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25、奇妙な符合
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「え……」
——異世界……って……。
ついこの間までの俺なら、「異世界だ? なるほど、妄想に苦しんでいたんだな……」くらいの認識しか持たなかったと思う。でも、今の俺には、異世界という言葉にただならぬ縁がある。聞き捨てならなくて、俺はさらに原田氏に問いかけた。
「い、異世界って……どういうことですか? 十年前に、その人は異世界へ行ったってことですか?」
「食いつきがいいな。そこが気になるのか?」
と、原田氏は首だけでちらりとこちらを振り借り、意外そうにそう言った。俺はこくこくと頷いて、「え、ええ、はい」と返事をする。
「砺波はもともと、至極現実的で堅物な男だった。冗談など言ったこともないような、真面目な男だった。作風もそういう奴の性格を見事に反映していたよ。堅い線、色彩の平坦さ、オリジナリティのなさ、面白みのなさ……砺波自身、そのことは自分でも理解していたらしい。だからこそ、教師という平穏な道を選んだのだろう」
「……そう、なんですか」
「そんなあいつと最後に会ったのは精神病院の病室だった。行方不明になっていたあいつが発見されたと聞いて、見舞いに行った時が最後だった。ひどくやつれて、目がそわそわと落ち着かなくて、明らかに様子がおかしかった。彼のご両親も怯えていたよ。まるで別人のようだって」
「そ、その人は……異世界でなにをしていたんですか?」
やたらと異世界の話に食いつく俺を諌めるでもなく、原田氏は一呼吸置いて、話を続けてくれた。
「……一人で車を運転していたら、急に見知らぬ世界を走っていたらしい。そこは広い広い平原で、空には、昼間に見える白い月のようなものが、いくつもいくつも浮かんでいたというんだ。辺りを見回すと、平原の彼方に高く連なる城壁が見えたらしい。訳が分からなくなり、平原の中をふらふら歩き回っていると、銀色の鎧に身を包んだ兵士たちに身柄を拘束されたと」
平原……城壁……なんとなく、聞き覚えのある言葉だ。
エルフォリア王国の周囲は大平原だと言っていたよな、それに、城壁に囲まれて、結界に守られていたと……。
ティルナータの話を思い出しながら歩を進めていると、原田氏は一つのドアの前で立ち止まった。ずず……と、保管庫の重たい扉が、秘書の人の手によって押し開かれていく。
「その国は敵国との戦争中だった。砺波は存在を怪しまれ、銀色の鎧の兵士たちによって、若い王の前に引きずり出されたらしい。てっきりそこで殺されると思ったらしいのだが、王は砺波に礼を尽くしてくれたんだそうだ。若い兵士に命じて、砺波を戦火の及ばない高台へと避難させるようなことまでしてくれたと言っていた。そして、王は砺波を宮廷画家として迎え入れてくれた……。あいつはすっかり、その若い王とやらに心酔しきっている様子で、その男の話ばかりを繰り返していた」
「……若い、王……」
入るよう促された作品保管庫の中は、からりと乾いた涼しい部屋だった。邪魔な照明は一切置いていないため、その部屋の中は薄暗く、しんとしている。もっとたくさん美術品が置いてあるのかと思ったが、六畳ほどの広さのその部屋に置かれている作品は一点だけ。薄い麻布のかけられた大きなキャンバスが、壁に立てかけられている。
原田氏はその絵に歩み寄り、そっと丁寧に、その麻布を外していく。
「その時の戦場の風景を描いたものが、これだというのだが……」
「っ……!?」
キャンバス全体に、赤黒い液体がべったりと付着している。ペンキでもぶちまけたような、激しい汚れ方だ。
画面の中心部分が特にひどい。
