48 / 108
3 忘れたい過去
しおりを挟む
身体に力が入らない。足が重くて、思うように動かない。
『マリオン、もう走れない』
心の中で何度目かの泣き言を吐く。口に出したりしたら、頬を張られるかよけいに厳しいトレーニングメニューが待っているだけと知っているから。
『でも、ほんとにもう、動けないんだ』
「レイモンド! なにを甘えているんです。倒れるには早すぎる。まだ、半分も終わっていない」
冷たい声。足音が近づいてくる。
「立ちなさい。誰が手を抜けと言いました。ペナルティーが増えますよ。それともお仕置きがほしいんですか」
それは、いやだ。両足にぐっと力を入れて、荒い息を吐きながら立ち上がる。
「次はダッシュ。さっさと始めなさい」
言葉遣いは丁寧なのに、いつも通りの容赦ない口調。のろのろとスタート位置につく。ピッと鳴らされた鋭いホイッスルに反応して重い身体を前へと運ぼうとするが、半分も進まないうちにガクリと膝から崩おれる。
『マリオン、動けない。もう許して』
声に出さずに言う。涙が頬を伝う。足が動かないだけじゃなく、苦しい息がいまにも止まりそうだ。
歩みよってきたマリオンが見下ろしている。
「レイモンドッ!」
鞭のように突き刺さる声。と同時に脇腹に蹴りが入った。
「うっ」と短くうめいたまま身体をくの字に折り曲げる。何をされても、もう動けないのだ。マリオンが腕を乱暴につかみ、引きずり上げる。その手にしがみついて立ちあがるだけで精一杯。
マリオンのもう一方の手があがって…。頬を張られるのかと思ったら、その手が額に乗せられた。冷たくて気持ちがいい。
「レイモンド、熱があるじゃないか」
マリオンにしては珍しくあせった口調だ。
「なぜ、言わなかった!」
「言い訳、するなと…」あなたが言った。泣き言なんて吐いたら叱られるだけ…。
マリオンは俺の目をのぞき込み、
「いつからだ」と訊く。
わからない。でも、
「この2~3日、身体が重くて」
「馬鹿野郎っ!」
いつもの丁寧さをかなぐり捨てた怒鳴り声。忘れてた。マリオンでもこんな言葉遣いをするんだ。
ふわりと身体が浮いて、長い両腕に抱きかかえられる。
「あの…、トレーニングは?」
これまで、泣いても倒れても、どんなに懇願してもメニューを終えるまでトレーニングをやめさせてはもらえなかった。
昨日だって、最後の最後までやらされたあげく、ペナルティーまで食らった。昨日の今日だ。最後までできなかったと、マリオンに叱られたくない。
「高熱があるのに、これ以上できるわけがない。今日はここまでにしておきます」
メニューが終わった時のように、あっさりトレーニング終了を告げられた。
「ご指導、ありがとう、ございました」
緊張の糸がプツリと切れて、意識が遠のいていく。
喉が乾いて目が覚めた。
白い部屋のベッドの上。
もぞもぞする気配を感じたのだろう、ベッドのそばの椅子に腰を下ろしていたマリオンに声をかけられた。
「目が覚めたましたか」
首を回そうとするが、その動作ひとつがものすごく大儀で、「はい」という返事もうめき声のように聞こえただけ。俺の上に屈み込んだマリオンが額に手を当てて聞く。
「気分はどうです?」
最悪、だ。全身が鉛のようで、頭さえ持ち上げられない。腕には点滴の管が巻き付いている。ここは、医務室なのか。
「動かなくていい。どうしました、何かいいたいことでも?」
「のど、が…。みず…」
かすれた声に、
「喉が乾いた。水が欲しいんですね」
マリオンが水差しから水を注ぐ。差し出されたコップを受け取る力さえ、今の俺にはないようだ。頭を支えて抱き起こしかけたマリオンだったが、俺の様子を見てそっとベッドに横たえなおす。そしてじっと見つめ…。
コップの水を自分の口に含んだかと思うと、乾ききった俺のくちびるにやさしく押し当ててくれた。
マリオンの湿ったくちびる。薄く口を開くと、水が、冷たい水が乾ききったのどに落ちていく。コクリと飲み込んで、
「もっと…」
うなずいたマリオンが、もう一度、湿ったくちびるを押し当ててくれる。やわらかな感触。触れることなど思いもよらなかったマリオンのくちびる…。
「…あり、がと…、マリオン…」
熱で潤んだ瞳ですぐ目の前にある整った顔に目をやる。
見慣れたマリオンの冷たく鋭い灰色の目。
ところが! 突然、その目に涙があふれた。
うそ…。
「ああ、レイモンド。わたしはおまえを亡くしてしまったかと…」
言葉の続きが聞こえない。マリオンの腕が俺を抱いている? ぎゅうっと。そのくせ壊れものを抱きしめるように、やさしく。
「レイモンド、気がついてよかった。レイモンド…」
惚けた頭に響く低くやさしい声音。マリオンは俺のことを心配してくれているのか?
