バルコニーに舞い降りた初恋

山吹花月

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 しんと静まり返る夜。濃紺の夜空は深く、月を残してすべてを飲み込んでしまったように暗い。
「もう、諦めるべきなのかしら……」
 バルコニーに佇んでいたユリィは人知れずぽつりと呟く。普段は闇に紛れ静かな月が、今夜はやけに煌々と照らしてくる。
 あの人に出会ったのもこんな風に月が輝く夜だった、と想いを馳せる。
『ユリィ……』
 甘く低く耳元を震わせる彼の声が蘇る。熱い吐息も、しっとりとした肌も、情欲を宿す菫色の瞳も、ひとときも忘れたことなんてない。
 詰めた息を吐き、熱くなる目頭に気付かないふりをして空を仰ぐ。
「会いたいわ……ルイ……」



 妙に目が冴えて眠れない。
 ユリィはベッドで何度目かの寝返りを打つ。見慣れた天蓋、見慣れたチェスト。脳を刺激するような要素は見当たらないのに、いつまで経っても瞼は落ちてこないし、どんなに体制を変えても広いベッドはユリィにしっくり馴染んでくれない。
 はあ、と何度目かわからないため息をつく。すぐに眠ることは諦め、ショールを羽織り自室の扉からバルコニーへと出た。
 月明かりに照らされ、腰まである長い髪がプラチナに輝く。空気は少し冷たく感じるが、穏やかな夜が広がっている。音が闇に溶けてしまったように静かだ。ミントブルーの瞳には月以外のすべてが暗く映り、深い眠りに落ちているような夜。まるでこの世界にひとりきりになってしまったような気分だ。
 少しの寂しさと非現実な心地に、意識がふわふわと浮遊するような錯覚に陥る。ぼんやりとこの不思議な感覚に身を任せていると、突然、ばさりとなにか大きなものが落ちる音に現実に引き戻された。
 音がしたのはユリィの背後。反射的に振り返るが目視では確認できない。バルコニーのどこかに落ちたようだが正確な位置は掴めなかった。
 息を飲み耳を澄ませると、ユリィのいる場所からは柱の影になって見えないあたりから衣擦れに似た音がする。
 ユリィの部屋は城の3階にあり庭園に面している。地上から侵入するのはなかなか難しい。大きな野鳥が落ちてきたのか、はたまた人間か。危険な人物だった場合を想像して息を飲む。近寄るべきではない、今すぐ使用人や家族に知らせるべきだ、と頭の中で警鐘が鳴る。
 いつものユリィならすぐに部屋へ戻り誰かに助けを求めただろう。しかし、咎める理性とは裏腹に、なんとも言いようのない引力に導かれ足が勝手に柱へ向かって動く。このなにかと出会わなければならない、という使命感にも似た衝動に体が突き動かされた。
一歩、また一歩と柱へ近付く。
「……ううっ」
 呻き声が聞こえ、わずかに鉄のような匂いがした。血の匂いだ。怪我をしている。そう直感すると足が勝手に駆け、ついにその姿をユリィの瞳が捕らえる。
 黒い塊。時折蠢いて乾いた音が鳴る。よく見ると塊は大きな翼で、バルコニーのタイルへ力無く垂れ下がっている。さらに近付き翼の下を窺い見る。人間だ。翼と同じく夜闇のように艶やかな黒髪の男の姿があった。
 おそらくこの翼は魔法によって具現化されたものだろう。技術の高い魔法使いは、大きな翼で空を飛び回ることもできると聞いたことがある。男が身を捩り、さらりと揺れた前髪から覗く額には幾筋もの血の跡があった。
「あなた、怪我を!」
 ユリィは思わず駆け寄った。が、黒い翼に阻まれこれ以上近付くことができない。
「近寄ら……ないでくれ……」
 翼の奥から弱々しい声が聞こえる。
「でも、血が……」
「すぐ去る」
 苦しそうな呼吸とわずかに震える翼からはすぐに飛び立てるようには見えなかった。
 気候が暖かくなってきたとはいえまだ夜は冷える。傷に障るといけない、とユリィはショールで翼を覆う。さして大きくないのでほんの一部分にしか掛けてあげられなかった。
「っ! やめてくれ、汚れてしまう」
「いいわそんなこと」
 驚いた男が翼を引いたため彼へ寄る通り道ができた。素早く駆け寄り額の傷を確認する。
「よかった、血は止まっているみたい」
 細かな傷はいくつもあるが、すでに血は固まっていた。
「ここは冷えるわ。私の部屋に入って」
「なっ……軽率だ」
「怪我人を放っておくなんてできないわ。早く手当てを」
 彼の素性はわからないが、まともに動けないほど衰弱した人間をこのまま放置するという考えはユリィにはなかった。
