健二

高殿アカリ

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5人目 今年4月

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ゆっくりでいいの。
ゆっくりでいいから思い出して。

震える彼の手にそっと私の手を添えて、筆を動かす。

パレットに散らばった色とりどりの花。
キャンパスに描かれていく無秩序な虹。

若い頃の瑞々しさは当に失われた彼の手。
乾燥し、皺と染みだらけになった彼の手。

細く脆くなった毛細血管は、ちょっと当てただけで酷い内出血を起こす。
小さくなってしまったその手を、私はそれでも大好きだと思った。

絵を描くのが好きな人だった。
もう、その手は筆を持つ力を失ってしまったけれど。

「ほうら、素敵なキャンパスになったわ、健二」

私は彼の名前を呼びかける。
愛おしく、残酷な彼の名前を。

彼はしわがれた声で返事をする。

「あぁ、お嬢さんのお蔭で綺麗な絵が描けたよ。ありがとう」

彼は一瞬戸惑ったように視線を泳がせた後、目の前に広がる色とりどりのキャンパスにその視線を落ち着かせる。
そして、彼は意を決したように一つ大きく息を吸い込み、口を開いた。

あぁ、やめて。私は必死で願った。
彼が何を言おうとしているのか分かっていたから。

その言葉は、私に致命傷を与えるものだ。
その言葉は、私の心を砕くものだ。
その言葉は、彼が信じ切っているその言葉の真実は、私の存在をこの世界から無くすものなのだ。

それでも、彼は言葉を吐き出す。
私を殺す言葉を。

「……して、お嬢さんはどこのどなたかな?」

柔和に細められたその瞳を、私はどんな思いで受け取ったのだろう。

悲しくて、切なくて、私は泣きそうになった。
それでも、笑った。
健二に、目の前にいるこの年老いた愛しい彼に、何の不安も感じさせないように。

私は笑って、

「……この隣の病室に知り合いが入院しているんです」
「あぁ、そうでしたか」

健二は私の嘘にも気付きやしない。
それどころか私の話に納得したらしく、大きく何度も頷いて、私に向かって心配そうにこう言う。

「その知り合いの人は君が今日お見舞いに来ることを知っているのかね?」
「……えぇ、まぁ」

「じゃあ、早く行ってあげなさい。こんな老いぼれなんて構うことなく。そのお嬢さんの知り合いも首を長くして待っていることだろうから」

私が世界で一番大好きな優しい顔をして、彼は何の躊躇いもなく、そんなことを平気で口にする。

「そう、ですね」

私はそう返す以外の答えを知らない。

「それじゃあ、行きますね」

腰かけていたベッド脇の丸い椅子から腰を上げた私に、

「えぇ、それでは。そのお知り合いの方にお大事になさってくださいとお伝えください」

彼はまた最後のとどめを刺す。
私は彼の目を見ていられなくて、笑ってその場を後にした。

それでもやっぱり彼の顔を最後に一目見たくて、病室の扉を閉める間際、彼の方を振り返った。
健二は既にその視線をキャンパスの上に戻していて、その風景に私などまるで初めから存在していなかったみたいだ。

白いシーツの上に咲き誇る鮮やかなキャンパスを私は心底羨ましいと思った。

病室の扉を閉めて、私はその場を後にした。

泣きたくなんかなかった。
辛くないと言いたかった。
それでも熱い雫は私の頬を伝い落ちるし、私の心はこれ以上ないほど叫んでいる。

痛いよ。苦しいよ。どうして?ねぇ、どうして?どうして、忘れてしまっているの。

もう完全に治った私の足はその場から走り去ることを許してくれた。
そう言えば、いつだって走っていたような気がする。

あの日も、こんな風に廊下を駆け抜けていたっけ。




夕日に染まる校舎の中。
あの日、私は休んでいる健二に代わって日直をしていた。

そう、そうだ。
だから、一人だけ放課後に残って日誌を書いていた。

しばらくすると、私の携帯電話が鳴った。
私は何の疑いもせずにそれに出た。
かかってくる電話に疑いを持つなんて大抵の人はしないだろうけれど。

それでもあの日、私は疑うべきだった。
それができないのならば、せめて心の準備をしておくべきだった。

だってあの電話は、普段なら決して電話をかけないような人からかかってきたものだったのだから。
電話が嫌いな父さんから。

だけど、あの日は確か特別な日だったから、私は良い話だと思って電話に出た。

……どうして、あの日は特別だった?