教育係として容赦のないマリオン。ほかの者にはやさしいのに、俺にはとことん厳しかった。冷たい口調で、態度で。
触れることなどもちろん、近寄ることすらためらわれた。
マリオンの涙を初めて見た。温かい腕に抱きしめられた。このまま時間が止まればいいと思う。それなのに、
「おまえの気がついたと知らせなくては…。先生を呼んできます」
マリオンは長い指先で涙をぬぐって、病室を出ていった。
数日間、生死の境を彷徨っていたのだと聞かされたのは、ずいぶん経ってからだった。
『マリオン、もう走れない』
心の中で何度目かの泣き言を吐く。口に出したりしたら、頬を張られるかよけいに厳しいトレーニングメニューが待っているだけと知っているから。
『でも、ほんとにもう、動けないんだ』
「レイモンド! なにを甘えているんです。倒れるには早すぎる。まだ、半分も終わっていない」
冷たい声。足音が近づいてくる。
「立ちなさい。誰が手を抜けと言いました。ペナルティーが増えますよ。それともお仕置きがほしいんですか」
それは、いやだ。両足にぐっと力を入れて、荒い息を吐きながら立ち上がる。
「次はダッシュ。さっさと始めなさい」
言葉遣いは丁寧なのに、いつも通りの容赦ない口調。のろのろとスタート位置につく。ピッと鳴らされた鋭いホイッスルに反応して重い身体を前へと運ぼうとするが、半分も進まないうちにガクリと膝から崩おれる。
『マリオン、動けない。もう許して』
声に出さずに言う。涙が頬を伝う。足が動かないだけじゃなく、苦しい息がいまにも止まりそうだ。
歩みよってきたマリオンが見下ろしている。
「レイモンドッ!」
鞭のように突き刺さる声。と同時に脇腹に蹴りが入った。
「うっ」と短くうめいたまま身体をくの字に折り曲げる。何をされても、もう動けないのだ。マリオンが腕を乱暴につかみ、引きずり上げる。その手にしがみついて立ちあがるだけで精一杯。
マリオンのもう一方の手があがって…。頬を張られるのかと思ったら、その手が額に乗せられた。冷たくて気持ちがいい。
「レイモンド、熱があるじゃないか」
マリオンにしては珍しくあせった口調だ。
「なぜ、言わなかった!」
「言い訳、するなと…」あなたが言った。泣き言なんて吐いたら叱られるだけ…。
マリオンは俺の目をのぞき込み、
「いつからだ」と訊く。
わからない。でも、
「この2~3日、身体が重くて」
「馬鹿野郎っ!」
いつもの丁寧さをかなぐり捨てた怒鳴り声。忘れてた。マリオンでもこんな言葉遣いをするんだ。
ふわりと身体が浮いて、長い両腕に抱きかかえられる。
「あの…、トレーニングは?」
これまで、泣いても倒れても、どんなに懇願してもメニューを終えるまでトレーニングをやめさせてはもらえなかった。
昨日だって、最後の最後までやらされたあげく、ペナルティーまで食らった。昨日の今日だ。最後までできなかったと、マリオンに叱られたくない。
「高熱があるのに、これ以上できるわけがない。今日はここまでにしておきます」
メニューが終わった時のように、あっさりトレーニング終了を告げられた。
