春のうらら

高殿アカリ

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 長い夜が明けた先には、拍子抜けするほど平和な毎日の始まりがあった。
 魔王城の豪奢な寝台の上で目が覚めたシノニムはぼんやりと天蓋を眺めた。
「あぁ、そうか。結局、俺は魔王の手を取ったのか」
 寝台から起き上がると同時に、重厚な部屋の扉が勢いよく開かれた。
 驚いて瞬きを繰り返すシノニムに向かって、元気で朗らかな少女の声が届いた。
「おはよう、シノ。昨日はよく眠れたかしら?」
 ご機嫌な様子の麗だった。
 昨日の冷静な彼女とは大違いである。
「あぁ、おはよう」
 シノニムが返事をするや否や、麗は彼の腕を引っ張り、寝台から引き摺り降ろした。
「さぁ、今日は魔界内を案内するわ」
 我儘ににこにこと満面の笑みを浮かべる彼女はどう見ても本物の春野麗であった。
 シノニムは昨日の出来事が夢でなく現実に起きたことであると、ようやく認めた。
 いや、認めるほかなかったのである。
 シノニムは麗に急かされるまま、出掛ける用意をした。
 そして二人は魔王城を飛び出したのだった。
 その後ろ姿は十年前と酷似していた。
 城を出た麗は特別な厩舎小屋へと足を向けた。
 そのことを知らないシノニムは当然ながら、質問を繰り出す。
「どこに向かっているんだ」
「一角獣の厩舎小屋よ」
「一角獣?」
「大きな馬に一本の角と翼が生えた種族ね。もちろん、ここにいるのは人工機械よ。魔界領域内での主な移動手段なの。魔界の住人たちのために造られた魔物だから、基本的に魔界内でしか見かけない貴重な種族なのよ」
 ふふん、と自慢げに胸を張って麗は述べた。
「一角獣は騎乗者を守る絶対的忠誠心とそれに見合うだけの獰猛さを兼ね備えているからね。魔界の住民たちを守ってもらっているの。魔界領域に踏み込んできた正義感に燃えた冒険者たちとうっかり出逢ってしまったときや、領域の境界線付近まで迷った魔物たちを連れ戻しに行かなくてはならないときのためにね。……もしも、が起きてしまっては遅いから」
 そう言った麗の表情は硬い。
 そのことからも過去にあった出来事は容易に想像してしまえた。
 麗の説明が終わる頃には、立派な厩舎小屋の前に立っていた。
 馬に似た鳴き声がほんのりと聞こえている。
「ここで待っていて」
 麗はそう告げて、厩舎小屋の中へと入っていった。
 しばらくして小屋の扉が開いたとき、彼女は一匹の一角獣と共に出てきた。
 その獣は漆黒の毛並みを上品に艶めかせていた。
 立派な角には硬質さを、深紅の瞳には知性を宿らせた悠々たるその姿に、シノニムはただ圧倒された。
 実際、一角獣の体躯は見慣れた馬のそれより一回り大きかった。
 神秘を感じさせる一角獣に跨った麗はまさに女神の如き様相をしていた。
 彼女は少しだけ照れ笑いをしたように、シノニムには見えた。
「実はね、シノにも用意してあるの」
「え?」
「ほら、おいで」
 麗の言葉に反応するように、彼女の後ろからおずおずと顔を出してきたのは一匹の一角獣だった。
 きゅる、と甘えるような鳴き声を出し、上目遣いでシノニムを見ていた。
 その一角獣はくりくりとした丸い目をしていた。
 空色に輝く大きな瞳にシノニムの影が映っている。毛並みと角は純真な白さであって、きゅるんと愛くるしい。
 白い一角獣はシノニムが害のない人間だと見做すと、無防備にも彼の側に寄って来たのだ。
 そうして、身体を擦り付けると気持ちよさそうに鳴いた。
 ふわふわと上質な手触りをした毛の塊に、シノニムは戸惑いを隠せない。
 そんな彼らの様子に麗は笑った。
「随分と好かれたわね」
 麗の言葉に悪い気はしないシノニム。
 シノニムに懐く一角獣は、どこか愛馬に似ていた。
 彼は魔界領域に入る直前に逃げ出してしまったのだが。
 数日前に失った愛馬を思い出しながらも、彼は一角獣の身体を撫でてやった。
 嬉しそうな鳴き声で答えた一角獣に、シノニムの頬も緩む。
「さぁ、行きましょう」
 麗の声を合図に、シノニムは一角獣に跨った。
 ぐんと視界が高くなり、そのあとすぐに浮力を感じた。
 一角獣が力強く地面を蹴って飛び立ったのだ。
 筋肉の活発な動きが騎手にも伝わってくる。
 突風が身体の横を抜け、一瞬だけ魔界領域の全貌がシノニムの眼下に広がった。
