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【短編】死神の長財布
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落語が好きだった。落語家じゃなくて、落語そのもの。好きな演目は「死神」。下げの種類は落語家ごとにオリジナリティをもたせているようだが、俺が好きなのはそこじゃない。あのろうそくを寿命に見立てているところが好きだった。
ろうそくの長さなのか、ろうそくの炎の勢いなのか、そんな話で飲み屋で喧嘩になったこともあるが、最終的には長さで決着がついた。目に見えないものを見えるようにするってのは、可視化なんていうらしいが、ずっと「カフカ」だと思っていたよと、カミさんに言ったら知的なんだかバカなんだか、わかんないねアンタは、なんて誉められちまった。
機嫌よくタバコでも買いに行った帰りに、駅前の立ち飲み屋で一杯、冷やをキュッとつまみはいらねぇ。汚ったねぇ酒屋の角打ちだ。つまみっても、乾きもののスルメやらカキピーやらで味気ねぇ。晩飯があるから食って帰るわけにはいかねぇ。
さぁて、タバコで一服して、お勘定ってなったら、チャージってのを取りやがる。席料ったて、席なんてありゃしねぇ。椅子二百円なんて店ン中、メニュー短冊の隣に掲げてやがる。チャージなんて払わねぇよっていったら、酒屋のオヤジが奥にいるババアを呼んできやがった。オヤジは男やもめってやつで、ババアはカミさんじゃぁねぇ。オヤジの母ちゃんだろう。オヤジは昔ラグビーをやってたってのが自慢らしく、やたらとラグビー例えで会話してきやがるから、うっとおしいったらなかった。熊みたいなでけえ図体で、無精ひげ、腹がえべっさんみたいに救命具みたいにでちまって、みっともないったらありゃしねぇ。
奥からババアが出てきやがった。
「なんだよ、チャージは払わねぇよ。席料だろ?チャージってのは。椅子ねえじゃねえか。ここ立ち飲み屋だろ!」
いってやった。ババアなんて切り返すか楽しみだ。
ババアはババアって呼び名しかふさわしくねぇくらいに、ババアだった。差別じゃねぇ、事実だ。ボッサボサの髪に、構造がよくわからねぇ着物を着てやがる。
「若いの、ってもオッサンんだな。ヨウジよりちょっと上か。チャージってのはほら、お前さんが食ったその突き出しだ。タコ飯の小さいの喰ったろ!なぁヨウジ」
「あぁ、母ちゃん。コイツはタコ飯食った」
「ヨウジってのは、このオヤジのことかよ」
俺は酒屋のオヤジを指さしていった。
ババアはカウンターの奥、のれんの奥から出てきた。カウンターにドンと、茶碗とサイコロ二個を投げ入れた。
「お前さんよぉ、チャージ払わないってのは許せないねぇ。だけどよぉ、そんなこと言うやつも初めてだ。どうだ?ワシの店で勝手しようってんだから、ちょいとアソビに付き合ってもらうよ。いいだろ」
「なんだよ、そのアソビってのは」
「チンチロだよ。ゾロ目、まぁ同じ数字を出したらお前さんの勝ちだ。チャージどころじゃねぇ、飲み代もタダにしてやる」
「なにいってやがる。飲み代ったて、冷や一杯だけだろ。八百円だ。ゾロ目出てそんな低レートかよ。なんか身銭切れよ。ババア」
俺の口が思ったことをスラスラと話しやがる。意思を持った舌だなこりゃ。
「じゃぁそこまで言うなら、ゾロ目で一をだしたら、お前さんの勝ち。それ以外ならワシの勝ちだ」
「そんな勝負あるかよ。身銭切れって、言ってんだよ。馬鹿じゃねぇか。俺は帰るよ」
「ちょっと待て、お前さんが勝ったらワシのこの財布をやるよ。これはな、金が溜まる財布」
ババアはそういうと、長財布の中から札束を取り出した。五十万近くはある。
「そしてなぁ、これをポンと叩くと…」
ババアは空っぽの長財布を叩いた。どこにでもあるような黒い財布。小銭入れはない。使い込まれたようにも見える。きっと本革だ。
ババアが叩いた財布は再びもりもりっともりあがってきた。なんだこりゃ。財布の中に、札束が見える。
「まぁこの財布はなぁ、札がなくなると、こんな風に叩けば札が増えるんじゃ」
ババアはこんもり膨れ上がった長財布から札束を取り出した。ババアはカウンターに札束をドンと置いた。俺は一枚抜き取り、すかしを見た。手触りも確認した、番号も。本物だ。
「いいかい、お前さんが負けたら飲み代とチャージは払ってもらう。勝ったら、チャラにしてやるし、この不思議な財布もくれてやる」
ババアのペースだが、いいだろう。なんか怪しいが手品のタネがわかりゃぁ、誰かに売りつけるぐらいはできるだろうに。だがどうだ、どう考えてもババアの方が損をしてるじゃねぇか。なんか、嫌な予感がする。やめよう、とっとと店出ちまおう。
俺が飲み代をテーブルに置いて、店の出口まで歩き進もうとしたとき、茶碗に手が当たった。落ちそうになった茶碗をギュッと掴んだ。その拍子で、サイコロが二つとも俺の足もとに落ちた。無意識だった。無意識に、サイコロを拾いテーブルに置いたつもりだった。その手から零れ落ちた二つのサイコロは、茶碗の中にダイブしていた。慌てて茶碗を覗き込んだ。サイコロはカラカラと転がり、不規則にお互いがぶつかりあうサイコロ。角が削れて、どちらのサイコロも六の面が薄まっている。カンカラと音の周期が長くなった、サイコロが止まった。
「ピンゾロだねぇ。一が二つ、こりゃぁアタシの負けだ。さぁ、この財布持っていきな」
カウンターからババアが俺に長財布を投げつけた。黒光りしている。俺は逃げるように、店を出た。
カミさんがトンカツ作って待ってたもんだから、帰るなりどやされた。
「タバコ買いに行くってどこまでいってたのよ。トンカツさめちゃったじゃない」
「すまんすまん、いやな、コレ、もらったんだよ」
俺はカミさんに事の顛末を丁寧に話した。こういう話は端折るといけねぇ。とにかく、不思議な話ってのは丁寧が基本。
