バルコニーに舞い降りた初恋

山吹花月

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 ユリィの決意とは裏腹に、有力な情報が得られないまま無情にも月日だけが経っていった。
 これまで積極的に関わっていなかった茶会やパーティーへの招待が増えるようになってきた。本当はどちらも参加したくない。茶会では婚約者についての質問は免れないだろうし、パーティーでは婚約者同伴となるだろう。極力ワイスと親しい印象を周りに植え付けたくなかった。かといって険悪な関係と吹聴するわけにもいかないので、公の場への出席は勉学を理由に避けていた。
 婚約の話が出てからそろそろ一年となる。これまで以上に学ぶ項目を増やし生活のほぼすべてを費やしてきたが、さすがの父も痺れを切らしたようで、ワイスと共に社交の場への参席を勧めてくるようになった。ワイスとの顔合わせすらまだなので、父親の立場からすれば当然だろう。しかしユリィはどうしてもワイスと会う決心が付かなかった。初めて婚約の話を聞いた時の違和感が未だ心底に張り付いているのだ。
 どうしたものかと頭を悩ませていると、夕食時に父から最悪の知らせを受ける。ワイスがユリィ宅を訪ねてくるというのだ。しかも明日、午後には到着するという。
 強張る表情を取り繕うことで精一杯だった。一晩でどんな準備が出来るだろう。待たせすぎだと咎められるかもしれない。思考を巡らせ続けたが、結局なんの対応策も浮かばないまま朝を迎えてしまった。

「お会いできて光栄です、ユリィ嬢」
 ワイスは笑みを絶やさない柔和な青年だった。肖像画よりも笑顔が人懐っこい印象だ。
「お待ちしておりました、ワイス殿。この度はユリィの我儘に寛大なお心遣いをいただき感謝申し上げます。おかげでユリィも勉学と花嫁修業に励むことができました。やや真面目過ぎるところもありますが、誠実な娘ですので」
「ええ、謙虚なお人柄であることが佇まいに現れていらっしゃいますね。素敵なお方だ」
 父と会話をするワイスには不快感を受ける要素は見られない。清潔感があり品のある所作、会話の運びからコミュニケーション能力の高さも窺える。不安に思う要素が見つからない。彼に違和感を感じたのは一年も前のこと。当時はルイを恋しく思うあまりに他の男性を嫌悪してしまっただけなのか、と自分の感覚への疑念が生まれた。
「少しふたりきりで話をしてみてはどうかね? 庭を散歩してきなさい」
 考え込むあまり父の言葉への反応が遅れた。急いで笑顔を取り繕うも間に合わず顔の筋肉が強張っている。
「近隣の領地でも一二を争うほど美しい庭園だと聞き楽しみにしておりました。是非拝見したいです。僕の我儘に少しお付き合いいただけませんか?」
 ユリィが言葉に詰まっていると、ワイスからダンスを申し込むような優美さで手が差し伸べられた。失礼な態度を取ったユリィへの紳士的なフォローに、今まで一方的に抱いていた嫌悪に良心が痛んだ。
「え、ええ……ご案内いたします」
 なんとか口角を引き上げ、彼の腕へ手を添えエスコートを受けた。

「いやぁ、本当に美しい庭園ですね。よく手入れされている」
 ワイスは終始穏やかにユリィへ語りかけ飽きさせない。緊張させまいと程よい距離感を保ち、いきなり踏み込んでくることはしない。
「そう、ですね」
 なにか言わなければと考えるほど言葉は詰まり、素っ気ない返事になってしまう。それに焦り、思考を巡らせてもさらに焦燥に追い立てられ、結局なにも話せなくなってしまう。
「……今日はお疲れでしょうし部屋へ戻りましょうか。素敵な散策の時間をありがとうございました」
 決して褒められる態度ではなかったユリィを咎めることなく、ワイスは最後まで笑顔を絶やさなかった。そのことでさらにユリィは自責の念に駆られた。

 夕食の時間もうまく会話が出来ず表情も引き攣っていた自覚はあったが、父があまり深刻に捕らえていないことに救われた。初めての縁談に緊張しているのだろうと冗談交じりに笑い飛ばしてくれたおかげで険悪な空気にはならなかった。とはいえ一度固まった表情筋は最後まで解れることはなく、いたたまれなくなり早々に部屋に引き上げたのだった。

