セイ

高殿アカリ

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次の日、私はいつもより少しだけ早く登校した。
何だか昨日の出来事が嘘みたいで、確かめたくなったのだ。

教室の扉を開ける。
まだ誰も来ていないみたい。

ほっと息をついて、黒板の隅の方に並べられた黒板消し達を見る。

……セイはどれだろう。
一つ一つ手に取って確かめてみるも、どれもセイのような、そうではないような。

朝の教室。
一人で黒板消しを見つめ、しきりに首を傾げる少女。

……はっと今の状況に気が付いて、慌てて自分の席に座る。
それでもやっぱり気になって、じーーっと黒板を眺めていた。

暫くすると、徐々にクラスメイト達が登校してきたので、見るに見られない状況になっちゃったけど。

その日、先生が黒板消しを取る度に、私は息をつめて黒板消し達を見つめる。
……あぁ、痛いよ、そんなに強く消しちゃったら。

痛い痛いって言って泣き出すんじゃないか、と思ったら、何だかおかしくて。

気が付けば頬を緩めている私がいた。

いつの間にかもう放課後になっていて、部活も勉強もない私は、ちらりと黒板消しに目をやると、そっと教室から立ち去った。

何故だか、セイに会いたいと思っていることを知られたくなかった。
セイにも、自分にも。

うん、昨日は半分夢の中の出来事だったんじゃないかな。
ほら、寒かったし。

ああいう出来事は一度でいいんだよ。
毎日のように遅くまで残るなんて物理的に無理な話だしね。

そこまで言い訳を繰り広げた時、突然に強い力で引っ張られると、気が付けば誰かの腕の中にいた。

「……え」

その瞬間、感じたのはスンスンと鼻を鳴らす音と、首筋に感じるくすぐったい感覚。

……これは。

「っつ、セイ!! なんでこの時間にいるの!?」

 吃驚して私を抱きしめていた彼を離す。

「えーー、だって、えっちゃんが帰っちゃいそうだったし」

ぶぅぶぅと唇を尖らせて不満げな顔をするセイ。

「いやいや、ばれたらどうするの!」

「わぁ、えっちゃんが僕の心配してくれてる!」

人が本気で言っていることなんてお構いなしに、彼は嬉しそうに顔を綻ばせて私に抱き付いてこようとする。

尻尾が今にも生えてきそうよ、セイ。

顔が赤い? 心臓が五月蠅い?
一体何のことやら……。

自分自身に意味のない言い訳なんかしながら、私はセイの姿に頭が痛くなった。
こっそりと息づいている確かな自分の鼓動にも。

セイは、ニコニコと笑いながら、とんでもない話を吹っ掛ける。

「ねぇ、えっちゃん! 僕、クレープ食べたい!」

……あぁ、私は絶対にセイに勝てないのだな。

夕日に染まる街の中。
ありふれた少女と異国風の青年がクレープ屋を目指して歩いている。

「ねぇ、セイ」
「ん?」
「セイって、普通に誰にでも見えているの?」
「うん、そーだよ」
「……へぇ」

そんな会話を繰り広げながら歩く。

セイは時折、私の顔を覗き込む。
その度に私はどぎまぎして視線を逸らす。

夕焼け色に染まった彼の色素の薄い髪の毛のせいよ!

