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3 忘れたい過去

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 身体に力が入らない。足が重くて、思うように動かない。
『マリオン、もう走れない』
 心の中で何度目かの泣き言を吐く。口に出したりしたら、頬を張られるかよけいに厳しいトレーニングメニューが待っているだけと知っているから。
『でも、ほんとにもう、動けないんだ』

「レイモンド! なにを甘えているんです。倒れるには早すぎる。まだ、半分も終わっていない」

 冷たい声。足音が近づいてくる。

「立ちなさい。誰が手を抜けと言いました。ペナルティーが増えますよ。それともお仕置きがほしいんですか」

 それは、いやだ。両足にぐっと力を入れて、荒い息を吐きながら立ち上がる。

「次はダッシュ。さっさと始めなさい」

 言葉遣いは丁寧なのに、いつも通りの容赦ない口調。のろのろとスタート位置につく。ピッと鳴らされた鋭いホイッスルに反応して重い身体を前へと運ぼうとするが、半分も進まないうちにガクリと膝から崩おれる。
『マリオン、動けない。もう許して』
 声に出さずに言う。涙が頬を伝う。足が動かないだけじゃなく、苦しい息がいまにも止まりそうだ。
 歩みよってきたマリオンが見下ろしている。

「レイモンドッ!」

 鞭のように突き刺さる声。と同時に脇腹に蹴りが入った。
「うっ」と短くうめいたまま身体をくの字に折り曲げる。何をされても、もう動けないのだ。マリオンが腕を乱暴につかみ、引きずり上げる。その手にしがみついて立ちあがるだけで精一杯。
 マリオンのもう一方の手があがって…。頬を張られるのかと思ったら、その手が額に乗せられた。冷たくて気持ちがいい。

「レイモンド、熱があるじゃないか」

 マリオンにしては珍しくあせった口調だ。

「なぜ、言わなかった!」

「言い訳、するなと…」あなたが言った。泣き言なんて吐いたら叱られるだけ…。

 マリオンは俺の目をのぞき込み、
「いつからだ」と訊く。
 わからない。でも、
「この2~3日、身体が重くて」
「馬鹿野郎っ!」

 いつもの丁寧さをかなぐり捨てた怒鳴り声。忘れてた。マリオンでもこんな言葉遣いをするんだ。
 ふわりと身体が浮いて、長い両腕に抱きかかえられる。

「あの…、トレーニングは?」

 これまで、泣いても倒れても、どんなに懇願してもメニューを終えるまでトレーニングをやめさせてはもらえなかった。
 昨日だって、最後の最後までやらされたあげく、ペナルティーまで食らった。昨日の今日だ。最後までできなかったと、マリオンに叱られたくない。

「高熱があるのに、これ以上できるわけがない。今日はここまでにしておきます」

 メニューが終わった時のように、あっさりトレーニング終了を告げられた。

「ご指導、ありがとう、ございました」

 緊張の糸がプツリと切れて、意識が遠のいていく。


 喉が乾いて目が覚めた。
 白い部屋のベッドの上。
 もぞもぞする気配を感じたのだろう、ベッドのそばの椅子に腰を下ろしていたマリオンに声をかけられた。

「目が覚めたましたか」

 首を回そうとするが、その動作ひとつがものすごく大儀で、「はい」という返事もうめき声のように聞こえただけ。俺の上に屈み込んだマリオンが額に手を当てて聞く。

「気分はどうです?」

 最悪、だ。全身が鉛のようで、頭さえ持ち上げられない。腕には点滴の管が巻き付いている。ここは、医務室なのか。

「動かなくていい。どうしました、何かいいたいことでも?」
「のど、が…。みず…」

 かすれた声に、

「喉が乾いた。水が欲しいんですね」

 マリオンが水差しから水を注ぐ。差し出されたコップを受け取る力さえ、今の俺にはないようだ。頭を支えて抱き起こしかけたマリオンだったが、俺の様子を見てそっとベッドに横たえなおす。そしてじっと見つめ…。
 コップの水を自分の口に含んだかと思うと、乾ききった俺のくちびるにやさしく押し当ててくれた。
 マリオンの湿ったくちびる。薄く口を開くと、水が、冷たい水が乾ききったのどに落ちていく。コクリと飲み込んで、

「もっと…」

 うなずいたマリオンが、もう一度、湿ったくちびるを押し当ててくれる。やわらかな感触。触れることなど思いもよらなかったマリオンのくちびる…。

「…あり、がと…、マリオン…」

 熱で潤んだ瞳ですぐ目の前にある整った顔に目をやる。
 見慣れたマリオンの冷たく鋭い灰色の目。
 ところが! 突然、その目に涙があふれた。
 うそ…。

「ああ、レイモンド。わたしはおまえを亡くしてしまったかと…」

 言葉の続きが聞こえない。マリオンの腕が俺を抱いている? ぎゅうっと。そのくせ壊れものを抱きしめるように、やさしく。

「レイモンド、気がついてよかった。レイモンド…」

 惚けた頭に響く低くやさしい声音。マリオンは俺のことを心配してくれているのか?
 教育係として容赦のないマリオン。ほかの者にはやさしいのに、俺にはとことん厳しかった。冷たい口調で、態度で。
 触れることなどもちろん、近寄ることすらためらわれた。
 マリオンの涙を初めて見た。温かい腕に抱きしめられた。このまま時間が止まればいいと思う。それなのに、

「おまえの気がついたと知らせなくては…。先生を呼んできます」

 マリオンは長い指先で涙をぬぐって、病室を出ていった。
 数日間、生死の境を彷徨っていたのだと聞かされたのは、ずいぶん経ってからだった。
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