わたくし、前世では世界を救った♂勇者様なのですが?

自転車和尚

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第三六一話 シャルロッタ 一六歳 魔王 一一

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「僕が兄上を許さないはずないじゃないか……兄上……ッ!」

 クリストフェルは異形と化し、辛うじて人間の形状を保っているアンダース・マルムスティーンだったはずの肉塊をそっと抱きしめる。
 魔王トライトーンに吸収され、肉体と魂を混沌によって堕落させられた彼だった残り滓……それが巨大なドラゴンを模した姿の一部、でろりと垂れ下がった尻尾のような肉塊の中に触手と共に生えていたのだ。
 魔王トライトーンはシャルロッタへと共に魔法をぶつけ合っており、クリストフェルとユルへと全く注意を払っていなかった。
 そもそも彼からすれば脅威となるのはシャルロッタであり、クリストフェルは攻撃を加えてくれば対処すれば良い程度の敵だ。
 それで十分対応できると考えていたからこそ、意識を完全に美しき辺境の翡翠姫アルキオネへと向けていられた……シャルロッタの戦闘能力がそれほどまでに超絶のものであったことが、クリストフェルやユルにとっては幸運であったと言えるだろう。
「……そう言ってくれるのか……だが俺は色々間違えた、お前に謝るべきだろうが……すでにその時間すらあまり残されていない」

「あ、ああ……だけど兄上はまだこうして……まだ生きているよ……」

「いや、自分の体だからわかるよ……俺はどうやらすでに人ではないらしい、ひどい気分だよ……」
 幼い頃から見てきた兄の顔……ひどく変色し、萎びそして歪んではいるものの、その瞳の奥にはまだ正気の光が灯っており、身体中で蠢く触手の数々はクリストフェルを襲おうとはしていない。
 元々アンダースは偉丈夫と呼ぶのに相応しい自信家であり、勇気と知性を持っていた……いつしか彼は実力に溺れ、次第に堕落をしていったのだが国を治めるに相応しいとされた彼がどうして変わってしまったのか?
 クリストフェルから見てもアンダースの堕落は坂道を転がり落ちるようであり、それは明らかになんらかの意思が介在していることは間違いなかった。
「……お前が王位を狙っている、と俺に囁いていたのはベッテンコート達第一王子派の貴族どもだ、思えばあの頃から彼らにはなんらかの力が介在していたのだろう」

「……混沌……彼らが堕落して兄上を……」
 クリストフェルの言葉にアンダースは荒い息を吐きながら頷く……辛うじて残っている記憶では、あの時欲する者デザイアなどの訓戒者プリーチャーを連れてきたのはベッテンコートだった。
 彼は最初から混沌の使徒として王国へと浸透し、そして暗躍を続けてきたのだろう……だが、すでにそれは成就し王城は崩壊し、王都は破壊と混乱が渦巻く廃墟と化し始めている。
 最初から気がつければ……とクリストフェルは歯噛みするものの、すでに混沌に与した貴族たちの姿はないのだ。
 今からでも憎しみを持って彼らの肉体へ剣を叩き込みたい……と思う彼の頬を、ぬるりとした触手が軽く撫でる……視線を向けるとアンダースが苦笑いに近い苦しげな笑顔を浮かべて優しく微笑んでいた。
「安心しろ、俺と同じくあいつらは魔王の胎へと入っている……所詮裏切り者、そして生贄でしかなかったんだ」

「……そんな……兄上……ど、どうすれば元に……」

「無駄だ、それよりもお前に言わなければいけないことがある……俺の思考には一部魔王の考えが共有されている……あいつの思惑をお前に伝えなければ……」
 アンダースが軽く咳き込みながらクリストフェルの頭を引き寄せる……そして彼は愛する弟の耳元で何かを喋り始める。
 魔王トライトーンの考える計画……アンダースの言葉によって紡がれるそれは、普通の人間ではれば考えようともしない恐るべき物だ。
 混沌とはこの世界を構成する巨大な星間宇宙に漂う泥濘である、その本質となる泥濘は全てを取り込み増殖し、そして堕落させる力がある。
 それは原始の海プライミヴァルと呼ばれるものであり、その中では生物や無機物は等しく溶け合い、そして融合し全ては混沌の中へと還るのだ。
 始まりは全て無……この世界の人間では想像しようもない畝る泥濘の海……それが本質としての混沌であり、アンダースは融合を果たすことでそれを理解していた。
「……つまり魔王トライトーンはこのイングウェイ王国へと原始の海プライミヴァルを再現しようとしている……と?」

「混沌の勝利とはそういうものらしい……全てが等しく溶け合い、融合し、生物と無機物の境目がない混じり合う世界……それが彼らの世界なのだ」

「だけど……それをやるには今は難しいのでは……? シャルが魔王と互角に戦っています……」
 そう尋ねたクリストフェルたちの耳に凄まじい破壊の音が響き渡る……シャルロッタが放った恐るべき爆炎と、魔王トライトーンが放つ凍てつく嵐が周囲を粉砕しているのだ。
 原始の海プライミヴァルを顕現させるためにはシャルロッタを倒して十分な時間と魔力を行使する必要がある……だが、今の戦いを見ている限り魔王トライトーンにもそれを行使できるだけの余裕があるとは思えないのだ。
 クリストフェルが立っている場所が大魔法同士の衝突でゴゴゴッ! という音を立てて揺れる……その揺れでアンダースが一際苦しそうに喘ぐ。
 よく見れば彼の肉体は徐々に崩壊し始めており、彼自身が崩壊して混沌の身元へと還るまでそう長くは持たないことがわかる。
 命が失われつつある瞬間……クリストフェルは兄が人間でいられる時間が刻一刻と失われていることを感じ、奥歯をギュッと噛み締める。
「クリストフェル……王城の地下へ行くんだ、シャルロッタ嬢はおそらく魔王を足止めしてくれるはずだ、その間にお前は地下にあるはずの原始の海プライミヴァルを召喚する魔法陣を破壊しろ」

