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しおりを挟む継人は、芳田商店の代表番号をタップしたが、すぐに留守番電話に変わったので、すぐさま登録してある芳田の携帯に掛けなおした。
しかし、そちらも20回のコールでも繋がる気配は無い。
継人は、昨日の芳田の電話での様子を思い出した。ただ感情的に吐き捨てるような物言いだった。“急な仕事の用事ができた”のではなく、“何かまずいことに突き当たった”のだと直感的に思った。
たぶん芳田も何かのきっかけで、自分の父親が3人組の少年のひとりだったということに気付いたのかも知れない。もしそうなら、いまだ健在な父親の過去の古傷を暴くことにためらいを感じるのは無理からぬことだろう。
ただ、たとえそうであっても会わなければならないと思った。それが自分と芳田の仲を永遠に引き裂くことになっても。
気がつくと、継人は芳田商店の近くまでSUVを走らせていた。
案の定、店のシャッターは下りている。道路脇に車を止めて、2軒先の理髪店の店主に事情を尋ねることにした。中学校の頃までよく通った店だ。自動でない昔のままのガラス戸を開けると、総白髪の痩せこけた老理髪師が客待ち用のソファーにポツンと座っている。たしか最盛期は、今とは別人のように恰幅のいい店主と4人の理髪師がいて、マンガ週刊誌を2冊読破したころに順番が回ってくるくらい盛況だった気がする。
「こんにちは」と声を掛けたが、店主は全く記憶に無いようだった。
「いらっしゃい」
客待ちの小休止というより、たぶん1日中がそんな状態なのだろう。老理髪師はつい今まで観ていたテレビの音量を絞って、ゆっくりとソファーから立ち上がった。継人が店の奥まで入ってこないのを見て、散髪の客ではないことに気付いたようだ。
「芳田商店んちのことかい?」
「いえ、まあそんなところです」
「昨日からあんたで3人目やて」老理髪師はウンザリしつつも、あとの2人にしたであろう同じ説明を始めた。「あんたが親父と息子のどっちの知り合いかは知らんが、一昨日の夕方に親父の秋彦さんが突然おらんようになったんで家族で探しとったら、次の日の朝に米山駅のホームのベンチに倒れとったっつう話や。幸い死んではおらんようやったけど、まだ危険な状態や言うて、息子の国ちゃんが病院に付き添っとるらしいで」
最悪だ。継人は拳を握りしめた。
「どこの病院です?」
「そんなん、この町の病院ゆうたら1軒しかないがな」
「ありがとうございます」と言って頭を下げて店を出ようとすると、店主はその背中に向けて一声掛けた。
「あんた、昔よくここに来とったやろ?」
「ええ」継人は苦笑いをして、店を出た。調子のいい爺さんだ。本当に覚えていたのかもしれないし、誰にでもそう言っているのかもしれない。
それより不可解なのは、なぜ芳田の親父さんが米山駅のホームに居たのかだ。たしかそこから20キロほど先が、件の麻倉先生の出生地のはずだ。
すぐにでも病院に駆けつけて事情を確かめたいところだが、さすがに気が引けた。危惧していた通りだ。吉田の親父さんの古傷に触れるどころか、すでに甚大な被害を引き起こしてしまったのだから。
すべての発端は自分だ。そもそも芳田を巻き込まなければ、こんなことにはならなかったに違いない。
街角を抜ける風が、全体の3割しか稼動していない旧商店街の閉じられたシャッター群をカタカタと揺らしていく。時代の波に抗い、幾多の業態の変化にも負けずに生き残った者たちも勝者ではない。もうこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。そう思った瞬間だった。
ズボンのポケットが震えた。芳田からの着信だった。
〈いま、大丈夫か?ちょっと会えないか?〉
