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しおりを挟むふたりは玄関で靴を履いて出勤の準備を整えた。
「それじゃあ出ようか」
ロキは帰りの迎えだけでなく、出勤も毎朝欠かさずクレオを職場まで送り届けている。
「あ、その前に」
ロキが両手を広げる。
「今日のハグしてから出ようか」
これも毎朝の日課。
別れ際にクレオの職場の前で、となると人目に付くので、自宅を出発する前に抱き締め合う時間を取っている。
「今日と明日を乗り切れば休日だね。クレオと過ごす時間が待ち遠しいよ」
ロキは図書館に勤める司書、クレオは役所勤務で共に週末が休み。
「買い物に行くのもありかな。クレオちゃんは欲しい物ある?」
「今は急ぎで必要な物はないかな」
「なら家でのんびりするのもいいかもね」
頭上から降るロキの声が心地よく、ゆったりと髪に触れる手が優しい。
抱き締められるだけで体の内側からぽかぽかと温かい気持ちになった。
彼の慈愛で満たされているはずなのに、心のどこかで乾く劣情がくすぶる。
ロキの愛情を踏みにじっているような気分になり、自己嫌悪が湧いた。
「そうね。それじゃあそろそろ行こうか」
自身のどす黒い欲望を誤魔化したくて、クレオはロキの手を引き歩き出した。
「明日、ですか」
「そう! 王都への異動が急に決まってね。栄転ってやつ」
同僚のうちのひとり、いくつか年上の男性が王都へ引き抜かれることになった、と上司が言う。
それにあたって送別会をしたい、それが明日の終業後だと言う。
「次の日は休日だし。少しだけでいいから、ね? 顔を出すだけでいいんだ」
クレオは職場の飲み会といった催しには基本的に参加していない。
だが、今回は栄転のお祝いも兼ねているらしく断りにくい雰囲気だった。
「ええ、なら少しだけ」
上司からの直接の打診ということもあり、クレオはしぶしぶ受け入れた。
気乗りはしないがここで頑なに断り続けても角が立つ。
「そうかそうか! それじゃあよろしくね」
クレオの返事に上司は心底嬉しそうに去っていった。
折角の休日前夜。
ロキと過ごす時間が減ると思うと、その日のクレオの気分はどんより重いままだった。
その日の退勤後、迎えに来ていたロキに送別会の件をすぐに伝える。
「ごめんね、ロキ。だから明日は一緒に帰れないの」
「普段はそういうの行かないのに珍しいね」
ロキの顔は笑っているが、どこか声が硬い。
「栄転のお祝いと送別会も兼ねてるみたいで。少し顔を出すだけでいいって言われたから」
「そっか。わかった」
口では納得した返事をしているが、ロキのまとう雰囲気は家に着くまで冷えたままだった。
クレオの行動にロキが口出しすることはない。
愛情は注ぐが束縛はしない、これまでのロキに対する印象だ。
もちろんクレオが不貞を働くわけもなく穏やかな関係性が続いていた。
そんな中、初めて感じる彼への違和感。
気になりながらもロキ自身がなにも言わないので、クレオからも追及はしなかった。
翌日、いつも通りにロキがクレオを職場へ送り届ける。
「そうだ、今日」
突然クレオの腕が引っ張られた。
バランスを崩し、そのままロキの胸へ倒れ込んでしまう。
クレオの職場の前、街を行き来する人にも同僚にも丸見えの場所。
家の外で手を繋ぐ以上のスキンシップを取ることがなかったのでクレオは気が動転した。
「今夜店まで迎えに行くから。待っててね」
耳元で囁かれ、そのまま耳朶に彼の唇が触れる。
公衆の面前で抱き締め耳にキスをされている。
状況を理解すると同時に動揺と恥ずかしさで頬に熱が集まる。
「真っ赤だ、かわいい」
クレオの反応を満足げに見つめたロキは体を離し、手を振りながら自身の職場へ向かって行った。
「なに、今の……」
取り残されたクレオは口付けられた耳を押さえ、いまだ引かない顔のほてりでくらくらしていた。
「栄転おめでとう! 乾杯!」
高らかに上司が乾杯の音頭を取った。
それを合図に酒を持った面々が自身のコップをぶつけ合う。
