秋空雨恋

粟生深泥

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第12話

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 夏の夕立のような激しい雨の中、いつもは歩いて通る通学路を駆け抜ける。
 走りにくい靴も制服も煩わしい。こんなことなら、ウェアのままで来るんだった。
 走るのに邪魔で傘をたたむ。降りしきる雨に逆らうように走る。
 まだ、そんなに遠くにはいけていないはず。
 選考会に負けないくらい必死で走る。今度はもう、届かないのは嫌だった。

――見つけた。

 傘を杖のようにして、降りすさぶ雨に打たれて歩く背中。
 その背中に全力で駆け寄る。

「何してるんですか!」

 ようやく追いつくことができて、急いで傘を差して頭の上に掲げる。
 滝のような雨。傘を差して歩いている人すらほとんどいないのに、この先輩は傘もささずに。

「……テルハ?」

 振り返った茅吹先輩は、信じられないといった様子でわたしの名前を呼んだ。
 ずぶ濡れになった髪からは絶えず雫が零れ落ちていて、すっかり冷えてしまった頬は青白い。

「どうして、ここに?」

「わたしが先輩と帰るなんて、いつものことじゃないですか」

「でも、秋浜と……」

 茅吹先輩の声は、自信なさげだ。

「やっぱり、見てたんですね」

 茅吹先輩がハッとしたような表情の後、弱々しく笑う。

「ようやく痛みが引いてきて、部室から出たら月代がいて『急いで行け』って言うから。そしたら、その……」

「それで、逃げたんですか」

 意識するよりも先に鋭い言葉が出て行って、先輩の表情に痛みが浮かぶ。
 その表情に後追いのように理解する。ああ、わたしは怒ってるんだ。
 でも、何に?

 そうだ。ずっとずっと、茅吹先輩のことが心配で、気がかりで、大切で。
 それなのに先輩は、わかったようなふりをして行ってしまう。
 本当はただ、隣を歩いていてほしいだけなのに。

「秋浜君には『本気の先輩に勝ってから出直せ』って言っちゃいました」

「は……? なんで、お前、そんな……」

「先輩は、わたしに秋浜君と付き合ってほしかったんですか!?」

 思いの丈があふれ出てきて、それをそのまま言葉に乗せて先輩へ叩きつける。
 先輩はゆっくりと首を横に振って、うつむいた。
 本当は先輩のことが心配で、今だって庇うようにしている足のことも気になるし、ずっと濡れて歩いてきた先輩自身のことも気がかりだった。けれど、今はもっと直接的な感情に引っ張られていた。

「先輩は――」

「本当は、ただの臆病者なんだ」

 ポツリと、先輩が零す。
 茅吹先輩とわたしの言葉以外に響くのは、傘を打つ雨の音だけ。
 俯いたままの先輩の声は、雨に紛れてしまうほど小さい。

「1年前くらいかな、部内で先頭を走るようになってさ。そこからは誰かに抜かれるのが怖くて、負けるのが怖くて、走りたくなくなる日もあって」

 うつむいたままの先輩の表情は見えないけど、声には自嘲的な色が混ざっていた。

「でも、自分に負けるのが一番怖くて、怯えるように走り続けてた。俺には、陸上しかないから」

 今日だけで何度目かになる、わたしの知らない先輩の姿。
 先輩の走りは躍動的で、魅力的で、いつもわたしの目を惹きつけてやまない。そんな走りしか知らなかった。そんな風に悩んでいたことがあったなんて、気づかなかった。
 
「でもさ、テルハと一緒に通学するようになって。いつからかわからないけど、俺には陸上だけじゃないのかもって思えたんだ。いつの間にかまた、走るのが楽しくなって。秋浜なんかと本気で勝負するのが面白いなって感じられるようになった」

 まくしたてるように一気に話して、茅吹先輩が顔を上げる。
 その顔は雨でグチャグチャに濡れていて、けれど、それは雨だけのせいではないような気がした。
 言葉を紡ぐ唇はずっと震えている。きっとそれも、雨のせいだけじゃない。

「そしたら今度は、テルハと離れるのが怖くなって。今日だって、秋浜にとられるんじゃないかって思ったら、見てられなくて……。いつも偉そうなことに言っといて、大事な場面から逃げ出すただのちっぽけな臆病者なんだ!」

 吐き捨てるような剥き出しの言葉。その言葉が胸の中を奔流のように駆け抜けて、強い衝動がじわじわと湧き出してきた。

「テルハの前でいいカッコしてるだけの、臆病者なんだ……」

「先輩。いつも、一番前を走るのは大変なことだと思います。だから、辛かったら、たまには逃げてもいいんじゃないですか?」

 そっと、手を伸ばす。すっかり冷えてしまった茅吹先輩の頬に触れる。

「でも、お願いです。わたしからは逃げないでください」

 傘を下ろす。
 視界を覆う雨に紛れるように、精一杯、顔を先輩に近づける。
 その距離がなくなったのは、ほんの一瞬。

「テルハ……」

 先輩の頬に触れるわたしの手に、先輩の手が静かに重ねられた。
 大事そうに重ねられたその手に、今更ながら自分が勢いのまま何をしてしまったか気づいて、冷たい雨でずぶ濡れなのに顔が熱くなってくる。

「ごご、ごめんなさい! あ、そうだ。傘、傘ささないと!」

 わたしが傘を差すより先に、わたしの手に重ねられていた先輩の手が、わたしの頭をくしゃりと撫でる。

「ありがとう、テルハ」

 茅吹先輩が笑っていた。困ってたり弱々しい笑みじゃなくて、いつものように明るい笑顔が浮かんでいる。
 おし、と気合を入れるような声にも、生気が戻っていた。

「目、覚めた。次の大会で決勝行って、絶対秋浜にリベンジする」

 ハッキリとした力強い言葉。
 いつもの先輩が帰って来て、ワクワクとした気持ちがわたしの方まで伝播してくる。

「はい」

 茅吹先輩の手が、わたしの頬に沿えらえる。

「そしたら、改めて、俺からちゃんと言わせてほしい」

「……はいっ、待ってます!」

「違うぞ?」

「えっ」

「テルハも一緒に走るんだから、な?」

 ただ隣を歩いていてほしかったと、そう思っていた。
 けれど、その思いを少しだけ改める。
 歩くときも、走るときも、その隣に並んでいたい。その場所は、誰にも譲りたくない。

 そこはいつも雨が降っているけど、暖かくて大切な場所だから。
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