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第3'章 溢れだしてきたものは⑥

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 神崎の言葉に筑後は怪訝な顔をしたが、構図的には二対一となったわけで、後ろ髪を引かれる様子をみせながらも戻ることを決めてくれた。帰りは緩やかな登りだったけど、筑後は時々写真を撮る程度で殆ど立ち止まることなく進んだから、行きよりも短い時間で沢のところまで帰ってくることができた。

「戻ってきたけど、水なんて出てこないよ?」

 沢のところで休憩をしながら、筑後は相変わらず清らかなままの水面を見て、ちょっとだけ拗ねたように呟く。

「まあまあ。ここなら大丈夫だから、ちょっと休憩していこう?」

一方の神崎はちょっと息を切らしているものの、体力的にも状況的にも余裕層に答えた。俺からすれば普通に会話してるだけでもすごいのだけど。と、神崎が俺の方に視線を向けてにっと笑みを浮かべてくる。

「宮入君はまだしばらく歩けないみたいだし」
「うるせえ」

 俺だって深安山にはよく登ってるし、時乃に時々付き合わされて走ったりで人並み以上には体力もあるはずなんだ。だから、筑後とか神崎が異次元なだけで俺は悪くない。異次元、異次元か。そういえば、オーパーツ研究会に入ったあの日、筑後とそんな話になった。タイムトラベルの問題である親殺しのパラドックスは次元を超えることで解決できると。あの時は途中で議論が終わってしまったけど、気分転換くらいにはなるかもしれない。

「そういえば、筑後――」

 筑後に話しかけようとしたところで、グググとかすかな振動を感じた。それは錯覚ではないらしく辺りを見渡すと木立がカサカサと葉を揺らし、そんな様子に筑後も周囲をキョロキョロとしている。

「これって、地鳴り?」

 呟いた筑後が沢に目を向けて、その顔から色が消えた。

「水が……」

 さっきまで底が見えるほど綺麗だった沢の水が濁っていた。黒ずみのようなものが沢のあちこちから吹き出していて、沢の一面をドンドンと黒く染め上げていく。留まることなく湧き上がってくる泥水は沢の水位をドンドンとあげていく。
 やがて、黒く押しあがった水の塊が沢の端を越えると、轟々と音をたて一気に下流の方へと流れ出した。僅かな水が流れていた小川にそんな大量の水が流れ込んだらどうなるだろう。勢いよく流れ落ちる濁流は一気に小川の水位を上げ、もしあのまま小川沿いの道を歩いていたら――ここには戻ってこられなかったかもしれないと思うと、今になってゾワリと寒気が追いかけて来た。

「なんで……。どうして神崎さんはわかったの?」
「んー。私の力というか、ちょっとした未来からのお告げみたいなものだよ」

 タブレットを小さく降って笑ってみせる神崎の姿にほうっと筑後は息を漏らした。水が出る、と言い出した時の神崎を思い出すと地面を触ったり川の様子を見たり、空の状態を探っていた。雲や生物の状態から天気を予測する観望予測みたいなものだろうか。俺には何の兆候もわからなかったけど、昨日まで雨が降り続いていたのだし、知識があればわかるのかもしれない。あるいは、経験的にこういう地形では雨が降ったときではなく、その後に水量が急に増すことがあると知っていたとか。
 それならそうとあの場所で言ってくれれば、もっと納得して戻ってこられたのに。だけど、そんな考えは筑後の様子を見て打ち消した。筑後だって神崎の「未来のお告げ」という言葉を全部受け入れたわけじゃないだろうけど、その顔にはどことなく納得感と安堵感のようなものが滲んでいた。

「じゃあ、石川先生のところに戻るか。筑後」
「うん、そうだね……さっきはわがまま言ってゴメン。それから、神崎さん、ありがとう」

 筑後の言葉に神崎は少し照れくさそうにはにかんでタブレットを鞄の中にしまった。
 腰を上げた筑後と神崎の後に続いて立ち上がる。まだ疲れは残っていたけど、自分の命を奪っていたかもしれない黒く染まってしまった沢の傍にいつまでもいたいとも思えなかった。
 とはいえ、降り積もっていた疲労のせいで露骨にペースが落ちて、筑後は俺に気遣いながら進んでくれる。さっきまでグイグイ先へ先へと進んでいた時からすると、何かまるで憑き物が落ちたようだった。

「俺がいなけりゃとっくに頂上ついてるよな」
「気にしないでよ。誰かと一緒にこうやって調査するのって初めてだけど、こんなに楽しかったんだって」
「それでつい深入りしそうになった?」

 筑後は小さく頬をかいて苦笑を浮かべる。しまった。ちょっと嫌味っぽくなってしまったかもしれない。

「それももちろんあるんだけど。今日はどうしても宮入君にタイムトラベルの形跡みたいなものを見せてあげたくて」

 沢の下流で引き返すかどうかで揉めたときも筑後はそんなことを言っていた。沢に戻って休憩した時にそれについて聞こうと思ったけど、水が噴き出したことですっかり忘れていた。

「実は、この前。神崎さんから宮入君の昔の話をちょっと聞いて」

 帰りは俺の後ろを歩いていた神崎の方を振り返ると、神崎は口笛を吹きながら誰もいない背後を更に振り返って俺の視線から逃げた。ちょっと待て。俺の昔の話って間違いなく“呪い”に関する話のはずだ。

「筑後は呪いのこと、信じないのか?」
「うん。呪いなんてナンセンスだと思う。きっとなにか他の現象のハメコミだよ」

 タイムトラベルのことを信じてる人間が呪いをナンセンスだと言い切るのはどこか不思議な感じもしたけど、迷いなくきっぱりと言い切ってくれた筑後の言葉に、緊張していた心がゆるりと解れる。

「僕には、神崎さんみたいに呪いの正体を調べる能力はないから」

 部室に置かれているフラスコのことを思いだす。あれで本当に呪いの正体が突き止められるのかはわからないけど、筑後の言葉に頷いてみる。

「せめて、過去に戻れる……ううん、過去をやり直せる可能性みたいなものを宮入君に見せてあげられたら、僕も宮入君の力になれるんじゃないかなって」
「過去を、やり直す?」
「うん。例えば過去にメッセージを送って、宮入君のおじいちゃんとかお父さんが山に入ることを止めることができる。そんな未来の可能性」

 荒唐無稽だと思いながらも、筑後の話に吸い寄せられていた。過去をやり直せる可能性。そうしたいと考えたこともなかった。でもそれは、そんなことできっこないと思っているからであって。もし万が一、過去に戻れるとしたら俺はどうしたいだろう。
 筑後が一生懸命周囲を調べながら川を下っていたことを思いだす。あれは筑後の好奇心によるものだと思っていたけど、そんな単純なことじゃなくて。だとしたら、引き返すかどうかのところであんなに筑後が粘っていたのも。

「どうして、俺の為にそんな……」

 筑後と知り合ってからまだ一ヶ月も立っていない。精々オーパーツ研究会に仮入部したってくらいで、それ以外に何か筑後の為にできたこともない。
 だけど、筑後は不思議そうな顔で首を傾げた。

「えっと。友達の為に何かしたくなるのって、変……かな?」

 本当に不思議そうな筑後の言葉に何というか虚を突かれた。もしかしたら俺は人間関係にギブアンドテイクみたいな要素を持ち込みすぎていたかもしれない。
 ポンっと後ろを歩く神崎から背中を押された。ああ、もう。

「そういうのは、タイムパラドックスの問題を解決してから言ってくれ」

 もし過去にメッセージを送ることで祖父や父さんを助けたら。呪いの話がなかったからと言って俺が友達に囲まれるような人生を歩んでこれたかはわからないけど、少なくともオーパーツ研究会に入ることはなかったと思う。そしたら俺は筑後と知り合いようがなかったわけで。

「宮入君は手ごわいからなあ」
「……いつか俺が間違ってたって謝るの、楽しみにしてるからな」

 筑後は一度キョトンと目を見開いてから、にへらっと表情を崩す。
 ああ、だからもう。本当にこいつはわかってるんだろうか。ほのぼのとした顔でこちらを見続けている筑後をさっさと帰る様に促す。背中を小突いてくる神崎の表情が手に取るようにわかって、絶対に振り返らないと決める。
 それから石川先生の戻る駐車場までは特に何事もなく、山に来てようやく周囲の風景に溶け込むようなゴツイ車が見えた時にはやっと力が抜けるとともにどっと疲れが沸いてきた。

「おー、お疲れ。どうだったか……って、山の中で雨でも降ったのか?」
「なんでですか?」
「なんでって、宮入。お前、顔に濡れた跡があるぞ」

 頬に手を当ててみると、確かに湿っていた。気づかなかった、いつの間に。

「ちょっと川で顔洗っただけですよ」

 山道が細い一本道でよかった。この顔を誰からも見られずに済んだから。
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