いい加減に素直になれよ、と諦めて自分の感情に向かい合った、その時。

温かいものに包まれた左手。
はっとして顔をあげると、セイが……。

「寒いーー」

肩をすぼめていた。

がっかりだわ、タイミングがタイミングなだけに……。

はぁ、とやりきれない思いを吐き出す。

すると、セイが不思議そうな顔をして覗き込んでくるから、私は何だか悔しくなって、セイの右手を強く握った。

強く。

セイはそれでも嬉しそうに無邪気な表情で握り返してくるから。
やっぱり私はセイに勝てっこない。

その日、夕闇の中、二人で食べたクレープはどことなく切ない味がした。

時は、あっという間に流れてしまう。
それはもう、残酷なほどに。

毎日のようにセイは放課後になると私の前に現れた。
そして私にこの街のあらゆるところを案内させるのだ。

左手はいつも温かかった。

ある時は最近流行りの喫茶店に、またある時はゲームセンターにカラオケなど、セイはどんな場所にでも行きたがった。
私はそんな時間を愛しく感じていた。

そして、今日、私は遂に高校を卒業した。

そんな放課後、ぼんやりと教室に佇む私の目の前で、セイは黒板消しからその姿を現す。

私達は暫く何も言葉を交わさなかった。
まるで初めてあったあの頃のように。

「今日は、どこに行く?」

 私は心臓に刺さっている棘の痛みを殺して問いかける。

もう、もう、二度と。

セイは笑う。

それは、いつもの甘えた笑みなんかじゃなくて。
もっともっと優しくて、温かくて。

私は泣きそうになるのを堪えるしかなかった。

セイは言った。

「今日は、えっちゃんに見せたいものがあるんだ」

その瞳を見て、私は彼が全てを分かっているんだと知った。

セイが差し出すその手を、私は厳かに握った。
温かなその右手も、今日限りなんだ。

セイと私の間に会話はない。
それが妙に心地よくて、やっぱりでもちょっとだけ悲しくて。

セイが足を進めるその場所に、心当たりがあるから。
やっぱり最後までセイにはやられっぱなしだな、なんて苦笑して。

セイと私は同時に足を止める。

一つの横断歩道。

なんの変哲もないその場所では、誰もがいつもと変わらない時を過ごしている。

小学生が、サラリーマンが、お婆さんが、そして私とそう歳の変わらない女子高生達が、青に変わった信号に反応して、歩き出す。

私とセイだけを取り残して。

「……セイは、全て知っていたんだね」
「うん、ずっと、えっちゃんを見ていたからね」

互いの目を見ることなく、私達はぽつりぽつりと言葉を交わす。

「私が可哀想だったから出てきてくれたの?」
「っっ! それは違う!」

セイの握る力が強くなる。
あなたは、どこまでも優しい人なんだね。

「セイ、私ね。何の取り柄もない女の子だったの」
「……うん」

「そこら中にいる女の子と何も変わらなかった。……ありふれた世界のありふれた一人だったの」
「……うん」

セイは、ゆっくりと頷きを返してくれる。
そのことに安心して、私は気負うことなく、事の真実と向き合えた。

「だからね、まさかトラックに跳ね飛ばされて死ぬだなんて、思ってもみなかったの!」

とびっきりの笑顔を見せて、セイの方を見る。
セイはひどく傷ついたような瞳をしていた。

あぁ、やっと目を合わせられた。
そう思ったときにはもう既に、私はセイの腕の中にいた。

「相変わらず、セイは泣き虫ね」

私はセイが愛しくて、背中をあやすように叩いてやる。

彼の優しい涙が私の肩を濡らす。
馬鹿ね、セイがそんなに泣くと、私が泣けないじゃない。

溢れかけた言葉は胸に押しとどめた。
それでも、セイの肩越しに見える景色に私は一粒の涙を流した。

「……セイ、見て」

きつく、きつく抱きしめるセイに囁きかける。
セイはゆっくりと私から離れ、赤くなった瞳を私に向けた後、私の涙を優しく拭った。

そして、ようやっと後ろを振り返る。

ありふれた世界のありふれた日常のありふれた道路の一角。
お母さん、お父さん、先生、友達、先輩……。

皆が、私に会いに来ていた。

綺麗な色とりどりの花を抱えて。
私の好きないちご味のキャンディーと温かいココア。
……そして、私の卒業証書。

未だ繋がれたままのセイの右手をぎゅっと握る。
セイは驚いた顔をして私を見る。

私はさっきの続きを話す。

「……でもね、セイ。私、嬉しかった。短い人生だったし、何にも残せなかったのかもしれない。もちろん、心残りだってたくさんあるよ」
「うん」

「でもね、セイに、会えた。セイが、私を見付けてくれた」

私は今、一番可愛い顔を出来ているかな? 好きな人の前では少しでも可愛くいたい。

「……ぼ、僕も。えっちゃんに会えてよかった」

泣きながらそんなことを言うセイ。

ほうら、やっぱりセイはセイだ。
こんなにも私の心を持ち去っていく。

「……セイ、私に出会ってくれてありがとう。一週間だけだったけれど、私はセイに助けられた。だから今こうして自分の行くべき場所が分かってる。……泣かないで、セイ。私は本当に今、幸せだから」

私はセイに近づき、彼の涙をそっと拭ってやる。
彼が私にそうしてくれたように。

そうして、彼の後ろに見える温かな光景を瞳に焼き付けながら、彼に言う。

「セイ、こんなにも幸せなことってある? 大切な人たちに見送られて、あるべき所に戻っていけるなんて」

セイはもう、泣いてはいない。
ただ真っ直ぐに私を射抜く。

彼がゆっくりと近づいてくる。

私はそのまま瞳を閉じて、最後の最後に彼に告げる。

「好きよ、セイ」

彼の優しくて甘い唇を感じた。
少しだけ涙の味がしていた。
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