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 デート当日。
 透け感のあるゆったりしたブラウスに、普段滅多に履かないスリットの入ったタイトスカートを身に着け、サリエラは意気揚々と待ち合わせ場所である噴水広場へ向かった。
「まだ早かったわね」
 気合を入れすぎたあまり、予定時間より随分早く着いてしまった。
 時間まで広場のベンチで座り込むにはまだ気温が低い。
 どこかで時間を潰すことにした。
 折角なので普段通らない裏通りに入ってみる。
 表通りほどではないにしろ、様々な店が点在していて歩いているだけでも楽しい。
 こじんまりとしたカフェが視界に入った。
 レンガ造りの外観で、看板には古木があしらわれているこじゃれた雰囲気だ。
 すぐに気に入り中に入る。
「いらっしゃいませ」
 カウンター席とふたり掛けのテーブル席がいくつかあり、各席の間には観葉植物が置かれ簡易的な目隠しの役割を果たしている。
「こちらへどうぞ」
 角のテーブル席へと通された。
 様々な植物が程良く視界を遮り、半個室のような安心感がある。
 オリジナルブレンドの紅茶を注文し、窓からのんびり外を眺める。
 穏やかに歩く老夫婦や忙しなく駆けまわる業者、無邪気に遊ぶ子供たちなど、様々な人間模様が見えた。
 こんなにもゆったりと周りを眺めるのは久々かもしれない。
 ミケルとの関係に悩み、景色を楽しむ余裕さえ失っていたことに今更気付く。
「お待たせいたしました」
 紅茶が運ばれてきた。
 華やかな香りが鼻腔に広がり、ほっと気持ちが和らぐ。
 少なからず緊張していた自分に驚きつつ、小さく笑ってみせた。
 怖がる必要はない。
 ゆっくり自分の気持ちを伝えて、もう一度関係を育もう。
 そう自身を勇気付けていた時、ふと聞き覚えのある声が聞こえた。
 向かいの席から聞こえたようだ。
 わずかに体を傾け、観葉植物の合間から様子を窺う。
 そこにはミケルの姿があった。
「あ、ミケ……」
 声を掛けようとしたが、彼がひとりではないことに気付き口をつぐむ。
 随分と楽しそうに会話をしている。
 友人だろうか、と深く考えずに相手を見て後悔する。
 見知らぬ女性。
 艶やかで漆黒のロングヘアーが美しい品のある美しい人。
 香るような華やかさと色気も持ち合わせている。
 率直に男性に好まれそうな人だと思った。
 ミケルはあまり交友関係が広い方ではないし、ましてや異性の友人と言えばミリーくらいなものである。
 胸に疑念が湧く。
 彼の不義。
 途端に息が詰まって呼吸が浅くなる。
 一度浮かんでしまった思考はそう簡単には消えてくれず、どんどん重さを増してサリエラにのしかかった。
 ミケルを見ると柔らかな笑みを浮かべている。
「ッ……」
 サリエラでさえ最近は見ていない幸せそうな彼。
 苦しくて、思わず襟の辺りをぎゅっと握り締めた。
 わずかに聞こえる声も楽しそうに弾んでいる。
「その人には、そんな顔見せちゃうんだ……」
 なにかがぷつりと切れる音が聞こえた気がする。
 激しく音を立てティーカップを置く。
 その音に店内の客の視線がサリエラに注がれる。
 ミケルも例外ではなかった。
「っ! サリエ……」
「お忙しそうね、ミケル」
 彼が名を呼び終わる前に言葉を被せる。
「ちょうど良かった。今日急用が入って行けなくなったって言おうと思ってたの」
 もちろんそんな用事などない。
「まあ、あなたもちょうど良かった・・・・・・・・んじゃない?」
 目の前の美人との関係に向けて、皮肉を込めて笑って見せる。
 確固たる浮気の証拠があるわけではない。
 でも、あんなに優しい笑顔を自分以外に向ける彼を、サリエラは知らなかった。
 普段ここまで感情を爆発させることはない。
 いい大人だ、理性くらい持ち合わせている。
 けれど今この場ではなんの役にも立っていない。
 一度口を開いてしまえばもう止まらなかった。
「じゃあね。今夜は帰ってこなかったとしても心配しないわ」
 怒鳴ることはせず静かに言えただけでも奇跡的だった。
 それほどまでにサリエラの感情は昂っていた。
「おい! サリエラ!」
 立ち上がる彼を無視して足早にカフェを出る。
 ミケルの声に反応した客が数人視界の端に映ったが、幸いにも大きな騒ぎにはなっていない。
 聞こえない振りをして足早に会計を済ませる。
「お釣りは結構です」
「おい!」
 ミケルの呼びかけを無視し、振り返る人々など気にもせず走った。

「…………っはあ」
 いつの間にか表通りに戻ってきていた。
 ミケルが追いかけてくる気配はない。
「……当然か」
 我ながら大人げない。
 わかっていながらも自身の衝動を抑えることが出来なかった。
「今度こそ終わり、かなあ……」
 目頭がきゅっと締め付けられる。
 潤みそうな気配を、ぐっと瞼を閉じることでやり過ごす。
「……っ」
 鼻からこれでもかと空気を吸い込み豪快に口から吐き出す。
 ゆっくり開けた視界はうっすら滲んでいる。
「っもういい!」
 自分が暴走してしまったこと、確証なく彼を責めたこと、すべてが恥ずかしくて情けない。
 自分を責める感情を受け止めきれず、大声を出して誤魔化す。
「知らない!」
 驚く周囲の人に構うことなく、サリエラは酒場通りへ向かった。



「サリちゃんもうその辺に……」
「いやっ!」
 喫茶店を飛び出し酒場通りへ来たはいいものの、時間帯が微妙に合わずどの店も開店前だった。
 結局ミリーに泣きついてしまった。
 開店時間前の急な訪問にも関わらず、サリエラの様子が違うことを察し快く迎え入れてくれた。
 今日は酔いたい、と珍しいことを言うサリエラの気持ちを尊重し軽いお酒を選んでいたが、次々飲み干してしまうハイペースさにミリーもさすがに止めに入っていた。
「まだ飲む……」
 サリエラは机に突っ伏し我儘を言う。
 とっくに店の開店時間は過ぎ、周りは他の客たちで賑わい始めている。
 すでに酔いの回ったサリエラには、周りの状況はよくわからなくなっていた。
「え、なに。お姉さんひとりで飲んでんの?」
 誰かに肩を抱かれた感覚がした。
 一瞬ミケルかと期待したが、見上げたそこには見覚えのない男。
 声を出すのも面倒くさくて、肩で払いのけ拒否を伝える。
「オレもひとりなんだ。ね、一緒に飲もうよ」
 拒絶などもろともせずにぐいぐい来る。
 払いのけたはずの手は再びサリエラの肩に置かれ、強引に男の方へ引き寄せられた。
 寄り添いたくもない胸板に体を押し付ける体勢になり、不快以外の何物でもない。
「飲みませんって」
「ええ、いいじゃん。飲み足りないって顔してるし。ねえママ、モスコミュール」
「もうその子には飲ませないの。彼氏居るから。アンタもどっかいって」
「知らない彼氏とか!」
 思わず口走っていた。
 我に返った時には目の前が滲み始めていた。
 ミケルと、別れる。
 本当はそんなことこれっぽっちも望んでいない。
 けれど、そうなってしまうだろうという悲しい想像が頭から離れてくれない。
「え、ちょ、なに言ってんのあんた……」
 ミリーが動揺している声が聞こえるが、自分の思考でいっぱいいっぱいになってなにも答えられない。
「ならオレと飲んでも問題ないよね? なんならもっと静かに飲めるところにふたりで……ッうわ!」
 背後から乱暴に扉が開くけたたましい音がして、次の瞬間男が叫んだ。
「サリエラ!」
 ミケルに名を呼ばれた気がした。
 ついに幻聴が聞こえるようになったかと思った。
「サリエラ! 大丈夫か!?」
 肩に触れた大きな手の感触。
 よく知る愛しい人の温もり。
「……っミケル」
 恐る恐る振り返ると、幻ではない、ミケル本人がそこに居た。
 いつもさらさらとしている髪は振り乱され、頬にはいくつもの汗の筋。
 寡黙で無表情な普段の顔とは別人で、瞳は大きく見開かれ血相を変えている。
 肩が大きく上下するほど息を乱していることから、必死で探し回ってくれたことが伺える。
 それだけでぎゅっと胸が締め付けられて、苦しくて嬉しくて、不謹慎だと思いながらも満たされる心地がした。
「っ……!」
 突如彼のが鬼の形相に変わる。
 眉間に深く皺が刻まれ眉は吊り上がり、歯を食いしばる口元は鋭い犬歯が覗いている。
「ぅおッ!」
 サリエラに絡んでいた男は間抜けな声と同時に、ミケルに胸ぐらを掴まれ宙ぶらりんになっていた。
「なにしてんだ」
 今にも噛みつきそうなミケル。
 すっかり戦意を喪失した男は顔面を真っ青にしてがたがた震えている。
「ぁ……いや……オレはなんにも……」
 ナンパ男の声は情けなく上擦っていた。
「失せろ」
 とどめの威圧で、男は会計をまき散らしつまづきながら店を転がり出ていった。
「お前なにやって……っくそ」
 声を荒げかけたミケルは言葉を詰まらせ、バツが悪そうに自身の頭を掻きむしる。
 苛立つ表情。
 面倒事を起こしやがって、そんな風に思っているのだろうか。
 ぎゅっと目の奥が熱くなる。
 泣きそうに歪む顔を彼に見られたくなくて俯く。
「ッ……」
 小さく舌打ちが聞こえ、これ以上この場に留まることが出来なかった。
「ミリー、これお会計。ごちそうさまでした」
 カウンターに多めにお金を置き席を立つ。
「ぁっサリちゃん……」
 ミリーの心配そうな声を振り切って足早に店の出入り口に向かう。
「サリエラッ!」
 ミケルの強い語気に一瞬怯むが、すくみそうになる足を叱咤し走る。
 日も沈み、街は夜独特の活気に包まれていた。
 仲間と肩を組み酒場を探す仕事終わりの衛兵たち、寄り添いふたりの時間を楽しむカップル。
 目に映る誰もが幸せそうに見えてしまう。
「っぅ……」
 嗚咽が洩れる。
 自分の意志ではどうにもならないほどに涙が溢れた。
 どんなに固く目を閉じても止まってくれない。
「あの、大丈夫ですか?」
 見知らぬ女性に声を掛けられた。
 隣に寄り添うのは女性と同じ年頃であろう男性。
 おそらく恋人なのだろう。
「あ、ええ、お構いなく……」
 女性の返事を待つことなく歩き去る。
 純粋に心配をしてくれていたのだろうが、その好意を素直に受け取ることが出来なかった。
 愛し合う相手と幸せな時間を過ごしているすべての人間に悪態をついてしまいそうになる。
 汚く歪んでいる自分が嫌になった。
 かといって弱音を吐くことも出来ず、ただ拗ねて泣きじゃくるだけ。
「可愛くない女ね、サリエラ」
 他人事のように呟いてみる。
 誰かが慰めてくれるわけもないのに。
「あっ嘘、雨!」
 どこからともなく声がする。
 見上げれば大粒の雨がひとつ、またひとつと降り注いでくる。
 あっという間にざあざあと音を立てて地面を濡らした。
 ちょうどいい。
 これで自身の涙は周りから見えない。
 雨の粒より温かな雫が頬を伝う。
 慌ただしく走り去る人々の中、サリエラはのろのろ歩いた。
 水たまりの泥を飛ばされようが誰かにぶつかられようが構いはしない。
「ぅあっ」
 ぬかるんだ地面に足を取られて倒れてしまう。
 地についた膝から、じめりと嫌な冷たさが肌を冷やす。
 タイトスカートはみるみる泥水を吸ってどす黒く汚れていった。
「お気に入り、だったんだけどな……」
 洗うのが大変そうだな、などと考えながらも、そんなことはどうでもよくなっていた。
 ミケル。
 心の中で愛しい人を呼んでみる。
 どこですれ違い始めたのか。
 どうすれば今も仲良く過ごせていたのか。
 今更後悔してももう遅い。
「ミケル……」
 震えた声で彼の名前を絞り出す。
「サリエラッ!!」
 背後から勢いよくなにかに包まれた。
 見慣れた茶色のジャケットと逞しい二本の腕。
 耳元にかかる上がった息。
「なにしてるんだお前!」
「え……ミケ、ル……」
「なんでこんな……ああくそ! じっとしてろよ」
 肩に掛けられていたジャケットが頭から被せられ、体が宙に浮く。
 突然の浮遊感に、咄嗟に彼の首にしがみつく。
 背中と膝裏を支えられ抱き上げられていた。
「あ、ミケル、歩けるから……」
「黙ってろ」
 不機嫌を隠そうともしない声色に、サリエラは押し黙るしかなかった。
 ミケルの腕の中、盗み見た彼の表情はとてつもなく険しい。
 今度こそ愛想をつかされてしまった。
 またじわりと涙が溜まる気配にジャケットを目深に被り顔を隠す。
 帰りつくまでに泣き止んでくれ、とジャケットを掴む指に一層力を込めた。
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