 だが、それも一瞬のことで気が付けば、一角獣はがくんと下降態勢に入っていた。
 結果シノニムが一角獣の騎乗に慣れる前に、既に彼らは魔界の森に降り立っていた。
 ほんの一瞬の空の旅であった。
 翼の風圧が収まり、シノニムはふらつく足を叱咤して一角獣から降りた。
「ここが魔界の森。どう、私たちが昔よく遊んでいた森によく似ているでしょう?」
 一息ついて辺りを見渡すと、清純な空気を含んだ青々しい森が広がっていた。
 懐かしさにシノニムの視界の端がほんのりと滲んだ。
「向こう側に泉もあるのよ。まずはそこから案内するわね」
 楽しそうに、嬉しそうにはしゃぎながらシノニムを振り返る麗に、彼は目を細めた。
 ほとんど無意識の行動だった。
 自慢したくて仕方がない麗はシノニムの変化に気付いてはいなかった。
 小さな妖精たちがそんな二人の髪を引っ張り、存在を主張する。
 色とりどりの妖精が二人の周りを飛び交い、踊る。
 幻想的な目の前の光景にシノニムは目を見開いた。
「ピクシーたちも貴方を歓迎しているみたいね」
 麗と妖精たちに誘われるようにして、辿り着いたのは泉のほとりだった。
 向こう岸には妖精らしき美しい乙女たちがじっとシノニムを見ていた。
「彼女たちは?」
 シノニムの問いに麗は肩を竦めた。
「あぁ、気にしないで。ナーイアスという泉の妖精種族なの。泉の番人で、シノが泉を汚さないか警戒しているのよ。だから、勝手に入っては駄目。彼女たち、怒っちゃうから」
 泉を覗き込むと、確かにこれ以上ないほど透き通っていた。
「息を呑むほど、透明で綺麗でしょう。薬草師の孫なら、この泉の水がどれほど貴重なものか理解しているんじゃないかしら」
 揶揄う口調の麗に、シノニムは頷きを返した。
 これほどまでに不純物のない泉は本当に珍しく、ここの泉を素材にした回復薬はどれほどの効能を持つのか、シノ ニムにさえ計りかねた。
 泉の番人がいるのも至極妥当なことだと納得した。
 と、同時に先ほどから拭えない違和感を口に出した。
「魔王城に向かうときには、こんな森を見かけなかったが。かなり様子の違う場所なのだな」
 シノニムの言葉に麗はあっけらかんと答えた。それが彼にとって思いもよらぬ返事だとは想像もしなかった。
「あぁ、それはホログラムのせいね」
「……ホログラム?」
「幻想魔法のようなもの、と伝えた方が分かりやすいかしら」
 麗は革のポシェットから小さな遠隔操作用のリモコンを取り出した。
 不思議そうに見つめるシノニムの視線を感じながら、ぽちりとリモコンのボタンを押した。
 すると、今までの情景が嘘のように空が黒く染まり、霧が辺り一面に充満し始めた。
 後ろを振り返れば、魔王城だけが怪しい紫色の光を帯びていた。
 禍々しい雰囲気の完成だ。
「いかにも、でしょう? 勇者と名乗る冒険者たちが迷わないようにシステム化したのよ。道に迷った彼らのせいで無害な魔界の住人たちに被害が出るのも嫌だったしね」
 麗は悪戯が成功した子どものようにくすっと笑った。
「そうなのか」
 確かに、普通の森よりも神聖な印象を与えられてしまった場合、本当に魔界なのかと戸惑う冒険者たちの様子が容易く脳裏に描かれた。
 麗がもう一度ボタンを押すと、あっという間に世界は元の清らかさを取り戻した。
「さ、次は城下町よ。魔王の補佐官になるなら、まずは町のみんなを知ってもらわなくちゃね」
 再び一角獣の背に乗り、次に降り立ったのは王都に匹敵するほどに大きな街であった。
 門には衛兵もおらず、誰に咎められることなくあっさりと街中に入ってしまえることにシノニムは驚いた。
 そんな彼の様子に気付くことなく、麗は城下町の説明を始めた。
「ここには魔界領域内の人間が全員住んでいるのよ。びっくりでしょ」
 中心部に近付くにつれ、麗とシノニムの存在を認識する住民たちが増えていった。
 彼らは一定の距離を保ってシノニムたちを囲む。
 正確には、麗を一目見ようと集まってきているようであった。
 住人たちは高揚を露わに、麗を見ては満面に笑みを浮かべた。
 それはとても幸せそうな表情で、彼らが麗を慕っていることがよく分かった。
 すると、大通りの向こう側からばたばたとこちらに向かって走ってくる小さな影が数人視界に入ってきた。
 幼い子どもたちはそれぞれの手に思い思いの花を持っていた。
