ロスト・ナイト—異世界から落ちてきたのは迷子の騎士でした—

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6、俺の日常

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 その後俺は、始業時間ぎりぎりにバイト先へ滑り込んだ。今日は昼までここでアルバイトだ。

 夜は、オカルト好きな淡島の友人と会う予定がある。
 バイトが終わってからその待ち合わせの時間まで、俺はティルナータの日用品を買いに出ることにした。いつまでここにいるのか分からないわけだから、必要最低限の衣服や下着なんかは揃えて置かないと、何かと動きづらい。

 あとは食材も買っておかないといけない。
 ティルナータは細い身体をしているくせに、めっちゃくちゃよく食べるからな……。

 しかし、大食らいにしては綺麗な身体だった……と、俺は朝見てしまった裸体の残像を思い出し、つんとした痛みを再現する鼻を押さえた。

 あの後、俺はすぐにティルナータに布団をかぶせ、「日本人は裸で寝ないんだよ!!」と教え込み、俺は高鳴る動悸を抑えるために一人トイレへと駆け込んだのだ。

 朝飯を平らげつつ、ティルナータは悪びれもせずに「任務外の時は裸で寝るんだ。鎧を外せる時は滅多にないからな」と話していた。まぁ、男同士だし、ティルナータは俺がゲイだってことなんか知らないんだから、緊張感を持てという方が難しいんだろうけどさ。毎晩あんなことされたんじゃこっちの身がもたない……。

 米と味噌汁と卵焼きというシンプルなおかずと米三合を、ティルナータは嬉しそうモリモリ食べ尽くし、それでもまだ物欲しそうにしていた。とりあえず俺がバイトにでている間は家でじっとしていて欲しいから、しゃあなしでもう三合米を炊き、DVDプレイヤーの操作方法を教えて、俺の大事なDVDコレクション(AVとかじゃない、映画だ)を鑑賞する許可を出し、絶対に部屋から出るなと言い聞かせて家を出てきた。おとなしくしているか不安だけど……まぁ、俺に忠誠を誓ってるんだから、多分大丈夫だろう……。


 ふらふらしながら自転車をこぎ、寒空の下をバイト先へ向かう。
 がっつり目の下にクマを作って工房に現れた俺を見るや、事務机の近い職人さんたちにぎょっとされた。

「おはようございます……」
「どうしたのその顔!」

 ちなみに今声を上げた人は、アルバイト兼実習生のまとめ役兼教育係。art aliveの文化財修復部部長・古谷さん四十六歳。この人はこの仕事と並行して、東京芸術工科大学の客員教授をやっている。芸術界においては相当顔の売れているお偉いさんでもある。

 古谷さんは、いつでも黒のレザージャケットとダメージデニム、そしてエンジニアブーツという若々しい格好をしてる。しかし性格は気さくでおっとりしているから、気難しいアートコレクターたちとの関係づくりもすごく上手い。そのため、営業部からの信頼も分厚いのである。
  
「デートだったんでしょ? そんなに激しい夜だったのかい?」
「古谷さん……セクハラですよ、それ。それに、デートじゃありません」
「男同士でセクハラもないっしょ。あらあら、大丈夫? フラフラじゃないか」
「大丈夫です……」

 と、俺がへろへろした笑顔を見せながらそう言うと、古谷さんは首をふりふり長い脚を組んで、最新型の薄いデスクトップモニターを覗き込みつつ、「今日の午前中で例の仏様の修復は終わる?」と尋ねてきた。

「はい、あとは梱包だけです。年度内納期の仕事は、県立美術館から預かった作品のカビ処理の手伝いだけです」
「そう、了解。相変わらず君は仕事が早いね」
「ありがとうございます」

 仕事が早いのは確かだろう。俺にはものづくりの才能はないけど、修復の才能だけはある、と思う。

 子どもの頃から博物館や美術館に入り浸るのが好きだった。特に、永い永い時間を生き抜いてきた絵画や彫刻、古文書などを眺めるのが好きだった。それと同じくらい、俺は古い寺社仏閣も大好きだ。そこに鎮座している古い建築物や、そこに描かれた襖絵や壁画、そして仏像……俺は子どもの頃から、そういった歴史的文化遺産のことをとても親しく感じるところがあった。
 休みの日には一人で美術館や博物館を巡り、季節がいい時期にはスケッチブックを片手に寺社仏閣に入り浸る。俺はそういう、じじむさい趣味の子どもだった。