中心に描かれているであろうものは、そのどす黒い色彩の下に埋もれてしまい、影も形も見えない状態だ。ただ、この匂いはペンキではない。そういう科学物質的な匂いじゃない。これは……この色は……。
「こ、れは……? まさか、血液、ですか?」
「そうだ。砺波はこの絵に斬りつけた後、頸動脈を切断して自殺した。つい先月のことだ」
「……え……」
「ご家族が言うには、退院して以来ずっと、砺波は自宅に引きこもって絵ばかり描いていたそうだ。それも、昔のあいつが描きようのないような、色彩鮮やかな美しい風景ばかりを」
「それが、その異世界の風景……ってことですか? それ、見れないんですか!?」
「残念ながら、現存しているのはこれだけだ。あいつは自殺の数日前、自らの描いた作品を全て庭で焼き捨てたんだそうだ」
「な、なんで自分の作品を……!?」
原田氏は加賀屋教授とちらりと目線を交わし、重々しい口調でこう言った。
「砺波の言葉を信じるものは、あいつの周りに誰一人いなかった。同じ学び舎で学生時代を過ごした私たちでさえ、あいつの言葉を信じようとしなかった。夢でも見ていたのだろうと、ただの妄想だろうと頭から決めつけて、あいつの追い詰め、孤独にした。……いわば、あいつの自殺の原因は、私たちにもあるといえる」
「そんな……」
「だからこそ、あいつの遺作となったこの絵を、元の姿に修復してもらいたいんだよ」
加賀屋教授はそう言って、ポンと俺の肩に手を置いた。振り返ると、教授は若干涙目になっている。
原田氏は痛ましい表情を振り払うように一つため息を吐くと、砺波氏の絵画を労わるようにキャンバスの縁を撫でながら、こう言った。
「時田君は仕事ぶりは緻密で繊細なのに、すごく作業が速いらしいな。だから君を選んだんだ。このサイズの絵画修復となると、かなり時間と手間を食うからな」
「急ぎの仕事なんですか?」
「出来れば二週間以内に仕上げて欲しい。二週間後に、うちのギャラリーでささやかな追悼式を行う予定がある。そこでこの絵を披露したいんだよ。その後は、ご家族の要望に従い、そのままうちでこの絵を預かることになった」
「二週間後、ですか……」
このサイズの絵画修復。
血に濡れた、異国の風景画……。
歩み寄ってそっとその絵の表面を撫でてみると、指の下で、凝固した血液がかさりと音を立てて剥離した。小さな、薄い血液の破片を指先に受け、今度は血液の付着していない部分をじっと観察する。
砺波氏の絵には、丁寧に仕上げ用の溶き油を塗布してある。油彩画にツヤを出し、画面の痛みや酸化から絵画を守るために表面をコーティングするためのものである。そのおかげもあって、乾燥しきった血液の除去は比較的簡単そうだ。それよりも、パレットナイフで傷つけた画面の傷の方が難しいかもしれない。布をきちんと裏打ちし、絵の具の材質を調べて、絵の具が剥がれてしまった部分に補色を施さなければならないだろう。
クリーニングや損傷部分の補修といった作業は得意だが、俺は補色作業がすごく苦手だ。
さほど難しく考える必要もなく、ただ似た色をその傷口の上に置けばいいだけという考え方もあるが、俺は自分が置いた色によって、オリジナルの価値を損ねてしまいやしないだろうかとか、果たしてその場所にこの色を置くことを、作者が望んでいるかどうかなど、小難しいことをついつい考えてしまうのだ。
しかし、迷っている暇はない。
俺は、この仕事を引き受けると決めている。
砺波氏の迷い込んだ異世界の風景のことが、気になって気になって、居ても立っても居られない気分だった。
彼の言う異世界というのは……おそらく、エルフォリア王国だ。何の根拠もないけれど、俺にはその確信があった。原田氏が語った異世界の風景は、ティルナータが語ったものと酷似している。これが偶然なはずがない。
ここに描かれているのがエルフォリア王国だとしたら、砺波氏が出会った若い王とは、一体誰のことだ?
砺波氏の迷い込んだ時期というのは、ティルナータたちが戦争をしていた時代のこと?