 男の体を引き寄せると予想した抵抗はなく、すんなりとユリィの腕の中へと収まった。
「……体が痺れている、だけだ……大事ない。……離してくれ」
 拒絶の言葉を吐くわりに、彼の体にはほとんど力が入っていない。
「か弱い女の腕一本振り払えないほど弱っているくせに」
「っ……」
 返す言葉もなく男は諦めたようにため息をついた。次の瞬間、しゅるしゅると音を立てて翼が消えた。ユリィはそれを同意と受け取り彼の腕を担ぎ上げる。
「少しだけ頑張って歩いてください」
「……ああ」
 弱っている大の男を担いで歩くのは想像以上に骨が折れた。引きずるように部屋へと運び、なんとかベッドへ横たえることができた。
「少し待ってて。癒しの雫がこのへんに……あったわ」
 癒しの雫とは物理的または魔法による負傷、服用塗布どちらも使用可能な回復薬で、水色のとろりとした液体だ。ユリィは刺繍が趣味だが手先が不器用でよく傷を作るため自室に常備している。
 掌に収まるほどの小瓶の蓋を開け、男の口元へ近付ける。
「新品です。安心して」
 男は素直に飲み下していく。瓶の半分まで飲み終えると、険しく歪められていた男の表情が幾分か和らいできた。
 効果が出始めたようだ。傷の状態を確認するため、額にこびりつく血を拭き取る。出血の量から深い傷を覚悟したが、細かい傷が多いだけで、癒しの雫だけで応急処置は出来そうだ。
「具合はどうかしら?」
「……ああ、痺れが和らいできた」
 男が緩慢だがしっかりとした動きで腕を曲げる様子を見る限り、ユリィにすら敵わないほど衰弱している状態からは脱したようだ。本人も安心したようで、薄く開いていた瞳は閉じられ、穏やかな呼吸を繰り返している。
 眠ってしまっただろうかと男の顔を覗き込みどきりとする。今更ながら彼の顔立ちに気付いた。すっと通った鼻筋に形のいい唇、目が伏せられていることによって長い睫毛が強調されていた。美丈夫という言葉がぴったりと当てはまる。ここまで端正な男性に出会うのは初めてだった。
 窓から差し込む月明かりが彼の髪を照らし、星屑を散らしたように輝かせている。耳にかかる程の長さに切られているそれはさらりとシーツへ広がり、とても手触りがよさそうに見えた。
 ふと出来心で手を伸ばし指先で梳く。思った通り感触が心地いい。
 髪に触れながら男の顔を観察する。顔の造形だけでなく肌も陶器のように滑らかだ。日焼けのない白い肌に、血色の良い唇が美しく際立っている。
 ユリィは吸い寄せられるように彼の唇へ口付けを落とした。初めて触れる他人のそこはふわりと柔らかく、触れ合う心地よさに恍惚とする。
 わずかに男が動く気配に心臓が跳ね、ユリィの意識が引き戻された。慌てて距離を取るが、男が目を見開き赤く染まった顔でユリィを見つめている。菫色の瞳が困惑に揺れていた。
「ぁっ……ご、ごめんなさいっ、えっと……そうだわ、額にも癒しの雫を塗っておかないと……」
 羞恥と自分の行動への混乱で慌てて男から目を背ける。顔が熱い。彼と同じくらい頬が赤くなっているだろう。
 指に少量の癒しの雫を垂らし、可能な限り体を離して傷へ塗り込んでいく。精一杯腕を伸ばしているせいで指先がぷるぷると震える。彼を直視するのも恥ずかしくて、視界がぼんやりするように薄目で見る。表情もまともに見えないほどなので、ちゃんと塗れているのか怪しい。
「……ふっ、はは」
 耐えかねたように男が噴き出す。
「積極的に迫ってきたかと思えばそんなに離れて……ははっ」
 なにがそんなにおかしいのかわからず、声を出し笑い続ける男を呆然と見つめることしかできなかった。
 ひとしきり笑い終えた男は体を起こし上半身をユリィの方へ傾ける。
「塗ってくれるのだろう?」
 唇は柔らかく弧を描き、細められた目元にはわずかに赤みが残っている。どことなく嬉しそうに笑う顔は少し幼く見えた。
 はっと我に返りユリィは必死で頷く。伸ばしていないのに震える指先で彼の額へ触れた。
 男の視線を感じる。近くにあるその顔に、さっきの自身の行動と唇の感触が思い起こされユリィの頬が紅潮する。彼が小さく笑う声が聞こえた。早鐘を打つ心臓の音がうるさくて集中できない。どうか彼にこの鼓動が聞こえていませんようにと祈ることしかできなかった。
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