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四、藍間屋
しおりを挟む「昨日は誰かお客様でも来てたんですかい?」
不意に紋吉にそんなことを聞かれて、私は思わず手にしていたそろばんを取り落としてしまった。じゃら、と音を立てて床の上を転がるそろばんを拾いながら、紋吉は不思議そうに私を見た。
「あ、すまん。……でも、何で?」
「湯のみが転がってましたぜ、客間に。それに、なんか香の良い香りが……」
「あぁ……そう」
「貴雪さんも隅に置けませんな。好い人がいるなら、俺にも紹介してくれたらいいのに」
うりうりと脇腹を肘で小突かれて、私は苦笑いをするしかない。
結局眠っていたのだろう、私が目を覚ますと、清之介は消えていた。何の痕跡もなく、何の感傷もなく。
まるでおかしな夢でも見ていたような心持ちで、私はぼんやりと朝日に染まる自室を見回すことしかできなかった。
「玉屋からの使いが来てて、礼を言われたのだよ」
「あぁ、そうでしたか」
「そしてやはり、花巻は私を怒っているとね」
「……なるほどねぇ」
「やれやれ、どうしたら良かったんだ。あの頃は身請けできるほどの金もなかったし……といっても太夫になってしまったから、今更到底払える額でもないし」
珍しく感情を覗かせてそんなことを言う私を、紋吉は至極珍しそうに見ていた。昼前の空いた時刻で、店先には私達しかいなかったのが幸いであった。
「それだけじゃない、吉原で豪遊する気持ちの余裕も本当になかったんだ。全く、いつまでもいつまでも恨み事を言われて」
「旦那、よっぽど昨日は腹に据えかねることを言われたんですね」
「……そういうわけじゃないけど」
なにせ”どうせ男が好きだから、私のことを捨てたんだろう”と言わんばかりの刺客を送り込んできたのだ。よくよく考えると、なんとも失礼な話である。
「まぁいい……どうせ今後は、もう滅多に会うこともなかろう」
「そうですねぇ。やれやれ、もてる男は苦労も絶えませんな」
紋吉はそう言ってがははと笑うと、大柄で筋肉質な身体を揺すって立ち上がった。ぱっと見は、紋吉のほうがよっぽどどっしりとした主人顔に見えるだろう。胸板も厚く、地味な着物でも実によく似合う。
対して私は、背丈はそこそこに伸びたものの、どちらかというと痩せ型だ。肩幅は人並みにあるが、もし町中で暴漢に襲われたとしても、到底太刀打ちできるほどの腕力も持ち合わせてはいない。若い頃は、紋吉に相撲だなんだと身体を鍛えてもらっていたが、忙しくなってからはそういう機会もなくなった。
あの清之介という少年。
えらく痩せていて、不健康な身体をしていた。それに、十五にしては小さな身体だった。しかし、日にあまり当たったことが無さそうな白い肌は滑らかで艶があり、長い黒髪も濡れたように重たげで、肌に触れる感触が心地良かったことを思い出す。
彼のそれまでの境遇を聞くと、あの不思議な威圧感は、鮮烈な色香のせいかと納得もできる。
ぼんやりしていたらしい、店先から丁稚奉公に声をかけられて、私はびくっと肩を揺らした。店先の掃除を終えたので、つぎの仕事を言いつけてくれというのである。
「平三は……今いくつだったかな」
「へぇ、十二になりました」
平三という、同業仲間のところから奉公に来ている三男坊だ。すでにそろばんが達者で、大きな丸眼鏡が愛嬌を振りまく。実際人当たりもよく、ゆくゆくはこの店の経営を手伝って貰いたいと考えている逸材であった。
「十二か。そろばんはいつからやってたんだい?」
「ええと……もう年端もいかない小さい頃からでございますよ」
「そうか。あ、蔵で紋吉が反物の整理をしているから、手伝っておやり」
「へい」
ぺこりと頭を下げて、ぱたぱたと裏へ駆けていく平三の背中を見送りながら、私はふと思っていた。平三はいかにも健康的で、穏やかな少年だ。家庭もあり、飯も食えている。
清之介はどんな生活をしているんだろうか。私もあの頃は、食うに食えない生活を余儀なくされたこともあったが、何だかんだと紋吉や周りの大人が助けてくれたから生き延びることが出来たのだ。
——……そもそも、何でこんなにあの子の事が気になるのだ。少しばかり……肌を触れ合わせただけなのに。
「……」
今日は玉屋の姉妹見世へ届けるものがあったはず……。誰を使いにやるか、まだ決めていなかったな。
——私が行くか……。ひょっとしたら、藍間屋というその茶屋にも、何かつてが出来るかもしれないし……。
そう考え始めると居ても立ってもいられず、私は立ち上がって暖簾をくぐり、奥の部屋へと入った。卸先のためにまとめた品々をきっちり整理している奉公人に尋ねて、今日仕出すものを支度してもらう。
「旦那さまが行くんで?」
「あぁ、新しい見世と顔が繋がりそうなんだよ」
と、私は努めてにこやかにそう言った。
「おお、さすがですねぇ。仕事熱心でいらっしゃる」
「はは、そうだろう」
「今度はあっしをお供にしてくださいよ。吉原って、まだ足を踏み入れたことがないんです」
この奉公人の栄助はすでに私よりも年は上のはずだが、一奉公人に吉原での遊びは贅がすぎる。私は曖昧に頷いて、風呂敷包みを抱えて立ち上がった。
「昼間の吉原など、興が冷めるというものだ。あまりおすすめしませんよ」
「そうですかぁ?」
「だから吉原に夢を持っている人は、連れて行かないことにしているんです」
「ははぁ、なるほどなぁ」
「それに栄助さんは奥さんがいらっしゃるでしょうに。私が恨まれてしまいますよ」
「あっはははは、ちげぇねぇ」
栄助は笑って膝を叩き、再び仕事へ戻っていった。
私は誰に行き先を告げるでもなく、その足で吉原へと向かった。
❀
玉屋へは寄らず、私は卸先の見世に直行した。時間帯もあり、そこで軽い昼食を振舞われながら、楼主と番頭と世間話をする。
「いいんですかい? こんな安値で着物を買っちまって」
「紅屋さんは今上り調子ですからね、今のうちに貸しを作っておこうってだけの話ですよ」と、私は握り飯をありがたく頂戴しながらそう言った。
「へへっ、なるほど。まぁ玉屋ほどになれるのはいつか分からねぇけど、なかなかいい娘が入ってきてますからね、しっかり稼いでもらわんと」
楼主はそう言って、腕組みをする。
女達を酷使するこの男たちに、私は加担している。そう思いたくはないが、実際それが事実である。ここいら界隈は高級から中級妓楼が多く、下手な相手は来ないはずだが、それでもやっていることは同じであろう。
「しかし、こんな綺麗なべべを見せたら取り合いだな」
と、番頭が風呂敷の上に並んだ衣を撫でる。
「喧嘩させるなよ。顔に傷がついたら商売になんねぇ」
二人の会話に、私は少し微笑んだ。
「……時に、藍間屋という茶屋をご存知で?」
せっかくなので、私はここでその問を投げかけた。
「ああ、ご近所だからな。でもあそこは、女はいねぇよ」
と、楼主。
「陰間のいる茶屋だそうで。男物の着物は入り用ではないかなと思いましてね」
「あぁー、そうだなぁ」
「あそこはなぁ、きれいな男が揃ってるから。ひょっとしたら商売になるかもしれねぇな」と、番頭が言った。
「じゃなきゃ吉原に見世なんか出せねぇよな」
「珍しいですね」
「まぁ結構繁盛してるって話だ。なかなか料理もうまいし」
「何だおめぇ、行ったことあんのかい」
番頭の言葉に、楼主が驚いたようにそう訊ねた。番頭は頭を掻いて、「何度かね。あ、でも飯を食っただけだ」と付け加える。
「何しに行ったんだてめぇは」
