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SIDE-A 拝啓、依田慎太郎と麻衣子から、殺人鬼へ
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朝、玄関先に犬が死んでいた。死んでいたというよりも、殺されていたと言う方が正しいだろう。普通は驚きそうな朝のシーンだが依田慎太郎は、血を流して絶命している犬をじっと見ていた。
「麻衣子、ねぇ、麻衣子、今度は犬だよ」
「なによ、犬?また死んでるの?」
「違うよ、殺されてるんだよ。首から勝手に血がながれるものか」
依田麻衣子は夫の落ち着き払った姿にいつもながら頼もしさを覚えた。慎太郎は殺された犬に、昨日の朝刊をかけ、市役所に電話した。
九時前だったが、田舎の市役所だけあって、電話に出てくれた。犬の亡骸を引き取ってくれるように頼むと、いつものように新聞を読みながら朝食を優雅にとった。フリーランスというのは、何かと自由だ、と慎太郎は思っているが、麻衣子は違う。今まで会社勤めだった夫が、突然辞めてずっと家にいる。せめて、オフィスぐらい、安アパートぐらい借りて欲しい、と麻衣子の不満は募る。
珈琲を豆から手で挽く、ハンドドリップタイプをわざわざ通販で買って、毎朝自分で珈琲を淹れる夫に嫌みの一つでも言いたい麻衣子だったが、今は共通の敵がいるから休戦だ。
半年前、隣のボロ家が売りに出された。老夫婦が亡くなったあと、息子が相続したのだが住む予定はない。地元の不動産屋が買い取って、賃貸物件にした。そこに越してきたのが、例の殺人鬼だ。
怪しきは罰せず、じゃなかった、疑わしきは罰せず、の精神が人権運動家たちのお題目だった。そのお題目が、うねりをあげて全世界に広がったのが二年前。あとからノット・ギルティ運動ともいわれる、無罪とは言いすぎたもんだといつも慎太郎はボヤいていた。
状況証拠のみで、ただ疑わしいだけの男、笹岡倉穣一がそのボロ家に越してきた。今話題の殺人鬼だ。もとい、殺人鬼疑いと言われている男だ。これまで四十三人を殺害しているといわれている。記念すべき四十四人目は、隣人にするとブログで公言していた。慎太郎はいつも変わりゆく隣人をチェックしていた。
十分自白に相当する言葉であり、隣人である依田家にとっては、脅迫にも近い言葉ではあったが、それでは警察は動かないのが二十二世紀のスタンダードだ。
玄関先のチャイムが鳴る。市役所の職員がもう犬の亡骸を引き取りに来たのかと、慎太郎はハンコを持って玄関に向かう。慎太郎がドアを開けると、そこには小柄な男が立っていた。オーバーオールにボーダーのトレーナー。上半身は鍛え上げられている。ボーダーの横シマに沿って、筋肉のラインが整って透けて見える。
「市役所の方?」
慎太郎が目を合わせずに、訊く。足もとを見ていた。男の靴は濡れている。今日は晴れているのに、ずぶ濡れだった。麻衣子が小走りで、玄関に向かう。
男は無言のまま、土足で玄関の土間から上がり込もうとした。
「おいおい、人んち土足で入るとは、失礼な。市役所に電話してやるぞ」
「おい、麻衣子!市役所に電話しろ、無礼な奴が上がり込もうとしている」
男は、右手にナイフ、左手に斧を持ち襲い掛かって来た。ナイフが慎太郎のシャツをかすめる。同時に、左手で斧を軽々と振るう。床に穴が開く。去年リフォームしたばかりだった。
麻衣子が叫ぶ。
「ちょっとぉおお、土足だし穴開けてるし、もう、これ弁償だけじゃすまないわよ」
男はなお無言で襲い掛かる。斧が床に突き刺さったままで、引っこ抜くのを諦めたようだった。ナイフを小刻みに振る。慎太郎の三回右目、右手、右太ももに狙いをつけているようだが、寸でのところで慎太郎はかわした。
麻衣子が焼きたての目玉焼きをフライパンごと投げた。回転軌道を描かない。麻衣子の右手はスナップを敢えてきかせず、軌道はまっすぐそのままマンガのように男の顔にフライパンが命中した。
「あぁっぐううぅうい」
男が叫ぶ。隣の殺人鬼を麻衣子がやっつけた。慎太郎は床に刺さった斧を軽々と抜き、男に振るう。首に斧が刺さったままで、男は絶命した。慎太郎は慎重に、玄関外に男の亡骸を運ぶ。下手に斧を抜くと、血の海になると慎太郎はよく知っていた。
朝九時台といっても、夏の日差しは厳しい。犬の亡骸にはハエがたかり始めていた。慎太郎は男の亡骸を犬の隣に置いて、新聞紙を掛けた。
「ねぇ、この人隣の人よね?」
玄関先から麻衣子が、慎太郎に訊いた。
「あぁ、免許証がっと、そだね、隣の家だね。笹岡倉さんだね。あぁ、隣の殺人鬼か。四十四人目を狙いに来てたのかぁ」
慎太郎は警察に電話して亡骸を置いた門の前から家に戻る。家の門の前で隣の家の男が自分の斧で自殺したと伝えた。
「信じてくれるかしら?警察」
「証拠もなにもないんだから」
「そうね、でも残念よね」
「あぁ、残念だ」
「百人目は、もっとドラマティックに殺したかったのに」
「これは、ノーカウントだよ」
「ノーカウント、それもいいわね」
麻衣子は男にぶん投げたフライパンがお気に入りだったことを後悔した。
「ノーカウントは、三回までよね?」
麻衣子は歪んだフライパンをグッと手で押しながら元の姿に戻そうとしていた。力が入りすぎて逆方向にフライパンが歪む。
「あの老夫婦の時にもノーカウント使ったから、それぞれでカウントすると二回か。で、今日で三回ね」
「そうだ、もうノーカウントはナシ」
ピンポーン!玄関のチャイムが鳴る。
警察か、市役所の職員か。どっちにしても、記念すべき百人目にしようと、夫婦の意見が久々に一致した。
もう、ノーカウントにはできないのだから。
「麻衣子、ねぇ、麻衣子、今度は犬だよ」
「なによ、犬?また死んでるの?」
「違うよ、殺されてるんだよ。首から勝手に血がながれるものか」
依田麻衣子は夫の落ち着き払った姿にいつもながら頼もしさを覚えた。慎太郎は殺された犬に、昨日の朝刊をかけ、市役所に電話した。
九時前だったが、田舎の市役所だけあって、電話に出てくれた。犬の亡骸を引き取ってくれるように頼むと、いつものように新聞を読みながら朝食を優雅にとった。フリーランスというのは、何かと自由だ、と慎太郎は思っているが、麻衣子は違う。今まで会社勤めだった夫が、突然辞めてずっと家にいる。せめて、オフィスぐらい、安アパートぐらい借りて欲しい、と麻衣子の不満は募る。
珈琲を豆から手で挽く、ハンドドリップタイプをわざわざ通販で買って、毎朝自分で珈琲を淹れる夫に嫌みの一つでも言いたい麻衣子だったが、今は共通の敵がいるから休戦だ。
半年前、隣のボロ家が売りに出された。老夫婦が亡くなったあと、息子が相続したのだが住む予定はない。地元の不動産屋が買い取って、賃貸物件にした。そこに越してきたのが、例の殺人鬼だ。
怪しきは罰せず、じゃなかった、疑わしきは罰せず、の精神が人権運動家たちのお題目だった。そのお題目が、うねりをあげて全世界に広がったのが二年前。あとからノット・ギルティ運動ともいわれる、無罪とは言いすぎたもんだといつも慎太郎はボヤいていた。
状況証拠のみで、ただ疑わしいだけの男、笹岡倉穣一がそのボロ家に越してきた。今話題の殺人鬼だ。もとい、殺人鬼疑いと言われている男だ。これまで四十三人を殺害しているといわれている。記念すべき四十四人目は、隣人にするとブログで公言していた。慎太郎はいつも変わりゆく隣人をチェックしていた。
