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第4'章 選択の刻⑧

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 夢を見ている、とはっきり分かった。俺は水の上をゆらゆらと漂っていた。
 どうやらそれは川のようで、俺の体はどんどん下流へと流されていく。
 誰かが俺の隣を流されていく。それは10年近く前に亡くなったはずの祖父だった。さらにその後を父さんが続いて流されていく。
 その先に行ったらダメだ。その手を掴もうともがくのに、体は全く動かなかった。
 その次に流れていくのは時乃だった。駄目だ。時乃まで連れて行かないでくれ。
 だけど、俺にはただ流されていくだけで。時乃がどこまでも遠くまで流されていくのをじっと見ることしかできなかった。
 そして、俺の番がやってくる。下流に視線を向けると水の中から姿を現した鬼が俺の方を見ながらにたりと笑う。

「宮入君っ!」

 そんな俺を誰かの腕が掴み、そのまま岸まで引っ張り上げる。
 それは、泣き笑いのような顔を浮かべた神崎だった。


 ハッと目を覚ますと、そこは意識を失う前と同じく社の中だった。
 いつの間にか雨は止んでいて、周囲一帯を覆っていた白い靄も姿を消していた。見慣れた社の光景だ。いつもと違うのは、壁にもたれて座る神崎と、その膝に頭を乗せて眠っている時乃の姿。
 体を起こそうとすると、まだ気怠さが残っていた。少しだけ熱っぽさもある。物音に気付いたのか神崎がこちらを見る。相変わらず口から鼻をぶ厚いマスクが覆っていて表情はわからないけど、目元の硬さが少し和らいだ気がした。

「おはよう。宮入君」
「ああ、おはよう……」

 どこか間の抜けた挨拶に、なぜだか帰ってきたという安堵感がした。スマホを取り出してみると夕暮れ前といった時間で、意識を失っていたのは1時間程度らしい。

「時乃は、大丈夫なのか?」
「うん、今は眠ってるだけ」

 神崎が時乃の髪を優しくなでる。確かに、ここに到着した時の息苦しそうな表情ではなく穏やかに眠りについているようだった。ほっと息をつくと、少しずつ頭が冴えてくる。社の天井を見上げると、あの鬼の絵。

「なあ、神崎。さっきまでこの辺りに広がってた白い靄は……」

 神崎は膝元の時乃から顔を上げると、ゆっくりとマスクを外す。なぜかその口元は怯えるようにきつく結ばれていた。
 二、三度口を開きかけてはやめるということを繰り返して、小さく深呼吸をするようにしてから改めて口を開いた。

「そうだよ。あれが呪いの正体」
「呪いの、正体……」

 この町の歴史として書かれていた、湯気とともに姿を現す鬼。そして、この社の天井に描かれた水から出てきた鬼。
 深安山に大雨が降った時に顕現する呪い。社の周りに広がっていた白い靄。

「さっき、俺と時乃に打ったのは……」
「呪いの特効薬、ってところかな」

 神崎はここまで持ってきた荷物に視線を向ける。特効薬。腕を見ると注射器の後が微かに見て取れた。穏やかに寝息を立てている時乃を見れば、それに効き目があったことは間違いない。

「なあ、神崎」
「うん?」
「なんでお前は、そんなこと知ってるんだ?」

 神崎はここで採ってきた試料を使ってずっと呪いの正体を調べていたはずだ。特効薬なんて存在、一足とびが過ぎる。ならばなぜ、神崎がその正体を知っていて、特効薬なんてものを持ち合わせていたのか。

「お前は、本当に――」

 そこから先は言葉にならなかった。
 なあ、神崎。お前は本当に未来から来たのか。
 それを聞いた瞬間に、俺たちの関係が全部変わってしまう気がした。

「宮入君、日が暮れないうちに降りないと」

 神崎は少し苦しそうに笑って社の外に視線を向ける。空はオレンジ色に染まり、昼と夜の境の曖昧な色合いを醸し出していた。深安山には街灯なんてものはないから、日が落ちてしまえば足元が見えなくなって降りることはできなくなる。

「時乃ちゃん、まだ目を覚まさなさそうなんだけど、頼める?」
「……何とかする」

 はぐらかされてしまった気がするけど、早く麓に降りないといけないのは間違いなかった。眠り続ける時乃をそっと起こして背負うと、服越しに温もりを感じた。白い靄の中、最後に握りしめた手の不穏な熱っぽさはもう残っていない。

「じゃあ、私が先導するから。足元に気をつけてね」

 山を下りていく間、神崎とは一言も口を利かなかった。時乃を背負った状態で雨でぬかるんだ山道を降りることでいっぱいいっぱいだったし、そうでなくても神崎と何を話せばいいのかわからなかった。
 途中小休止を挟みながら、いつもの倍くらいの時間をかけて山を下りる頃にはすっかり暗くなっていた。山の麓について街の灯りが見えるとドッと力が抜けるようだった。

「ん、あれ……」

 背中の時乃がもぞもぞと動き出す。
 終わった、とようやく思えた。時乃は無事で、呪いの正体は神崎が知っている。
 ずっとずっと探してきたものが、ようやく見つかる。

「じゃあ、私はバスで帰るから。宮入君はちゃんと時乃ちゃんを連れて帰ってあげてね」
「あ、おい、神崎」
「もう少しで最後のバス来ちゃうし。二人は自転車で帰らないと明日が大変でしょ?」

 神崎はそう言いながら既にバス停の方に向かって歩き出した。
 聞きたいこととか言いたいことは色々あったけど。

「ちょっと待てって」

 小走りで神崎に追いついて、髪に着いたままになっていた泥をそっと払う。
 少しくすぐったさそうに神崎が目を細める。

「ありがとう、助けてくれて。神崎がいてくれてよかった」

 これだけは、今ちゃんと言っておきたかった。神崎がどこから来たとか、何をしに来たとか今だけは全部どうでも良くて。
 神崎は、時乃と俺のことを助けてくれた。今はそれだけだ。
 じわりと、神崎の瞳が滲む。
 頷くように下を向いて目元をゴシゴシと擦って、顔を上げた神崎ははにかむように笑っていた。

「どういたしまして。翔太さん」
「えっ」

 神崎はパッと踵を返すと、今度こそバス停の方に走り去ってしまう。追いかけたい気持ちもあったけど、背中の時乃が覚醒する気配がして、結局ただその背中をじっと見守った。
 神崎の姿が見えなくなるのとほぼ同時に、ん、と小さく漏れた時乃の声が聞こえてくる。

「あれ、私。どうして……?」
「目、覚めたか?」
「うん……」

 肩越しから聞こえてくる時乃の声はまだどこかフワフワしてて、ちゃんと目を覚ますにはもう少しだけ時間がかかりそうだった。

「あのね、翔太。私、夢を見てた」
「夢?」
「うん。夢の中でも私は寝ていて。近くで翔太が見守ってるから起きなきゃって思うんだけど、全然起きられなくて……」

 時乃の手が存在を確かめるように俺の服をぎゅっと握りしめる。

「ずっとずっと眠ってて、このままなのかなって思ったら、急に眩しくなって。『助けに来たよ』って女の人に引っ張り上げられて、目が覚めたの」
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