「だってよぉ、気になるじゃねぇか。どんなもんがいるのかってさ。どうせ男臭い間男養成所みたいな場所かと思って、偵察に行ったんだ」
「間男養成所、ですか」
番頭の言葉に、私は少し笑った。
「ところがよ、店先ではまぁきれいな顔した子どもばかり働いていんだ。一体どっから見つけてくるんだか」
「へぇ」
「客の酒の相手してる、もう少し年上の男もな、役者張りの色男で。俺はたまげたね」
「でもどのみち、間男養成所の疑いは晴れねぇじゃねぇか」
と、色男と聞いて楼主はさらに渋面を更にしかめる。
「だから釘刺しといたんだよ、うちの女達には手ぇ出すなよってさ。そしたらさ、僕は女性には興味がありませんからって、流されちまった」
「ふうん。本当かねぇ」
「まぁそんな訳だから、胡屋さんも損にはならねぇんじゃねぇかな」
「そうですか。ちょっと寄ってみましょう」
私は礼を言い、紅屋を出た。
藍間屋、なかなかの評判のようだ。
男はいらないと言われる吉原で、間男を排出するわけでもなく今までやってこれているのだから、色々と教育されているのだろうか。珍しい見世だ。
北へ暫く行くと、番頭に教えられたとおりに藍間屋はあった。簡素な作りながら、店先はきれいに掃き清められ水も撒かれている。赤い提灯ではなく白い提灯に、見世名が書かれているだけで、一見する所、何の見世かはわかりにくい。
なかなかに入りづらい空気を醸し出しているため、私は二階建ての見世を見上げて佇んでいた。
「何か御用ですか」
とそこへ、男の声がした。私がそちらに顔を向けると、確かに役者顔負けの美男子が風呂敷包みを抱えて立っている。
「あぁ。私は、呉服問屋胡屋の主人でございます。番頭さんはどちらに?」
「呉服屋? 珍しい客だなぁ。まぁとりあえず、入ってくれよ」
男は涼し気な目元を少しばかり細めて私の全身を観察してから、そう言って見世の中へと案内した。
鰻の寝床になっている見世の中は奥行きがあって思いの外広く、きちきちと机と椅子が並んでいる。一つの升席ごとに蚊帳が吊ってあり、客同士が顔を合わせないようになっているようだ。
「適当に座っててくれ」
男はそう言い残すと、見世の奥へと入って行った。
今は誰もいないがらんとした空間に取り残され、私はここへ来てよかったものかと今更になって迷い始めた。
ざ、ざと足音がして、今度は違った顔の男が現れた。年の頃は私と同じくらいであろう、はっきりとした顔立ちの快活そうな男が懐手をして現れた。
「胡屋さんだって? ここいらに着物を卸してる」
「へぇ、あなたが番頭さんで?」
「あぁ、すまねぇな、今かぁさんは外へ出てんだ。話なら俺が聞くよ」
そう言って、どっかりと男は私の向かいに腰を下ろした。すっきりと月代を剃り、目鼻立ちがはっきりとしている男前だ。唇が笑を浮かべたようにつり上がっているのは、この男の癖であろうか。少しばかり馬鹿にされているような印象も否めないが、私は気にせず商談を進めた。
「ふうん……。しかしまぁ、よくここがそういう見世だって分かったね。確かにきれいな着物が入用なときはある」
「玉屋さんの紹介で……昨晩清之介という少年がうちへ来たもので」
「清之介? あぁ、あんたがあの心優しき若旦那か!」
男は突然ぱっと顔を輝かせて、身を乗り出してきた。話が既にこの男には伝わっているらしいことに驚きながらも、私はこくりと頷いた。
「へぇえ。おっと、すまねぇな茶も出さねぇで。ちょっと待ってな」
程なく、清之介よりも更に若い少年が、私に冷たい茶と羊羹を出してくれた。私が笑顔で礼を言うと、はにかんだような笑みを浮かべて、そそくさと奥へ引っ込んでいく。
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