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第1話・菜緒の左手
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立木陵介が妻の姿を最後に見たのは、玄関だった。朝の七時半。正確には見たのではなく、見送ったというのが正解だろう。仕事へと向かう菜緒を、玄関から見送った。その日を境に、菜緒と連絡がとれなくなった。スマホはなく、電話してもラインを送っても返事はない。ラインに至っては既読にもならない。
翌日、陵介は警察に失踪届を出した。近くの露ヶ原交番で、当直の警察官はふてぶしかった。失踪だけで日本国内では年間七万人ほどいる。警察がまともに取り合うはずはない、と陵介はわかっていた。
誘拐されていたらと思うと気が気ではなかった。菜緒を誘拐した犯人は、きっと殺されているだろう。普通の女性ではないのだ。
二カ月前、東京・大阪間の飛行機がハイジャックされた。羽田空港発、伊丹空港着。14時過ぎに飛び立った機内に、複合・国際原子力戦線(Combined International Nuclear Front=CINFr)と名乗る男たち四人が機内で銃を構えた。「これより、この機体は複合・国際原子力戦線(CINFr)の所有物に変わった。あなたたちは、私たちの人質ではあるが、友人だ。だから、手荒な真似はしない。どうか安心して欲しい」
機内で立ち上がった男は皆、目出し帽をかぶっている。目の表情からして、全員四十代だと菜緒が陵介に伝えた。陵介はどうしてそんなことがわかるのか?菜緒に訊ねたが、菜緒は何も答えなかった。菜緒は、器用に口腔内の矯正器具を外し、人差し指に針金を巻き付けた。
ハイジャック犯たちはエジプトなまりのある英語を話していた。四人のうちリーダー格の男は流暢に日本語を話していた。さっき機内を安心させようと、安っぽい詭弁の演説を放った男だ。
誰もが機内でハイジャック犯と目があわないようにしているなか、陵介に頭を下げるようにと伝えたのち、菜緒はおもむろに立ち上がった。
「あのー、トイレ行きたいですけどぉ。妊娠してるんで、その」
日本語を話せるリーダー格の男が部下と思わしき男二名に、菜緒の近くに行くように指示した。
陵介はこのときの様子を一部始終をしっかりと見ていた。下げろと言われた頭を上げて。ハイジャック犯たちにバレないように、見ていた。
新婚旅行に大阪・枚方にある遊園地に行きたいと言ったのは菜緒だった。国内しかも新婚旅行に大阪の枚方とは、と陵介は思った。新幹線で行けばいいものの、菜緒は敢えてこの時間の国内線を選んだ。もっと早い便にして、朝から行動しようと、陵介は菜緒に提案したがすべて却下された。
というよりも菜緒がさっき「妊娠している」と言ったように聞こえた、あれは聞き間違いか?まだそんな肉体関係もない初々しい夫婦なのに、まさか、別の男の子供を身ごもった?陵介はピンチの状況に妄想で頭がいっぱいになっていた。人間は一度にたくさんのことを処理できない。
陵介はこのとき、菜緒が立ち上がったこと、菜緒が頭を下げるように言ったこと、歯の矯正が武器に変わったこと、妊娠していると言ったこと、そしてどうにもこうにもハイジャック犯と戦おうとしていること、同時にこんなに理解不能なことが起これば、処理どころでもないだろう。
「もう、漏れちゃうわよ」
揺れる機内で菜緒をトイレにエスコートしようとする男二人。二人ともマシンガンのような銃を首からぶら下げている。菜緒は花柄のワンピースに、不似合いなスニーカーという姿だった。
わずかな瞬間だった。瞬きするかしないか。男二人の喉から血しぶきが飛び散る。それを見た老婆が叫ぶ。
「ぎゃぁぁあ」