 遠方からの訪問ということもあり、ワイスは一晩ユリィ宅へ滞在することになった。この緊張が明日も続くのかと思うと気が重くなる。
 湯あみをする気力もなくベッドへ潜り込む。ぎゅっと目を閉じてみても、だるい体とは裏腹に眠気は一向に来ない。何度も寝返りを打つが意識ははっきりしたまま、考えたくもないのに色々な思考が巡る。ワイスについて、結婚について、一番はルイのことについて。このまま一生会えないのではないだろうか、自分のことなどすでに忘れ去っているのかもしれない、とますます気分が落ち込んでいく。
 このままでは眠れないと思い切って起き上がる。
 ショールを羽織りバルコニーへと出ると冷えた風が頬を撫でた。ルイと出会った夜と似ている。彼が居た柱の側へ行ってみる。当然ながらそこにはなにもなかった。
「もう、諦めるべきなのかしら……」
 欄干に寄り静かに輝く月を見上げる。
『ユリィ……』
 ルイの甘く響く声が今でも鮮明に蘇る。
 節張った大きな手、柔らかくしっとりとした唇、照れて赤く染まった頬、熱っぽくユリィを見つめる菫色の瞳、すべてが色鮮やかに思い起こされる。
 目を閉じて深く息を吸う。再び目を開いたとき突然眼前に現れてくれやしないか、と無茶な願いを込めてみる。
 ふと瞼を照らしていた月明かりが遮られた気配がする。期待に胸が高鳴りはっと瞳を開いた。
 雲が月を隠してしまったこと以外、目の前には先程と変わらない景色が広がっている事実に肩を落とす。
「会いたいわ……ルイ……」
 涙で視界が揺れる。泣きそうな自分に気付かない振りをして月を仰ぎ見る。
「……大丈夫」
 なにひとつ解決してはいないが、自分に言い聞かせることで今にも折れてしまいそうな心を奮い立たせる。ゆっくりと深呼吸を繰り返し、冷えた空気で体の中から熱を冷ましていく。少し気分が軽くなった気がした。
 コンコン。
 突然響くノックの音に驚きで心臓が跳ねあがった。窓の施錠も忘れるほど慌てて部屋へ戻り、扉の向こうの様子を窺う。
「こんばんは、ワイスです。夜分に失礼」
「ワイス様?」
「よかった起きていて。なんだか眠れなくて。ハーブティーを入れてきたんです。もし起きているなら一緒にどうかと思って」
「え……」
 深夜の訪問に戸惑う。夜中に男性を部屋に入れるのは憚られた。しかし、結婚の延期に加えわざわざの訪問、昼間の失礼な対応に負い目を感じていたこともあり、すぐに追い返すことができなかった。
「……少しだけでしたら」
 罪悪感に抗いきれず扉を開く。
「ありがとう、お邪魔します」
 扉の前にはポットとカップを乗せたトレイを持つワイスが微笑んでいた。
 不安はよぎったが、ここはユリィの自宅であることや父たちの寝室から遠くないこともあり、なにかあったら大きな声を出して部屋を飛び出すことも出来るだろうと判断した。念のため出入り口に近いソファーへ腰掛ける。
「遅くに失礼かと思いましたが、どうしてもあなたと話したくなってしまって……」
 ワイスは手慣れた所作でハーブティーを準備していく。
 どうぞ、と差し出されたカップからは優しく甘い香りが立ち昇っている。一口含むと華やかな味わいが広がった。
「……美味しい」
「よかった。実は趣味でハーブを育てているんです。自慢のブレンドですよ」
 いい香りと温かいものを飲んだことでわずかに緊張が和らいだ。ほっと息を吐くと、嬉しそうに笑みを浮かべるワイスと目が合う。
「緊張、少しは解れましたか?」
「あ、はい。ありがとうございます」
 柔らかく微笑むワイスはどこから見ても好青年だ。常にユリィを気遣い歩み寄ろうとする優しさが感じられる。
 再び自分の感じていた違和感の正体を探る。予感か錯覚か。今目の前の彼を見ていると、一年前のあの不安は気のせいだったのかとさえ思えた。
 ユリィを楽しませようと自慢のハーブの話や友人との面白かった出来事など、他愛のない話を懸命に投げかけてくれる。きっと婚約や結婚について触れないのは彼なりの優しさなのだろう。そうぼんやりと考えたところでユリィの手からカップが滑り落ちた。
