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プロローグ
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「暁」という名をしたテロ組織が世界を掌握しようとしている頃、私はひとり自分の部屋であいすくりーむを食べていた。
ポップでカラフルな、ビビッド色に塗れたこの部屋は、私のお気に入りの雑貨で溢れかえっている。
その中でも一際目立つのは、ピカピカと金色に輝く「kiki」という私の名前だ。特注のネオン管はちょっとばかり高級品だったけど、好きなものに囲まれていたかったのだから仕方がない。
一緒に住んでいるのは、黒猫のマリー。
彼女もまた澄ました表情で、部屋の窓辺から下層居住区の出来事を見守っている。
分かるわ、マリー。私もおんなじ気持ちだもの。
世界が誰の手に渡ったって。
世界が滅亡したって。
私達はひとつも痛くない。
「暁」なんていう組織が、世界をどうこうしたところで私達には全くもって影響が出ない。
燃やそうが、煮ようが、なんだってすればいいのよ。
上層居住区と下層居住区には、計り知れないほどの距離があるし、大きくて頑丈な門もある。
それを乗り越える、あるいは破壊出来るほどの資材は、下層居住区にはもう既に存在しない。
ひとつもふたつも、遅れた文明。
分かり合うことを、諦めた人間。
それらの集合体が下層居住区の正体だ。
彼らの働いたエネルギーを全て吸い取り生活を賄っているのが、上層居住区の私達だった。
「マリー、おいで」
私はマリーを腕に抱き、一緒にベランダに出た。
遥か遥か彼方の下で、まるで地獄絵図みたいに炎が揺らめいているのが、ほんの少しだけ見えた。
「あら、頑張ってるわねぇ」
背伸びをして、下界をのぞき込むも、一分も経たないうちに私達は部屋へと戻った。呼吸が苦しくなるからだ。
人間の知能や技術がどれだけ発達しようとも、否、発達すればする程に、私達の身体機能は低下していった。
今では、上層居住区に住む人間は愚か、下層居住区の人間までも長時間外気に触れていることが困難となってしまった、らしい。少なくとも上層居住区ではそう認識されている。
もしもただの人間がガスマスクなしに半時間でも外に出ていた場合、全ての呼吸器官が腐敗し、悶え苦しみながらゆっくりと死んでしまうだろう。それほどまでに地球の外気は汚染されているし、人類の身体は繊細になっていた。
そんな愚かな行為は、気の触れた自殺願望者だけが行えばいい。
施設の修繕などでどうしても外に長時間出ていなければならないような事案が発生した場合も、気が付けば誰の所有物でもないアンドロイドたちが勝手に作業を行ってくれている。
彼らは、生産されたときにそうプログラムされているからだ。
政府機関も五年ほど前から停止していて、あとはただ惰性を生きている人間ばかりの終末世界だ。
「死んでいくためだけに生きることの、何が不幸せなのかしらね?」
マリーの耳の裏をかいてやりながら、私はアンナのことを思い出していた。
自ら下層居住区に飛び込んだ、奇特な友人アンナのことを。
アンナとは幼馴染だった。
こんな世も末な世界で、幼馴染なんていうものが確立されているのも不思議な話ではあるのだけど、実際に私達は産まれてからずっと一緒に育ってきた。
上層居住区に産まれた赤子はみな、一度中央都市にあるセンターに送られる。
そこには一人につき一つのカプセルが与えられ、約十歳までの間をその中で眠りながら過ごすのだ。
眠っている間は様々な夢を見る。
眠っている同級生たちと一緒に遊んだり、学校に通ったりもした。
世界の仕組みのこと、「暁」のこと、孤独を紛らわす方法など、終末世界を生きていくために必要なことの全てを学んだ。