そう、仲直りできると思ったの。
……健二と。

そう確か、あの日の前の日に、私は健二に酷いことを言ってしまって、どうしても謝りたくなって、それで。

……。

駄目だわ。
どうして何も覚えていないの。
とても大切なことのはずなのに。

……そう、それで、電話を教室で取った私に衝撃が走り抜けた。
心臓が死ぬほど痛いと思って、それが笑えないジョークだと泣いた。

……待って、誰か、死んだの?
でも誰が。

私は日誌をその辺に放り出して、勢いよく椅子から立ち上がった。

教室を出て、走る。
私が一人、廊下を駆けていく。

肩にかけていたスクールバックを持ち直して、私は橙色の世界を切り裂いていった。
涙は止まることを知らずに私の頬を伝い落ちる。

私は乱暴に自分の涙を拭うけど、涙はそれ以上に溢れてくる。

泣かないで、お願い。
必死に自分に言い聞かせた。

だって、彼が昔に言っていたんだ。
『君の笑っている顔が好きだよ』って。

幼稚園の時だったかな。
その気障なセリフが彼のお気に入りだった。
私は嬉しさと恥ずかしさでそれを言われる度に戸惑った。

本気なのか、口先だけなのか。
幼稚園児ながら毎晩考えていた。

そう、とっても優しくてチャーミングで素敵な人なんだ、彼は。

私が中学生のとき一人だけ抜きんでて気が強かったから、同じクラスの女の子たちの標的になった。

最初の一か月だけだったけど。
でも、それだけで私は女の子たちの恐ろしさを知ったし、同時に彼の偉大さも思い知った。

彼が側にずっといてくれたから、私は女の子たちがどんなに恐ろしくても自分の性格を変えようとは思わなかった。
怖かったけれど、悲しかったけれど、謝って彼女たちに取り入ろうとは思わなかった。

ただの一度も。

そして、そんな私に彼女たちは飽きて、小さないじめの萌芽みたいなものは一か月で終了した。

でもね、本当は知っていたんだ。
私に飽きたから終わっただけじゃない。
あなたが、彼女たちを説得してくれたんだよね。

それだけじゃない。
沢山、沢山のことをあなたは私に教えてくれた。
私を救ってくれるのはいつもあなたの役目だった。

……これは私への罰なのかな。
私は、私のヒーローが困っている時、手を差し伸べられなかった。

だから、これは私の罪。
私が背負って生きていかなくちゃいけない。
だって、いつも私を助けてくれていた彼はもうここにはいないのだもの。

いいえ、もしかしたら私自身がその重すぎる罪を罰を背負っていたいだけなのかもしれない。

息が出来ないのは、走っているせい?
それとも、泣いているせい?

どっちでもよかった。
どっちにしたって私の罪が軽くなることはないのだから。

……もっと、いっぱい笑いたかった。
来年も夏祭りに行って花火を見ようって約束したじゃない。

それに、毎年私は誰とバレンタインを過ごせばいいの。
義理チョコの中にたっぷり本気の想いを隠して渡す相手はあなたでないと務まらないのに。

どうしてすべてを捨ててしまったの。
……ねぇ。


「健二……」



私は病院の廊下を駆けている。
そう、ここはあの日の廊下じゃない。

でも、あぁ。……すべて思い出した。

二年前のこと。
私の過ち。
私の罪。

そして、色んな人が私の嘘に付き合ってくれていたこと。

途中、健二に似た少年の側を私は走り抜けたけれど私はもう間違えなかった。

私より若くて中学生くらいの男の子。
彼が私の名前を呼んだ気がしたけれど、きっと気のせいだろう。

私は立ち止まらずに駆けていく。
本物の、健二の元に。

伝えられなかった想いを今度こそ伝えたい。
しっかり聞いていてよ。

だって二度目はないからね。
一度しか言わないからね。

「大好きよ、健二」

私は両手を広げて、空を飛んだ。
健二と同じ最期を選んだ。

春の風は思っていたよりもずっと優しく私を受け入れてくれた。

ねぇ、健二。
あなたの飛んだ秋の空はどんな感じだった?

今度、聞かせてね。
告白の返事と一緒に。











健二は優しい人で。
健二は心配性だ。
健二は夜の街で働いていて。
健二はヘビースモーカー。
そして、健二は絵描きだ。

健二はいつだって困ったように笑って私を見ていた。

本当は分かっていた。
本当は知っていた。
でも傷付きたくなくて、私は逃げた。

さよならなんて、したくなかった。
愛しているとずっとずっと伝えたかった。

それはもはや叶わぬ夢で、だから私は健二を今も探しているし、これからも探し続けるのだろう。

彼を愛するために。
彼と生きていくために。
なぜなら健二は、私の青春そのものだったから。
 











四人目の健二は首を横に振り、目の前に座る他の四人の健二に向かってこう言いました。

「お嬢さんは、極度の精神状態だったと言えます。最後の最後で、あなたたちのことを思い出したのかはわかりません」

一人目の健二が泣いています。
「どうしてだよ。……どうして、兄さんと同じ方法で……」

二人目の健二はこうべを垂れて、言いました。
「違う。あいつは健二と同じ方法だったから、飛んだ。……元を辿ればすべての原因は俺なんだ。俺と仲良くなっていなければ、健二は死なずに済んだ。それから、あいつまで死ぬ必要もなかった」

三人目の健二は何も言いません。
いえ、何も言えないのでしょうか。
ただ、煙草を蒸かして空を睨んでいるばかりです。

五人目の健二は自分とは随分歳の離れた健二たちを見て、こう言います。
「……健二はいい子だった。わしの自慢の孫じだよ。……それは、あの子がどこに行ってしまおうと、何も変わらない」

五人目の健二の言葉に反応したのは、一人目の健二です。
「……お爺ちゃん……」

それは、五人目の健二の約二年ぶりの言葉でした。

彼らもまた、あの日以降、曖昧で不確定な世界で生きていたのでしょう。
健二のいない、悲しくて辛い冬を。
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