 睡魔かとも思ったが様子が違う。手にうまく力が入らない。手だけでなく全身から力が抜けていく感覚がする。体を支えていることが出来なくなり、ユリィはソファーへ突っ伏した。
「…………ぁ……なに、を……」
 声を上げようとするが、喉に膜が張ったような気持ち悪さがこびりつきうまく言葉が出ない。
 やっとの思いで首を動かしワイスを見ると、これまでの優しい表情とは別人のような下卑た笑みを浮かべてユリィを見下ろしていた。
「どう? ぼーっとして力が入らないでしょ? 僕の自慢のハーブティー、やっと効いてきたね」
 ハーブティーに一服盛られていたと初めて気付く。自宅なら大丈夫だろうと楽観していた危機感のなさを恥じた。
「なにが理由で待たせるのか知らないけどね、さっさとヤっちゃえばいいって気付いたんだ。傷物になっちゃえば他へはお嫁に行けないもんね」
 なにをされるのか悟り、血の気が引く。
 軽々と担ぎ上げられベッドに投げ出された。脱力したままの体では反抗もままならず、覆い被さってきたワイスに乱暴に夜着を剥ぎ取られる。
 露わになった乳房を掴まれ痛みと嫌悪感に涙が溢れる。
「……ぃ……や…………や、めっ……」
 あの直感を信じ、毅然とした態度で相対すればよかった。そう悔やんでも今更遅いことはユリィ自身が一番わかっていた。
 不快な感触が体を這いまわり吐き気を覚える。気持ち悪くて悔しくて涙が止まらない。
「……ぅ…………ル、イ……」
「ユリィ!!」
 突然名を呼ばれたかと思うと覆い被さるワイスが勢いよく弾き飛ばされた。
 バルコニーへ続く扉が開いている。さっき鍵を閉め忘れた場所だ。
 ワイスは激しい音を立て扉へ激突する。勢いを殺しきれなかった扉が開き、ワイスは廊下へ投げ出された。
 大きな影がユリィへ近付く。呼吸を荒げ肩で息をするそれの正体を悟るとユリィの瞳にはみるみる歓喜の涙が溜まった。
「ル、イ……」
 ずっと焦がれ続けていた姿が目の前にある。震える両手を伸ばせば逞しい腕に抱き締められた。
「ユリィ……遅くなってすまない」
 背中に触れるルイの指先が少し震えている。
 大丈夫、ありがとう、来てくれて嬉しい。色々な言葉が浮かぶが声にならない。頬にすり寄り少しでも伝われと願う。
「緊急の捕縛命令が出て、目的地が君の自宅だと気付いた時は血の気が引いた。嫌な予感がして私ひとりだけ先に飛んできたんだ。……怖い思いをさせてすまない」
「ほば……く……?」
 ユリィの問いは、遠くから慌ただしく近付いてくる足音に掻き消された。
 ルイはシーツを手に取り素早くユリィの体を包み隠す。その直後使用人たちや父が廊下に転がるワイスを発見し悲鳴を上げる。
「なんださっきの大きな音は……わ、ワイス殿!? 一体これは!?」
 ルイが歩み出てワイスの腕を後ろ手に拘束した。
「国家警察魔法部隊ルイドルヴァーティオ副隊長です。手配中の男を追いこちらへ参りました」
 父も使用人も状況が飲み込めず呆気に取られている。
「この男にはいくつもの容疑がかけられ、拘束するよう命令が下っております。違法薬物栽培所持、人身売買、誘拐、監禁、暴行。……裏では随分派手にやっていたようだな」
 きつく腕を捻り上げ、最後の言葉はワイスに向かって冷たく言い放たれた。
 思いもよらない内容に一同動揺が隠し切れていない。ルイによると、孤児院への寄付を偽装し、院職員を莫大な富で黙らせ孤児を売買、孤児院を隠れ蓑に薬物の取引など悪事を働いていたようだ。
 加えてワイスには嗜虐趣味があり、援助の名目で貧しい家に金を握らせ、若い娘を連れ帰っては監禁、拷問、と耳を疑うような事実が突き付けられる。
 警戒心の強いワイスは自宅に籠りがちで証拠の隠匿も巧妙だったため、引きずり出そうにものらりくらりと交わされ警察も手が出せずにいた。しかし彼の留守を狙い逃げ延びた被害者の証言から緊急性ありと捕縛の命令が下ったのだった。
 ほどなくして残りの国家警察も駆け付け、ワイスは連行されていった。
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