「死ぬまで生きる」ことを学ぶのだ。
そこで、私達が眠りに就いている理由についても教わった。
食料やエネルギー、空間の節約の為なのだという。
そのセンターに送られるまでのプログラムの一部が上手く機能しなかったのか、私とアンナは同じカプセルに放り込まれた。
だから、私と彼女はこの世界で最後のそして唯一の幼馴染なのだ。
同じカプセルに眠っていたので、私達は共に全く同じ夢を見ていた。
十年間、毎日かかさず、彼女は私の隣にいた。
そして、それは夢から目覚め、ひとりひとりに部屋が与えられてからも変化することはなかった。
その性質上、カプセルひとつにつき、一部屋が割り当てられていたからだ。
つまり、私達はほんの数年前まで、この部屋で一緒に暮らしていた。
「共同体」などという甘美な言葉が廃れてしまってから久しい、この現実世界で私達は運命を共同する唯一体だった。
配給される食料や清潔な空気を等しく分け合い、私達は死ぬまで生きようとした。
半分のエネルギーしか分け与えられないので、私達の寿命もまた平均のきっかり半分になることは分かっていた。
それでも二人で生きていけるのならば、私はそれで良かった。
死ぬまでに与えられた猶予が長くとも短くとも、私にとって大した違いはなかったから。
アンナと共に死ぬまで生きること。
それだけが全てだったから。
この閉鎖的なワンルームで生きる、唯一の希望だったのだから。
けれどアンナはあの日、私を裏切った。
一緒に死ぬまで生きよう、と誓ったわけではないから、裏切ったことにはならないのかもしれない。
だけど、私は裏切られたと思ったし、思ってしまったのだし、それってつまり、裏切られたこととほとんど同意義だ。
アンナはマリーという黒猫のアンドロイドだけを残して、忽然と姿を消した。
日々の排泄物やゴミを流すダクトの蓋が空いていたから、私は全てを悟った。
全ての廃棄物は下層居住区に流れるようになっていて、私達のワンルームのダクトももちろん、そうであったから。
つまり、そのダクトは下層居住区に続いている唯一の道であった。
彼女は下層居住区に入国したのだ。
アンナと私の、人生に対する価値観みたいなものの方向性がすれ違っていったのは、一緒に暮らし始めてから三年が経った頃だった。
今ならそう断言出来る。
大抵の人間は一人暮らしを始めて数年が経つと、人恋しくなるものだと教わった。
私とアンナに関しては例外だったから、淋しい、なんて感情はどこにもなかったけれど。
人が住み始めてから三年ほど経った部屋には、寂しさを埋めるためのアンドロイドが随時支給されていく。
私達の部屋も漏れなく、その対象となった。
配給口から飛び出したカタログを手に取り、ベッドの上に寝転びながら、私達は頬を寄せ合って相談した。
あーでもない、こーでもないと、数多ある種類のアンドロイドたちを一つずつ査定していった。
旧型、新型、獣型、人型、ロボット型。
その性能も様々だ。
その中でも人型アンドロイドは人気のため、オーソドックスな家事専用アンドロイドの他、会話特化型、歌や踊りを得意とする吟遊詩人型など多種多様なアンドロイドが取り揃えられている。
「でも、もう人はいいよね」
ぽつりとアンナはそう零した。
私も、そうだね、って笑って返した。
目が合ったアンナの表情は、何故だかとても陰鬱だった。
「私、猫がいいなぁー」
突然、アンナはにっこり笑ってそう言った。
それから、彼女はカタログを手にしたまま、ばふんと後ろに倒れ込む。ベッドのスプリングが少し軋んだ。
「ネコ?」
私も同じく、アンナの隣に寝っ転がる。
アンナの綺麗な手が私の頭に伸びてきて、華奢な指先が髪を梳かしていく。
「そう、キキみたいに綺麗な黒髪の子」
私もまたアンナのふわふわとした茶色の髪を弄びながら、こう答えた。
「えー、どうせならアンナみたいな茶髪の子にしましょうよ。うーん、このふわふわ感がたまりませんわねぇ」
すりすりとアンナの髪に顔を埋めた。
ふわふわでキメ細かい、アンナの髪の毛が私は大好きだった。
いつまでもいつまでも触っていたかった。
綿菓子みたいな幸福の、いっちばんに甘くて美味しいのだ、アンナの髪は。
真っ白なシーツの上に茶と黒の絹が揺蕩っている。互い違いに織り込まれて、そこには永遠の愛情だけがあった。
友だちでも恋人でも家族でもない、私達の愛を、運命を、許して欲しかった。
誰に? たぶん、世界に。
「アンドロイド、アンナが決めていいわよ」
「え、いいの?」
「えぇ、だって私……」
アンナがいるなら、それでいい。
言葉は声になる直前に、霧散に消えた。
どこか懐かしい微睡みの向こうで、アンナが泣いている気がした。
私の両手がアンナへと届く前に、彼女の気配を失った。
私は深い深い、眠りへと落ちていったのだ。
目が覚めたとき、アンナは居なくなっていた。
ダクトの蓋が、開いていて。
アンナの姿が、見当たらなく、て。
その代わりに、私の足元には黒猫がいて。
みゃあ。
と、静かに鳴きました。
ぽろり。
と、静かに泣きました。
黒猫の首に括りつけられていた記憶懐石を取り出して、呑み込んだ。
ほわほわと青い光がお腹の中をぐるぐるして、それからアンナの声が聞こえてきた。
『幸せに生きてね。私は生きる意味を見つけるから。……黒猫はマリーって名付けたよ。ちゃんと可愛がるんだよ。キキは少し雑な所があるから。……それじゃあ、ね』
瞼の裏に投影されたアンナの姿は、ちょっぴりと寂しそうで、悲しそうで、それでも瞳にはきちんとした覚悟だけがあった。
ゆっくりと瞼を上げて、私は黒猫の方に目をやった。
アンナの忘れ形見。アンナの代わり。これからの私の唯一体。
「貴女、マリーというの?」
黒猫のアンドロイドに向かって、泣き笑いみたいな顔で私はぼそっと呟いた。
マリーは肉球のついた前足で顔を洗うと、澄ました表情で、とことこと私の目の前までやってきてくれた。
私は彼女を撫ぜた。
慰められたかった。
哀しかった。
苦しかった。
『私は生きる意味を見つけるから』
アンナの言葉が指しているものに気がついてしまったから。
それは今、下層居住区に蔓延るテロ組織「暁」のスローガンだった。
『ただ死ぬまで生きることが命なのではない。生きる意味を持って初めて、その生命は輝くのだ』
半年前、上層居住区の情報ネットワークをジャックした「暁」からのメッセージだ。
彼らのリーダーの名は、何といっただろうか。
そうだ、モグラという男だったか。
その男が喋っていたのだ。
たった一度きり。
たった一回だけのこと。
その一度がアンナの心に響いたというのか。
私と積み重ねた十三年間よりも深く、心に刻まれたというのか。
時間など関係がなかったのか。
運命など存在しなかったのか。
果たして私という存在は、アンナの中に居たのだろうか。
悔しくて歯痒くて、私は吐き気がした。
置いていかれた、と素直にそう思った。
次の瞬間には自分への嘲笑が訪れた。
「私は置いていかれたのかしら? ……それって……どこに? なにに? だれに?」
目的地すら不明ならば、ついていく覚悟すらままならないのに、何を傲慢な。
唇を噛み締めた。
血の滲むまで。
ただ一点に床を見つめて。
永遠みたいな絶望が訪れて。
それから、ようやく、答えが出た。
「私は何も変わらないわ。……ただ、死ぬまで生きるだけ。アンナの記憶と、マリーと共に。それだけよ」
変わらない。
絶対に変わってやらないわ。
「幸せ」なんて、「生きる意味」なんて、探してなんてやらない。
アンナのこと、忘れてなんてやらない。
独りきりだなんて、認めてやらない。
だから。
お願いだから。
太古の昔、人間も外を自由に出歩いていた。
外に出て、それから帰ってくる場所があった。
人間はそれを「ホーム」と呼んでいたのよ。
だから、だから。
お願いだから……。
「……無事に……どうか、無事に帰ってきて」
さよなら、なんて言わないわ。
行ってらっしゃい、しか言わないよ。
こうして、アンナは私の元から去っていった。もう三年も前の出来事だ。
ポップでカラフルな、ビビッド色に塗れたこの部屋は、私のお気に入りの雑貨で溢れかえっている。
その中でも一際目立つのは、ピカピカと金色に輝く「kiki」という私の名前だ。特注のネオン管はちょっとばかり高級品だったけど、好きなものに囲まれていたかったのだから仕方がない。
一緒に住んでいるのは、黒猫のマリー。
彼女もまた澄ました表情で、部屋の窓辺から下層居住区の出来事を見守っている。
分かるわ、マリー。私もおんなじ気持ちだもの。
世界が誰の手に渡ったって。
世界が滅亡したって。
私達はひとつも痛くない。
「暁」なんていう組織が、世界をどうこうしたところで私達には全くもって影響が出ない。
燃やそうが、煮ようが、なんだってすればいいのよ。
上層居住区と下層居住区には、計り知れないほどの距離があるし、大きくて頑丈な門もある。
それを乗り越える、あるいは破壊出来るほどの資材は、下層居住区にはもう既に存在しない。
ひとつもふたつも、遅れた文明。
分かり合うことを、諦めた人間。
それらの集合体が下層居住区の正体だ。
彼らの働いたエネルギーを全て吸い取り生活を賄っているのが、上層居住区の私達だった。
「マリー、おいで」
私はマリーを腕に抱き、一緒にベランダに出た。
遥か遥か彼方の下で、まるで地獄絵図みたいに炎が揺らめいているのが、ほんの少しだけ見えた。
「あら、頑張ってるわねぇ」
背伸びをして、下界をのぞき込むも、一分も経たないうちに私達は部屋へと戻った。呼吸が苦しくなるからだ。
人間の知能や技術がどれだけ発達しようとも、否、発達すればする程に、私達の身体機能は低下していった。
今では、上層居住区に住む人間は愚か、下層居住区の人間までも長時間外気に触れていることが困難となってしまった、らしい。少なくとも上層居住区ではそう認識されている。
もしもただの人間がガスマスクなしに半時間でも外に出ていた場合、全ての呼吸器官が腐敗し、悶え苦しみながらゆっくりと死んでしまうだろう。それほどまでに地球の外気は汚染されているし、人類の身体は繊細になっていた。
そんな愚かな行為は、気の触れた自殺願望者だけが行えばいい。
施設の修繕などでどうしても外に長時間出ていなければならないような事案が発生した場合も、気が付けば誰の所有物でもないアンドロイドたちが勝手に作業を行ってくれている。
彼らは、生産されたときにそうプログラムされているからだ。
政府機関も五年ほど前から停止していて、あとはただ惰性を生きている人間ばかりの終末世界だ。
「死んでいくためだけに生きることの、何が不幸せなのかしらね?」
マリーの耳の裏をかいてやりながら、私はアンナのことを思い出していた。
自ら下層居住区に飛び込んだ、奇特な友人アンナのことを。
アンナとは幼馴染だった。
こんな世も末な世界で、幼馴染なんていうものが確立されているのも不思議な話ではあるのだけど、実際に私達は産まれてからずっと一緒に育ってきた。
上層居住区に産まれた赤子はみな、一度中央都市にあるセンターに送られる。
そこには一人につき一つのカプセルが与えられ、約十歳までの間をその中で眠りながら過ごすのだ。
眠っている間は様々な夢を見る。
眠っている同級生たちと一緒に遊んだり、学校に通ったりもした。
世界の仕組みのこと、「暁」のこと、孤独を紛らわす方法など、終末世界を生きていくために必要なことの全てを学んだ。
「死ぬまで生きる」ことを学ぶのだ。
そこで、私達が眠りに就いている理由についても教わった。
食料やエネルギー、空間の節約の為なのだという。
そのセンターに送られるまでのプログラムの一部が上手く機能しなかったのか、私とアンナは同じカプセルに放り込まれた。
だから、私と彼女はこの世界で最後のそして唯一の幼馴染なのだ。
同じカプセルに眠っていたので、私達は共に全く同じ夢を見ていた。
十年間、毎日かかさず、彼女は私の隣にいた。
そして、それは夢から目覚め、ひとりひとりに部屋が与えられてからも変化することはなかった。
その性質上、カプセルひとつにつき、一部屋が割り当てられていたからだ。
つまり、私達はほんの数年前まで、この部屋で一緒に暮らしていた。
「共同体」などという甘美な言葉が廃れてしまってから久しい、この現実世界で私達は運命を共同する唯一体だった。
配給される食料や清潔な空気を等しく分け合い、私達は死ぬまで生きようとした。
半分のエネルギーしか分け与えられないので、私達の寿命もまた平均のきっかり半分になることは分かっていた。
それでも二人で生きていけるのならば、私はそれで良かった。
死ぬまでに与えられた猶予が長くとも短くとも、私にとって大した違いはなかったから。
アンナと共に死ぬまで生きること。
それだけが全てだったから。
この閉鎖的なワンルームで生きる、唯一の希望だったのだから。
けれどアンナはあの日、私を裏切った。
一緒に死ぬまで生きよう、と誓ったわけではないから、裏切ったことにはならないのかもしれない。
だけど、私は裏切られたと思ったし、思ってしまったのだし、それってつまり、裏切られたこととほとんど同意義だ。
アンナはマリーという黒猫のアンドロイドだけを残して、忽然と姿を消した。
日々の排泄物やゴミを流すダクトの蓋が空いていたから、私は全てを悟った。
全ての廃棄物は下層居住区に流れるようになっていて、私達のワンルームのダクトももちろん、そうであったから。
つまり、そのダクトは下層居住区に続いている唯一の道であった。
彼女は下層居住区に入国したのだ。
アンナと私の、人生に対する価値観みたいなものの方向性がすれ違っていったのは、一緒に暮らし始めてから三年が経った頃だった。
今ならそう断言出来る。
大抵の人間は一人暮らしを始めて数年が経つと、人恋しくなるものだと教わった。
私とアンナに関しては例外だったから、淋しい、なんて感情はどこにもなかったけれど。
人が住み始めてから三年ほど経った部屋には、寂しさを埋めるためのアンドロイドが随時支給されていく。
私達の部屋も漏れなく、その対象となった。
配給口から飛び出したカタログを手に取り、ベッドの上に寝転びながら、私達は頬を寄せ合って相談した。
あーでもない、こーでもないと、数多ある種類のアンドロイドたちを一つずつ査定していった。
旧型、新型、獣型、人型、ロボット型。
その性能も様々だ。
その中でも人型アンドロイドは人気のため、オーソドックスな家事専用アンドロイドの他、会話特化型、歌や踊りを得意とする吟遊詩人型など多種多様なアンドロイドが取り揃えられている。
「でも、もう人はいいよね」
ぽつりとアンナはそう零した。
私も、そうだね、って笑って返した。
目が合ったアンナの表情は、何故だかとても陰鬱だった。
「私、猫がいいなぁー」
突然、アンナはにっこり笑ってそう言った。
それから、彼女はカタログを手にしたまま、ばふんと後ろに倒れ込む。ベッドのスプリングが少し軋んだ。
「ネコ?」
私も同じく、アンナの隣に寝っ転がる。
アンナの綺麗な手が私の頭に伸びてきて、華奢な指先が髪を梳かしていく。
「そう、キキみたいに綺麗な黒髪の子」
私もまたアンナのふわふわとした茶色の髪を弄びながら、こう答えた。
「えー、どうせならアンナみたいな茶髪の子にしましょうよ。うーん、このふわふわ感がたまりませんわねぇ」
すりすりとアンナの髪に顔を埋めた。
ふわふわでキメ細かい、アンナの髪の毛が私は大好きだった。
いつまでもいつまでも触っていたかった。
綿菓子みたいな幸福の、いっちばんに甘くて美味しいのだ、アンナの髪は。
真っ白なシーツの上に茶と黒の絹が揺蕩っている。互い違いに織り込まれて、そこには永遠の愛情だけがあった。
友だちでも恋人でも家族でもない、私達の愛を、運命を、許して欲しかった。
誰に? たぶん、世界に。
「アンドロイド、アンナが決めていいわよ」
「え、いいの?」
「えぇ、だって私……」
アンナがいるなら、それでいい。
言葉は声になる直前に、霧散に消えた。
どこか懐かしい微睡みの向こうで、アンナが泣いている気がした。
私の両手がアンナへと届く前に、彼女の気配を失った。
私は深い深い、眠りへと落ちていったのだ。
目が覚めたとき、アンナは居なくなっていた。
ダクトの蓋が、開いていて。
アンナの姿が、見当たらなく、て。
その代わりに、私の足元には黒猫がいて。
みゃあ。
と、静かに鳴きました。
ぽろり。
と、静かに泣きました。
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ゆっくりと瞼を上げて、私は黒猫の方に目をやった。
アンナの忘れ形見。アンナの代わり。これからの私の唯一体。
「貴女、マリーというの?」
黒猫のアンドロイドに向かって、泣き笑いみたいな顔で私はぼそっと呟いた。
マリーは肉球のついた前足で顔を洗うと、澄ました表情で、とことこと私の目の前までやってきてくれた。
私は彼女を撫ぜた。
慰められたかった。
哀しかった。
苦しかった。
『私は生きる意味を見つけるから』
アンナの言葉が指しているものに気がついてしまったから。
それは今、下層居住区に蔓延るテロ組織「暁」のスローガンだった。
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そうだ、モグラという男だったか。
その男が喋っていたのだ。
たった一度きり。
たった一回だけのこと。
その一度がアンナの心に響いたというのか。
私と積み重ねた十三年間よりも深く、心に刻まれたというのか。
時間など関係がなかったのか。
運命など存在しなかったのか。
果たして私という存在は、アンナの中に居たのだろうか。
悔しくて歯痒くて、私は吐き気がした。
置いていかれた、と素直にそう思った。
次の瞬間には自分への嘲笑が訪れた。
「私は置いていかれたのかしら? ……それって……どこに? なにに? だれに?」
目的地すら不明ならば、ついていく覚悟すらままならないのに、何を傲慢な。
唇を噛み締めた。
血の滲むまで。
ただ一点に床を見つめて。
永遠みたいな絶望が訪れて。
それから、ようやく、答えが出た。
「私は何も変わらないわ。……ただ、死ぬまで生きるだけ。アンナの記憶と、マリーと共に。それだけよ」
変わらない。
絶対に変わってやらないわ。
「幸せ」なんて、「生きる意味」なんて、探してなんてやらない。
アンナのこと、忘れてなんてやらない。
独りきりだなんて、認めてやらない。
だから。
お願いだから。
太古の昔、人間も外を自由に出歩いていた。
外に出て、それから帰ってくる場所があった。
人間はそれを「ホーム」と呼んでいたのよ。
だから、だから。
お願いだから……。
「……無事に……どうか、無事に帰ってきて」
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