「お姫様、お花をあげる!」
 代表して一人の女の子が薄桃色のガーベラを差し出した。
「ありがとう」
 麗がそれを受け取ったのを見るや否や、周りの子どもたちも次々に花を麗の腕の中に押し込めている。
 照れている子が多いのか、ほとんどの子どもは声を出していなかった。
 麗が律儀にも全員にお礼を言う。
 不思議に思ってその光景を見ているシノニムに麗が理由を語ったのは子どもたちが去ったあとだった。
「子どもたちのほとんどは言葉を知らないの」
「え?」
「言葉を交わす環境にいられなかった子や、酷い虐待を受けて精神的に声を出せなくなった子が多いのよ。私に声をかけてくれた女の子も初めは言葉を知らなかった。本当に、人間って凄いわよね」
 そう言った麗は眩しそうに目を細めて、遠くに過ぎ去っていく子どもたちの背中を見つめていた。
「あ、シノに魔界名物の美味しいたい焼きを食べてもらわなくちゃいけないわ。悪いけど、あそこの噴水で待っていてくれる? すぐに貰ってくるわ」
 麗は道の先にある噴水を指差して、それだけ告げるとシノニムの返事を待たずに駆け出して行った。
 目的に向かって猪突猛進なくせもどうやら十年間では治らなったようだ。
「ははっ!」
 シノニムは声を出して笑った。
 そして、一瞬ののち自分が笑ったことを理解して口に手を当てた。
 喜びという感情が抜け落ちてから随分と久しく、彼は驚いたのだ。
 まだ自分にも声を出して笑うことが出来るのか、と。
 噴水の周りを囲む石の縁に座り、シノニムは麗が帰ってくるのを待っていた。
 そんな彼に声をかけてきたのは住人たちだった。
「ちょいとお兄さん。あんたは麗様の騎士なんかえ?」
「えっと……」
 戸惑うシノニムに構うことなく住人たちは好き好きに話を始める。
「麗様が誰かと一緒に街を歩いてるなんてのは初めて見たさね」
「おお、そうだそうだ。随分とまぁ楽しそうに案内していたなぁ!」
「いいことさ。この町には大人と小さな子どもしかいないからねぇ。麗様と同じ年ごろのあんたがいてくれりゃあ、街のみんなも安心ってもんさ」
「あたしらも昔は魔物が怖かったんだけどねぇ、今では随分と可愛く思えちまってよ。あんたもそのうち慣れるさ。安心しな」
「おいおい、麗様が連れて歩いている男だぞ。魔物なんかに怖気づいちまうタマではないだろうがよ」
「そうかい? なら、他にどんな話がいいか言ってみなよ。魔界に住むのが楽しくなって、ついでに麗様の印象もあがるような話だよ。分かっているだろうね?」
「なら、マリアさんとこの話でもしてやろうじゃあないか。マリアさんはな、子どもが生まれてすぐ自ら望んでこっちに越してきた人なんでぇ。ここいらじゃ、珍しいね。なんでも生まれた子に不治の病が見つかったんだと。したら、どういう経緯か麗様が直々に魔界に招待したらしい。空気の良い街があるってな。で、ものは試しとこっちに来たら、あら不思議。どんな名医でも匙を投げた病があっという間に完治したっていうじゃあねぇか。どうだ? この土地と麗様の慈悲に言葉も出んだろう! がはははは」
 住人たちから麗と魔界領域に関する話を次から次へと聞かされたシノニムは魔王や魔物に対する認識を改めた。
「ちょっと、一体何をしているの⁉」
 麗の声が聞こえ、住人たちは顔を見合わせると彼女に問い詰められる前に脱兎の如く逃げ出したのであった。
 いや、本当に敬っているのか? ひとり残されたシノニムは走り去っていく彼らの背中を見送った。
「もう、あいつら~。シノ、何か変なことを聞かされていない? 大丈夫よね?」
 麗は不安そうに眉尻を下げてシノニムに問いかける。
 変なこと、ではないよな。
 シノニムは先程の会話を思い返し、麗の言葉に肯定を示した。
「魔界の性質を教えてもらっていただけだ」
 シノニムの言葉に麗は分かりやすく安堵していた。
 そして腕の中に抱えた紙袋から魚の形をした焼き物を取り出し、シノニムに差し出す。
 そろそろとたい焼きを受け取った彼に麗は笑みを返した。
「これは、私が考案した魔界の名産なのよ。正しくは、地球の食べ物をこっちで再現しただけなんだけどね。何はともあれ、すごく甘くて美味しいから食べてみて」
 早く早くと瞳を輝かせた麗に期待を裏切れず、シノニムは初めて見る食べ物らしき物体を口に運ぶのであった。