男二人は瞬殺されたのか、膝から人形のように重力に従って崩れ落ちた。口からは泡を吹いている。そこからは、華麗な動きだった。菜緒が。ハイジャック犯のマシンガン二挺は敢えて手にせず、そのまま前方へと走り込む。リーダー格の男はマシンガンを構える。後ろにいた部下の男は拳銃を構え、菜緒に狙いをつけていた。
菜緒は飛んだ。空中を歩くように、客席を蹴りながら前へ前へと進んだ。短い髪は向かい風となった空調に乱される。
前後両側、銃で狙われた菜緒は、後方の男に向かって、手に巻き付けていた歯の矯正器具の針金を投げた。まっすぐ針金は飛び、男の眼を貫いた。そのまま脳にまで達する勢いで、男はさっきの二人のように膝から崩れた。
「撃つぞぉおおお」
リーダー格の男が引き金を引きそうになった。菜緒は乗客の背中を台にして、飛び上がりひらりと舞う。瞬き一つぐらい、あっという間に男の背後を獲った。ワンピースにプリントされた花柄がキレイだった。
「高崎くん、このまま拘束でいい?」
「先輩、はい。おつかれっした」
小声でリーダー格の男がつぶやく。
ハイジャックされた国内線MJS205便はそのまま時間通り伊丹空港に到着。空港内にスタンバイしていた特殊部隊が乗り込み、乗客を誘導し、死亡した三名のテロリストを運び出した。陵介はその様子を座席からじっと眺めていた。菜緒は拘束したリーダー格の男を特殊部隊の隊長らしい男に引き渡した。
乗客たち全員には、菜緒からアナウンスがされた。もしスマホの動画および写真撮影したもの、あればすぐ提出するようにと。この後の特殊部隊の検査で一人一人確認すると説明していた。客室乗務員をウェラブル眼鏡で盗撮していた男二名は、拘束されていった。
菜緒と陵介はケガもしていないということで、簡易なメディカルチェックを受けたのち、そのまま大阪梅田のホテルにチェックインした。電車を乗り継いで梅田に向かったが、終始無言だった。途中で串カツを食べていこうと提案したものの、食いしん坊の菜緒は何も話さない。
ホテルの部屋に着くと菜緒が口を開いた。
「陵介さん、私」
「はい」
「私、日本の諜報部隊の特殊捜査官です」
菜緒の説明はど・ストレートだった。テロリストグループのリーダーの男は後輩。内偵しているうちに、テロの情報を手に入れたものの、格闘には明るくない男だったので、菜緒が派遣されたということだった。
「あんまり詳しく説明すると、陵介さんにも危害がというか、その」
「はい、もう聞きません。菜緒ちゃん、あのひとついいですか?」
「なによ」
菜緒は若干ぶっきらぼうに返事した。
「僕のこと好きなんですかね?」
新婚旅行に来た夫婦の会話ではないなと、わかっていても陵介は聞きたかった。ソファーに座りなおして、陵介は菜緒を見た。
「あったりまえじゃん。だからプロポーズしたんじゃない」
菜緒と陵介は、行きつけの飲み屋で知り合った。以前から気になるなと陵介が思っていた女性が菜緒だった。金曜日の8時、ハッピーアワーが終わる直前にいつも入店する菜緒のために、パイントのビールを注文しておいたのが陵介だった。そこから半年、二人は結婚し、その一か月後新婚旅行でハイジャックに遭遇したのだった。
そしてさらにその一ヶ月、菜緒は失踪した。万一誘拐と言うことも考えられるが、菜緒がまんまと誘拐されるだろうか。もし誘拐なら、相手が心配だ。簡単に殺されてしまう、陵介の心配は複雑だった。
だが、翌日、失踪した菜緒が遺体で発見された。神保町のビルの爆破テロに巻き込まれたらしい。陵介は行方不明になった菜緒のことが気がかりで、仕事中もネットニュースばかりを見ていた。もしかして、何か菜緒に関するニュースが、と不安が高まっていたのだ。
警察からの連絡は淡々としていた。菜緒らしき遺体の一部があるため確認して欲しいというものだった。「らしき」「一部」という言葉に、菜緒でないことを、菜緒であってたまるかという想いが陵介を支配していた。
