パンとサーカスと、自転車に乗って

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第十七話・ACOとの待ち合わせ

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 三日後、鑑識が一ツ橋の死亡推定時刻と死亡理由について報告書があがってきた。昔はタバコ臭い二課だったが、ずいぶん前に建物ごと禁煙になった。タバコを吸いに近くのコンビニに行くという不届き者もいる。我々は公僕なのだ、勤務中の休憩は悪だと葉狩は考えている。それゆえ、今時の押上やその三年上の響木にはなかなか通じない。Z世代ならなおさらだ。高校に上がってから不登校になった息子の勇樹は、一年と経たずに退学した。「こらえ性なない奴だ」と心では思ったが、口には出さない。波風を立てても解決などしないと葉狩の妻は口酸っぱくいっていた。今年の春から東治宇高校定時制課程に通っている。いわゆる夜間高校だ。半年近く休まずに通っている勇樹に「こらえ性のない奴だ」なんて言わなくてよかったと心底思っている。

 葉狩は報告書に目を通した。一ツ橋はやはり頸部圧迫による窒息死。死亡推定時刻は十月七日午後八時から十時の間。他殺の疑いはなく、室内には一ツ橋以外の指紋・頭髪・足跡など痕跡はないということだった。八賀という男が自首したいと電話をかけてきたのが、十月六日、丸一日待ったのが十月七日、我々が令状を持って踏み込んだのが十月八日。十月六日に一ツ橋のアパートを確認した時には、ひき逃げに使われたバイクはなかった。十月八日には駐車場に破損したバイクがあった。

 室内には一ツ橋が十月一日に杉浦をひき逃げしたあとにコンビニで盗んだビールとスナック菓子が狭いキッチンの廊下に手つかずで置かれていた。
 ビールは冷蔵庫から取り出されたようだった。というのも、空のグラスがワンルームのテーブルの上に置かれていたからだ。他の飲み物が入っていた形跡はなかった。しかもキッチンにはハサミとクリップが用意されていた。押上と響木は気づいていないようだったが、几帳面な一ツ橋のことだ、ビールは缶から直接飲むことはないし、スナック菓子も食べきれないであろうから小分けにして出すつもりだったのだろう。俺ならスナック菓子は背中からパーティー開けして、カミさんに良く叱られたもんだが、ヤツは違う。残った分はクリップで止めて湿気らないようにと考えていたのだろう。

 これからスナック菓子をアテに冷えたビールで一杯という男が自殺なぞするものだろうか。おそらく、警察に出頭する前にシャバで贅沢をとでも思ったのか。大げさじゃない、ビールとスナック菓子が贅沢といえるほど、一ツ橋の生活は困窮しているように見えた。掃除が行き届いているのは、逆にモノがなさすぎるからともいえる。小さなツードアの冷蔵庫には食料らしきものは何もなく、賞味期限切れしたケチャップと脱臭剤だけしかなかった。一ツ橋の自殺を疑う決定的な理由がもうひとつある。押収したスマホからはデフォルトのアプリ以外は削除されており、連絡先も消えていた。葉狩はデーターの復旧をと上司にかけあったものの、事件性がない以上調査の必要なしとして却下され、遺品として遺族に返却となった。葉狩はそのスマホを拝借していた。一ツ橋には妹がいるようだが、遺体の引き取り自体も拒否しており、遺品を含め処分する必要があるからだ。遺体は火葬のみの直葬となる。因果というのか、轢き殺した杉浦も同じ葬儀場で、直葬だったらしい。

 一ツ橋のスマホは、息子の勇樹に復旧を依頼した。彼はガジェットオタクというか、パソコンを自作するくらいだからこの程度はお手の物だった。一ツ橋のスマホデータは意外と容易に復旧でき、連絡先から通話履歴、消去したアプリもわかった。消去したアプリにはメッセージアプリがあり、十月五日にACOいう人物と会う約束を取り付けていたようだった。ACO=アコ?アシオ?エーシーオー?何かの略か?わからない。
 ACOという表記が偽名なのか今のところはわからない。この人物と会えたのかはわからず、このACOに連絡するのはまだ時期尚早だと考えた。決定的な何かを持ってしてでないといけない。
 一ツ橋が突発的に死を考え実行したというセンもなくはないものの、どちらかというと一ツ橋の死は非日常だったし、生に執着するというかしがみついていたといえる。

 ならば、誰かが一ツ橋を殺害したと考えるのが妥当だ。自殺を装う、そのくせ遺書による偽装もない。逆に足が付くと考えたのか。
 それに事故を起こしたバイクが死亡直前まで行方不明だったことのも不可解だ。我々が令状を取って逮捕する日に、とって付けたように置かれていたのはなぜか。

 近隣のバイクを修理できそうな工場は大小しらみつぶしで確認をした。漏れはない。遠方の可能性はない。動かない事故車を手押しで持っていくには難しい。かといって、軽自動車の荷台に積み込みしてという可能性はありえる。が、その場合は共犯者がいる。一ツ橋は車の免許を持っていないし、そもそもレンターカーを借りる金もない。共犯者がいるなら、一ツ橋の他殺の可能性も浮上する。響木と押上は、あっけない事件の幕切れにがっかりしているようにも見えたが、それは手柄を上げそこなったからではないとすぐわかった。彼らもこの事件の背後に何か異質なものを感じ取っていたからこそ、未解決のまま終わらせることにがっかりしているのだと葉狩は感じ取っていた。

 電話の履歴は勇樹には復旧はできないようだったし、アプリで削除されたトーク履歴は警察内部でも復旧に時間がかかる。息子をこれ以上巻き込んではいけない。葉狩は昨日の夜に電源が切れた一ツ橋のスマホの充電をしなおした。過充電によるバッテリーの消耗が激しく、充電しながらでないとスマホが起動できずにいた。以前、同じような症状になったことを思いだし、葉狩は京都駅前のカメラ店でバッテリー交換を依頼した。幸いにも五千円程度で修理が完了し、スマホは起動しなおした。一日ぶりとなる起動とともに、ロック画面に一件の通知が表示されていた。差出人はA子からだった。

 メッセージを表示すると「既読」に変わった。ACOは一ツ橋が亡くなったことを知らないのか。葉狩は《わかりました》とだけ返事をした。今日の午後二時、京都タワー側のフレンズコーヒートイレ前の奥の席で、ということだった。気になるのは、一ツ橋のことをACOは《弁護士様》と呼んでいたことだ。葉狩は一ツ橋の所持品にあった名刺の肩書は、弁護士だったことを思いだしていた。
丁度その時、押上から電話がかかってきた。京都駅はオーバーツーリズムが問題となるほどの観光客でごったがえしており、人波に紛れて消えることは容易だ。葉狩はACOとの待ち合わせよりも三十分近く早く着いた。店内奥の席は予約席のプレートが置かれており、海外からの観光客が文句を学生らしき店員に厳しい口調でいっていた。スペイン語のようで、内容はわからないものの厳しいということだけは葉狩にもわかった。葉狩は入口付近の楕円状の大テーブルに陣取った。一人で入店した客の共用テーブルだ。入口付近から奥の予約席は見通せる。一ツ橋の顔を知っての相手なら、自分を見れば逃げ出すと踏んでいた。

 二時ちょうどぐらいで、入口側の店員に女性が話しかけていた。中肉中背といったところか、髪はショートで化粧っ気はあまりない。どちらかというとやつれた印象。年のころは四十過ぎぐらい、持っているバッグがニセモノっぽい。
「あの、二時に予約しています、シゲノと申します」
 シゲノと名乗った女は、店員に奥の席を案内された。葉狩は吸い寄せられるように、シゲノと名乗る女性の前に立った。
「ここ、よろしいでしょうか」
 シゲノは面食らったような表情で、動揺しているように見えた。
「知人と約束していますので」
「一ツ橋さんは来ませんよ」
「あなたは?」
「私は東治宇署の刑事、葉狩と申します」
 葉狩は警察手帳をしっかりと見せ、名刺を渡した。
「一ツ橋要さんの件でお話を伺いわせていただけませんか」
 葉狩はそういうと、一ツ橋のスマホをテーブルに置き、ACOとのやり取り画面を見せた。
「このACO、というのはアナタですね」
 葉狩は最初に自分がなぜここにいられるのか、という理由めいたものを疑義なく論理的に説明しようとした。
「これは取り調べですか?」
「いえいえ、取り調べなんて。シゲノさん、あなたが何か罪を犯したわけでもないでしょうに」
 葉狩は続けた。
「一ツ橋さんが亡くなったのをご存じなかったようですね。十月七日です」
「えっ、そんな」
 シゲノは言葉を失った。
「お名前を教えていただいていいですか?」
 少しの間があいたあと、シゲノは観念したのか
「重野英子と申します」
 と簡潔にいった。ACO、エイコってことかと葉狩は瞬時に理解した。


