ロスト・ナイト—異世界から落ちてきたのは迷子の騎士でした—

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28、理由

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 翌日、俺は絵画修復学科のアトリエに籠って、早速砺波氏の描いた絵の修復に取り掛かっていた。

 日の光の入らない十畳ほどの部屋の中心には、広々とした作業台が腰を据えている。そこに、キャンバス布を木枠から外した状態の絵画を固定して、修復作業に挑むのだ。

 絵画にはきちんとニスが塗布してあったし、血液はすでに乾燥した状態で全体的にひび割れているため、剥離作業自体はさほど難しいものではない。しかし広範囲にわたって血に汚れているため、地道な作業が続くことになりそうだ。加賀屋教授は、俺の信頼できる学生であるなら協力者を募ってもいいと言っていたため、俺は淡島と九条に手伝い頼むことにした。



 あの後、気付いたら俺は二度寝してて、スマホのアラームの音で目を覚ました。ほんの数時間前に見たリアルな夢のことは、その時はもう忘れていた。
 隣で眠るティルナータが俺のそばからいなくなるという現実の方が、今の俺にとっては重たいリアルだから……。


 ティルナータも、一緒にアトリエにこもっている。部屋の隅に置かれたスチール製の椅子の上で膝を抱えて、ティルナータはじっと俺たちの作業を見つめているのだ。


 ふと目を上げてそっちを見ると、少しばかり充血した目で、ティルナータは俺を見た。そして、優しく寂しげな、微笑みをくれる。


 昨日は結局、セックスはしなかった。
 キスをして、抱きしめ合って眠る……俺たちがしていたのは、ただ、それだけ。

 俺がキスをするたび、ティルナータは大きな目にいっぱい涙をためて、何度も何度も俺の名前を呼んだ。ティルナータに促されるまま服を脱ぎ、肌と肌で体温を確かめながら、暖かな布団の中でひっつき合って、何度となくキスをした。それ以上のことは、どうしてもできなかった。

 現実が受け止めきれず、ただただ悲しくて、寂しくて……。ティルナータが泣いていなければ、泣いていたのは俺の方だっただろう。たった数日一緒にいただけなのに、こんなにも別れがつらい。ティルナータも、俺と同じように感じてくれているのだろう。だからこんなにも不安げで、寂しそうに笑うんだろう。



「悠真、破れた部分はどうすんの」
と、淡島のクールな声が、俺を現実に引き戻す。俺はハッとして、ゴーグルをして頭にバンダナを巻き、でかい身体を丸めて作業を進めている淡島を見た。

「あ、ああ、それは俺がやる。淡島と九条は、引き続き周辺部の血液剥離を頼むよ。明日の朝までには、キャンバスのかけはぎしとく」
「朝まで? お前、寝ないつもりかよ」
「まぁ……ちょっとは寝るけど」
「ティルもいるんだし、家帰ってちゃんと寝ろよ。睡眠不足じゃ、集中できねーだろ」
「あ、うん……」

 淡島も、ティルナータのことを気遣ってくれているらしい。それがなんだかすごく嬉しくて、俺は思わず泣きたくなった。

 だめだ、俺は思った以上に、感傷的になっているらしい。仕事中はちゃんと絵画に向き合おうって思ってるのに……。

「ユウマ」
「……あ、何?」
「僕のことは気にするな。ユウマがやりたいようにやればいい」
「……あ、うん。ありがとうな。でも、なるべく夜は、一緒に帰ろう」
「……うん」

 ティルナータは弱々しい笑みを浮かべて、こくりと小さく頷いた。

「あぁああぁあ肩凝ったぁああ!!」
 その時、九条がいきなり立ち上がり、肩をぐるぐる回しながらアトリエ内を走り回るという奇行を働き始めた。集中を削がれた淡島が、「びっくりすんだろーが!! いきなりギャーギャー言うんじゃねぇ!!」と怒鳴ら散らしている。

「いやいや、まさかこんなに地味な作業とは思ってへんかったで……」
「そりゃまぁ、日がな一日わけわかんねートーテムポール削りだしてるお前には分からねー苦労だろーけど」
「あっ、今馬鹿にした!? 僕の芸術馬鹿にした!?」
「はぁ? してねーよ別に」
「あっ、あっ、絶対馬鹿にしてるやん!! あれはな、ただのトーテムポールとちゃうねんで!! 異世界人と交信するための、」
「だーーーーもーーーーうるせぇぇ!! 気が散るんだよ!! 喧嘩するなら表出ろバカ!!」
 と、思わず俺まで声を荒げたものの、ふと腕時計を見てみると、時刻はとっくの昔に正午を過ぎている。なるほど、腹が減ってカリカリしてんだなこいつらは……。

「休憩しよーぜ。飯食ってこいよ」
「え? お前はどーすんだよ」
「俺はここんとこがひと段落したら追いかけるから。ティルにもなんか食わしてやってよ」

 そう言ってティルナータの方を見てみると、ティルナータはなにか深く考え事をしているのか、部屋の隅の椅子の上で、じっと絵画の表面を見据えたまま微動だにしない。俺は椅子から立ち上がり、ティルナータの方へと歩み寄った。

「ティル」
「……んっ? な、なんだ?」
「腹減ったろ?」
「あ、うん……」
「こいつらと飯食ってこいよ。俺も後から行くからさ」
「え、でも……僕はユウマと……」
と、言いかけた時、ティルナータの腹がぐぎゅるる~と鳴った。ティルナータは若干ばつが悪そうに目を伏せて、「確かに、腹が減ったな……」と呟いた。