すこし興奮気味な声だ。覚悟はしたほうが良さそうだった。「オレは空いてる。どこにいけばいい?」
〈『岩戸』にしよう。ワンパターンで悪いが〉
「わかった」
継人は出来るだけぶっきらぼうに応えて電話を切った。悪びれた口調で、すでに芳田の父親のことを知っていたと勘ぐられるのも具合が悪い。後ろめたさもあって、車のハンドルも心なしか重たく感じた。
赤く塗られたセスナ機のちょうど真下の駐車場に芳田商店のロゴが入ったワンボックスが止まっているのを見つけると、大きく深呼吸をしてから店の中に入った。
「お~い、こっちだ」
予想に反した明るい声で芳田は手を振った。病院のお見舞いの帰りというよりは、レジャー帰りといった雰囲気だ。継人が席に着くと、芳田はタバコに火を点けた。
「こっちには、何時までいるんだ?」
「送り盆までだ。一応サラリーマンだからな」
「あと2日ってことか」芳田は腕を組んで考え込んだ。「あんまり時間が無いな」
「どうかしたのか?」
どうかしたのか、は無いだろう・・・。継人は苦笑した。
「じつは一昨日の夜から急に忙しくなってな」芳田はぎこちなく笑った。「おまえさんにはもう協力できないなんて言ったが、なんとかケリがついた」
なにを言ってるんだ。継人は信じかねた。
「家族のことじゃないのか?」
「客っていうか、一種のクレーマーだな。たまにいるんだ」
継人は耐えられなくなった。
「はっきり言えよ!いったい何の駆け引きなんだ。親父さんが倒れたからじゃないのか!」
「なんだ、知ってたのか」芳田はテーブルに視線を落とした。
「近所の床屋の爺さんから聞いた」継人はさらに語調を強めた。「いや、それだけじゃない。落とし穴のことも、3人組のことも、そして麻倉先生のことも知ってる。オレが古傷を引っ掻き回したおかげで、おまえの親父さんが大変な目に遭ったこともな。オレはおまえに謝らなきゃならんと思ってここに来たんだぞ!」
「オレもだ」芳田がキョトンとしたまま言った。
「なに?」
「オレもおまえさんに謝ろうと思ってここに来た」
「わけが分からん」
「まあ、よく聞けって」芳田は、大声を聞いて駆けつけてきたウェイトレスに一言詫びてからアイスコーヒーを2つ注文した。「おまえさんに謝ろうと思って来たのはウソじゃない。でも親父のことに関してはずいぶん誤解してるぞ」
「米山駅のホームで倒れてたそうじゃないか」
「あの床屋の爺さんが何て言ってたのかは知らんが、親父がああなったのは今回が初めてじゃないんだ」
「どういうことだ?」
「麻倉先生のことも、じつはオレも今回はじめて聞いたんだ」芳田はテーブルの前に手を組んで喋り始めた。
「親父は見当職障害ってやつでな。時々自分がいる場所や時間、家族のこともみんな吹っ飛んで時々ふらふらと出て行っちまう。いわゆる徘徊老人だな。前にも2回ほど琵琶湖の近くまで電車に乗って行って保護されたことがあったんだ。医者に相談したら、まだ認知症の初期段階だっていうことで、本人も至ってマトモだと思ってるらしい」
「琵琶湖の近くっていえば」
「それだ。オレも今まで全く意味が分らなかったが、今回のことでやっと分かった。もっともそれを関連付けるきっかけになったのは、おまえさんの留守番電話の録音だったんだ」
「オレの?」たしかに繋がらなかったから、不在なのかと思って伝言を残しておいた覚えがある。
「おまえさんが最初に店に電話をくれたとき、オレは息子の試合を観にいく準備で電話が取れなかった。2回目の電話で繋がったとき、最初の電話もたぶんおまえさんだと思って、てっきり留守番の解除をするのを忘れてたんだ。ところが、オレが出払ってる間に親父が電話の赤い点滅に気が付いて解除したらしい。お袋はとっくに死んでるし、カミさんは息子と一緒にグラウンドにいたから、止めようがなかった。それに、引退した親父が電話に出るとややこしい事になるから日頃から一切電話に触るなと言ってある。そして一昨日の夜、口論になった」