「じゃぁ、なによ、コレ財布のお金、何。こんなにたくさん。五十万はあるんじゃないの?」
「そうだ、で、これを抜き取って、ポンと叩くと」
長財布はむくむくッと膨らみ始め、開くと中に札束がたっぷり入っていた。数えるとキッチリ五十万だった。
俺もカミさんも働くのをやめた。なんせ金に困るってことはない。簡単にいやぁこれは打ち出の小槌。だが、どうしてあの酒屋のババアとオヤジは俺にこんな財布をくれたんだ。どうして?俺はしばらくぶりに、例の酒屋に行った。どうせなら立ち飲みしながら、オヤジとババアに話でも聞くつもりだった。
カラオケ屋の路地に入り、右手に曲がって少し歩く。人通りがまばらな寂しい道だ。このあたりだったはずなのに、あの酒屋がない。どうした、更地になってやがる。向かいの喫茶店に飛び込んだ。客はまばらで、マスターがコーヒーをドリップしていた。
「いらっしゃい」
「なぁ、あの向かいの酒屋どうしたんだ」
俺は我慢できずに、マスターに開口一番訊いた。
「あぁ、山元酒屋さんねぇ。潰れたよ。っていうか、おかみさんと息子さんが亡くなってねぇ。おんなじ日、しかも殺されたとかじゃなくて、二人とも寿命だって」
「寿命?だって、あのオヤジ、いや息子さんはまだ六十前ぐらいだろ?」
「いやいや、息子さんは私の父と同級生だったから、九十三歳でね」
「え?じゃぁおかみさんは、いくつなんだよ?」
「それがね」
マスターは手を止めて、俺にカウンター席に座るように促し、話を続けた。
「おかみさんって、この近所じゃ、もう亡くなったってみんな思ってたんだよ。商店街のみんな」
俺は出された水を一気に飲み干した。
「コーヒーでいいかい?」
「あぁ」
しっかりしてやがる。コーヒーはあまり好きじゃないが話をきかなきゃいけなさそうだ。
背中になんだか冷たい汗をびっしりとかいている。夏だっていうのに。
「ほい、ホットコーヒー」
俺はコーヒーをすするように飲む。熱いがうまい。豆から挽いたコーヒーを飲むのは久しぶりだった。
「でさぁ。息子さんってたって、九十越えてるわりにいつも若いなって、見た目がね」
俺があの酒屋に行ったのは半年前だ。財布を返せって言われるのが嫌で、近づかなかったが、二人とも亡くなっていたとは。それよりも、年齢だ。ババアの年齢はマスターいわく、百三十一歳らしい。三十八の時に産んだ子があの酒屋のオヤジってことか。
俺は喫茶店を出て、まっすぐ家に帰った。財布を奪われることはねぇ、アイツらが死んだってのはある意味願ったり叶ったり。たまたま長寿の二人がぽっくり逝っただけだ。何も怖れることはねぇ。
金に困らなくなって十年近くが過ぎた。俺は丁度六十歳になったばっかりだ。
あの財布には、とんでもねぇメモが入ってやがった。《財布を叩いて金を出してから、三日以内に使い切れないと、災いが起こる》ってやつだ。そんなこと言われなくても、俺はガンガンと金を使ってやったし、財布もポンポン叩いて、金を湧き出させてやった。だけどよぉ、起きちまったんだよ。その、風邪をひいてな、気になったんだが、財布をそのまま金がはいったままにして、三日三晩寝こんじまった。そしたら、このザマだ。ヒューヒューと肺から呼吸が漏れる音が狭い個室病棟で鳴り響く。肺に穴が開いちまってるらしい。
そのまま、入院になっちまって、ひたすら体調が悪化するもんだから、カミさんに財布の中身を使わせて、いやまぁ、治療費に充てた。病院はまだ会計は不要だっていってたらしいが、とにかく前金ってことで支払った。俺はカミさんに財布を病院まで持ってこさせた。病室で生活費が必要だっていうもんだから、俺は思わずポンポンと財布を叩いた。みるみる金が増えてきたもんだから、カミさんに事情を説明した。目の前で超常現象を見ても受け入れられないってのはあるんだな。思考が停止しやがったが、五十万を渡すとよろこんでやがった。
「なぁ、これは三日以内に使い切るんだぞ」
俺はカミさんにそういった。確かにいった。カミさんはどうして?なんて疑問に思わず、わかったとだけいって頷いた。
金がなくなったら、財布をポンと。この繰り返しでカミさんには金を渡してた。病室からってのがホント辛いところだ。なかなか症状もよくならねぇし、なんなら悪化してんじゃねぇかと主治医にも相談もした。
肺の穴がふさがったと思ったら、足の骨を折ったり、喉にポリープができたり、デケェ結石ができたりと災難続きだ。災難?災い?起きてんじゃねぇかってことで、俺はカミさんに問いただした。
「渡した金は三日以内に使い切ってるよな?」
「もちろんだよ。アンタの言いつけまもってるんだから。ところでさぁ、あのお金ってどこから?」
流石に気になるようだ。だが、この財布のことはいえねぇ。財布を奪われて、カミさんに捨てられたら俺は生きていけねぇ。博打にオンナに酒、一通り悪いことをしてきた。恨まれてもしかたねぇくらいだ。
「つまんねぇこと聞くんじゃねぇ。金は渡してるんだ。必ず使い切れよ。一円も残さずにだ」
俺はカミさんに念押しし、カミさんは俺のしつこさに少々ウンザリしているようだった。帰りに金の無心をされたもんだから、また五十万渡しておいた。
俺の病気は治りそうで治らねぇ、原因もよくわからねぇと医者が言うもんだから、死ぬなら家の畳がいいって駄々をこねてやった。一日だけならと、年の暮れも暮れ「大晦日」に無理やり外泊を許可させてやった。そりゃそうだ、もう二年も入院してるんだ。こっちは上得意客っていってもいいだろうに。
我が家に向かう途中のタクシーの中で、財布をポンポンと叩いてやった。財布の中はスッカラカンだったからだ。家に着いたらメーターは丁度五千円だっが、運転手に一万円切符よく差し出した。釣りはいらねぇから、といったが札をまじまじと見るなり、いえこれは…、と渋りやがる。
「おい、なんだ偽札だっていうのか?」
