パンとサーカスと、自転車に乗って

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第八話・不安というものの柔らかい輪郭

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 五時を過ぎたが秀一はコミュニケーションルームに現れなかった。陽子は授業が始まるギリギリまで待ってみたが、秀一から連絡もなかった。約束を忘れて教室にいるのかも、と陽子は思ったが教室にも秀一はいなかった。
 出席を取る間、陽子は秀一にメッセージを送った。“今日はお休みですか?”シンプルに、かつ約束のことには触れずに。既読が付いたのは翌朝だった。

 中田家の朝は早い、翔太が週に三度も一限の授業をとっているからだ。学校まで一時間半、地元の駅から京都駅まで行き、そこからバスに乗り換え山手の方にある大学へ向かう。
オープンキャンパスでこんなに遠くて大丈夫なの?と陽子が翔太に確認をとったが、翔太は大丈夫の一点張りだった。まだ二回生だが授業にはきちんと出席しているようだし、京都駅周辺でアルバイトも始めたようだった。

 翔太は顔を洗い、ひげをそり、歯を磨き、食卓についた。翔太は食後にも歯を磨く。矯正歯科を長らく続けてきた習慣で、朝は起きたてと食後には歯を磨く。
 翔太はスマホをいじりながら、思い出したように言った。
「ねぇ、そういえば、あの暗号の答え合わせしたの?」
 陽子の手が止まる。朝起き掛けに、メッセージが既読になったものの、秀一からは返事がない。親子ほど離れている相手、子供のようなものだが、我が子とは違う何かを感じるものはある。それは広く言えば愛情のようなものであるし、狭く言えば興味本位のようなものである。相手が十七歳とはいえ、この広義にも狭義にも、定義した相手への感情は何と呼べばいいのか、陽子は母性と言う言葉を探していた。
「ねぇ、かあさん。どうしたの?」
 翔太が味噌汁をすする。翔太は味噌汁とパンという不思議な組み合わせの朝食にハマっている。
「ん、来なかったのよ。秀一くん」
 陽子の声にどこか残念そうな響きを翔太は嗅ぎ取った。
「秀一くんっていくつだっけ?」
「十七よ」
「なんだ、俺より三つも年下じゃん」
「別に、なんでもない相手よ。クラスメイト」
「へぇー、でLIMEの返事きたの?」
 翔太は何でもお見通しなのか、私がメッセージを送ったことをどうして知っているのかと陽子は怪訝に思った。

「うん、朝既読になってた」
「気にしてんじゃん、まぁ俺は自分の新しい父さんが年下なのはちょっと嫌だけど。母さんの人生だから任せるよ。でも成人になるまでに何もしちゃいけないよ。犯罪だからそれ」
「何言ってんのよ、ただのクラスメイト。ただ…」
「ただ?」
「約束をすっぽかすような子じゃないし、授業も休んだのよね」
「それは、風邪なんじゃない?」
 翔太は、パンの耳を味噌汁に浸しながら、おそらくこの問答の中で最も真っ当な答えを返した。それから一週間、秀一は夜学に現れなかった。陽子も最初のうちは、風邪大丈夫?といった当たり障りのないメッセージを送っていたが、詮索しているようにも感じていた。しかも本当に重病だったりしたら迷惑だろうと、思い直し三日目からは連絡を取らずにいた。

 秀一が約束をすっぽかしてから、一週間、いつもの朝食の時間、陽子は慌ただしく準備をしていた。杉浦がいきなり退職したらしく、その穴埋めにシフトの調整が今朝は入ったのだ。別に敢えて行かなくてもいい。そこまでの義理は会社にない。だが、転職二年目のパートとしては、ここが踏ん張りどころと思い手を挙げた。クボさんも来てくれるなら心強いと思って。

 陽子はいつものタワービルに入り、清掃担当者たちの休憩室兼事務所に向かった。エレベーターで社員の吉澤に会った。
「あぁ、中田さん、よかったぁ。来てくれて」
「来ますよ、だって大変じゃないですか」
「そうなんですよ、今日は僕もシフトに入りますんで」
 陽子は面食らった。人員が足りないからと言って正社員が清掃を担当するなんてそうそうないからだ。正社員とパート、厳密には正社員とパート社員、どちらも社員と言う呼び名だが、正とパートでは待遇は天と地ほどある。そんな正社員の吉澤が今日シフトに名入り、しかもリーダーで取り回しもすると言った。

「あの、クボさんいるじゃないですか?」
 陽子はビル内の事務所に向かう廊下で訊いた。
「クボさん?」
「あ、久保隅さん、久保隅咲江さんです」
「あぁ、彼女辞めましたよ」
「え?」
 どうしてですか?いつですか?と言う言葉が出そうになったが、直感でそれはまずいと思い陽子は飲み込んだ。
「あぁ、これ言っちゃっていいのかなぁ」
 吉澤は誰かに吐き出したそうだった。
「私、口硬いですから」
 乗り込んでしまった、扉を開けてしまった、陽子は好奇心と引き換えに、後悔を手にした。
「あの、杉浦さんっていたじゃないですか?彼女が久保隅さんを訴えたんです」
「訴えた?」
「そう、訴訟。裁判です」

 自分たちの人間関係にそんなものが現実にあるとはと陽子は現実味を感じなかった。裁判といえば、元夫とも離婚では調停になりかけたがあくまでも、調停であり裁判の形式ではない。幸いにも元夫とは、慰謝料と養育費を多少譲歩してきれいさっぱり別れられた。
「それは、そんなトラブルなんですね」
 陽子は吉澤の話したい欲求に、手を入れ込んだ。くすぐられるような感覚を吉澤は感じ、足を止めた。
「言わないでくださいよ。誰にも」
「ええ」
「詐欺です」
「詐欺?」
 現実味のない言葉がまた出てきた。陽子は続けた。
「それは、久保隅さんが杉浦さんをだましてお金を取ったみたいな?」
「まぁ早い話そうみたいですね、久保隅さんマークしてたんですよ」
「マークですか」
 再び二人は歩き始めた。事務所までその角を曲がればすぐだ。
「ここのパートさん、社員もですが、宗教みたいなのに誘われてたようで。証拠がないですけど、まぁ、それで辞めさせるわけにもいかずで。証拠もないですし」
「宗教…」

 陽子が社会とのかかわりを持てるのは、息子の翔太を通じて、この清掃の仕事を通じて、あとは夜学を通じての三つだ。そのなかに、
訴訟も詐欺も宗教もまだ出てきたことはない。生きてきて五十二年経つが、知らないことの方が多いし経験したことのないこともたくさんある。陽子のスマホがブルルと振動する。メッセージだ。秀一からだった。

〈今日、学校のコミュニケーションルームで待ちます。五時に待ってます。この前はすみませんでした。元気なので安心してください〉

 陽子はすぐに〈りょうかいです〉と返事した。
 秀一のメッセージのなかにある、「自分たちの住んでる日常」を感じ、陽子は少し安心した。
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