「ご指導、ありがとう、ございました」
緊張の糸がプツリと切れて、意識が遠のいていく。
喉が乾いて目が覚めた。
白い部屋のベッドの上。
もぞもぞする気配を感じたのだろう、ベッドのそばの椅子に腰を下ろしていたマリオンに声をかけられた。
「目が覚めたましたか」
首を回そうとするが、その動作ひとつがものすごく大儀で、「はい」という返事もうめき声のように聞こえただけ。俺の上に屈み込んだマリオンが額に手を当てて聞く。
「気分はどうです?」
最悪、だ。全身が鉛のようで、頭さえ持ち上げられない。腕には点滴の管が巻き付いている。ここは、医務室なのか。
「動かなくていい。どうしました、何かいいたいことでも?」
「のど、が…。みず…」
かすれた声に、
「喉が乾いた。水が欲しいんですね」
マリオンが水差しから水を注ぐ。差し出されたコップを受け取る力さえ、今の俺にはないようだ。頭を支えて抱き起こしかけたマリオンだったが、俺の様子を見てそっとベッドに横たえなおす。そしてじっと見つめ…。
コップの水を自分の口に含んだかと思うと、乾ききった俺のくちびるにやさしく押し当ててくれた。
マリオンの湿ったくちびる。薄く口を開くと、水が、冷たい水が乾ききったのどに落ちていく。コクリと飲み込んで、
「もっと…」
うなずいたマリオンが、もう一度、湿ったくちびるを押し当ててくれる。やわらかな感触。触れることなど思いもよらなかったマリオンのくちびる…。
「…あり、がと…、マリオン…」
熱で潤んだ瞳ですぐ目の前にある整った顔に目をやる。
見慣れたマリオンの冷たく鋭い灰色の目。
ところが! 突然、その目に涙があふれた。
うそ…。
「ああ、レイモンド。わたしはおまえを亡くしてしまったかと…」
言葉の続きが聞こえない。マリオンの腕が俺を抱いている? ぎゅうっと。そのくせ壊れものを抱きしめるように、やさしく。
「レイモンド、気がついてよかった。レイモンド…」
惚けた頭に響く低くやさしい声音。マリオンは俺のことを心配してくれているのか?
教育係として容赦のないマリオン。ほかの者にはやさしいのに、俺にはとことん厳しかった。冷たい口調で、態度で。
触れることなどもちろん、近寄ることすらためらわれた。
マリオンの涙を初めて見た。温かい腕に抱きしめられた。このまま時間が止まればいいと思う。それなのに、
「おまえの気がついたと知らせなくては…。先生を呼んできます」
マリオンは長い指先で涙をぬぐって、病室を出ていった。
数日間、生死の境を彷徨っていたのだと聞かされたのは、ずいぶん経ってからだった。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
『収納』は異世界最強です 正直すまんかったと思ってる
農民ヤズ―
ファンタジー
「ようこそおいでくださいました。勇者さま」
そんな言葉から始まった異世界召喚。
呼び出された他の勇者は複数の<スキル>を持っているはずなのに俺は収納スキル一つだけ!?
そんなふざけた事になったうえ俺たちを呼び出した国はなんだか色々とヤバそう!