「ははっ、ティルは大食らいだもんな。学食行って、先に食っててよ」
「……でも」
「大丈夫、すぐ行くから」
「……うん……」

 頭を撫でながらそう言うと、ティルナータはちょっと困ったような顔をしつつも立ち上がり、離れ難そうに俺を見た。俺だって、ティルナータとは片時も離れたくはないけど、今は、この絵に何が描かれているのかということも、ものすごく気になっている。ここに描かれたものを見れば、俺がここ最近感じている奇妙な感覚の正体が分かるかもしれないという予感もある。


 九条と淡島に挟まれてアトリエを出て行くティルナータの背中を見送った後、俺は作業台のほうへと向き直った。
 俺は午前中の間、まずはキャンバスの破損個所の血液剥離を集中的に行なっていた。そのため、かすかにだが隠れていた元絵が垣間見えるようになっている。


 そこには、金色の何かが見える。
 まだほんの一部だから、全体図は想像すら出来ないレベルだけど、細かく丁寧に描かれた金色の細い線が、血の海の中で鈍く光っている。


 ——綺麗な色だなぁ。絵とは思えないような透明感だ。


 そこから覗くのは、金色と、白銀色。そう、ティルナータと出会った時に彼が身につけていた、あの鎧のような色だ。


 ——砺波さんは、本当にエルフォリアに行ったのかな。原田さんの話を聞く限り、ティルの話すあの国の特徴とぴったりだったけど……。でも、そんな偶然、あり得るのかな……。


 ふと、朝見た夢のことを思い出す。
 あの夢の中で、俺は『時田悠真』ではなかった。ティルナータが語ったエルフォリア王国の第一王子・セッティリオとして、俺は夢の中で最期を迎えて……。


 あの夢の中で感じたのは、身を焼かれる恐怖や苦痛ではなく、安堵と後悔。その感情の微かな残滓が、俺の胸の中にまだくすぶっている。


 まるで、俺が経験したことのように……。


「いや……まさかな」

「何がまさかだ?」


 何の気なしにそう呟いた俺の背後から、涼やかな低音ボイスが聞こえてきた。仰天するあまり声も出せなかった俺は、びくうっと無言でその場に飛び上がる。

 後ろを振り返ってみると、そこには淡いグレーの三つ揃えスーツに身を包んだシュリが立っていた。片手をスラックスのポケットに入れ、スマートな立ち姿で俺を見下ろしている。

「ばっかやろ!! いきなり声かけんじゃねーよ! キャンバスに傷つけるところだっただろ!」
「ふん、なにをカリカリしてるんだ。ティルはどこだ?」
「ったく……。ティルなら飯だよ。淡島たちと」
「ほう、人任せか。貴様は、ティルナータよりもこの血塗れの絵画のほうが大事なんだな」
「そんなわけねぇだろ! 一段落したらすぐ合流……ってまぁ、お前に言っても分かんないか」

 俺は立ち上がって前掛けを外すと、肩を回しながら深呼吸した。シュリはしげしげと物珍しそうに絵を見つめている。

「随分と禍々しい絵だな」
「もとはこんなじゃなかったらしいよ。画家がノイローゼになって、この絵のそばで自殺したんだ」
「ふうん。……ん? これは……」

 ふと、シュリが絵に顔を近づけた。血で汚れていない、絵画の左側のあたりをじっと見つめながら、シュリはぽつりと呟いた。

「これは……エルフォリア王国の風景……?」
「……えっ?」
「この城壁、この大地の色……どこからどう見てもエルフォリアだ。それにほら、ここを見ろ、ここに国を守護するためのまじないも見える」
「……え、まじ?」

 シュリはそう言って、絵の一部を指差した。
 画面の端に見える城壁の一部に、うっすらと小さくだが、それらしい八角系の文様が見て取れる。この間、九条が採石場に描いていた八卦陣にとてもよく似ている。

 砺波氏は細かい部分まで詳細に描き込むタイプの画家であるらしく、積み上げられたレンガの継ぎ目まできっちりと細い筆で描かれている。その継ぎ目に紛れるように描かれているのは、紛れもなく件の八卦陣だ。

「……ってことは、やっぱ、そうなんだ……。この人は、エルフォリアに行ったんだな……」
「世界を異にする住人たちが王国に迷い込むことは、稀にあったことだ。ま、こうして俺たちがここにいるくらいだからな。この世界と俺たちの世界を隔てるものは、曖昧で脆く、そしてとても気まぐれなものなのさ」
「……そうなのかもしれないな」


 シュリは絵画を覗き込んでいた姿勢から身を起こし、唐突に、冷静な声で、こんなことを口にした。


「三日後の十二月三十一日、俺たちはエルフォリアへ帰る」
「……えっ……?」
「ティルから聞いていないのか? 惑星が直列する夜は、時空の歪みが生まれやすいからな。向こうへ確実に帰るためにも、その日を逃す手はない」
「ちょっ……待ってよ。そんなすぐに? あと、たった三日……?」
「のんびりしている暇はないのだ。エルフォリアは戦の最中で、国王は病床に伏していて先は長くない。早々に、次期国王の存在を世に知らしめなければならんのだ」
「次期国王……? ど、どうして次期国王のために、ティルナータが急いで帰らなきゃなんねーんだよ……。術式を使えば、いつでも帰れるんだろ……!?」


 シュリの言っていることが、よく分からない。


 混乱のあまり俺が呆けた顔をしていると、シュリの瞳にほんのりと憐れみの色が浮かんだ。そしてため息をつきながら、シュリは長い黒髪をゆっくりとかきあげる。


「その理由も、まだ聞いていなかったのか」
「……り、理由……? 理由ってなんなんだよ」


 震える声で俺がそう尋ねると、シュリは決然とした眼差しを俺に向け、はっきりとした声でこう言った。


「ティルナータが、エルフォリア王国の次期国王だからだ」
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