7 / 10
7
しおりを挟む
その日、私はこっそりと屋敷を抜け出そうとしていた。
幸いに、私が逃げないと確信した鏡夜は数日前から部屋の前にいた使用人たちを通常の業務に戻していた。
必要最低限の荷物は持っていきたかったので、私に与えられていた部屋に立ち寄った。
「何、してるんだ?」
戸惑いながらかけられた声に私の足は、立ち止まった。
驚いて振り返ると、そこに居たのは洋介くんだった。
「……洋介くん」
数週間ぶりに見る洋介くんは、どこか吹っ切れた顔をしていた。
彼なりに何かしら思うところのあった数週間だったのかもしれない。
「部屋から出て大丈夫なのか?」
何の他意もなく、そう尋ねる洋介くんに私は協力してもらうことにした。
「ねぇ、洋介くん。……私をこの屋敷から逃げ出させて欲しい」
一瞬、難しい顔をした後に彼は了承した。
「……わかった」
そのあと、洋介くんは私に何かを聞くこともなく、屋敷の裏門に連れてきてくれた。
「すぐ外に、タクシーも呼んであるから」
「ありがとう、洋介くん。本当に、ありがとう」
瞳を潤ませながらそう言うと、彼は照れたように笑った。
そして真剣な眼差しになると、
「……それより、この間はごめん」
がばりと頭を下げてきた。
如何にも誠実そうに彼は謝った。
その変わりようといったら。
私は笑って、最後に少しだけチクリと刺した。
「随分、新しい女の子に感化されちゃったみたいだね」
私の言葉に洋介くんは目を見開いた。
「まさか、気付いてないとでも思ってた? 毎日のように、楽しそうだなって思いながら出掛けていく洋介くんを見てたんだから、嫌でも分かるよ」
未だ、口をぱくぱくさせている彼を放置して、私は扉を開けた。
「ありがとう、洋介くん。……ばいばい」
幸せにね、という言葉は飲み込んだ。
やられたことを完全に許せるほど、私は出来た大人ではなかったから。
タクシーの中で、脳裏に過ぎるのは彼のことだった。
彼の舌が、指が、腕が、何度も何度も私に触れた。
そのことに初めから、嫌悪感はなかったのかもしれない。
彼に抱かれることを嫌だと思いたかったのは、きっと彼が私のものではないと知っていたから。
彼に声を聞かせたくなかったのは、彼に愛されていると思ってしまうのが怖かったから。
……私はたぶん、一目見たときから彼のことが好きだった。
次の瞬間には、失恋していたのだけれど。
ぽろりと流る涙をそのままに、私は自分のお腹に手を当てた。
彼の声が好きだった。
彼の指先が好きだった。
何ひとつ優しい記憶なんてないけれど、それでも私は彼を好きだった。
それはもう、どうしようもないことで。
身体から始まる恋もあるのだと、今身をもって知る。
近くのホテルにタクシーが停まり、私はドアを開けた。
そこから一歩を踏み出そうとした私の身体は、誰かの力強い腕に閉じ込められる。
嫌というほど記憶に叩き込まれたその匂いに、私は息が詰まりそうだった。
「……ど、うして」
絞り出すように紡がれたのは、鏡夜の声だった。
「どうして、逃げた」
まるで泣き出しそうにそう言うものだから、私は顔を上げて彼の顔を見つめた。
ここで情に流されてはいけない。
そんな思いが私の中に溢れる。
「だって、私はあなたのものなんかじゃないから」
途端に私は腕を掴まれて、ホテルに連れていかれる。
「ちょっと、」
すたすたと歩く後ろ姿に、私の声は届いていない。
「ねぇ、痛いってば! 離してよ!!」
エレベーターに連れ込まれたところで、逃げられないと判断したのか、やっと二の腕が解放される。
そういえば、食事会のときも二の腕を掴まれたんだっけ。
じんじんと痛む二の腕を擦りながら、そんな場違いなことを考えていた。
チンと音がして目の前の扉が開かれると、今度は手首をそっと掴まれる。
……こんなときに優しく扱うなんて、本当に酷い男だ。
抵抗する力もなくなり、私はおとなしく鏡夜に連れられるがまま足を動かした。
鏡夜は部屋に入るとそのままベッドルームに向かった。
肩を押されて、私はベッドに仰向けにされる。
彼の唇が私の首筋を愛撫していく。
「お願い、鏡夜。……抱くのだけはやめて」
幸いに、私が逃げないと確信した鏡夜は数日前から部屋の前にいた使用人たちを通常の業務に戻していた。
必要最低限の荷物は持っていきたかったので、私に与えられていた部屋に立ち寄った。
「何、してるんだ?」
戸惑いながらかけられた声に私の足は、立ち止まった。
驚いて振り返ると、そこに居たのは洋介くんだった。
「……洋介くん」
数週間ぶりに見る洋介くんは、どこか吹っ切れた顔をしていた。
彼なりに何かしら思うところのあった数週間だったのかもしれない。
「部屋から出て大丈夫なのか?」
何の他意もなく、そう尋ねる洋介くんに私は協力してもらうことにした。
「ねぇ、洋介くん。……私をこの屋敷から逃げ出させて欲しい」
一瞬、難しい顔をした後に彼は了承した。
「……わかった」
そのあと、洋介くんは私に何かを聞くこともなく、屋敷の裏門に連れてきてくれた。
「すぐ外に、タクシーも呼んであるから」
「ありがとう、洋介くん。本当に、ありがとう」
瞳を潤ませながらそう言うと、彼は照れたように笑った。
