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第四話:思い出せない音を飲む

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 秀一が高校二年生になって高校を中退した頃、正美は病室にはいなかった。事故で入院した正美は精密検査の結果、問題はなかった。だが、過去の記憶を維持することができなくなっていた。因果関係があるとするならば、バイク事故しか原因が見当たらなかった。バイク事故の犯人はわからず仕舞いだった。正美がアップした音声だけの動画は、百万回再生され、コメント数は三千を越えていた。正美のボカロ曲も同じように伸び、いつしか正美はレジェンドボカロPと呼ばれるようになっていた。
「おかあさん、ぼく、もう学校にいきたいよ」
 正美がいつものを繰り返す。
「そうね、もうすぐ行けるようになるわ」
 返事をするのは正美の母ではない。看護師の須藤菜緒子が返事をした。看護師と母の区別がつかない正美を混乱させまいと、全てを肯定する運用を看護局で決定したのだ。もちろん担当医も、正美の母英子も了承ずみだ。

 正美の事故から三年が過ぎ、秀一は高校二年生の秋に高校を中退した。秀一自身、音楽一本で生きていきたいという覚悟の現れだったが、咲江は「それじゃ、中卒になっちゃうんだよ」と言っても秀一は聞き入れなかった。中卒がダメなんじゃない。音楽で生きるという目標を持っているからいいんじゃない。人生には保険が必要だ、咲江の説得は秀一に十分通じていた。だが、今なんだと思った。それは、正美から譲り受けた未発表の曲たちを聴いたから。正直言って、完敗だ。正美の作る曲は音圧がすごい。スマホだけで作っているとは思えないほど。それ以上に、音楽理論が駆使されている。

 正美も秀一も「曲先」といわれる作り方だった。曲を作り、歌詞を作り、クミンに歌わせて調声する。同じ作り方だが、ここまで、同じ年齢なのにという嫉妬心が正美には深く深く溢れていた。これまでは、

 だが、正美はまだ退院できない。三年半、記憶に関わる病気だと聞いた。何度か、譲り受けた未発表曲の「曲」だけを聴かせてみたが、自身がボカロPということがどうしても思い出せないようだった。
「俺が思い出させるよ」

 秀一が高校を中退し、曲作りに専念すると決めたのは、譲り受けた未発表曲に歌詞をつけ、クミンに歌わせて正美に聴かせるため。いや、聴かせて、記憶を刺激して正美を元に戻すためだと、覚悟していた。秀一は咲江にその本心は伝えてはいない。伝えれば、正美の母英子にも伝わり、全力で阻止されるからだと考えていた。
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