「いえそういうわけではなく、私どもこういったタクシー稼業をしておりますと、財布のお札、って隠語がありまして…」
なにやらまどろっこしいことを言い始めた。
「だからなんなんだよ」
「正当な対価として頂く分にはいいんですが、このお札のルール上、他人に譲渡するってのはダメなんです」
「てめぇ、何いってんだ」
「いえ、だから…」
「おまえ、誰なんだよ」
「あぁよかった。自分から名乗れないルールなので。私は、死神です」
「死神?」
俺は目を丸くして訊いた。いま自分のことを死神っていいやがった。なんだ厨二病かこいつは。
「ええ死神です。この長財布を作ったのは私ですから」
タクシーの運転手は振り返りながら、俺の長財布を指さした。
「どういうことだ?」
「ご存じないかと思いますが、死神の世界にもハラスメント条例が厳しくなりましてね、威圧的に相手に死を宣告するなんてもってのほか。優しく穏やかに、ルールを破れば段階的に死につながるっていうギミックで死をお届けするといいますか」
「わけわかんねぇよ」
「ですから、その長財布、ポンポンと叩けばお金が出てきます。たしか五十万。三日以内に使い切らないと、身体のどこかを悪くします。そうメモが入っていたでしょ?」
「あ、あれか」
俺は言葉を失った。
「あなたは、この二年に渡って出したお金を使い切る前にまたお金を出しているようですね。毎回五万円ずつ残しているようです」
「そんなことはねぇ、カミさんに使い切るように口酸っぱくいってんだ。こっちは」
「でも、そんなに体調を悪くして、あと一回使い切らないと、これはもう、危ないですよ」
うっかり死なんて言葉を使わないところが、コンプライアンスが厳しくなったところなのか、タクシーの運転手となって現れた死神とやらは、やけに紳士だった。
俺はタクシーの運転手、いや死神からお釣りの五千円と領収書を手渡され、タクシーを降りた。
家の中にはカミさんがいたが、間男がいるわけでもなく、俺を見るなりどうしたの?といった。
「そこは、おかえりだ」
俺は台所で料理中のカミさんの後ろにあるダイニングチェアに腰かけた。いつもの席だ。
「なぁ、正直にいってくれ」
「なによ、急に帰ってきて。いいの身体は?」
「それよりもだ。金、使い切ってるよな?全部、毎回。五万たんす預金してるなんてことないよな?」
「あら、誰から聞いたのよ。アンタ金遣い荒いから、貯金でもしとかないと不安だろ。退院してからも仕事があるなんて限らないんだし。私も働いてるけど、それだけじゃぁ心もとなくてさ」
やりやがった。残してやがる。クソっ。道理で次から次へと病気やケガをするわけだ。
「おい、いいから、貯めた金全部だせ」
「何いってんのよ。いやよ」
「俺を信じろ、あの金は死神の財布から出てきた金だ。アレを使い切らないと、俺の病気が治んねぇ」
「どういう理屈よ」
あと一回使い切らねぇと俺は死んじまう。
「わけわかんないよ、アンタ。あの金はここにはないわよ」
「どこにあるんだよ?」
「ここよ」
カミさんはタンスの小引き出しの奥から袱紗に巻き付けた通帳を取り出した。俺は通帳を開いた。
五万ずつ、きっちり貯金されてやがる。もう三百万近く溜まってるじゃねぇか。
「これでさぁ、アンタと店できたらって。移動販売ってあるだろ、あのキッチンカーってやつで」
「これ、下ろして使うぞ、時間がねぇ」
俺は手持ちの四十九万を握りしめ、銀行に向かった。銀行に着くころには三時を過ぎていた。ATMしか空いてない。
俺はカードを突っ込んで、三百万円をおろそうとした。だが、ダメだった。
ATMでおろせる一日の限度額が五十万までだ。くそ、万事休すだ。俺は膝から崩れ落ちた。せめて、この四十九万は使い切らないと。息が苦しい。どうやって使い切る。こんな大金を。
後ろで立って待っていたカミさんが、俺の手を取り、長財布から四十九万を取り出した。
「どうしたんだ?おい」
「だから、おろせなくても、入金はできるんだから」
カミさんは四十九万円をそのまま、通帳に入金処理した。なにしてやがる。くそ、明日窓口に行って、全額おろして使い切ってやる。
「明日、窓口行くぞ」
「だめだよ、明日はお正月だろ。銀行は四日から。まだやってないもの」
気力がぶわっと失せた。俺の命の炎が燃え尽きる音が聞こえた。ATMボックスから出たところ、路肩にタクシーが寄せてきて停車した。
「病院からのご依頼でお迎えに参りました。ご主人の携帯には万が一のためにGPSをセットしておりましたので、探すのは簡単でしたよ。さぁ、乗ってください。戻りましょう」
タクシーの運転手は意識朦朧の俺を後部座席に乗せた。カミさんは、よろしくお願いしますと何も疑問に思わず、深々と頭を下げていた。バックミラー越しにカミさんがいつまでも頭を下げているのが見えた。
「ここからどこに行くんだ?」
「聞こえたでしょ、命が燃え尽きる音。まだ二日ありますけど、もう無理そうですね」
どうせ病院に戻っても、あと二日半で死ぬんだ、もう今殺せって気分だ。できるだけ、痛くはしないで欲しいが。
「諦めるんですね?」
「諦めるしかないだろう。三百四十九万、銀行からおろせなくちゃ、使えねぇだろ」
悪態をついてみたら、状況が変わるわけでもねぇ。駄々っ子みたいだな、俺は。
「あなたがお金を使い切るために、大酒を飲み、贅沢なものをたらふく食べ、女に使いましたよね」
「あぁ、何が悪い。俺が俺のために使って何が悪い。結果それだけのリスクを背負ってるんだ」
死神は右折が苦手なのか、曲がるタイミングを計り損ねているように見えた。
「まだわかりませんか?」
「何が?」
「お金の使い方ですよ、奥様の」
ウインカーがカチカチ、やけにうるさく聞こえる。カミさんが何なんだ。使い切れってアレだけいったのに、俺のいいつけを聞かねぇなんて。馬鹿にもほどがある。タンス預金なんてしやがって、厳密には銀行預金だが。ん?なんのために預金してたっけ。ん?
「気づいたようですね」
俺は穴と言う穴から汗が噴き出ているのを感じていた。俺は毎回自分のために金を使い切っていた。不摂生、不養生に磨きがかかっちまった。カミさんは、俺がいない間の生活費はアイツが稼いでいたようだったな。あの金は俺の入院費と、俺が退院したときに仕事が始められるようにって…。クソ、アイツ。俺たちのために。俺はうなだれた。頭が前のシートの背もたれに食い込むように。
「チャンスをくれ。もう一度。頼む。後生だ」
「そうですね、死神にもコンプライアンスが厳しくなってきていますし、メモの意図が読み取れないモノが二名も続けてじゃ、あ、あの酒屋のご婦人のことですが。ねぇ、私も叱られますし。わかりました。記憶を消して、もう一度あの酒屋のチンチロから始めなおしましょう」
「いいのか?」
「ただし、記憶は消させていただきます」
「俺の身体はどうなる?病気やケガは全快してんだろうな?」
「それが…病気は全て回復してさしあげられるのですが、ケガ特にその肋骨の損傷はできかねまして」
「どうして?」
「骨の類は、死神にとっては鬼門でして。その、まぁ弱点なんでございます」
「そんなこといっていいのかよ」
「はい、弱点といっても、その怖いんですよね。死んだあとってのは、生きてきたときの一番元気な時の状態になってあの世におくられるんですが、そうすると死なないでしょ。私たち実はお葬式なんてしたこともありませんし、あなたたちみたいに火葬なんて文化もないんです。だから、そのガイコツみたいなのは怖い存在でして。そのせいで、骨の類は手に負えないんでございます」
道理がとおってるんだかわかんねぇ。だがいいや、この肋骨のケガが残るなら、痛みで何か思い出すかもしれねぇ。俺は死神の申し出を承諾した。
「一度だけですから、やり直しは。では。いきますよ」
目覚めた。ん、俺は寝てたのか。酒屋のオヤジが何かいってる。ちがう、婆さんがなにかいってる。
「いいかい、お前さんが負けたら飲み代とチャージは払ってもらう。勝ったら、チャラにしてやるし、この不思議な財布もくれてやる」
何いってやがる。財布?不思議な財布だと。
「何が不思議なんだよ」
「お前さん、見てたろ。これは金の増える財布だ。これをチンチロ勝負でお前にくれてやるっていってんのサ。うすらバカ野郎」
初対面のババアがなに、ずいぶん口が悪い。なんだか嫌な予感がする。
飲み代がいくらかわかんねぇが、テーブルに千円札を置いた。店の出口まで歩き進もうとしたとき、肋骨の痛みで茶碗に手が当たった。どこかで見た風景だ。クソ、思い出せ。思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出した!
あのチンチロだ。ゾロ目はヤバい。死神のいっていたことを思いだした。
「タコ飯はモチ米ですから、粘ってくっつきやすいんです。あなたにも粘りが必要ですよ。最後は粘り勝ちですから。生きたいならね」
落ちそうになった茶碗をギュッと力強くつかんだ。茶碗がカウンターテーブルから落ちるのを防いだがそのはずみで、ババアがテーブルに置いていたサイコロが床に落ちた。俺はサイコロを拾った。拾ったとき、肋骨の痛みで悶絶した。後ろに倒れ込み、はずみでサイコロが宙を舞った。ババアは器用にサイコロ二個を茶碗で受けた。不規則にぶつかり合うサイコロ。
茶碗の中のサイコロがぶつかりあって、不規則に回転するさまは、下手な男女のチークダンスのように無様だった。サイコロが揺れ動き、止まった。
「なにぃ!!!」
ババアが叫んだ。三人しかいない店が静まり返る。さっきのサイコロのカラカラ音との対比で一層静かに感じる。
「どうだ?ババアどうした?ゾロ目か?」
「一と六。お前の負けだ。クソ、飲み代とチャージは払ってもらうぞ、クソ。どうしてゾロ目にならなかったんだ、ヨウジ、このサイコロどうなってんだい!」
「俺は、母ちゃんにいわれたとおりに」
「やっぱり、イカサマしてやがったか」
「わ、わかってたのか?お前さん」
いや、コンプライアンス大好き男がいったんだよ。粘れって。だから、タコ飯のメシ粒を茶碗の底にこびりつかせてやった。
「それでゾロ目を防げると?」
ババアの汗が茶碗に滴る。汚い汗だ。
「いや、わかんねぇ。ただ、何もしないよりはマシだろ。じゃぁな。その財布思い出したぜ」
俺は酒屋を出た。カミさんともう一度やり直そう、マジメになるんだ。酒をやめて、タバコも、女も、博打も。そうだ、生まれ変わる、今日からだ。祝杯といきてぇところだが、禁酒だから炭酸水だな。かかか。
家へ帰りつくと、カミさんはギョッとした顔で俺を見やがった。タンスに何かしまいやがった。打ち出の小槌財布はなくなったが、働けばいい。そうだ、金は働いて手に入れるもんだ。カミさんは何かを取り繕うように、先に風呂に入っていった。どういうわけか、携帯を風呂場に持ち込みやがる。
肋骨の痛みが増してる。あのとき後ろに転んだ拍子に痛めたのか、俺はタンスのどこかにある薬箱を探した。引き出しを上から順に開ける。ない、ない、ない。おっ、これは。
殺気カミさんが隠した何かだ。ん、これは、申込用紙。保険?掛け捨て、毎月十万コース?なんだこれは。
背後に死神が立っていた。
「あぁ、見つけちゃいました?」
「なんだこれは?」
「記憶戻りました?」
「あぁ、なんとかな。帰り道で思い出したぜ。全部よぉ」
「それはよかった」
「どうよかったんだよ」
「話が早いってことです」
俺はこれから何か不吉なことをいわれるとはわかっている。息をすうっと深く、キレ良く吸い込んだ。
「あなたが入院していたとき、あの金、五十万の使い道内訳は、五万は確かに銀行預金されていました。残りの四十五万のうち十五万は生活費。最後に残った三十万は保険金です」
「あいつ」
「あなたがあの財布を手に入れようが、入れまいが彼女は保険を掛けていました。あの財布があった世界線では三十万でしたが、時間を撒き戻したこの世界線では十万です。おそらく短期決戦であなたを殺害するつもりだったんでしょうね」
「クソ、なんて女だ」
「おっと、依頼人には手を出させませんよ」
俺は死神にふぅっと息を吹きかけられた。今度は確実に命の炎が消えるのがわかった。うまくいったはずなのに、油断というか余計な事をすると、命を縮めるってやつだ。落語に似てやがる。こりゃぁ、ほんものの死神だ。
ろうそくの長さなのか、ろうそくの炎の勢いなのか、そんな話で飲み屋で喧嘩になったこともあるが、最終的には長さで決着がついた。目に見えないものを見えるようにするってのは、可視化なんていうらしいが、ずっと「カフカ」だと思っていたよと、カミさんに言ったら知的なんだかバカなんだか、わかんないねアンタは、なんて誉められちまった。
機嫌よくタバコでも買いに行った帰りに、駅前の立ち飲み屋で一杯、冷やをキュッとつまみはいらねぇ。汚ったねぇ酒屋の角打ちだ。つまみっても、乾きもののスルメやらカキピーやらで味気ねぇ。晩飯があるから食って帰るわけにはいかねぇ。
さぁて、タバコで一服して、お勘定ってなったら、チャージってのを取りやがる。席料ったて、席なんてありゃしねぇ。椅子二百円なんて店ン中、メニュー短冊の隣に掲げてやがる。チャージなんて払わねぇよっていったら、酒屋のオヤジが奥にいるババアを呼んできやがった。オヤジは男やもめってやつで、ババアはカミさんじゃぁねぇ。オヤジの母ちゃんだろう。オヤジは昔ラグビーをやってたってのが自慢らしく、やたらとラグビー例えで会話してきやがるから、うっとおしいったらなかった。熊みたいなでけえ図体で、無精ひげ、腹がえべっさんみたいに救命具みたいにでちまって、みっともないったらありゃしねぇ。
奥からババアが出てきやがった。
「なんだよ、チャージは払わねぇよ。席料だろ?チャージってのは。椅子ねえじゃねえか。ここ立ち飲み屋だろ!」
いってやった。ババアなんて切り返すか楽しみだ。
ババアはババアって呼び名しかふさわしくねぇくらいに、ババアだった。差別じゃねぇ、事実だ。ボッサボサの髪に、構造がよくわからねぇ着物を着てやがる。
「若いの、ってもオッサンんだな。ヨウジよりちょっと上か。チャージってのはほら、お前さんが食ったその突き出しだ。タコ飯の小さいの喰ったろ!なぁヨウジ」
「あぁ、母ちゃん。コイツはタコ飯食った」
「ヨウジってのは、このオヤジのことかよ」
俺は酒屋のオヤジを指さしていった。
ババアはカウンターの奥、のれんの奥から出てきた。カウンターにドンと、茶碗とサイコロ二個を投げ入れた。
「お前さんよぉ、チャージ払わないってのは許せないねぇ。だけどよぉ、そんなこと言うやつも初めてだ。どうだ?ワシの店で勝手しようってんだから、ちょいとアソビに付き合ってもらうよ。いいだろ」
「なんだよ、そのアソビってのは」
「チンチロだよ。ゾロ目、まぁ同じ数字を出したらお前さんの勝ちだ。チャージどころじゃねぇ、飲み代もタダにしてやる」
「なにいってやがる。飲み代ったて、冷や一杯だけだろ。八百円だ。ゾロ目出てそんな低レートかよ。なんか身銭切れよ。ババア」
俺の口が思ったことをスラスラと話しやがる。意思を持った舌だなこりゃ。
「じゃぁそこまで言うなら、ゾロ目で一をだしたら、お前さんの勝ち。それ以外ならワシの勝ちだ」
「そんな勝負あるかよ。身銭切れって、言ってんだよ。馬鹿じゃねぇか。俺は帰るよ」
「ちょっと待て、お前さんが勝ったらワシのこの財布をやるよ。これはな、金が溜まる財布」
ババアはそういうと、長財布の中から札束を取り出した。五十万近くはある。
「そしてなぁ、これをポンと叩くと…」
ババアは空っぽの長財布を叩いた。どこにでもあるような黒い財布。小銭入れはない。使い込まれたようにも見える。きっと本革だ。
ババアが叩いた財布は再びもりもりっともりあがってきた。なんだこりゃ。財布の中に、札束が見える。
「まぁこの財布はなぁ、札がなくなると、こんな風に叩けば札が増えるんじゃ」
ババアはこんもり膨れ上がった長財布から札束を取り出した。ババアはカウンターに札束をドンと置いた。俺は一枚抜き取り、すかしを見た。手触りも確認した、番号も。本物だ。
「いいかい、お前さんが負けたら飲み代とチャージは払ってもらう。勝ったら、チャラにしてやるし、この不思議な財布もくれてやる」
ババアのペースだが、いいだろう。なんか怪しいが手品のタネがわかりゃぁ、誰かに売りつけるぐらいはできるだろうに。だがどうだ、どう考えてもババアの方が損をしてるじゃねぇか。なんか、嫌な予感がする。やめよう、とっとと店出ちまおう。
俺が飲み代をテーブルに置いて、店の出口まで歩き進もうとしたとき、茶碗に手が当たった。落ちそうになった茶碗をギュッと掴んだ。その拍子で、サイコロが二つとも俺の足もとに落ちた。無意識だった。無意識に、サイコロを拾いテーブルに置いたつもりだった。その手から零れ落ちた二つのサイコロは、茶碗の中にダイブしていた。慌てて茶碗を覗き込んだ。サイコロはカラカラと転がり、不規則にお互いがぶつかりあうサイコロ。角が削れて、どちらのサイコロも六の面が薄まっている。カンカラと音の周期が長くなった、サイコロが止まった。
「ピンゾロだねぇ。一が二つ、こりゃぁアタシの負けだ。さぁ、この財布持っていきな」
カウンターからババアが俺に長財布を投げつけた。黒光りしている。俺は逃げるように、店を出た。
カミさんがトンカツ作って待ってたもんだから、帰るなりどやされた。
「タバコ買いに行くってどこまでいってたのよ。トンカツさめちゃったじゃない」
「すまんすまん、いやな、コレ、もらったんだよ」
俺はカミさんに事の顛末を丁寧に話した。こういう話は端折るといけねぇ。とにかく、不思議な話ってのは丁寧が基本。
「じゃぁ、なによ、コレ財布のお金、何。こんなにたくさん。五十万はあるんじゃないの?」
「そうだ、で、これを抜き取って、ポンと叩くと」
長財布はむくむくッと膨らみ始め、開くと中に札束がたっぷり入っていた。数えるとキッチリ五十万だった。
俺もカミさんも働くのをやめた。なんせ金に困るってことはない。簡単にいやぁこれは打ち出の小槌。だが、どうしてあの酒屋のババアとオヤジは俺にこんな財布をくれたんだ。どうして?俺はしばらくぶりに、例の酒屋に行った。どうせなら立ち飲みしながら、オヤジとババアに話でも聞くつもりだった。
カラオケ屋の路地に入り、右手に曲がって少し歩く。人通りがまばらな寂しい道だ。このあたりだったはずなのに、あの酒屋がない。どうした、更地になってやがる。向かいの喫茶店に飛び込んだ。客はまばらで、マスターがコーヒーをドリップしていた。
「いらっしゃい」
「なぁ、あの向かいの酒屋どうしたんだ」
俺は我慢できずに、マスターに開口一番訊いた。
「あぁ、山元酒屋さんねぇ。潰れたよ。っていうか、おかみさんと息子さんが亡くなってねぇ。おんなじ日、しかも殺されたとかじゃなくて、二人とも寿命だって」
「寿命?だって、あのオヤジ、いや息子さんはまだ六十前ぐらいだろ?」
「いやいや、息子さんは私の父と同級生だったから、九十三歳でね」
「え?じゃぁおかみさんは、いくつなんだよ?」
「それがね」
マスターは手を止めて、俺にカウンター席に座るように促し、話を続けた。
「おかみさんって、この近所じゃ、もう亡くなったってみんな思ってたんだよ。商店街のみんな」
俺は出された水を一気に飲み干した。
「コーヒーでいいかい?」
「あぁ」
しっかりしてやがる。コーヒーはあまり好きじゃないが話をきかなきゃいけなさそうだ。
背中になんだか冷たい汗をびっしりとかいている。夏だっていうのに。
「ほい、ホットコーヒー」
俺はコーヒーをすするように飲む。熱いがうまい。豆から挽いたコーヒーを飲むのは久しぶりだった。
「でさぁ。息子さんってたって、九十越えてるわりにいつも若いなって、見た目がね」
俺があの酒屋に行ったのは半年前だ。財布を返せって言われるのが嫌で、近づかなかったが、二人とも亡くなっていたとは。それよりも、年齢だ。ババアの年齢はマスターいわく、百三十一歳らしい。三十八の時に産んだ子があの酒屋のオヤジってことか。
俺は喫茶店を出て、まっすぐ家に帰った。財布を奪われることはねぇ、アイツらが死んだってのはある意味願ったり叶ったり。たまたま長寿の二人がぽっくり逝っただけだ。何も怖れることはねぇ。
金に困らなくなって十年近くが過ぎた。俺は丁度六十歳になったばっかりだ。
あの財布には、とんでもねぇメモが入ってやがった。《財布を叩いて金を出してから、三日以内に使い切れないと、災いが起こる》ってやつだ。そんなこと言われなくても、俺はガンガンと金を使ってやったし、財布もポンポン叩いて、金を湧き出させてやった。だけどよぉ、起きちまったんだよ。その、風邪をひいてな、気になったんだが、財布をそのまま金がはいったままにして、三日三晩寝こんじまった。そしたら、このザマだ。ヒューヒューと肺から呼吸が漏れる音が狭い個室病棟で鳴り響く。肺に穴が開いちまってるらしい。
そのまま、入院になっちまって、ひたすら体調が悪化するもんだから、カミさんに財布の中身を使わせて、いやまぁ、治療費に充てた。病院はまだ会計は不要だっていってたらしいが、とにかく前金ってことで支払った。俺はカミさんに財布を病院まで持ってこさせた。病室で生活費が必要だっていうもんだから、俺は思わずポンポンと財布を叩いた。みるみる金が増えてきたもんだから、カミさんに事情を説明した。目の前で超常現象を見ても受け入れられないってのはあるんだな。思考が停止しやがったが、五十万を渡すとよろこんでやがった。
「なぁ、これは三日以内に使い切るんだぞ」
俺はカミさんにそういった。確かにいった。カミさんはどうして?なんて疑問に思わず、わかったとだけいって頷いた。
金がなくなったら、財布をポンと。この繰り返しでカミさんには金を渡してた。病室からってのがホント辛いところだ。なかなか症状もよくならねぇし、なんなら悪化してんじゃねぇかと主治医にも相談もした。
肺の穴がふさがったと思ったら、足の骨を折ったり、喉にポリープができたり、デケェ結石ができたりと災難続きだ。災難?災い?起きてんじゃねぇかってことで、俺はカミさんに問いただした。
「渡した金は三日以内に使い切ってるよな?」
「もちろんだよ。アンタの言いつけまもってるんだから。ところでさぁ、あのお金ってどこから?」
流石に気になるようだ。だが、この財布のことはいえねぇ。財布を奪われて、カミさんに捨てられたら俺は生きていけねぇ。博打にオンナに酒、一通り悪いことをしてきた。恨まれてもしかたねぇくらいだ。
「つまんねぇこと聞くんじゃねぇ。金は渡してるんだ。必ず使い切れよ。一円も残さずにだ」
俺はカミさんに念押しし、カミさんは俺のしつこさに少々ウンザリしているようだった。帰りに金の無心をされたもんだから、また五十万渡しておいた。
俺の病気は治りそうで治らねぇ、原因もよくわからねぇと医者が言うもんだから、死ぬなら家の畳がいいって駄々をこねてやった。一日だけならと、年の暮れも暮れ「大晦日」に無理やり外泊を許可させてやった。そりゃそうだ、もう二年も入院してるんだ。こっちは上得意客っていってもいいだろうに。
我が家に向かう途中のタクシーの中で、財布をポンポンと叩いてやった。財布の中はスッカラカンだったからだ。家に着いたらメーターは丁度五千円だっが、運転手に一万円切符よく差し出した。釣りはいらねぇから、といったが札をまじまじと見るなり、いえこれは…、と渋りやがる。
「おい、なんだ偽札だっていうのか?」
「いえそういうわけではなく、私どもこういったタクシー稼業をしておりますと、財布のお札、って隠語がありまして…」
なにやらまどろっこしいことを言い始めた。
「だからなんなんだよ」
「正当な対価として頂く分にはいいんですが、このお札のルール上、他人に譲渡するってのはダメなんです」
「てめぇ、何いってんだ」
「いえ、だから…」
「おまえ、誰なんだよ」
「あぁよかった。自分から名乗れないルールなので。私は、死神です」
「死神?」
俺は目を丸くして訊いた。いま自分のことを死神っていいやがった。なんだ厨二病かこいつは。
「ええ死神です。この長財布を作ったのは私ですから」
タクシーの運転手は振り返りながら、俺の長財布を指さした。
「どういうことだ?」
「ご存じないかと思いますが、死神の世界にもハラスメント条例が厳しくなりましてね、威圧的に相手に死を宣告するなんてもってのほか。優しく穏やかに、ルールを破れば段階的に死につながるっていうギミックで死をお届けするといいますか」
「わけわかんねぇよ」
「ですから、その長財布、ポンポンと叩けばお金が出てきます。たしか五十万。三日以内に使い切らないと、身体のどこかを悪くします。そうメモが入っていたでしょ?」
「あ、あれか」
俺は言葉を失った。
「あなたは、この二年に渡って出したお金を使い切る前にまたお金を出しているようですね。毎回五万円ずつ残しているようです」
「そんなことはねぇ、カミさんに使い切るように口酸っぱくいってんだ。こっちは」
「でも、そんなに体調を悪くして、あと一回使い切らないと、これはもう、危ないですよ」
うっかり死なんて言葉を使わないところが、コンプライアンスが厳しくなったところなのか、タクシーの運転手となって現れた死神とやらは、やけに紳士だった。
俺はタクシーの運転手、いや死神からお釣りの五千円と領収書を手渡され、タクシーを降りた。
家の中にはカミさんがいたが、間男がいるわけでもなく、俺を見るなりどうしたの?といった。
「そこは、おかえりだ」
俺は台所で料理中のカミさんの後ろにあるダイニングチェアに腰かけた。いつもの席だ。
「なぁ、正直にいってくれ」
「なによ、急に帰ってきて。いいの身体は?」
「それよりもだ。金、使い切ってるよな?全部、毎回。五万たんす預金してるなんてことないよな?」
「あら、誰から聞いたのよ。アンタ金遣い荒いから、貯金でもしとかないと不安だろ。退院してからも仕事があるなんて限らないんだし。私も働いてるけど、それだけじゃぁ心もとなくてさ」
やりやがった。残してやがる。クソっ。道理で次から次へと病気やケガをするわけだ。
「おい、いいから、貯めた金全部だせ」
「何いってんのよ。いやよ」
「俺を信じろ、あの金は死神の財布から出てきた金だ。アレを使い切らないと、俺の病気が治んねぇ」
「どういう理屈よ」
あと一回使い切らねぇと俺は死んじまう。
「わけわかんないよ、アンタ。あの金はここにはないわよ」
「どこにあるんだよ?」
「ここよ」
カミさんはタンスの小引き出しの奥から袱紗に巻き付けた通帳を取り出した。俺は通帳を開いた。
五万ずつ、きっちり貯金されてやがる。もう三百万近く溜まってるじゃねぇか。
「これでさぁ、アンタと店できたらって。移動販売ってあるだろ、あのキッチンカーってやつで」
「これ、下ろして使うぞ、時間がねぇ」
俺は手持ちの四十九万を握りしめ、銀行に向かった。銀行に着くころには三時を過ぎていた。ATMしか空いてない。
俺はカードを突っ込んで、三百万円をおろそうとした。だが、ダメだった。
ATMでおろせる一日の限度額が五十万までだ。くそ、万事休すだ。俺は膝から崩れ落ちた。せめて、この四十九万は使い切らないと。息が苦しい。どうやって使い切る。こんな大金を。
後ろで立って待っていたカミさんが、俺の手を取り、長財布から四十九万を取り出した。
「どうしたんだ?おい」
「だから、おろせなくても、入金はできるんだから」
カミさんは四十九万円をそのまま、通帳に入金処理した。なにしてやがる。くそ、明日窓口に行って、全額おろして使い切ってやる。
「明日、窓口行くぞ」
「だめだよ、明日はお正月だろ。銀行は四日から。まだやってないもの」
気力がぶわっと失せた。俺の命の炎が燃え尽きる音が聞こえた。ATMボックスから出たところ、路肩にタクシーが寄せてきて停車した。
「病院からのご依頼でお迎えに参りました。ご主人の携帯には万が一のためにGPSをセットしておりましたので、探すのは簡単でしたよ。さぁ、乗ってください。戻りましょう」
タクシーの運転手は意識朦朧の俺を後部座席に乗せた。カミさんは、よろしくお願いしますと何も疑問に思わず、深々と頭を下げていた。バックミラー越しにカミさんがいつまでも頭を下げているのが見えた。
「ここからどこに行くんだ?」
「聞こえたでしょ、命が燃え尽きる音。まだ二日ありますけど、もう無理そうですね」
どうせ病院に戻っても、あと二日半で死ぬんだ、もう今殺せって気分だ。できるだけ、痛くはしないで欲しいが。
「諦めるんですね?」
「諦めるしかないだろう。三百四十九万、銀行からおろせなくちゃ、使えねぇだろ」
悪態をついてみたら、状況が変わるわけでもねぇ。駄々っ子みたいだな、俺は。
「あなたがお金を使い切るために、大酒を飲み、贅沢なものをたらふく食べ、女に使いましたよね」
「あぁ、何が悪い。俺が俺のために使って何が悪い。結果それだけのリスクを背負ってるんだ」
死神は右折が苦手なのか、曲がるタイミングを計り損ねているように見えた。
「まだわかりませんか?」
「何が?」
「お金の使い方ですよ、奥様の」
ウインカーがカチカチ、やけにうるさく聞こえる。カミさんが何なんだ。使い切れってアレだけいったのに、俺のいいつけを聞かねぇなんて。馬鹿にもほどがある。タンス預金なんてしやがって、厳密には銀行預金だが。ん?なんのために預金してたっけ。ん?
「気づいたようですね」
俺は穴と言う穴から汗が噴き出ているのを感じていた。俺は毎回自分のために金を使い切っていた。不摂生、不養生に磨きがかかっちまった。カミさんは、俺がいない間の生活費はアイツが稼いでいたようだったな。あの金は俺の入院費と、俺が退院したときに仕事が始められるようにって…。クソ、アイツ。俺たちのために。俺はうなだれた。頭が前のシートの背もたれに食い込むように。
「チャンスをくれ。もう一度。頼む。後生だ」
「そうですね、死神にもコンプライアンスが厳しくなってきていますし、メモの意図が読み取れないモノが二名も続けてじゃ、あ、あの酒屋のご婦人のことですが。ねぇ、私も叱られますし。わかりました。記憶を消して、もう一度あの酒屋のチンチロから始めなおしましょう」
「いいのか?」
「ただし、記憶は消させていただきます」
「俺の身体はどうなる?病気やケガは全快してんだろうな?」
「それが…病気は全て回復してさしあげられるのですが、ケガ特にその肋骨の損傷はできかねまして」
「どうして?」
「骨の類は、死神にとっては鬼門でして。その、まぁ弱点なんでございます」
「そんなこといっていいのかよ」
「はい、弱点といっても、その怖いんですよね。死んだあとってのは、生きてきたときの一番元気な時の状態になってあの世におくられるんですが、そうすると死なないでしょ。私たち実はお葬式なんてしたこともありませんし、あなたたちみたいに火葬なんて文化もないんです。だから、そのガイコツみたいなのは怖い存在でして。そのせいで、骨の類は手に負えないんでございます」
道理がとおってるんだかわかんねぇ。だがいいや、この肋骨のケガが残るなら、痛みで何か思い出すかもしれねぇ。俺は死神の申し出を承諾した。
「一度だけですから、やり直しは。では。いきますよ」
目覚めた。ん、俺は寝てたのか。酒屋のオヤジが何かいってる。ちがう、婆さんがなにかいってる。
「いいかい、お前さんが負けたら飲み代とチャージは払ってもらう。勝ったら、チャラにしてやるし、この不思議な財布もくれてやる」
何いってやがる。財布?不思議な財布だと。
「何が不思議なんだよ」
「お前さん、見てたろ。これは金の増える財布だ。これをチンチロ勝負でお前にくれてやるっていってんのサ。うすらバカ野郎」
初対面のババアがなに、ずいぶん口が悪い。なんだか嫌な予感がする。
飲み代がいくらかわかんねぇが、テーブルに千円札を置いた。店の出口まで歩き進もうとしたとき、肋骨の痛みで茶碗に手が当たった。どこかで見た風景だ。クソ、思い出せ。思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出した!
あのチンチロだ。ゾロ目はヤバい。死神のいっていたことを思いだした。
「タコ飯はモチ米ですから、粘ってくっつきやすいんです。あなたにも粘りが必要ですよ。最後は粘り勝ちですから。生きたいならね」
落ちそうになった茶碗をギュッと力強くつかんだ。茶碗がカウンターテーブルから落ちるのを防いだがそのはずみで、ババアがテーブルに置いていたサイコロが床に落ちた。俺はサイコロを拾った。拾ったとき、肋骨の痛みで悶絶した。後ろに倒れ込み、はずみでサイコロが宙を舞った。ババアは器用にサイコロ二個を茶碗で受けた。不規則にぶつかり合うサイコロ。
茶碗の中のサイコロがぶつかりあって、不規則に回転するさまは、下手な男女のチークダンスのように無様だった。サイコロが揺れ動き、止まった。
「なにぃ!!!」
ババアが叫んだ。三人しかいない店が静まり返る。さっきのサイコロのカラカラ音との対比で一層静かに感じる。
「どうだ?ババアどうした?ゾロ目か?」
「一と六。お前の負けだ。クソ、飲み代とチャージは払ってもらうぞ、クソ。どうしてゾロ目にならなかったんだ、ヨウジ、このサイコロどうなってんだい!」
「俺は、母ちゃんにいわれたとおりに」
「やっぱり、イカサマしてやがったか」
「わ、わかってたのか?お前さん」
いや、コンプライアンス大好き男がいったんだよ。粘れって。だから、タコ飯のメシ粒を茶碗の底にこびりつかせてやった。
「それでゾロ目を防げると?」
ババアの汗が茶碗に滴る。汚い汗だ。
「いや、わかんねぇ。ただ、何もしないよりはマシだろ。じゃぁな。その財布思い出したぜ」
俺は酒屋を出た。カミさんともう一度やり直そう、マジメになるんだ。酒をやめて、タバコも、女も、博打も。そうだ、生まれ変わる、今日からだ。祝杯といきてぇところだが、禁酒だから炭酸水だな。かかか。
家へ帰りつくと、カミさんはギョッとした顔で俺を見やがった。タンスに何かしまいやがった。打ち出の小槌財布はなくなったが、働けばいい。そうだ、金は働いて手に入れるもんだ。カミさんは何かを取り繕うように、先に風呂に入っていった。どういうわけか、携帯を風呂場に持ち込みやがる。
肋骨の痛みが増してる。あのとき後ろに転んだ拍子に痛めたのか、俺はタンスのどこかにある薬箱を探した。引き出しを上から順に開ける。ない、ない、ない。おっ、これは。
殺気カミさんが隠した何かだ。ん、これは、申込用紙。保険?掛け捨て、毎月十万コース?なんだこれは。
背後に死神が立っていた。
「あぁ、見つけちゃいました?」
「なんだこれは?」
「記憶戻りました?」
「あぁ、なんとかな。帰り道で思い出したぜ。全部よぉ」
「それはよかった」
「どうよかったんだよ」
「話が早いってことです」
俺はこれから何か不吉なことをいわれるとはわかっている。息をすうっと深く、キレ良く吸い込んだ。
「あなたが入院していたとき、あの金、五十万の使い道内訳は、五万は確かに銀行預金されていました。残りの四十五万のうち十五万は生活費。最後に残った三十万は保険金です」
「あいつ」
「あなたがあの財布を手に入れようが、入れまいが彼女は保険を掛けていました。あの財布があった世界線では三十万でしたが、時間を撒き戻したこの世界線では十万です。おそらく短期決戦であなたを殺害するつもりだったんでしょうね」
「クソ、なんて女だ」
「おっと、依頼人には手を出させませんよ」
俺は死神にふぅっと息を吹きかけられた。今度は確実に命の炎が消えるのがわかった。うまくいったはずなのに、油断というか余計な事をすると、命を縮めるってやつだ。落語に似てやがる。こりゃぁ、ほんものの死神だ。
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