そして真剣な眼差しになると、
「……それより、この間はごめん」
がばりと頭を下げてきた。
如何にも誠実そうに彼は謝った。
その変わりようといったら。
私は笑って、最後に少しだけチクリと刺した。
「随分、新しい女の子に感化されちゃったみたいだね」
私の言葉に洋介くんは目を見開いた。
「まさか、気付いてないとでも思ってた? 毎日のように、楽しそうだなって思いながら出掛けていく洋介くんを見てたんだから、嫌でも分かるよ」
未だ、口をぱくぱくさせている彼を放置して、私は扉を開けた。
「ありがとう、洋介くん。……ばいばい」
幸せにね、という言葉は飲み込んだ。
やられたことを完全に許せるほど、私は出来た大人ではなかったから。
タクシーの中で、脳裏に過ぎるのは彼のことだった。
彼の舌が、指が、腕が、何度も何度も私に触れた。
そのことに初めから、嫌悪感はなかったのかもしれない。
彼に抱かれることを嫌だと思いたかったのは、きっと彼が私のものではないと知っていたから。
彼に声を聞かせたくなかったのは、彼に愛されていると思ってしまうのが怖かったから。
……私はたぶん、一目見たときから彼のことが好きだった。
次の瞬間には、失恋していたのだけれど。
ぽろりと流る涙をそのままに、私は自分のお腹に手を当てた。
彼の声が好きだった。
彼の指先が好きだった。
何ひとつ優しい記憶なんてないけれど、それでも私は彼を好きだった。
それはもう、どうしようもないことで。
身体から始まる恋もあるのだと、今身をもって知る。
近くのホテルにタクシーが停まり、私はドアを開けた。
そこから一歩を踏み出そうとした私の身体は、誰かの力強い腕に閉じ込められる。
嫌というほど記憶に叩き込まれたその匂いに、私は息が詰まりそうだった。
「……ど、うして」
絞り出すように紡がれたのは、鏡夜の声だった。
「どうして、逃げた」
まるで泣き出しそうにそう言うものだから、私は顔を上げて彼の顔を見つめた。
ここで情に流されてはいけない。
そんな思いが私の中に溢れる。
「だって、私はあなたのものなんかじゃないから」
途端に私は腕を掴まれて、ホテルに連れていかれる。
「ちょっと、」
すたすたと歩く後ろ姿に、私の声は届いていない。
「ねぇ、痛いってば! 離してよ!!」
エレベーターに連れ込まれたところで、逃げられないと判断したのか、やっと二の腕が解放される。
そういえば、食事会のときも二の腕を掴まれたんだっけ。
じんじんと痛む二の腕を擦りながら、そんな場違いなことを考えていた。
チンと音がして目の前の扉が開かれると、今度は手首をそっと掴まれる。
……こんなときに優しく扱うなんて、本当に酷い男だ。
抵抗する力もなくなり、私はおとなしく鏡夜に連れられるがまま足を動かした。
鏡夜は部屋に入るとそのままベッドルームに向かった。
肩を押されて、私はベッドに仰向けにされる。
彼の唇が私の首筋を愛撫していく。
「お願い、鏡夜。……抱くのだけはやめて」
0
お気に入りに追加
31
あなたにおすすめの小説

断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

平民から貴族令嬢に。それはお断りできますか?
しゃーりん
恋愛
母親が亡くなり一人になった平民のナターシャは、魔力が多いため、母の遺言通りに領主に保護を求めた。
領主にはナターシャのような領民を保護してもらえることになっている。
メイドとして働き始めるが、魔力の多いナターシャは重宝され可愛がられる。
領主の息子ルーズベルトもナターシャに優しくしてくれたが、彼は学園に通うために王都で暮らすことになった。
領地に帰ってくるのは学園の長期休暇のときだけ。
王都に遊びにおいでと誘われたがナターシャは断った。
しかし、急遽、王都に来るようにと連絡が来てナターシャは王都へと向かう。
「君の亡くなった両親は本当の両親ではないかもしれない」
ルーズベルトの言葉の意味をナターシャは理解できなかった。
今更両親が誰とか知る必要ある?貴族令嬢かもしれない?それはお断りしたい。というお話です。
【完結】忘れてください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。
貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。
夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。
貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。
もういいの。
私は貴方を解放する覚悟を決めた。
貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。
私の事は忘れてください。
※6月26日初回完結
7月12日2回目完結しました。
お読みいただきありがとうございます。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる