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第十四話・早田千賀子と久保隅咲江
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自分の素性を話したところで、どこまで理解してもらえるのだろう。そもそも「私という人は誰なのか、私にもわからない」
紗智は秀一からの「あなたは誰ですか?」の問いかけに答えあぐねていた。陽子が間を割って入るように答えた。いつものおせっかいが黙っていられなかった。
「この人は、学外の方で、川村紗智さん」
「ん?どこかでお会いしました?」
紗智は気づかれるなら気づいてもらう方が楽だと思った。敢えて自分から説明するのは避けたい。その説明した内容を文字にしてみたらきっとそれはストーカーと似ているからだ。
「先日、四条のほら、高辻通でぶつかった」と秀一がいった。
「どうだったかしら」紗智はとっさにごまかした。
「私やっぱり、どこかであなたに会っています。正確には見た気がする」
陽子は会話を割って入った。息子の翔太からいつも自分都合で会話しがちだから、夜学に行くなら気をつけるようにと注意されていた。
「見た気がするというのは、もしかしたら、私は舞台俳優ですから、何かチラシやポスターで見たのかもしれませんね」
紗智はとっさに素性を明かし始めた。まったく何もいわなくては、明らかに不審者だ。名前だけなら偽名と受け取られかねない。秀一はスマホで川村紗智 俳優 と検索した。スマホの画面には、これまで紗智が出演した舞台の感想や公演情報で埋め尽くされた。とうに終わっている公演について、主演だった頃の舞台についてのレビューなど懐かしかった。紗智は看板俳優から外され、この一年合田から愛人解消の報復で、舞台の出演も叶わなくなった。自分ではエゴサーチをすることはなかった。惨めになるからだ。だからこの結果には紗智自身が一番驚いていた。「あぁ、すごいですね。川村紗智さん、めっちゃ有名じゃないですか」
秀一が画像検索画面にタブを切替えた。スマホ画面は紗智の顔写真がずらっと並ぶ。陽子はその中の一つの写真、若い頃の紗智の写真を見つけた。つながった、杉浦の火葬場で辻という男が持っていた写真の女性と同一人物だ。整った鼻と目元のほくろ、薄い唇、女性ならわかる。誰か好きな男がいる女の顔だ。そして、どこかいつも不安を抱えている顔にも見えた。
とっておきのカード、「杉浦杏子という女性を知りませんか?」と聞くか、「久保隅咲江という女性を知りませんか?」と聞くか。ここを逃してはいけない、授業までまだ四十分ほどある、と陽子は紗智の表情を確認しながら、どちらの質問を投げかけるか考えた。
「僕のばあちゃんも、昔舞台に出てたって。演劇じゃぁないみたいけど、なんか、ラインダンス?みたいなのを踊ってたって」
秀一の突然何気ない話に、紗智の表情が眉がピクッと動いたのを陽子は見逃さなかった。ここだと、陽子は確信した。
「え?久保隅くんのおばあちゃんって、咲江さんだよね?久保隅咲江さんって、キレイだもんね」
「あの、」
紗智が何かをいいだしそうになった。言葉が噴き出る手前、ダムが決壊しそうな、なにもかも吐き出しそうな表情だった。
「舞台つながりなら、年代違っても知り合いだったりして、ね。川村さん」
陽子は紗智に問いかけた。小姑が若い嫁をいびるように、どこか粘着質な問いかけ方だった。
「はい。私、久保隅咲江さんを知っています。といっても、舞台繋がりというわけではなくて。彼女に若い頃、私の主演舞台のチケットをいつも買ってもらっていました」
「そうなの?」
陽子の甲高い声が食堂に響く。
「はい。たまたま喫茶店で声を掛けられて、それからなぜか毎回チケットを大量に購入いただいて。舞台にも来ていただいていました。お友達をたくさん連れていらっしゃっていて」
「それで、秀一君のことが気になって、調べえてここまで来た?ってこと?」
陽子はまるで秀一の保護者のようだった。秀一は二人の会話をじっと聞いていた。
「私がパトロンのように助けていただいていたのは、早田千賀子と名乗る女性でした。先日、アルバイト先の同僚が歩いていたので声を掛けようと近づいたら、早田千賀子という女性と一緒にいたんです。十五年ぶりぐらいで、四条で見かけました」
秀一と陽子は要領の得ない話だが黙って聞いていた。
「その時の彼女は【サキエ】と呼ばれていました。早田千賀子さんには恩義があるし、声を掛けたかったんですが、どういうわけかアルバイト先の同僚の菅野という女性と一緒で、反射的に逃げました」
「あぁ、菅野さんって、菅野奈緒さんですよね。高倉通でぶつかりましたよね、川村さん。あの時の、そういうことか」
秀一は先週の出来事を思い出していた。
「秀一君のおばあちゃん、早田千賀子っていうの?」
陽子は疑問をぶつけた。
「たぶん、そのラインダンスの舞台に出ていたときの芸名だと思う。確か、早田ってのは、ばあちゃんの旧姓だったと思う」
「それなら、千賀子は芸名ってことね」
陽子はいった。
「でも、どうして僕の久保隅龍一というボカロPのZューブまで見つけて、僕に会いに来たんですか?」
「高倉通でばったりあなたたちに会った時、その菅野さんがあなたのことを【くぼずみ】【しゅういち】と呼んでいたから。千賀子さんのことも【サキエ】と呼んでいたし」
紗智の話は要領を得ない。授業まであとニ十分ほどだった。
「それで、秀一君に会いに来るって理由に放っていない気もするけど」
陽子は話の流れを早めた。
「私、若い頃、千賀子さんから、子供を預かりました。子どもの名前は、リュウイチ。二歳ぐらいの男の子でした。二カ月ほど、千賀子さんからその子を預かりました。報酬は五百万円」
「五百万円!」
陽子の声が再び食堂に響き、陽子はあわてて両手で口を押えた。
「その子はたぶん、秀一君あなただと思う。十五年前に一緒に暮らしたの、覚えてない?」
紗智の目的はまだはっきりとはわからないが、秀一に何かを確認したいといったところだと陽子は察した。
「覚えていません。だって僕はずっと母といっしょだったし。二歳っていっても、二カ月も知らない女の人に預けられるって、そんなの少しは覚えていてもいいかと思うし」
秀一がウソをいっているのか、それともそもそも覚えていないのか。
「じゃぁ、この歌詞って、どうやって書いたの?」
紗智は手帳に書き写した【久保隅龍一】の歌詞を秀一に見せた。
“細くまっすぐな川沿いを、手をつないで歩く。小さな手と大きな手、古びた橋の間から見える夕焼けと聞こえる電車の音。カレーのにおいがいつもしていた”
「あぁ、これは、正美の【夕暮れに笑う】ですよ。正美がアップしていた曲を、頼んで僕の方でも歌ってみたんですよ、ボカロを遣わずに、僕が歌ってみたくて」
秀一の説明に紗智は納得できていなかった。
「でも、私が一緒に暮らした子どもと見た風景にそっくりで。それに、秀一君どこから龍一って名義を思いついたの。あなたの昔の名前だったからじゃないの?」
ダムが決壊した。紗智の知りたい欲が食堂全体にあふれていた。
「龍一は、坂本龍一ですよ。ミュージシャンの、元YMOの。正美が、僕の親友なんですけど、正美が入院したときにどうしてもこの名前を使って欲しいって。あいつ坂本龍一好きなんですよね。で、僕も本名そのままで活動するのは、ちょっと嫌で。でも、芸名っていっても思いつかないんで、元々登録していたSHUから、【久保隅龍一】としてZューブに登録しなおしたんです。久保隅って珍しい名前だけど、その頃はもう高校も辞めてたし、夜学じゃぁそんなことで絡んできたり、いじってくるヤツもいないし」
「その正美って子には会えるかな?」
「入院してるんですよ」
「まだ、退院できないんだよね?」陽子は秀一に訊いた。
「そうなんですよ、あのメッセージを解読したものの、誰に相談したらいいのかもわからないし。おばさんに話そうにも、病院に見舞いにほとんど来ないって。看護師さんもいっていたし」
秀一は紗智と陽子に不満っぽく語った。
授業のチャイムが鳴る。まだ予鈴だが、五分前だ。今日は数学のテストがある。高校二年生のカリキュラムであるものの、内容は中学三年生レベルだ。秀一は余裕だが、陽子は自習したいところだった。
突然の訪問者のおかげで自習の代わりに得る成果はあった。だが、秀一にあの「ころされそう」の暗号について、正美との共通の友人に相談するといっていた。その結果を訊きたかった、と陽子は少し不満げだった。陽子は意を決して訊いた。知りたがりは今に始まったことじゃない。嫌なら秀一も話さないだろう。
「あの、この前の暗号のこと、友達に相談するっていってたよね。どうだった?」
「あぁ、それが川村さんとぶつかった時に会っていた菅野さんですよ。彼女も音楽やってて、ボカロのコミュニティーで知り合ったんです。そしたら、咲江さん、あぁ、おばあちゃんとも知り合いだったみたいで」
紗智は食堂で秀一たちと別れ、そっと校門から出た。学校に来たものの、授業を受けずに帰る夜学の生徒と思しき子が二人ほどいた。年齢的には秀一と同じぐらいに見えた。
早田千賀子は旧姓+芸名で、本名は久保隅咲江、おそらく久保隅姓の夫と結婚したことで早田から久保隅に苗字が変わった。何かの活動をするときは、早田千賀子を名乗っていた。早田千賀子は六十過ぎとは思えない若々しさと美貌。どう見ても、五十前にしか見えなかった。ずっと変わっていない。金回りは良く、人脈も多いのは若い頃に歌劇団のようなところに所属していたからか。
二歳のリュウイチと呼ばれる子どもを預けるのに五百万円も払った。あの風景の記憶を歌にしたのは、孫の秀一の友人正美という子。彼は入院している。そして、その共通の友人はアルバイト仲間の菅野奈緒。奈緒に早田千賀子こと、久保隅咲江が接触している。
別れ際に、紗智は週末に陽子と会う約束をした。わずかな時間だったが、陽子ならすべてを話してもいいと思えた。代わりに陽子が知っていることも訊きたいと思った。陽子は何かを知っている。久保隅咲江のことを訊いておきたい。そして、暗号のことも。正美という青年がリュウイチなのか。正美に会う前に、すべての情報を整理しておき、場合によっては陽子を味方に引き入れ、見えない何かと戦う必要があると、紗智は考えた。学校から帰りの電車は、会社帰りのサラリーマンでごった返していた。行った人間が、我が家に帰っていくのだ。もっともなことだ。酔っ払いが大学生に絡んでいる。ヘッドホンの音漏れがどうのこうのと、うるさい。
紗智は竹田駅で地下鉄に乗り換え、北大路駅で降りる。途中でコンビニに立ち寄り、カップ焼きそばを買った。少し気分がいいせいか、デザートにプリンも買った。大きな通りから、一本脇の路地へと入る。高級住宅街ばかりで、人通りが少ない。冷たい秋風が勢いよく頬に当たる。コートをハグするように両手でギュッと掴み、紗智は誰も待つ人のいないマンションへと帰っていった。
紗智は秀一からの「あなたは誰ですか?」の問いかけに答えあぐねていた。陽子が間を割って入るように答えた。いつものおせっかいが黙っていられなかった。
「この人は、学外の方で、川村紗智さん」
「ん?どこかでお会いしました?」
紗智は気づかれるなら気づいてもらう方が楽だと思った。敢えて自分から説明するのは避けたい。その説明した内容を文字にしてみたらきっとそれはストーカーと似ているからだ。
「先日、四条のほら、高辻通でぶつかった」と秀一がいった。
「どうだったかしら」紗智はとっさにごまかした。
「私やっぱり、どこかであなたに会っています。正確には見た気がする」
陽子は会話を割って入った。息子の翔太からいつも自分都合で会話しがちだから、夜学に行くなら気をつけるようにと注意されていた。
「見た気がするというのは、もしかしたら、私は舞台俳優ですから、何かチラシやポスターで見たのかもしれませんね」
紗智はとっさに素性を明かし始めた。まったく何もいわなくては、明らかに不審者だ。名前だけなら偽名と受け取られかねない。秀一はスマホで川村紗智 俳優 と検索した。スマホの画面には、これまで紗智が出演した舞台の感想や公演情報で埋め尽くされた。とうに終わっている公演について、主演だった頃の舞台についてのレビューなど懐かしかった。紗智は看板俳優から外され、この一年合田から愛人解消の報復で、舞台の出演も叶わなくなった。自分ではエゴサーチをすることはなかった。惨めになるからだ。だからこの結果には紗智自身が一番驚いていた。「あぁ、すごいですね。川村紗智さん、めっちゃ有名じゃないですか」
秀一が画像検索画面にタブを切替えた。スマホ画面は紗智の顔写真がずらっと並ぶ。陽子はその中の一つの写真、若い頃の紗智の写真を見つけた。つながった、杉浦の火葬場で辻という男が持っていた写真の女性と同一人物だ。整った鼻と目元のほくろ、薄い唇、女性ならわかる。誰か好きな男がいる女の顔だ。そして、どこかいつも不安を抱えている顔にも見えた。
とっておきのカード、「杉浦杏子という女性を知りませんか?」と聞くか、「久保隅咲江という女性を知りませんか?」と聞くか。ここを逃してはいけない、授業までまだ四十分ほどある、と陽子は紗智の表情を確認しながら、どちらの質問を投げかけるか考えた。
「僕のばあちゃんも、昔舞台に出てたって。演劇じゃぁないみたいけど、なんか、ラインダンス?みたいなのを踊ってたって」
秀一の突然何気ない話に、紗智の表情が眉がピクッと動いたのを陽子は見逃さなかった。ここだと、陽子は確信した。
「え?久保隅くんのおばあちゃんって、咲江さんだよね?久保隅咲江さんって、キレイだもんね」
「あの、」
紗智が何かをいいだしそうになった。言葉が噴き出る手前、ダムが決壊しそうな、なにもかも吐き出しそうな表情だった。
「舞台つながりなら、年代違っても知り合いだったりして、ね。川村さん」
陽子は紗智に問いかけた。小姑が若い嫁をいびるように、どこか粘着質な問いかけ方だった。
「はい。私、久保隅咲江さんを知っています。といっても、舞台繋がりというわけではなくて。彼女に若い頃、私の主演舞台のチケットをいつも買ってもらっていました」
「そうなの?」
陽子の甲高い声が食堂に響く。
「はい。たまたま喫茶店で声を掛けられて、それからなぜか毎回チケットを大量に購入いただいて。舞台にも来ていただいていました。お友達をたくさん連れていらっしゃっていて」
「それで、秀一君のことが気になって、調べえてここまで来た?ってこと?」
陽子はまるで秀一の保護者のようだった。秀一は二人の会話をじっと聞いていた。
「私がパトロンのように助けていただいていたのは、早田千賀子と名乗る女性でした。先日、アルバイト先の同僚が歩いていたので声を掛けようと近づいたら、早田千賀子という女性と一緒にいたんです。十五年ぶりぐらいで、四条で見かけました」
秀一と陽子は要領の得ない話だが黙って聞いていた。
「その時の彼女は【サキエ】と呼ばれていました。早田千賀子さんには恩義があるし、声を掛けたかったんですが、どういうわけかアルバイト先の同僚の菅野という女性と一緒で、反射的に逃げました」
「あぁ、菅野さんって、菅野奈緒さんですよね。高倉通でぶつかりましたよね、川村さん。あの時の、そういうことか」
秀一は先週の出来事を思い出していた。
「秀一君のおばあちゃん、早田千賀子っていうの?」
陽子は疑問をぶつけた。
「たぶん、そのラインダンスの舞台に出ていたときの芸名だと思う。確か、早田ってのは、ばあちゃんの旧姓だったと思う」
「それなら、千賀子は芸名ってことね」
陽子はいった。
「でも、どうして僕の久保隅龍一というボカロPのZューブまで見つけて、僕に会いに来たんですか?」
「高倉通でばったりあなたたちに会った時、その菅野さんがあなたのことを【くぼずみ】【しゅういち】と呼んでいたから。千賀子さんのことも【サキエ】と呼んでいたし」
紗智の話は要領を得ない。授業まであとニ十分ほどだった。
「それで、秀一君に会いに来るって理由に放っていない気もするけど」
陽子は話の流れを早めた。
「私、若い頃、千賀子さんから、子供を預かりました。子どもの名前は、リュウイチ。二歳ぐらいの男の子でした。二カ月ほど、千賀子さんからその子を預かりました。報酬は五百万円」
「五百万円!」
陽子の声が再び食堂に響き、陽子はあわてて両手で口を押えた。
「その子はたぶん、秀一君あなただと思う。十五年前に一緒に暮らしたの、覚えてない?」
紗智の目的はまだはっきりとはわからないが、秀一に何かを確認したいといったところだと陽子は察した。
「覚えていません。だって僕はずっと母といっしょだったし。二歳っていっても、二カ月も知らない女の人に預けられるって、そんなの少しは覚えていてもいいかと思うし」
秀一がウソをいっているのか、それともそもそも覚えていないのか。
「じゃぁ、この歌詞って、どうやって書いたの?」
紗智は手帳に書き写した【久保隅龍一】の歌詞を秀一に見せた。
“細くまっすぐな川沿いを、手をつないで歩く。小さな手と大きな手、古びた橋の間から見える夕焼けと聞こえる電車の音。カレーのにおいがいつもしていた”
「あぁ、これは、正美の【夕暮れに笑う】ですよ。正美がアップしていた曲を、頼んで僕の方でも歌ってみたんですよ、ボカロを遣わずに、僕が歌ってみたくて」
秀一の説明に紗智は納得できていなかった。
「でも、私が一緒に暮らした子どもと見た風景にそっくりで。それに、秀一君どこから龍一って名義を思いついたの。あなたの昔の名前だったからじゃないの?」
ダムが決壊した。紗智の知りたい欲が食堂全体にあふれていた。
「龍一は、坂本龍一ですよ。ミュージシャンの、元YMOの。正美が、僕の親友なんですけど、正美が入院したときにどうしてもこの名前を使って欲しいって。あいつ坂本龍一好きなんですよね。で、僕も本名そのままで活動するのは、ちょっと嫌で。でも、芸名っていっても思いつかないんで、元々登録していたSHUから、【久保隅龍一】としてZューブに登録しなおしたんです。久保隅って珍しい名前だけど、その頃はもう高校も辞めてたし、夜学じゃぁそんなことで絡んできたり、いじってくるヤツもいないし」
「その正美って子には会えるかな?」
「入院してるんですよ」
「まだ、退院できないんだよね?」陽子は秀一に訊いた。
「そうなんですよ、あのメッセージを解読したものの、誰に相談したらいいのかもわからないし。おばさんに話そうにも、病院に見舞いにほとんど来ないって。看護師さんもいっていたし」
秀一は紗智と陽子に不満っぽく語った。
授業のチャイムが鳴る。まだ予鈴だが、五分前だ。今日は数学のテストがある。高校二年生のカリキュラムであるものの、内容は中学三年生レベルだ。秀一は余裕だが、陽子は自習したいところだった。
突然の訪問者のおかげで自習の代わりに得る成果はあった。だが、秀一にあの「ころされそう」の暗号について、正美との共通の友人に相談するといっていた。その結果を訊きたかった、と陽子は少し不満げだった。陽子は意を決して訊いた。知りたがりは今に始まったことじゃない。嫌なら秀一も話さないだろう。
「あの、この前の暗号のこと、友達に相談するっていってたよね。どうだった?」
「あぁ、それが川村さんとぶつかった時に会っていた菅野さんですよ。彼女も音楽やってて、ボカロのコミュニティーで知り合ったんです。そしたら、咲江さん、あぁ、おばあちゃんとも知り合いだったみたいで」
紗智は食堂で秀一たちと別れ、そっと校門から出た。学校に来たものの、授業を受けずに帰る夜学の生徒と思しき子が二人ほどいた。年齢的には秀一と同じぐらいに見えた。
早田千賀子は旧姓+芸名で、本名は久保隅咲江、おそらく久保隅姓の夫と結婚したことで早田から久保隅に苗字が変わった。何かの活動をするときは、早田千賀子を名乗っていた。早田千賀子は六十過ぎとは思えない若々しさと美貌。どう見ても、五十前にしか見えなかった。ずっと変わっていない。金回りは良く、人脈も多いのは若い頃に歌劇団のようなところに所属していたからか。
二歳のリュウイチと呼ばれる子どもを預けるのに五百万円も払った。あの風景の記憶を歌にしたのは、孫の秀一の友人正美という子。彼は入院している。そして、その共通の友人はアルバイト仲間の菅野奈緒。奈緒に早田千賀子こと、久保隅咲江が接触している。
別れ際に、紗智は週末に陽子と会う約束をした。わずかな時間だったが、陽子ならすべてを話してもいいと思えた。代わりに陽子が知っていることも訊きたいと思った。陽子は何かを知っている。久保隅咲江のことを訊いておきたい。そして、暗号のことも。正美という青年がリュウイチなのか。正美に会う前に、すべての情報を整理しておき、場合によっては陽子を味方に引き入れ、見えない何かと戦う必要があると、紗智は考えた。学校から帰りの電車は、会社帰りのサラリーマンでごった返していた。行った人間が、我が家に帰っていくのだ。もっともなことだ。酔っ払いが大学生に絡んでいる。ヘッドホンの音漏れがどうのこうのと、うるさい。
紗智は竹田駅で地下鉄に乗り換え、北大路駅で降りる。途中でコンビニに立ち寄り、カップ焼きそばを買った。少し気分がいいせいか、デザートにプリンも買った。大きな通りから、一本脇の路地へと入る。高級住宅街ばかりで、人通りが少ない。冷たい秋風が勢いよく頬に当たる。コートをハグするように両手でギュッと掴み、紗智は誰も待つ人のいないマンションへと帰っていった。
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