの様子を報告することが、何よりの楽しみだと彼は言っていた。この素晴らしい少年のためならば、いくらでもこの命を捧げられると」


 ——強くなったティルナータが時折、俺には不安をこぼしていたっけ。俺にだけは素顔を見せてくれるティルナータのことが、愛おしかった。


 もっともっと、甘やかしてやりたかった。抱きしめて、キスをして、お前は大丈夫だ、俺はお前を信じていると、耳元で囁いてやりたかった。


「ティルへの気持ちに、リオ様はいつも苦しんでおられた。兄のようにティルナータを愛おしく思うが、それだけではないような気がすると。ティルに愛されたい、ティルを愛したい。だが、この気持ちを伝えたところでどうなる。決して実るはずもない恋だ。優しく純粋なティルナータを戸惑わせたくない、煩わせたくない……リオ様はいつもそう言って、ご自分のお気持ちを押し殺していた」


 ——そうだ。伝えるつもりもなかった。気持ちは伝えないと決めていた。俺の命は、どうせ先に消えゆくものだ。ティルナータが俺の気持ちを知る必要はない……。


 シュリはふと、俺の顔を見て眉を寄せた。そしてすっと指を伸ばし、俺の頬を淡く撫でる。


「なぜ、お前が泣く」
「……えっ?」
「ティルとの別れがつらいから、泣いているのか?」
「俺……泣いて……」

 気づけば、俺の頬は涙で濡れていた。とめどなく両目から溢れる涙は止まることはなく、俺は自分の反応を訝しみながら、ごしごしと拳で目を拭う。

「あれ……俺、なんで……」
「貴様が泣こうが喚こうが、俺はティルをエルフォリアに連れ帰る。そして、ティルが国王となったあとも、ずっとティルを支えていく。それが俺の役目で、リオ様との約束でもある。俺は、なんとしてでもこの約束を果たさねばならない」
「……」
「そのためにも、惑星直列の好機は逃せない。……お前たちの間に何があったのかは分からないが、貴様には、俺たちのさだめを変えられない」
「……わかってるよ。わかってる」

 俺はシュリの言葉を遮るように首を振り、ぐいっと涙を拭って作業台に向かった。シュリは無言でしばらく俺の背中を見下ろしていたようだが、はぁ、と小さくため息をつく。

「……報われないものだな。何もかもが」
「出て行ってくれ。俺……作業があるから」
「……そうか。邪魔したな」
「ティルは食堂にいるから」
「分かった」
  

 すっ……と、背後からシュリの気配が消える。パタン、とドアが閉まる音が、アトリエにしんと響いた。


 俺はただただ、混乱していた。


 胸に渦巻く不思議な感情の正体が分からなくて、叫び出したいような気分だった。


 引き裂かれたキャンバスに向かい、一心不乱に血液を剥がしていく。ピンセットや筆を使って、ただひたすらに細い作業に没頭した。そうしていなければ、何かとてつもなく大きな力に競り負けてしまいそうな気がして、怖かった。


 ——あれはただの夢じゃない。あれは、記憶だ。俺は……過去の記憶を夢に見ている……。


 その直感は、おそらく正しい。


 俺の手は、よどみなく作業を行なっている。でも、俺の脳内には、ここではない世界の風景が、ぐるぐると激しく巡っている。


 ——でも俺は、時田悠真だ。セッティリオじゃない……ただ、あの時の記憶も、感情も、今の俺の胸に宿っている。


 ——どうして? どうして俺は、世界を超えて現代の日本人として生きているんだ? 俺はただの日本人で、なんの力もない芸大生だ。俺なんかじゃ、ティルナータの力になれるわけがない。


 どうせなら、エルフォリアに産まれ直したかった。国王になったティルのことを、どんな形でもいいから支えてやりたいのに……どうして、俺はまた、ティルナータと離れ離れになる道を歩んでいるの……。


「……っ……」


 気を抜けば溢れそうになる涙を、俺はぐっとこらえた。キャンバスに涙を落とすわけにはいかない。俺は袖口でぐいと目元を拭い、ただひたすらに作業に集中した。


 ——俺の元に、ティルナータは降ってきた。どうして? なぜ俺たちはここで出会って、またここで別れなきゃならない。


 俺はふと、最後の瞬間に見た空のことを思い出した。


 惑星直列。
 あの日、エルフォリアの天空には美しい星々が、きらめく首飾りのように並んでいた。


 そしてその夜空を見上げながら、俺は星に願った。


 ——ティルナータと一緒に、争いのない穏やかな国で、生きたい……と。


 その願いが、叶ったとでもいうのか? でも、俺たちはまた離れ離れだ。


 あの時は通い合わせることができなかった気持ちを、こうして伝え合うことができたのに、また……俺たちは……。


「っ……う……」


 嗚咽が、がらんとしたアトリエに小さく響く。


 セッティリオであった頃の俺は、命を賭してティルナータの未来を守り、そして時田悠真である今の俺は、ティルナータと気持ちを通い合わせることができた。


 ——……これは、過去の俺の悲願でもあったことだ。願いは叶った。それで満足すべきなのだろうか。これが、神が俺に与えた慈悲なのだろうか。


 決して実るはずのない恋——


 それが、俺とティルナータの”さだめ”なのだろうか。
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