 数百年前に誰かが創り上げたものが、現代の人々の目の前で生きている……時に戦火をくぐり抜け、時に自然災害を乗り越えて、人の手によって守られながら生き永らえてきた美術品たちの持つ歴史の重みを想うと、胸が高鳴ってわくわくする。
  
 だから自然と、子どもの頃からこういう仕事がしたいと思っていた。今ここにある素晴らしい芸術品の数々を、未来へ継承していくための役割を担いたい。
 芸術は、その時代に生きた人々の暮らしぶりや願望、思想などを映すもの。過去の人々が生み出したものを保護し、継承していくことを、俺は自分の使命のように感じている……って言ったら大げさだろうか。


 さて俺は、古谷さんに一礼してから作業場へ向かった。
 事務仕事をするのは、洗練されたデザインの明るいオフィス。職人仕事をするのは、フロア一階分をぶち抜いて広々と作られた作業場。そして湿度・温度が完璧に管理された作品保管庫。それが、俺の主な仕事場だ。

 俺は実習生兼アルバイト生のために充てがわれた作業机の椅子に座り、作業過程をメモした帳簿をめくりつつ、大あくびをした。

 ツンと鼻をつく薬液の匂い、うっすらと漂う古い絵の具の匂い、どことなく郷愁を誘う香りを含んだ木の匂いなどが、部屋の中を満たしている。ここにいると、すごく落ち着く。

 広い作業机の周りには、大きな電気スタンドと、整然と置かれた仕事道具。すでに作業に没頭している職人たちの心地よく張り詰めた空気を感じると、ようやく気持ちが引き締まった。作業着として使っている黒いパーカーを着込みつつ、俺は作業場の隅で仕事をしている淡島の方へ目をやった。淡島はすでに仕事モードにどっぷり浸かり込んでいて、俺の目線に気づく様子もなく、前のめりになって黙々と古い掛け軸に向き合っていた。

 俺は前掛けをして軍手をはめ、作品保管庫へ向かった。
 昨日修復が終わったばかりの木像を専用ケースから取り出し、合掌する。これは、県北にある歴史深い寺の蔵さらえでたまたま発見された木像の仏様だ。

 高さ1.2mの寄木造。逞しく豊満な肉体は力強く、流れるような衣の線は優美で貴族好み。この造形の特徴は、平安前期に見られる特徴の一つだ。仏教に勢いがあり貴族が権勢を誇っていた時代の様相を、この仏像の造形から読み取ることができる。

 保存状態が良くなかったため、この仏様はカビやひび割れ、そして虫害がひどかった。
 古い木像の場合、まずは彩色や下地を落とすことなく、長年に渡り蓄積された汚れのみを除去するという、実に地道で繊細なクリーニング作業を行う。そしてクリーニングの後に解体し、損傷箇所を確認。目に見えない場所にも虫食いやひび割れがあることが多いからだ。材の中に潜んでいる可能性のある害虫を駆除し、穴の空いた箇所には刻芋こくそ(漆に木粉などを練り混ぜたもの)を充填し、解体したものをにかわ(獣や魚の骨から煮出したコラーゲンやゼラチンを濃縮したもの)で接合して補修完了。

 ゼミ担当の加賀屋教授と古谷さんにちょこちょこチェックしてもらったり助言してもらったりしつつ、丹精を込めて修復したこの仏様は、発見時とは見違えるほどにきれいになった。そして今、神々しい姿で俺の眼の前にある。俺は別に仏教徒じゃないけど、今となってはこの仏様に対して深い深い愛着を感じてしまって、離れがたいとすら思っている自分が若干コワイ。なんというか、手元で大事に育てた我が子を手放すような……いやまぁ別に俺が作ったわけじゃないんだけど、それくらい思い入れが詰まっちゃってるってことだ。

「いろんな人に拝んでもらえよ」

と、罰当たりを承知でぽんと仏様の頭をひと撫ですると、心なしか仏像の口元が綻んだように見えた。

 修復担当者の手できちんと梱包し、美術品輸送業者の手へと渡す……この三週間みっちりと関わったこの仏様とも、今日でお別れだ。初めて俺が主となって担当した立体修復だったから、思い入れもひとしおなのだ。

 俺が一番やりたいことは油絵修復だが、いざ仕事となると作品を選んではいられない。大学で一通りの修復術は学んでいるし、ここでは先輩から様々な技術を習うことができるから、徐々にこなせる仕事は増えていく。それはすごくありがたくて、恵まれた環境だ。


 これが、俺の現実か……と、ようやく目が覚めたような気分になった。
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