 もちりとした触感のあと、ほろほろとした甘さが口内を満たし、シノニムは目を見開いた。
 麗に視線を向けるも、「美味しいでしょう」と自信に溢れた表情が返ってきただけであった。
 魔界の唯一無二にして最大級の都の真ん中で、二人はしばらく甘味に舌鼓を打ったのであった。
「さ、次は魔物たちの飼育場に案内するわ。基本的に魔界全域で放牧しているのだけれど、一部の弱い魔物たちには飼育場を設けているの」
 着いた場所ではアルミラージを飼育していた。
 巨大な小屋の中に数頭のアルミラージが仕切りごとに納められていたのだ。
 アルミラージはシノニムが初めて見た魔物であり、あの時の恐怖はどんなに強大な魔物を倒した経験があってもなお、シノニムの中から消えていなかった。
 故に彼は頬を引き攣らせた。
「大丈夫よ、シノ。十年前のアルミラージも結局は何もしてこなかったでしょう? 彼らは連絡手段としての魔物だから攻撃力はないのよ。凶悪なのは見た目だけ」
 麗の台詞に同意するかのように、一匹のアルミラージがシノニムに近寄ってくる。
 確かに円らな瞳だけを見れば、無害なように見えないこともないが。
 麗は二人を引き合わそうとアルミラージを閉じ込めている木製の柵を開いた。
 慌てて後退するシノニムであったが、流石は魔物であるアルミラージの脚力を持ってすればたった一歩でシノニムの目の前までやってこられるのであった。
 シノニムの昔のトラウマなど知らん、とばかりにアルミラージは彼の側に寝そべり、そのふわふわの体躯を彼の方へ差し出していた。
「あら、撫でて欲しいみたいよ。すごく気を許しているわ」
 感心した麗の声が耳に届くも、シノニムはちっとも嬉しくはなかった。
「撫でないの? それとも十年前のことがまだ怖いのかしら」
 きらりと麗の瞳に揶揄いが煌めく。
 むっとしたシノニムは恐る恐るアルミラージの体毛に手を伸ばす。
 ぽふ、と間抜けな感覚がシノニムの指に触れ、ようやく彼の強張った身体から余計な力が抜けた。
 アルミラージの身体はもふもふと柔らかい毛で覆われており、シノニムは次第にその触り心地に夢中になった。
 一人と一匹が心を許し合ったことを確認した麗は飼育係の住民に報告することがあり、その場を去った。
 次に麗が飼育小屋に戻ったとき、シノニムとアルミラージの様子を見て微笑んだ。
「昨夜はよく眠れなかったのかしら」
 シノニムはアルミラージの身体に全身を預けてすやすやと穏やかな寝息をたてていた。ふわふわの毛に埋められた彼の表情は幸福そうに見えた。
 あながち、麗の抱いた感想は間違いではない。
 実際、彼にとってこんなにゆったりとまともに眠るのは本当に久方振りのことであったのだから。
 復讐を心に決めて以来のまともな熟睡であったのだから。
 シノニムの寝顔にはっきりと浮かぶ隈を麗は見つけた。
 そして彼女はぽそりと呟いた。
「ごめんね、シノ」
 彼女の懺悔が彼の耳に届くことはなかった。
 ただ小屋にいたアルミラージだけがその声を聞いていた。

 シノニムが魔界領域にやって来てから数か月が過ぎた。
 彼がここの生活にも慣れてきた頃のことだった。
 ある日、麗が遠慮がちに口を開いた。
「あのね、シノ」
「どうした。何か問題があったのか」
 シノニムは思考を巡らす。
 アルミラージが脱走した(好奇心旺盛な魔物なのだ)か、一角獣が変なものを食べた(胃が弱い魔物なのに)か、ドラゴンを連れ戻す(悪戯好きな魔物は関係ない村や町によく遊びに行ってしまう)話か。
 だが、続く麗の言葉はシノニムにとって全く予想していなかったものであった。
「実はリーラム帝国で開催される世界会議に出席しなくちゃいけなくって。世界の国王や大使が一斉に集い、魔界の扱いについて意見を擦り合わせる会議なのだけれど。ちょっと一緒についてきてくれないかしら?」
「リーラム帝国……」
 そこはシノニムと麗の故郷でもあった。
 名の通った冒険者として活動し、最後には王都の人々が期待を込めて魔王城へ向かうシノニムを送り出したこともあり、手放しで行きたいとは思えない。
 だが、麗が半ば確信犯的に「ダメ?」と首を傾げながら不安げにシノニムを見つめるのであるからして、彼もまた「嫌だ」とは強く言い返せなかった。
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