秋空雨恋

粟生深泥

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第7話

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 昼休みになっても空はどす黒い雲が覆っていて、けれど雨が降ってくる気配はない。
 雨が降ればいいのに、と思ったのは久しぶりだった。

 学校に到着してそのまま保健室に行った茅吹先輩が告げられたのは「一週間くらいは安静に」という言葉だった。
 その場では神妙に頷いていた先輩だったけど、気配で分かった。先輩は大人しく安静にしているつもりなんてないんだろう。
 茅吹先輩なら、仮に今日の選考会に出なくても、これまでの実績や普段の練習の結果から大会の選手になるのは間違いないはず。だから、無理する必要なんてないはずなのに。

「ぼーっとしてるね、花野」

 窓の外を見ながらそんな思考を巡らせていると、目の前に座っていた秋浜君から声をかけられる。
 先週席替えがあったけど、相変わらずわたしは窓際の席で、目の前に座るのがもみじから秋浜君に変わったくらいの変化だった。いや、話し相手がイケメン男子に変わったせいか、話している時に周囲の女子からの視線が気になるようになったのは大きな違いかもしれない。

「選考会のこと、考えてて」

 自分のことじゃないけど、ということまでは告げない。茅吹先輩をライバル視する秋浜君に、茅吹先輩の状況をわたしから伝えるのはフェアじゃないような気がした。

「花野なら心配ないよ」

「そうかな?」

「うん。最近の花野の走り見てたら、枠は間違いないと思う」

「ありがとう」

 そっけないかなとも思ったけど、わたしの頭は二つのことを同時に考えられるほどのキャパはない。秋浜君には悪いけど、今はどうすれば茅吹先輩を止めることができるのかをずっと考えていたかった。

「俺も、今日こそ茅吹先輩に勝てるように頑張らなきゃ」

 一瞬、息が詰まる。
 ぎゅっと胸を鷲掴みにされたような苦しさを、隠すことはできただろうか。

「うん、頑張って」

 秋浜君は笑顔のまま胸を張る。

「もちろん。あのさ、花野――」

「秋浜君、ごめん。ちょっと出るね」

 秋浜君が何かを言いかけたけど、わたしの頭はもういっぱいいっぱいだった。
 驚いた顔の秋浜君を置き去りにするように教室を出る。
 行く当てはなかったけど、あのまま部屋に居たら何かが爆発してしまいそうだった。
 けど、休み時間の残りはどうしよう。茅吹先輩の教室に様子を見に行くというのもあるかもしれないけど、もしもしんどそうな茅吹先輩を見たら今以上に当てられてしまう自信がある。

「あれ、テルハ? って……大丈夫? ヒドイ顔してる」

 結局、当てもなく廊下を歩いていると、向こうから歩いてきたもみじが駆け寄ってきた。

「もみじ……」

 心配かけたくなくて笑ってみようとしたけど、うまく表情がコントロールできない。多分、今わたしに浮かんでるのはぎこちない笑みだろう。

「無理しないでよ。授業中からぼうっとしてたし、何があったの?」

 わたしが浮かれているときは意地が悪かったりするのに、凹んでいるときにこの友だちはとても優しい。その優しさに触れてしまって、笑おうとしていたはずの顔が逆の方向に強張っていく。スン、と小さく鼻が鳴った。
 もみじはパッとわたしの手を取って、人気のない方にわたしを引っ張っていく。

「どうしようもみじ。茅吹先輩が――」

 もみじに今朝から起きたことを順を追って話す。先輩と選考会の話をしていたら、自転車が突っ込んできて、わたしを庇った先輩が足を痛めて。保健室では、一週間くらい安静にするように言われてしまった。
 そして、それでも茅吹先輩が選考会を走ろうとしていること。

「どうしよう。先輩、あの状態で選考会なんて走ったら、本当に走れなくなっちゃうかも……」

 痛めた場所がさらに悪化したり、庇って走って別の場所を痛めたり。無理をしたらランナーがどうなってしまうのか、色々なものを見たり聞いたりしてきた。
 わたしだって故障したことは何度もあるし、走れなくなるリスクがあっても走ろうという気持ちはちょっとはわかる。
 けれど、もし先輩が走ることができなくなってしまったら。想像するだけでも怖かった。

「どうやったら、先輩が走るのを止められるかな?」

 雨が降ればいいと思ってた。土のトラックが使えないくらいの雨が降れば、今日の選考会は延期になる。けれど、どうやら天気は持ちこたえてしまうらしい。
 他に先輩を止める方法がないのか、考えても考えても思い浮かばなかった。

「無理ね」

 じっと話を聞いていたもみじは静かに、そして冷酷に一言告げた。

「そんなっ!」

「走るのと生きることが一緒みたいな先輩だし。それに、テルハが止める方法を思い浮かばないんだったら、たぶん誰も止められない」

 それとも、と切り出して、もみじはすっとわたしから視線を逸らす。

「須々木先輩に相談してみる?」

「それで、茅吹先輩が走るのをやめるなら」

 迷いはなかった。
 だけど、わたしの言葉に、もみじはちょっと困ったように笑う。

「ごめん、試すようなこと言って。多分、須々木先輩でも茅吹先輩が走るのを止められないと思うし、そもそも止めようとしないかもしれない」

「じゃあ、どうすればいいの……!」

「信じてあげなよ、先輩のこと」

 もみじが一歩近づいてきて、わたしの髪をくしゃりと撫でる。
 状況は何も変わっていないのに、逸ってばかりの心が少しだけ落ち着く。同級生のはずなのに、なんだか年の近い姉のような。

「信じる?」

「そう。どうしても止まらないなら、せめて一秒でも速く走り終えられるように。信じて、応援してあげるの」

 それは、見方によっては問題の棚上げかもしれないけど。
 それでも、どんよりと分厚いだけだった雲にほんの僅かな晴れ間が姿を見せたような気がした。
 無事に走り終われるように祈る。それしかできないのは歯がゆかったけど、せめて。

「わかった、信じてみる。ありがとね、もみじ」

「言っておくけど、そのためにはまずテルハが頑張んなきゃいけないんだからね。それに、わたしだって選考会負ける気ないし」

 勝気に笑うもみじに、わたしも笑い返して見せる。
 ようやく、ちゃんと笑うことができた。

「うん。一緒にがんばろ?」

 グーを作って、もみじのグーにコツンとぶつける。
 まずは、わたしが頑張る。それはとてもシンプルなことだ。わたしのために、友だちのために。それから、届くかどうかわからない先輩のために。
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