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 母屋の地階の光景には、警察官達も驚きを隠せなかった。
この状況を説明するには昭和36年の夏から話を始める必要がある。だが、根乃井はこれについても黙秘を貫いた。
 代わりに語り部を務めたのは継人だった。すべての発端が自分の父親を含む3人の少年の行動が原因だったことと、麻倉恵子がその後も生きていたという確証を得るためにここに忍び込んだことを話した。ただ、高原家がどう関連しているのかは、憶測の粋を出ないので言及を避けた。
 しかし、その経緯を語るあいだも高原夏美のことがずっと頭を離れなかった。気が焦るばかり、早口になり過ぎて警察官達が顔をしかめているのにも全く気が付かなかったぐらいだ。それに引きかえ、根乃井は手錠をはめられてもなお打ちひしがれる表情すら見せない。まだ完全に陥落したわけではないという余裕すら感じられる。
 継人の心は揺れ動いた。殺人を犯す人間というのは、ここまで心穏やかでいられるものだろうか? ひょっとするとこの男の言っていることは全てデタラメじゃないのか? 
 でも、もし本当だったら・・・。
「麻倉恵子はいったいどれだけ此処にいたんだ?」プロレスラー風刑事は、手術室の天井からぶら下がっている義手の1つを手に取った。独り言のような口調で、根乃井に答えを求めているのではないらしい。「このシリコン製の代物はそんなに昔のものじゃないように見えるが」
 継人はハッとなった。言われてみればその通りだ。水力発電装置はかなりの年代物だが、手術室内のモニター機器はすべて液晶パネルで、医学書のなかには2010年以降に刊行されたものもある。バス・トイレにいたっては長野のアパートよりも新しいくらいだ。
 刑事はさらに続けた。
「これだけのものを造り上げる原資がどこにあったのかも調べる必要がありそうだ。なんせ、麻倉産業は30年以上もまえに経営破綻した会社なんだから」
「金回りが良さそうなのは、ここの御仁かもしくは伊吹繊維工業ってとこやろ」唐木は警察の官舎の2部屋分がまるまる入りそうな広いバスルームをしげしげと眺めた。
「なるほど」プロレスラー風はすかさず飛びついた。「となると、ますます夏美が怪しい。たしか伊吹繊維工業の元社長夫人だったっていうじゃないですか」そう言うと、根乃井のまえに身を屈め、鼻息が掛かるくらいに顔を近づける。今度は根乃井も挑発には乗らない。無駄だと分かると厚い胸板を突き出して立ち上がった。「ふん。どうせ高原咲恵の遺留品を調べれば、すぐに居所が割れる」
「それ・・・なんですが」IT風がおずおずと言った。「遺留品の中からは、携帯電話や個人情報に関する類のものは一切出てきませんでした。誰かに抜き取られていた可能性が高いようです」
「チッ」プロレスラー風は舌打ちした。バカが。空気を読め。こういうのはビビらせるだけで十分なんだよ。
「まあ、2人の周辺を洗って固めていくしかないやろ」唐木はため息をついた。情報の共有がまるで出来ていない。無理もなかった。合同捜査とはいっても、まだブリーフィングすら行なっていないに違いない。これはまだ発生してわずか数時間の事件なのだ。
「ときに、あんたはどうする」
 突然話を向けられて、継人は一瞬、自分の事とは気付かなかった。「え~とにかく車に戻って・・・」チラッと根乃井を見る。「芳田の家族と合流して、付き添ってやるつもりです」
「それがええやろ」と言いつつ、唐木は全く信じていなかった。「せいぜい自分が病院に担ぎ込まれんようにする事や。悪運はそうそう続くもんやないで」
 地階での検証が終わり、1階ではプロレスラー刑事の部下が、押収したモニター用のノートパソコンを抱え、もう一方の手で根乃井の肩を掴んでいる。IT刑事はその姿を恨めしそうに目で追った。
根乃井は一瞬、他の者に悟られないように祈るような視線を継人に送ると、滋賀県警の覆面パトカーのなかに消えて行った。
継人が現場を出たとき、時計は午前0時をまわっていた。旅の終わりの最後の1日の始まりだ。唐木は「車のところまで送ってやる」と言ったが、丁重に断った。病院に向かうどころか、さらに山奥に向かうのを見て不信感を抱かれるのはまずい。
継人は一度大きく深呼吸をした。芳田のもとに駆けつけたい気持ちに押し潰されそうになるが、まだやらなければならないミッションがある。
母屋の勝手口の土間に脱ぎっぱなしになっていた2足の靴と伸縮ハシゴを持って、駆け下りてきた丘を登る。1人で戻ってくることなど考えてもみなかったが、ここからはすべて1人でやり遂げなければならない。
まず、SUVの車体に取り付けてあるというGPS機器を除去する作業だ。リュックを下ろし、懐中電灯を取り出す。車を離れるときはいつもカギを掛けているので、中に紛れ込んでいる可能性はきわめて低い。それ以外で目立たないところといえば車体底部だろう。おそらく簡単に脱着できるようにマグネット式になっているはずだ。前面から側面へと手を伸ばして順に見ていく。後部へと移り、マフラーの反対側の平らな鉄部に異物があるのを見つけた。一気に引っ張ると、その拍子に手の甲を地面にぶつけて擦り剥いた。
それはタバコの箱と同じくらいの大きさの黒い物体で、裏には強力マグネットが付いていた。
「くそっ!」継人は悪態をついた。してやられたという悔しさではなく、“はったり”ではなかったことに対してだった。認めたくなくとも、手の中には根乃井の証言が正しかったという証がある。高原夏美の身が本当に危ないと思い知らされるくらいなら、すべてがウソだと知らされて地団駄を踏むほうが何千倍もいいのに、と思った。
 不意に重い疲労が襲ったが、身体より精神のほうが重かった。気を取り直してSUVのエンジンを掛ける。ハンドルを駆ってさらに深い夜の闇の懐に入っていくと、気持ちも漆黒に塗り込められていくような気がした。
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