知りたいことが山のようにあるというのに、砺波氏はもうこの世にいない……。ならば、この絵に付着した血液を全て剥離し、ここに何が描かれているのかを、俺が明らかにするしかない。
「……分かりました。お引き受けします」
「ありがとう。よろしく頼むよ、時田君」
そう言って、原田氏はすっと俺に右手を差し出した。俺はこくりと頷いて、ぎゅっとその手を握り返す。
——異世界……って……。
ついこの間までの俺なら、「異世界だ? なるほど、妄想に苦しんでいたんだな……」くらいの認識しか持たなかったと思う。でも、今の俺には、異世界という言葉にただならぬ縁がある。聞き捨てならなくて、俺はさらに原田氏に問いかけた。
「い、異世界って……どういうことですか? 十年前に、その人は異世界へ行ったってことですか?」
「食いつきがいいな。そこが気になるのか?」
と、原田氏は首だけでちらりとこちらを振り借り、意外そうにそう言った。俺はこくこくと頷いて、「え、ええ、はい」と返事をする。
「砺波はもともと、至極現実的で堅物な男だった。冗談など言ったこともないような、真面目な男だった。作風もそういう奴の性格を見事に反映していたよ。堅い線、色彩の平坦さ、オリジナリティのなさ、面白みのなさ……砺波自身、そのことは自分でも理解していたらしい。だからこそ、教師という平穏な道を選んだのだろう」
「……そう、なんですか」
「そんなあいつと最後に会ったのは精神病院の病室だった。行方不明になっていたあいつが発見されたと聞いて、見舞いに行った時が最後だった。ひどくやつれて、目がそわそわと落ち着かなくて、明らかに様子がおかしかった。彼のご両親も怯えていたよ。まるで別人のようだって」
「そ、その人は……異世界でなにをしていたんですか?」
やたらと異世界の話に食いつく俺を諌めるでもなく、原田氏は一呼吸置いて、話を続けてくれた。
「……一人で車を運転していたら、急に見知らぬ世界を走っていたらしい。そこは広い広い平原で、空には、昼間に見える白い月のようなものが、いくつもいくつも浮かんでいたというんだ。辺りを見回すと、平原の彼方に高く連なる城壁が見えたらしい。訳が分からなくなり、平原の中をふらふら歩き回っていると、銀色の鎧に身を包んだ兵士たちに身柄を拘束されたと」
平原……城壁……なんとなく、聞き覚えのある言葉だ。
エルフォリア王国の周囲は大平原だと言っていたよな、それに、城壁に囲まれて、結界に守られていたと……。
ティルナータの話を思い出しながら歩を進めていると、原田氏は一つのドアの前で立ち止まった。ずず……と、保管庫の重たい扉が、秘書の人の手によって押し開かれていく。
「その国は敵国との戦争中だった。砺波は存在を怪しまれ、銀色の鎧の兵士たちによって、若い王の前に引きずり出されたらしい。てっきりそこで殺されると思ったらしいのだが、王は砺波に礼を尽くしてくれたんだそうだ。若い兵士に命じて、砺波を戦火の及ばない高台へと避難させるようなことまでしてくれたと言っていた。そして、王は砺波を宮廷画家として迎え入れてくれた……。あいつはすっかり、その若い王とやらに心酔しきっている様子で、その男の話ばかりを繰り返していた」
「……若い、王……」
入るよう促された作品保管庫の中は、からりと乾いた涼しい部屋だった。邪魔な照明は一切置いていないため、その部屋の中は薄暗く、しんとしている。もっとたくさん美術品が置いてあるのかと思ったが、六畳ほどの広さのその部屋に置かれている作品は一点だけ。薄い麻布のかけられた大きなキャンバスが、壁に立てかけられている。
原田氏はその絵に歩み寄り、そっと丁寧に、その麻布を外していく。
「その時の戦場の風景を描いたものが、これだというのだが……」
「っ……!?」
キャンバス全体に、赤黒い液体がべったりと付着している。ペンキでもぶちまけたような、激しい汚れ方だ。
画面の中心部分が特にひどい。
中心に描かれているであろうものは、そのどす黒い色彩の下に埋もれてしまい、影も形も見えない状態だ。ただ、この匂いはペンキではない。そういう科学物質的な匂いじゃない。これは……この色は……。
「こ、れは……? まさか、血液、ですか?」