十分自白に相当する言葉であり、隣人である依田家にとっては、脅迫にも近い言葉ではあったが、それでは警察は動かないのが二十二世紀のスタンダードだ。
玄関先のチャイムが鳴る。市役所の職員がもう犬の亡骸を引き取りに来たのかと、慎太郎はハンコを持って玄関に向かう。慎太郎がドアを開けると、そこには小柄な男が立っていた。オーバーオールにボーダーのトレーナー。上半身は鍛え上げられている。ボーダーの横シマに沿って、筋肉のラインが整って透けて見える。
「市役所の方?」
慎太郎が目を合わせずに、訊く。足もとを見ていた。男の靴は濡れている。今日は晴れているのに、ずぶ濡れだった。麻衣子が小走りで、玄関に向かう。
男は無言のまま、土足で玄関の土間から上がり込もうとした。
「おいおい、人んち土足で入るとは、失礼な。市役所に電話してやるぞ」
「おい、麻衣子!市役所に電話しろ、無礼な奴が上がり込もうとしている」
男は、右手にナイフ、左手に斧を持ち襲い掛かって来た。ナイフが慎太郎のシャツをかすめる。同時に、左手で斧を軽々と振るう。床に穴が開く。去年リフォームしたばかりだった。
麻衣子が叫ぶ。
「ちょっとぉおお、土足だし穴開けてるし、もう、これ弁償だけじゃすまないわよ」
男はなお無言で襲い掛かる。斧が床に突き刺さったままで、引っこ抜くのを諦めたようだった。ナイフを小刻みに振る。慎太郎の三回右目、右手、右太ももに狙いをつけているようだが、寸でのところで慎太郎はかわした。
麻衣子が焼きたての目玉焼きをフライパンごと投げた。回転軌道を描かない。麻衣子の右手はスナップを敢えてきかせず、軌道はまっすぐそのままマンガのように男の顔にフライパンが命中した。
「あぁっぐううぅうい」
男が叫ぶ。隣の殺人鬼を麻衣子がやっつけた。慎太郎は床に刺さった斧を軽々と抜き、男に振るう。首に斧が刺さったままで、男は絶命した。慎太郎は慎重に、玄関外に男の亡骸を運ぶ。下手に斧を抜くと、血の海になると慎太郎はよく知っていた。
朝九時台といっても、夏の日差しは厳しい。犬の亡骸にはハエがたかり始めていた。慎太郎は男の亡骸を犬の隣に置いて、新聞紙を掛けた。
「ねぇ、この人隣の人よね?」
玄関先から麻衣子が、慎太郎に訊いた。
「あぁ、免許証がっと、そだね、隣の家だね。笹岡倉さんだね。あぁ、隣の殺人鬼か。四十四人目を狙いに来てたのかぁ」
慎太郎は警察に電話して亡骸を置いた門の前から家に戻る。家の門の前で隣の家の男が自分の斧で自殺したと伝えた。
「信じてくれるかしら?警察」
「証拠もなにもないんだから」
「そうね、でも残念よね」
「あぁ、残念だ」
「百人目は、もっとドラマティックに殺したかったのに」
「これは、ノーカウントだよ」
「ノーカウント、それもいいわね」
麻衣子は男にぶん投げたフライパンがお気に入りだったことを後悔した。
「ノーカウントは、三回までよね?」
麻衣子は歪んだフライパンをグッと手で押しながら元の姿に戻そうとしていた。力が入りすぎて逆方向にフライパンが歪む。
「あの老夫婦の時にもノーカウント使ったから、それぞれでカウントすると二回か。で、今日で三回ね」
「そうだ、もうノーカウントはナシ」
ピンポーン!玄関のチャイムが鳴る。
警察か、市役所の職員か。どっちにしても、記念すべき百人目にしようと、夫婦の意見が久々に一致した。
もう、ノーカウントにはできないのだから。
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