遺体安置所で菜緒の遺体の一部、菜緒と思わしき左手が見つかったのだ。手の甲には蜘蛛の巣のタトゥがあった。「菜緒の手にタトゥ?」陵介はどう思い返しても、心当たりがなかった。菜緒の手にはタトゥなんて入っていない、それは断言できると。
だが、その左手薬指には陵介が贈った結婚指輪がはめられていた。
翌日、陵介は警察に失踪届を出した。近くの露ヶ原交番で、当直の警察官はふてぶしかった。失踪だけで日本国内では年間七万人ほどいる。警察がまともに取り合うはずはない、と陵介はわかっていた。
誘拐されていたらと思うと気が気ではなかった。菜緒を誘拐した犯人は、きっと殺されているだろう。普通の女性ではないのだ。
二カ月前、東京・大阪間の飛行機がハイジャックされた。羽田空港発、伊丹空港着。14時過ぎに飛び立った機内に、複合・国際原子力戦線(Combined International Nuclear Front=CINFr)と名乗る男たち四人が機内で銃を構えた。「これより、この機体は複合・国際原子力戦線(CINFr)の所有物に変わった。あなたたちは、私たちの人質ではあるが、友人だ。だから、手荒な真似はしない。どうか安心して欲しい」
機内で立ち上がった男は皆、目出し帽をかぶっている。目の表情からして、全員四十代だと菜緒が陵介に伝えた。陵介はどうしてそんなことがわかるのか?菜緒に訊ねたが、菜緒は何も答えなかった。菜緒は、器用に口腔内の矯正器具を外し、人差し指に針金を巻き付けた。
ハイジャック犯たちはエジプトなまりのある英語を話していた。四人のうちリーダー格の男は流暢に日本語を話していた。さっき機内を安心させようと、安っぽい詭弁の演説を放った男だ。
誰もが機内でハイジャック犯と目があわないようにしているなか、陵介に頭を下げるようにと伝えたのち、菜緒はおもむろに立ち上がった。
「あのー、トイレ行きたいですけどぉ。妊娠してるんで、その」
日本語を話せるリーダー格の男が部下と思わしき男二名に、菜緒の近くに行くように指示した。
陵介はこのときの様子を一部始終をしっかりと見ていた。下げろと言われた頭を上げて。ハイジャック犯たちにバレないように、見ていた。
新婚旅行に大阪・枚方にある遊園地に行きたいと言ったのは菜緒だった。国内しかも新婚旅行に大阪の枚方とは、と陵介は思った。新幹線で行けばいいものの、菜緒は敢えてこの時間の国内線を選んだ。もっと早い便にして、朝から行動しようと、陵介は菜緒に提案したがすべて却下された。
というよりも菜緒がさっき「妊娠している」と言ったように聞こえた、あれは聞き間違いか?まだそんな肉体関係もない初々しい夫婦なのに、まさか、別の男の子供を身ごもった?陵介はピンチの状況に妄想で頭がいっぱいになっていた。人間は一度にたくさんのことを処理できない。
陵介はこのとき、菜緒が立ち上がったこと、菜緒が頭を下げるように言ったこと、歯の矯正が武器に変わったこと、妊娠していると言ったこと、そしてどうにもこうにもハイジャック犯と戦おうとしていること、同時にこんなに理解不能なことが起これば、処理どころでもないだろう。
「もう、漏れちゃうわよ」
揺れる機内で菜緒をトイレにエスコートしようとする男二人。二人ともマシンガンのような銃を首からぶら下げている。菜緒は花柄のワンピースに、不似合いなスニーカーという姿だった。
わずかな瞬間だった。瞬きするかしないか。男二人の喉から血しぶきが飛び散る。それを見た老婆が叫ぶ。
「ぎゃぁぁあ」
男二人は瞬殺されたのか、膝から人形のように重力に従って崩れ落ちた。口からは泡を吹いている。そこからは、華麗な動きだった。菜緒が。ハイジャック犯のマシンガン二挺は敢えて手にせず、そのまま前方へと走り込む。リーダー格の男はマシンガンを構える。後ろにいた部下の男は拳銃を構え、菜緒に狙いをつけていた。
菜緒は飛んだ。空中を歩くように、客席を蹴りながら前へ前へと進んだ。短い髪は向かい風となった空調に乱される。
前後両側、銃で狙われた菜緒は、後方の男に向かって、手に巻き付けていた歯の矯正器具の針金を投げた。まっすぐ針金は飛び、男の眼を貫いた。そのまま脳にまで達する勢いで、男はさっきの二人のように膝から崩れた。
「撃つぞぉおおお」
リーダー格の男が引き金を引きそうになった。菜緒は乗客の背中を台にして、飛び上がりひらりと舞う。瞬き一つぐらい、あっという間に男の背後を獲った。ワンピースにプリントされた花柄がキレイだった。
「高崎くん、このまま拘束でいい?」
「先輩、はい。おつかれっした」
小声でリーダー格の男がつぶやく。
ハイジャックされた国内線MJS205便はそのまま時間通り伊丹空港に到着。空港内にスタンバイしていた特殊部隊が乗り込み、乗客を誘導し、死亡した三名のテロリストを運び出した。陵介はその様子を座席からじっと眺めていた。菜緒は拘束したリーダー格の男を特殊部隊の隊長らしい男に引き渡した。
乗客たち全員には、菜緒からアナウンスがされた。もしスマホの動画および写真撮影したもの、あればすぐ提出するようにと。この後の特殊部隊の検査で一人一人確認すると説明していた。客室乗務員をウェラブル眼鏡で盗撮していた男二名は、拘束されていった。
菜緒と陵介はケガもしていないということで、簡易なメディカルチェックを受けたのち、そのまま大阪梅田のホテルにチェックインした。電車を乗り継いで梅田に向かったが、終始無言だった。途中で串カツを食べていこうと提案したものの、食いしん坊の菜緒は何も話さない。
ホテルの部屋に着くと菜緒が口を開いた。
「陵介さん、私」
「はい」
「私、日本の諜報部隊の特殊捜査官です」
菜緒の説明はど・ストレートだった。テロリストグループのリーダーの男は後輩。内偵しているうちに、テロの情報を手に入れたものの、格闘には明るくない男だったので、菜緒が派遣されたということだった。
「あんまり詳しく説明すると、陵介さんにも危害がというか、その」
「はい、もう聞きません。菜緒ちゃん、あのひとついいですか?」
「なによ」
菜緒は若干ぶっきらぼうに返事した。
「僕のこと好きなんですかね?」
新婚旅行に来た夫婦の会話ではないなと、わかっていても陵介は聞きたかった。ソファーに座りなおして、陵介は菜緒を見た。
「あったりまえじゃん。だからプロポーズしたんじゃない」
菜緒と陵介は、行きつけの飲み屋で知り合った。以前から気になるなと陵介が思っていた女性が菜緒だった。金曜日の8時、ハッピーアワーが終わる直前にいつも入店する菜緒のために、パイントのビールを注文しておいたのが陵介だった。そこから半年、二人は結婚し、その一か月後新婚旅行でハイジャックに遭遇したのだった。
そしてさらにその一ヶ月、菜緒は失踪した。万一誘拐と言うことも考えられるが、菜緒がまんまと誘拐されるだろうか。もし誘拐なら、相手が心配だ。簡単に殺されてしまう、陵介の心配は複雑だった。
だが、翌日、失踪した菜緒が遺体で発見された。神保町のビルの爆破テロに巻き込まれたらしい。陵介は行方不明になった菜緒のことが気がかりで、仕事中もネットニュースばかりを見ていた。もしかして、何か菜緒に関するニュースが、と不安が高まっていたのだ。
警察からの連絡は淡々としていた。菜緒らしき遺体の一部があるため確認して欲しいというものだった。「らしき」「一部」という言葉に、菜緒でないことを、菜緒であってたまるかという想いが陵介を支配していた。
遺体安置所で菜緒の遺体の一部、菜緒と思わしき左手が見つかったのだ。手の甲には蜘蛛の巣のタトゥがあった。「菜緒の手にタトゥ?」陵介はどう思い返しても、心当たりがなかった。菜緒の手にはタトゥなんて入っていない、それは断言できると。
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