「そうだ。砺波はこの絵に斬りつけた後、頸動脈を切断して自殺した。つい先月のことだ」
「……え……」
「ご家族が言うには、退院して以来ずっと、砺波は自宅に引きこもって絵ばかり描いていたそうだ。それも、昔のあいつが描きようのないような、色彩鮮やかな美しい風景ばかりを」
「それが、その異世界の風景……ってことですか? それ、見れないんですか!?」
「残念ながら、現存しているのはこれだけだ。あいつは自殺の数日前、自らの描いた作品を全て庭で焼き捨てたんだそうだ」
「な、なんで自分の作品を……!?」
原田氏は加賀屋教授とちらりと目線を交わし、重々しい口調でこう言った。
「砺波の言葉を信じるものは、あいつの周りに誰一人いなかった。同じ学び舎で学生時代を過ごした私たちでさえ、あいつの言葉を信じようとしなかった。夢でも見ていたのだろうと、ただの妄想だろうと頭から決めつけて、あいつの追い詰め、孤独にした。……いわば、あいつの自殺の原因は、私たちにもあるといえる」
「そんな……」
「だからこそ、あいつの遺作となったこの絵を、元の姿に修復してもらいたいんだよ」
加賀屋教授はそう言って、ポンと俺の肩に手を置いた。振り返ると、教授は若干涙目になっている。
原田氏は痛ましい表情を振り払うように一つため息を吐くと、砺波氏の絵画を労わるようにキャンバスの縁を撫でながら、こう言った。
「時田君は仕事ぶりは緻密で繊細なのに、すごく作業が速いらしいな。だから君を選んだんだ。このサイズの絵画修復となると、かなり時間と手間を食うからな」
「急ぎの仕事なんですか?」
「出来れば二週間以内に仕上げて欲しい。二週間後に、うちのギャラリーでささやかな追悼式を行う予定がある。そこでこの絵を披露したいんだよ。その後は、ご家族の要望に従い、そのままうちでこの絵を預かることになった」
「二週間後、ですか……」
このサイズの絵画修復。
血に濡れた、異国の風景画……。
歩み寄ってそっとその絵の表面を撫でてみると、指の下で、凝固した血液がかさりと音を立てて剥離した。小さな、薄い血液の破片を指先に受け、今度は血液の付着していない部分をじっと観察する。
砺波氏の絵には、丁寧に仕上げ用の溶き油を塗布してある。油彩画にツヤを出し、画面の痛みや酸化から絵画を守るために表面をコーティングするためのものである。そのおかげもあって、乾燥しきった血液の除去は比較的簡単そうだ。それよりも、パレットナイフで傷つけた画面の傷の方が難しいかもしれない。布をきちんと裏打ちし、絵の具の材質を調べて、絵の具が剥がれてしまった部分に補色を施さなければならないだろう。
クリーニングや損傷部分の補修といった作業は得意だが、俺は補色作業がすごく苦手だ。
さほど難しく考える必要もなく、ただ似た色をその傷口の上に置けばいいだけという考え方もあるが、俺は自分が置いた色によって、オリジナルの価値を損ねてしまいやしないだろうかとか、果たしてその場所にこの色を置くことを、作者が望んでいるかどうかなど、小難しいことをついつい考えてしまうのだ。
しかし、迷っている暇はない。
俺は、この仕事を引き受けると決めている。
砺波氏の迷い込んだ異世界の風景のことが、気になって気になって、居ても立っても居られない気分だった。
彼の言う異世界というのは……おそらく、エルフォリア王国だ。何の根拠もないけれど、俺にはその確信があった。原田氏が語った異世界の風景は、ティルナータが語ったものと酷似している。これが偶然なはずがない。
ここに描かれているのがエルフォリア王国だとしたら、砺波氏が出会った若い王とは、一体誰のことだ?
砺波氏の迷い込んだ時期というのは、ティルナータたちが戦争をしていた時代のこと?
知りたいことが山のようにあるというのに、砺波氏はもうこの世にいない……。ならば、この絵に付着した血液を全て剥離し、ここに何が描かれているのかを、俺が明らかにするしかない。
「……分かりました。お引き受けします」
「ありがとう。よろしく頼むよ、時田君」
そう言って、原田氏はすっと俺に右手を差し出した。俺はこくりと頷いて、ぎゅっとその手を握り返す。
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