「一ツ橋さんとはどういうご関係ですか?」
 葉狩は紳士的に畳みかける。
「一ツ橋さんは、息子のことでお世話になった弁護士さんで、その」
「その?」
「会費をお渡しするのが月の中旬までと決まっていまして。それで私」
 重野英子は何かを疑われていると思っているのか、やましいことのある人間の顔だ。目を合わせない。表情を読み取られるのを極端に嫌う。詐欺師たちはいつもそうだ。詐欺師たちは劣勢にまわると、勝負はしない。ポーカーでいうと降りる専門。強いギャンブラーは、しない勝負所を知っている、重野はそんな人物に見えた。
「会費とは?」
「ボランティア団体です」
「どんなボランティア団体?」
 葉狩は響木と押上に重野英子で照会をかけるようにメールを送っていた。押上が捜査に出ていたのはわかっていたが、押上にも知らせておいた方がいいと考えた。

 葉狩に響木から返信が来た。
《前科あり。十五年前、離婚時に二歳の息子の親権で夫ともめて、傷害事件を起こしています。執行猶予付きの実刑判決が出ています。詳細を調べるのにはもう少し時間がかかりますがどうしますか?》
とメールに書かれていた。葉狩は、ありがとう。頼む、とだけ返信した。
 目の前の大人しそうなこの女性に前科があるとは、そうは見えなかった。葉狩は刑事という仕事についてはいるが、過去を見通すなんてできっこないといつも思っている。羊の皮は精巧にできているのだ。
“目の前の人間がザコに見えても実は違う、得体の知れない恐ろしさをはらんでいる”
 警察学校を卒業して以来ずっとそう言い聞かせてきたが、今日ほど実感したことはなかった。英子の目は座り、おどおどとした雰囲気はとっくに消え去っていたからだ。
「一ツ橋さんは亡くなったんですね?」
 英子が葉狩に質問した。念押しをするような、亡くなったとするなら誰が一ツ橋を殺したのかを知っているような、強い語気だった。
「はい、亡くなられました。火葬まで終わっています。杉浦杏子さんをひき逃げした疑いで追っていました。マスコミにリークされたんで、隠すこともないですが」
 ぼそっと、英子が本能的につぶやいたのを葉狩は見逃さなかった。声にはなっていなかったが、英子は
「やっぱり」
 といっていた。英子は続けた。
「バイクでひき逃げですよね?バイク」
 英子の前に置かれたコーヒーカップが揺れる。さっき店員が持ってきてからまだ一口も口にしていない。
「ええ、バイクです」

「刑事さん、私が知っていること全部話しますから、息子を護ってもらえませんか」
 唐突な英子の申し出に、葉狩はただならぬ凄みを感じた。子を持つ親の手段を選ばないその生きざまは、どこか自分の妻にも重ね合わせられた。葉狩は
「はい、お聞きします。ここじゃなんですから、署に行きましょう」
 と英子の申し出に紳士に答えた。

 コーヒーはすっかり冷めてしまった。外国人観光客だらけだった店内は、何ローテーションか入れ替わりをしたようにも思えたし、ずっと同じ客が座っているようにも見えた。葉狩は響木に会議室を取るようにと電話をかけた。押上には急ぎでなければ書記をするために署に戻るようにと電話した。店内は挽きたてのコーヒー豆の香りが漂い、軽快なオスカーピーターソントリオのジャズが流れていた。
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