「魔法陣?」

「魔王トライトーンの記憶……いや、これは訓戒者プリーチャーの記憶かもしれないが、以前より周到に準備を進めていたのだろう……」
 アンダースの脳裏には魔王トライトーンの記憶にある魔法陣……おどろおどろしい不気味な文字が複雑に絡み合うこの世のものとは思えない邪悪なる力に満ちたその全てが蘇る。
 だが、彼自身は魔法使いではなくその魔法陣に秘められた魔力が邪悪であることとそれが今まで教えられた知識では理解しようもないものであることだけだ。
 言葉では説明のできない何か……だがそれを全て説明するには彼には時間が残されていない、もはやクリストフェルをその場に移動させて魔王の企てを阻止する以外に方法がなかった。
 本来であればアンダースはクリストフェルと肩を並べ、彼を助ける運命があったのかもしれない……全ては彼自身の欲望と隙が生み出した絶望。
 後悔するには遅すぎる、そして後悔したとしても取り返せないほどの時間がすでに過ぎ去っていた……何を間違えたのか、何がいけなかったのか……残された時間があまりに短いアンダースにとって、それは深い深い絶望となって横たわっている。
「すまない……俺がまともであったなら、お前を助けれたはずだったのに……」

「……そんなことを言わないでよ……兄上は僕にとって……」

「お前があの美しい少女と共に並び……俺が二人を祝福する、そんな未来を見たかった……だけど、俺は間違えた……」

「兄上……」

「二人で幸せにな……お前が世界を救い、イングウェイ王国を救うことを祈る……」
 アンダースが微笑むと同時に、その姿がボロボロと崩れていく……彼自身の生命力が尽き、その存在が混沌の泥濘へと堕ちていくように、まるで肉が泥のように溶解し形を失っていった。
 まるで人間の死に方とは思えないようなその姿に、クリストフェルは呆然とした表情で兄の滅びる姿を見守っている……確かに兄は間違いを犯したかもしれない。
 だが、このような死に方があって良いのだろうか……? おおよそ人の死に方ではないアンダースの崩壊に、クリストフェルの双眸から大粒の涙がこぼれ落ちる。
 決して兄が憎いなどと思ったことはない、彼もまた王位を狙って自らの意思を貫いただけだと考えている……しかし、王位を争うだけではない混沌という別の存在に二人の争いを邪魔された気分を感じ、悲しみよりも深い怒りを心の底へと抱えていた。
「……許せない、兄上が何をしたというのだ……」

「婚約者どの……」

「僕は兄上と競うだけならそれでも良かったんだ……シャルと一緒の未来であれば、僕は許容できたし……だけど、内乱がおかしな方向に進んで……」
 クリストフェルは拳をぎりりと握りしめる……あまりに強く握りしめたそれは、皮膚を突き破り赤い血液を滴らせていく。
 彼が愛する婚約者である美しい少女……辺境の翡翠姫アルキオネは魔王トライトーンと大魔法を打ち合っている、それはクリストフェルが兄との別れを済ませるための時間を稼ぐかのように。
 そして、クリストフェルにとってアンダースより託された魔王トライトーンの企みを防ぐ唯一の行動を、彼自身が受け取ったことに他ならない。
 マルヴァースの勇者たるクリストフェルにしかできないこと……それは魔王トライトーンが全てを混沌の中へと沈める原始の海プライミヴァルの再現を防ぐことだけなのだ。
 勇者である自分がやらなければいけないこと……シャルロッタのためにも彼は自分のやるべきことをやる、それが彼がマルヴァースを救う勇者であるという証明をすることなのだ。
「……地下へ行こう……ユル、僕の手伝いを……」

「当たり前でしょう……婚約者殿、いやマルヴァースの勇者であるクリストフェル・マルムスティーン……幻獣ガルム族のユル、我は貴方と共に世界を救います」

「ユル……」
 クリストフェルへとユルはそっと頭を擦り寄せる……今までの彼であれば、シャルロッタ以外には決して懐かず、一線を引いた対応を取ったであろう。
 しかし、ユルもまたマルヴァースの住人であり、シャルロッタという傑物がこの場にいない未来であったなら誰のために働かなければいけないのかを、本能的に理解していた。
 本来の契約者、本当の主人はシャルロッタではなくこの勇者であるクリストフェルに忠誠を捧げなければいけなかったのかもしれない。
 ユルの背中へと飛び乗ったクリストフェルはそっと彼の頭を優しく撫でると、力強く宣言する。

「……僕たちの仕事は……この王城地下にあるはずの魔法陣……混沌の企みをこの手で防ぐ、いくぞッ!!!」
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