あまりの勢いに気圧されながらも、クレオは弾き飛ばされない程度に乾杯に混ざる。
想像していた以上に賑やかさにクレオは戸惑う。
黙って様子を窺うことにした。
たまに話しかけられることもあったが、すでに酒が回り始めた人々はクレオの返答はあまり聞こえていないらしい。
言いたいことだけ言ったらさっさと次の相手へと興味を移してクレオの元を去っていく。
目まぐるしさに疲労感を感じ始めていた。
「隣、いい?」
会話の輪に入る気にもなれずひとりでサラダをつついていると、隣に今回の主役が腰掛けた。
断る理由もないので小さく頷き了承する。
急遽王都への栄転が決まった同僚、爽やかな佇まいの好青年だ。
職場の中でも女性に人気があるようで、たまに同僚たちが彼に恋人はいるのかと話に花を咲かせていたことを思い出す。
「今日来てもらえないかと思ってたから嬉しいよ」
彼からグラスを差し出された。
乾杯の意味だと察し自身のコップを軽く当てる。
「突然王都へ異動の話が来て本当に驚いたよ」
相手が話す内容に適度に相槌を打つ。
クレオは人見知りが激しいわけではないが社交的な部類でもない。
当たり障りない返事をしながら過ごす。
次第に周りに人が集まり男性が絡まれ始めた。
「すいません、私そろそろ」
ロキが迎えに来る時間になっていたので上司に断りを入れ席を立つ。
「ねえ」
店を出たところでクレオは背後から声を掛けられた。
今回の主役、王都へ移動する同僚だった。
「クレオさん、よかったら今度王都へ遊びに来ない?」
主役が席を外してもいいのだろうか、とクレオが思案しているうちに男は距離を詰めてきた。
「王都にはいろんな店もあるらしいし、詳しく調べておくからさ」
喋りながらも男はぐいぐい近寄ってくる。
酔いで距離感がわからなくなっているのかもしれない。
あっという間に目の前に男が迫る。
「……妻が、お世話になっております」
あと一歩で触れ合うかというところで背後から肩が抱かれる。
「ロキ!」
「っ……」
同僚の男は気まずそうに表情を歪めている。
「妻はこういった場は不慣れなもので。わざわざ出口まで送ってくださったんですね、ありがとうございます」
見上げたロキは笑顔ながら有無を言わせない圧を感じる。
「あ、ああ。じゃあ気を付けて」
男は慌てて踵を返した。
「帰ろうか、クレオちゃん」
ロキの表情はいつもの見慣れた優しい笑顔に戻っていた。
「う、うん」
さっきの威圧感は見間違いだったのだろうか。
戸惑いながらもロキに手を引かれて帰路についた。
「匂い、付いてるね」
自宅に帰るやいなや、玄関でロキが呟く。
両手でクレオの肩を掴み髪に鼻を寄せている。
「肉料理もたくさんあったから」
飲食店特有の食事の匂いのことかと思って答える。
「そうじゃなくて」
突然腰を引き寄せられた。
「香水、かな」
耳元にロキの顔が近付く。
今にも触れそうな距離で彼がすんと鼻を鳴らした。
クレオは普段香水をつけていない。
今もそれらしき香りが自分ではわからず戸惑う。
「あ」
ふと同僚のことが浮かんだ。
「同僚が付けていた香水かも」
「へえ……」
聞いたことのない冷たい声色。
「香りが移るほど近くに居たの?」
ロキの吐息が耳をかすめる。
「隣に、居ただけで……」
耳にロキの唇が触れた。
キスというより輪郭に添って食まれている。
「本当に?」
「う、うん、本当に……」
ロキは問いながらも耳への愛撫を止めない。
しっとり吸いつくようなキスに背筋が甘く震えた。
こんなにもしつこく問いただすことも執拗なキスも初めてのことだった。
どうしていいかわからず彼にされるがまま、だが体は与えられる刺激を確実に官能に変えていく。
「そっか。なら、これからは香りが移るほど誰かに近付かないでね」
いつもより少し低くて静かに怒っているような声。
「うん」
クレオは恐怖よりもロキの独占欲が見えたことに喜びを感じた。
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