「そういえば、オレは自分の名前を名乗って、また掛けなおすと伝言した覚えがある」
「それだけで十分だったんだ。オレが“もしお客の電話やったらどうするつもりやったんや!”って怒鳴ると、親父は“栗村のせがれが何の用や!”とやり返してきた。さらにオレが“何でいかんのや!”って言うと、“栗村はオレが殺したようなもんだからや”と言い返してきた」
「殺した?」継人は母の言葉を思い出した。先生を殺した・・・。
「おまえさんの親父の高志さんを『野犬捕獲作戦』に巻き込んだのは、じつはうちの親父だったんだ。問い詰めたら自分から喋り始めた。元々の発案は、当時はメリヤス工場のボンボンだった田野倉守さんだ。旧国鉄の跡地は荒れ放題で、子供にとっちゃ恰好の遊び場だったらしい。そこは貨車の部品や大戦時の戦車の残骸までが転がり、おまけに化け物みたいな犬が出没する噂まであった。当然、周辺は立ち入り禁止になって、高志さんも親から行かないようにクギを刺されてた。でも、うちの親父はそんなことにはお構いなしに、学年のボスだった守さんに取り入ろうとして、高志さんを引っ張り込んでたわけだ」
そこで芳田はアイスコーヒーを一気に半分まで飲んで、まるで神父に懺悔する信者のように継人を見つめた。
「ところが3人組ってのは、なかなか上手くいかないもんなんだろうな。4年生の時のクラス替えで、高志さんと守さんが同じクラスになった頃から2人の距離が急接近して、1人だけ別のクラスになった親父とは少しずつ話が合わなくなっていった。なんせ、2人の担任は若くてすごく美人だったらしい。親父は除け者にされるんじゃないかと焦ってたんだろう。守さんから例の“野犬捕獲作戦”の計画を持ちかけられたたとき、これは3人の結束を取り戻すいいチャンスだと思って、親父は気が進まない高志さんを無理やり計画に引き込んだんだ。それだけじゃない。計画と器具の調達は守さん、穴掘りと竹の伐採を高志さんと親父とで担当することになったとき、2人の仲を妬んだ親父は、自分は安全な穴掘りを買って出て、野犬が潜んでいるかも知れない竹薮に入って竹を伐採する役目を高志さんに押し付けたんだ」
継人は息を呑んだ。まだ手をつけていないアイスコーヒーの氷が溶けて、グラスの中でカランと音を立てる。
「しかし、作業は何事もなく進んで、落とし穴は完成した。親父によると、その出来栄えは玄人はだしだったらしい。それからだいぶ後になって観たベトナム戦争の映画で、ベトコンが仕掛けたブービートラップがあまりにも自分たちの作った物とそっくりで吐き気を催したと言ってた。計画は完璧に思えた。ところが、ここで邪魔が入った。PTAで幅を利かせてた守さんのお母さんが“息子が例の敷地に出入りしてるらしいから、現場に行って注意して欲しい”と、小学校に直接電話を入れたんだ。それがちょうど校内で研修中だった麻倉先生の耳に入って、すぐに自転車を漕いで駆けつけたらしい。それが悲劇の始まりだったというわけだ」
継人は唾を飲み込んだ。校長が弔辞で言っていた『勇気』・・・。
「もちろん麻倉先生はそんな計画があることなんか知らない。敷地の中に入ると、守さんの名前を大声で呼びながら歩き回ったそうだ。親父と守さんは息を殺して身を隠していたが、高志さんが“先生に知らせんと危ない”と言い出した。見つかっちゃヤバイと思った2人が、飛び出そうとした高志さんを羽交い締めにしてる間に、先生は追ってきた野犬もろとも穴の中に消えてしまったんだ」
「酷い話だな」
「全くだ」芳田は残りのアイスコーヒーをすべて飲み干した。「しかもさらに酷いことに、高志さんがその場で気を失い、親父がその介抱をしている隙を縫って、守さんがひとりで逃げて行ってしまった。途方にくれた親父は、穴の中から野犬が飛び出してくるかもしれない恐怖に震えながら、高志さんを抱いたまま一歩も動けずに、大声で助けを呼び続けたっていう話だ」
「それは初めて聞いた」
「当たり前だろ」芳田は呆れたように言った。「高志さんは気を失ってたんだから」
「そりゃそうだ」継人は苦笑した。「しかし、そのクズが後に町一番の名士になるとはな。でも最期は因果応報ってことか」
「オレはそう思うが、親父はそうじゃなかった。60歳を境に、まず高志さんが亡くなり、続いて田野倉社長が亡くなった。今度は自分の番だと思ったらしい。おまえさんから電話が来たとき、心底ビビッたみたいだ」
「オレを復習の鬼だと思ったわけか」
「あるいはそう思ったのかもしれん。でも自分はその報いを受けて当然だと言ってた。“もし高志の息子の手に掛かるのなら、それでもええ”ってな」
芳田は感極まって喉を押さえた。「ただ、おまえさんだけには信じてほしい。親父は根っからの小心者で善人だってことを。オレには分かるんだ。どうして何度も琵琶湖の近くを彷徨っていたのか。親父は“赦し”が欲しかったんだと思う」
「うちの親父はたぶん誰も責めちゃいないよ」継人は氷だけになったグラスをストローでかき回した。「オレの親父はお袋にこう言ったんだ。あの作戦は“仲良し3人組”でやったんだってね」
「ありがとう」芳田は顔を紅潮させた「その一言だけで、親父の気持ちもだいぶ楽になるはずだ」
継人は芳田のその姿に嫉妬すら覚えた。親父とは気持ちをぶつけ合うどころか、ちゃんと話すことすら無かった。自分の死期が近いと気付いたとき、親父は因果応報だと思ったのだろうか?
「何か、ご注文されますか?」
突然、通路から高校生のバイトらしいウェイトレスが声を掛けてきた。
店の中が急に騒がしくなっている。時計を見ると、もう12時をまわっていた。
「食っていくか?」
「そうだな」
2人はその場でランチを食べた後、お互いに何か分かったら連絡すると言って別れた。芳田は息子に電話すると、隣町の市民プールに向かった。夏休み中の子持ち風情はなかなか大変らしい。その姿を見送りつつ、継人はハンドルを握ったまま駐車場を出ることなく、しばらく考え込んだ。
自分と芳田のそれぞれの父親がずっと自責の念を引きずって生きてきたのに対して、作戦を計画した張本人の田野倉守はどう考えていたのだろうか?
人間の思考は、年月や環境によって少しずつ変わっていくものだ。とはいえ、おのれの保身のために友だちを裏切って逃げるような人間が、いまさら自責の念に目覚めて自殺するとは到底思えない。自殺願望が一種の逃避願望であるとすれば、元々そういう性向の持ち主だったというだけだ。
ただ、何かが引っ掛かる。芳田が言っていた“親子ほども歳の離れた愛人”の存在だ。いったいその女性は何者なのか?
継人はSUVを近くの公園の駐車場に移動して、後部座席からタブレット端末を引っ張り出した。今朝、図書館の閉架書庫に入った時、スマホのカメラ機能のシャッター音をオフにしてこっそり撮影した麻倉恵子の写真をタブレット端末に取り込み、一昨日撮影した『髪を噛む少女』の画像と並べてみる。
思った通りだった。お互いが出会う事はおろか、全く別の自空間にいるはずの2人が、まるで双子の姉妹のようにこちらを見つめている。
もはや『髪を噛む少女』は、時空間のねじれの中に存在するオーパーツのような気すらしてきた。
ただ、その謎は解く事ができる。なぜなら、作者はほかならぬ自分なのだから。
継人は再びハンドルを握った。そろそろ本丸に乗り込む頃合だ。
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