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プロローグ

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クレオが拠点の玄関を開けて最初に目にしたのは、倒れているゴードンの姿だった。

クレオは眼鏡の縁をくいっと押し上げる。動揺しているときの彼の癖だ。

静寂が部屋を満たしていた。
彼は微動だにしないゴードンにそっと近づいていく。

クレオは、横たわる彼の口から血液が垂れているのを確認した。

はっと口を抑え、数歩下がる。
意識を失ったあとの吐血は、第一形態のそれだからだ。

よろよろと壁に手をつき、クレオは掠れた声でゴードンに話しかけた。

「……冗談はやめてくださいよ」

声が少し震えていた。

もぞり、とゴードンが動き始める。

だが、まだ油断してはいけない。
彼が生きている者だとは言い切れないからだ。

クレオはナップサックに括りつけていたなたを取り出し、ゴードンとの間合いを取る。

ゆうらりとゴードンが起き上がる。
まるで軟体動物みたいに柔らかな動きだった。

通常のなたより重さを感じるのは、巫山戯たゴードンが余分な装飾をつけたせいだ。

「そのせいで生きる屍になるのは御免ですからね!」

ゴードンが飛びかかってくると同時に、クレオは両手を振りかざした。
だが刃が柔らかい肉を貫く前に、彼の腕は強く引き寄せられた。

がばり、と太い筋肉質な腕がクレオを羽交い締めにし、クレオの頬は厚い胸板に押し付けられた。

どくんと不覚にも鼓動が脈打ったのは恐怖故か、それとも――――。

「がははは!」

ゴードンの朗らかな笑い声がクレオに耳に聞こえてきた。
瞬時に彼は悟る。

「なっ! 私を騙しましたね!」

怒ってゴードンの胸から顔を上げたクレオ。
そして、その彼の頬を優しく包むゴードンの両手。

逃げ場の無くなったクレオの頬は、かーっと赤く染まる。
冷静沈着な彼の普段は見せない表情にゴードンの耳も少しだけ照れている。

「騙される方が悪いんだよ」

「血はどうされたんですか? まさか何処か怪我なんてしてないですよね?」

ヒヤリと冷たい視線で睨みあげるクレオに、ゴードンはにやりと返した。

「これだよ、こーれ」

ゴードンがポケットから取り出したのはケチャップの瓶だった。
中身が半分ほど無くなっている。

はっとしてクレオはゴードンの服についた赤い染みに鼻を寄せる。

「おいおい、やめろって」

引き剥がそうとするゴードンの手を跳ね除け、嗅いだ香りは確かにトマトのそれだった。

「ゴードン! なんてことしてくれてるんですか! 貴重な食料なんですよ⁉」

クレオが声を荒らげる。
ゴードンはポリポリと頬をかいた。

「いやぁ、つい思いついちまったからなぁ。やらんわけにもいかんだろう?」

「時と場合によります。特に今はこんなご時世なんですから」

はぁぁ、と長いため息をついて窓に近づくクレオ。
ゴードンは彼の少し後ろから窓の外を眺めた。

彼らが生きるは終末世界。
柵で囲われた農園を一歩出れば、そこには血に飢えたアンデッドたちが徘徊している。

元は人間の、生きる屍たちが次なる感染者を求め昼夜問わず存在するディストピアだった。

数多もの呻き声、そして屍たちの気配は常にゴードンたちを捕らえている。

これは、はちゃめちゃな世界で遊ぶ俺とお前の、あるいは私と彼の物語。

唯一無二の大冒険譚でもあり、何気ない愛おしい日々の記録たちだ。
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