このままじゃ俺は殺されてしまう。そうなる前にこの国から逃げ出さないといけない。
勇者なら全員が使える収納スキルのみしか使うことのできない勇者の出来損ないと呼ばれた男が収納スキルで無双して世界を旅する物語(予定
私のメンタルは金魚掬いのポイと同じ脆さなので感想を送っていただける際は語調が強くないと嬉しく思います。
ただそれでも初心者故、度々間違えることがあるとは思いますので感想にて教えていただけるとありがたいです。
他にも今後の進展や投稿済みの箇所でこうしたほうがいいと思われた方がいらっしゃったら感想にて待ってます。
なお、書籍化に伴い内容の齟齬がありますがご了承ください。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
旦那の真実の愛の相手がやってきた。今まで邪魔をしてしまっていた妻はお祝いにリボンもおつけします
暖夢 由
恋愛
「キュリール様、私カダール様と心から愛し合っておりますの。
いつ子を身ごもってもおかしくはありません。いえ、お腹には既に育っているかもしれません。
子を身ごもってからでは遅いのです。
あんな素晴らしい男性、キュリール様が手放せないのも頷けますが、カダール様のことを想うならどうか潔く身を引いてカダール様の幸せを願ってあげてください」
伯爵家にいきなりやってきた女(ナリッタ)はそういった。
女は小説を読むかのように旦那とのなれそめから今までの話を話した。
妻であるキュリールは彼女の存在を今日まで知らなかった。
だから恥じた。
「こんなにもあの人のことを愛してくださる方がいるのにそれを阻んでいたなんて私はなんて野暮なのかしら。
本当に恥ずかしい…
私は潔く身を引くことにしますわ………」
そう言って女がサインした書類を神殿にもっていくことにする。
「私もあなたたちの真実の愛の前には敵いそうもないもの。
私は急ぎ神殿にこの書類を持っていくわ。
手続きが終わり次第、あの人にあなたの元へ向かうように伝えるわ。
そうだわ、私からお祝いとしていくつか宝石をプレゼントさせて頂きたいの。リボンもお付けしていいかしら。可愛らしいあなたととてもよく合うと思うの」
こうして一つの夫婦の姿が形を変えていく。
---------------------------------------------
※架空のお話です。
※設定が甘い部分があるかと思います。「仕方ないなぁ」とお赦しくださいませ。
※現実世界とは異なりますのでご理解ください。
特殊部隊の俺が転生すると、目の前で絶世の美人母娘が犯されそうで助けたら、とんでもないヤンデレ貴族だった
なるとし
ファンタジー
鷹取晴翔(たかとりはると)は陸上自衛隊のとある特殊部隊に所属している。だが、ある日、訓練の途中、不慮の事故に遭い、異世界に転生することとなる。
特殊部隊で使っていた武器や防具などを召喚できる特殊能力を謎の存在から授かり、目を開けたら、絶世の美女とも呼ばれる母娘が男たちによって犯されそうになっていた。
武装状態の鷹取晴翔は、持ち前の優秀な身体能力と武器を使い、その母娘と敷地にいる使用人たちを救う。
だけど、その母と娘二人は、
とおおおおんでもないヤンデレだった……
第3回次世代ファンタジーカップに出すために一部を修正して投稿したものです。
能力値カンストで異世界転生したので…のんびり生きちゃダメですか?
火産霊神
ファンタジー
私の異世界転生、思ってたのとちょっと違う…?
24歳OLの立花由芽は、ある日異世界転生し「ユメ」という名前の16歳の魔女として生きることに。その世界は魔王の脅威に怯え…ているわけでもなく、レベルアップは…能力値がカンストしているのでする必要もなく、能力を持て余した彼女はスローライフをおくることに。そう決めた矢先から何やらイベントが発生し…!?
食うために軍人になりました。
KBT
ファンタジー
ヴァランタイン帝国の片田舎ダウスター領に最下階位の平民の次男として生まれたリクト。
しかし、両親は悩んだ。次男であるリクトには成人しても継ぐ土地がない。
このままではこの子の未来は暗いものになってしまうだろう。
そう思った両親は幼少の頃よりリクトにを鍛え上げる事にした。
父は家の蔵にあったボロボロの指南書を元に剣術を、母は露店に売っていた怪しげな魔導書を元に魔法を教えた。
それから10年の時が経ち、リクトは成人となる15歳を迎えた。
両親の危惧した通り、継ぐ土地のないリクトは食い扶持を稼ぐために、地元の領軍に入隊試験を受けると、両親譲りの剣術と魔法のおかげで最下階級の二等兵として無事に入隊する事ができた。
軍と言っても、のどかな田舎の軍。
リクトは退役するまで地元でのんびり過ごそうと考えていたが、入隊2日目の朝に隣領との戦争が勃発してしまう。
おまけに上官から剣の腕を妬まれて、単独任務を任されてしまった。
その任務の最中、リクトは平民に対する貴族の専横を目の当たりにする。
生まれながらの体制に甘える貴族社会に嫌気が差したリクトは軍人として出世して貴族の専横に対抗する力を得ようと立身出世の道を歩むのだった。
剣と魔法のファンタジー世界で軍人という異色作品をお楽しみください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる