蓬莱皇国物語 Ⅲ~夕麿編

翡翠

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   Half Brother

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「午後なんだけど…ちょっと、外していて欲しいんだ。」

 武にそう言われて音楽室でピアノに向かう。警護の人間がいても寂しいと感じてしまうが、もう自分は在校生ではないのだ。生徒会長には時折、強い守秘義務を持つ事柄と向き合う時がある。夕麿が信用されていない訳ではないが、規則として人払いをしなければならない事があるのだ。自分がもうOBでしかないのが時折、こんな形で否応なしに自覚させられる。

 夕麿の人生では余りにもここにいるのが当たり前だった。武がいなければここが自分の終の棲家だった、学部長のあの思惑から考えても。きっと誰かを愛する事も出来ないままで、孤独の闇に心を凍らせて生きただろう。自分もあのような人間に成っていったのかもしれない。愛し愛される温もりも歓びも知らない。こんなにも世界が美しい事や、同性で愛し合う事が外では偏見に満ちているのも知らずに。愛を知ったからこそ喜怒哀楽を味わえる。ただ感情をぶつけるだけだったピアノも武が、この音色を好きだと言ってくれるから愛情を注いで奏でられる。

 音楽室の楽譜棚から取り出したのは、リストの『愛の夢』の楽譜。リストは余りにも技巧的過ぎて、どこか高慢な感じがして好きではないが、この曲だけは別だ。

 時間を忘れて弾いていると敦紀が迎えに来た。

「夕麿さま、お迎えに参りました」

 その言葉に夕麿は急いでピアノのを片付けて生徒会室へと向かう。少し前を歩く敦紀の後ろ姿を見て、そう言えば昼食の時に彼がいなかった事に気付いた。 恐らく武の要請で、どこかへ行っていたのだろう。 武もすっかり生徒会長が板に付いた。

 夕麿を案内して来た敦紀は生徒会質に入ると、真っ直ぐに会長執務室のドアを叩いた。ドアはすぐに武自身の手で開けられ、夕麿だけが中へと入った。

 穏やかな武の笑顔に笑顔で返して問い掛けた。

「武、用事は終わったのですか?」

「俺はね」

「え…?」

 武の視線が夕麿から移動する後を追うよう視線を移すと、中等部の一般生徒の制服を着た少年がいて見つめて来た。初めて見る顔だ。 だが、彼を知っているような気がする。どこで会ったのだろう…? 記憶を辿ってみると朧気にある面影と少年の顔が重なった。

 まさか…? 戸惑いながらその名前を口にした。

「透…麿…?透麿とうま…なのですか?」

 武が彼に向かって頷いた。

「兄さま…夕麿兄さま…」

 立ち上がってでも彼は躊躇ためらう姿に幼い日々の記憶が重なる。 抱き締める事はおろか、声を掛ける事すら出来なかった、たったひとりだけの異母弟。

「武、ありがとう。 でもどうして?」

 驚きと喜びの混じった想いで武を、抱き締めて呟くと抱きしめ返された。

「だって、希の話をしてた時、会いたそうにしてたじゃないか。何、俺が気付かないとでも?

 もっと早くに会わせたかったんだけど…危険な目に合わせたくなかったし…成瀬さんの負担を増やすのは申し訳ないから。ごめんね、夕麿」

 あの時に透麿の事を思い出していたのを、ちゃんとわかっていてくれたのを嬉しく思う。

「いいえ、お気遣いを感謝します」

「じゃ、俺、出てるから…ゆっくり話せよ」

「本当に…ありがとう」

 武の優しさと愛情に心から感謝する。言葉にしない想いまで彼は、察して理解して形にしてくれる。

 彼が出て行ってから、夕麿は透麿に向き直った。

「元気そうですね。 どうして学院に入った事を知らせてくれなかったのです?」

「父さまが…兄さまに知らせてはいけないって…」

 視線をそらせて少し怯えたように、答える彼もまた佐田川一族の犠牲者だと思う。 あの年始に御園生邸での経緯から考えて、あの気の弱い陽麿はるまの言いそうな事だ。

「全く…どこまで仕方のない人なんだか…」

 呆れて言葉もない。

「憎んでいらっしゃらないのですか、兄さま?」

「誰をですか…? おもうさんを? それともあなたをですか…透麿?」

 半ば苦笑混じりに問い返した。 過去は過去。 心の傷は確かに深い。 けれど今更恨んでも憎んでも、癒える傷も癒えない傷も変わるわけではない。 ましてや幼かった異母弟に何の罪がある? ここで彼を拒否してしまったら、六条家に連なる者も佐田川に関わった者も、誰一人として誰も救われないような気がした。

 そう思えるようになったのも、武が愛を教えてくれたからだ。

「あなたを恨んだり憎んでも、不毛なだけであると私はおもいます。 むしろたったひとりの弟に、私はそんな感情を持ちたくはありません」

「兄さま…ありがとう…」

「お礼は武に言ってください。 私はそう思っていてもあなたに、どう思われているかわからなくて何もしなかったのですから」

 まとっていた心の鎧を解いてしまってから、夕麿は臆病な自分が剥き出しになっていると感じていた。自分がこんなにもろく弱い人間であったのかと驚いている。逆に近頃の武は積極的に行動する。 積極過ぎてヒヤヒヤさせられるのもあるが、屈託がない姿は尊敬の念すら覚える。

「あの、兄さま…伺っても良いですか?」

「何ですか?」

「どうして、兄さまはあの方の事を呼び捨てになさるのですか?武さまはその、宮さまだと伺いました。それに…兄さまはもう卒業されたのですよね? それなのにどうして学院にいらっしゃるのですか?」

 疑問はもっともだと思った。 学院を卒業した筈の夕麿がスーツ姿でここにいて、宮だと紹介された武をひとり呼び捨てにする。 学院のルールを外れた状態に対して疑問だらけだろう… …

「一つずつ答えますね。

 卒業はしました。 でも私はここの理事資格を保持していますから、出入りは自由に出来るのです」

「理事!?」

「ええ。 今いるのはちょっとした事情があってなのですが……」

 詳細を説明する必要はないと思った。 まだ中等部一年生の彼がそこまで知る必要はないと思えるし、知る事で今後も起こるかもしれない何かに巻き込まれるのを防ぎたかった。

「私の事はどこまで聞いていますか?」

 久我 浅子の様子から言っても、詠美が自分の息子に事情を説明しているとは思えない。

「えっと…母さまが言ってたのは、御園生って所が兄さまをお金で買ったって」

「やっぱり……透麿、まずお金を要求したのは彼女です。 それから御園生家の名誉の為にも言っておきます。 支払ったお金は私自身のものです。 むしろ御園生家は私が六条家を離れて、この学院から出られるように助力くださったのです。

 私は本当の家族として大切にしてくださっています。 大恩こそあっても、非難するような方々ではありません」

「兄さまが払ったって…幾らですか?」

「金額を聞いてどうするのですか? 一年も前に終わった事です」

 そう夕麿にとっては終わった事だ。今さら蒸し返しても起こった事は消えてはなくならない。

「だってそのお金があったら父さまの会社も、屋敷も人手に渡らなかったかもしれないから」

 たった2億円で何とかなるような事態ではなかった。武が手を差し伸べてくれなければ今頃は、六条家は完全に破滅していた筈だ。千年も前から皇家に仕えた摂関貴族の一員が、大恥を晒してしまうとんでもない事態になっていたのだ。

「人手になど渡ってはいません。六条の企業の株式の大半は私が保持しています。あの屋敷も私の所有になっています」

「え…?どういう事?」

「あなたがおとなになったら、全部を話してあげます。

 さて武の事でしたね。 本当は私は御園生家に婿養子に入ったのです。 彼と私は夫婦になりました」

「だって、男同士だよ、兄さま!?」

「ええ、我が蓬莱皇国では庶民には認められてはいますが、貴族階級や皇家の同性婚は許可されてはいません。けれど私は彼の伴侶に選ばれたからこそ、学院から自由の身になれたのです」

「それって、兄さまの意志なの?」

「ええ。 私は……彼を、武さまを愛しています」

 武への想いは誰にも恥じる事のない真実である。

「それで、兄さまは幸せ?」

「とても幸せです。信じられませんか?」

「わからない」

「そのうちにわかってもらえると、嬉しいのですが」

 時間はある。 ここを離れても武と交流が深まればきっと、理解してくれるのではないかと思う。 理解して欲しいと切に願う。

「もう卒業したなら、兄さまは留学されたのでしょう?」

「UCLAにまもなく入学します。

 今回は御園生の方の仕事と、武の夏休みの為に帰国しました」

「え…夏休み…?」

 透麿は驚いた。 夕麿が会いたがって探し始めたのが夏休みの終わりだったとしても、何故こんなに日が過ぎてからだったのか、と。

 夕麿は一学期末に武が生死の間を彷徨さまよう程の病気だった事を話し、夏休みの大半は彼の療養であったのを話した。

「まもなく生まれる武の弟の命名で、私があなたを思い出していたのを彼は気付いて、探してくれたようなのです」

 武の先程の口振りからすると、もっと早くにわかったのだろう。 だがその時には今回の騒動に巻き込まれていた筈。 夕麿に近付ける事はそのまま危険に近付ける事だった。

「武にしても、早く会わせたいと思ってくれていたようです。 ただ…ちょっとした騒動があったのであなたに類が及ぶのを懸念されて、おさまるまで待っていたてくださったのでしょう」

 夕麿を排除する為に、透麿が利用されていた可能性もある。 武が削られて行く時間に、胸を痛めていただろうと思うと申し訳なく感じる。

「それってボクにあってはいけないくらいのもの?」

「武が怪我をしているのは見ましたね?」

 今朝、周がようやく抜糸を済ませたばかりで、刺激を避け周囲に配慮を促す為にも、武はまだ左腕を吊っている。

 透麿は兄の言葉に頷いた。

「あの怪我は私を庇って負ったものです…ですから、私たちには警護が付いています」

「そう…なんだ…ね、武さまが宮さまになられたのでしょう?」

「本日の午前中に今上陛下の勅使が見えられました」

 それがどうしたのだろうと夕麿は首を傾げた。 そして透麿が聞いたのは武が午前中に、周に聞いたのと同じ問い掛けで夕麿は笑い出してしまった。

 夕麿の立場を聞いて、驚きに目を丸くする弟に笑い出してしまう。

「そんなに笑わなくても良いじゃないですか…もうッ!」

 弟とはこんなに可愛いものなのかと嬉しくなってしまう。

「それで兄さま、いつアメリカへ出発されるのですか?」

「3日後の夕方の予定です」

「え…!?そんな…やっと会えたのに…」

「冬休みには帰国しますから、御園生邸に招待しますよ?」

「うちには帰って来てはくださらないのですか?」

「私はもう、六条の人間ではありませんから」

「そんな…」

 悲しい思い出しかない六条邸より、家族がいる御園生邸の方が家だと思える。 薄情なように透麿は思うかもしれない。 自分でも不思議なくらい、あの屋敷には何の執着も思い入れもない。 亡き母の物は詠美が追い出した乳母が全て持ち去った。 小夜子が彼女を探してくれているらしいが母の記憶も曖昧だ。

 武と出会って僅か一年半の記憶の方が、濃厚で鮮やかに心を満たしている。 今の夕麿にはそれがあれば十分だった。

「御園生家へ養子に入った、他の者たちも紹介しましょう」

 にこやかに言う兄を見て透麿は思った。 戻って来てくれたと思ったけれど、やはり兄は今も遠い存在だと。 愛する人がいて自分の見知らぬ家族がいて、すぐに手の届かない場所へ旅立ってしまう。 幼い日々、母の目を盗んで物陰から見ていた時と、さほど変わらないと思った。 もっと甘えたいのに、手を伸ばす事すら躊躇われる。

 第一、彼はもう宮家の人間になっている。 もとから互いの母の身分に差があるから、兄弟と言えども並び立つべきではないと。 古くから六条家に使える女中が、母詠美に隠れて言っていた事がある。

 それがもっと差が出来てしまった。 本当は『兄さま』と呼んではいけないのかもしれない。 でも咎められないから呼んでいる。 それが透麿のせめてもの兄への甘えだった。

「何か不自由している事はありませんか? 足りないものは? 今の六条家の内情では、ここの生活は大変でしょう? あなたの口座にまとまった金額を振り込んでおきますから、自由に使いなさい、透麿」

「でも…」

「私が自分で稼いだお金です。 遠慮はしなくて良いんですよ? …せめて兄として、それくらいはさせてください」

 学院の中にいるうちならば、もう少し別な気配りが出来たかもしれない。 だが今は金銭的な援助しかしてやれない。 それを歯痒く思ってしまう。 たった一人の血を分けた弟に、何もしてやれないのを嘆きたくなったその時、ドアが叩かれて武が入って来て時間を示した。

 周との約束もあって、青紫に会う為に馬場へ向かう事にした。

「行ってらっしゃいませ!」

 生徒会全員が見送る中を、エレベーターホールへと向かう。 透麿だけが驚いて視線を彷徨わせる。 夕麿はそんな弟が可愛くて、笑いながら頭を撫でた。 透麿は嬉しそうにはにかんだ。

「えっと、透麿って呼んで良いかな、俺も?」

「あ、はい」

「次の日曜日から、こっちの生徒会室に来てくれ」

「あの…どうしてですか?」

「勉強見てやるよ。 特待生になりたくないか?」

「え?」

 武の気遣いに夕麿は瞑目した。

 夕麿が在校中ならばやったであろう事を、武が代わってしてくれようと考えている。 それが嬉しい。 透麿と揃って感謝を口にして、夕麿は武に委ねる事にした。

 武の学院都市内の移動は今後は専用の車で行うように御園生家が配慮していた。 学院側もこの方が安全と睨んで、許可を出したらしい。

 夜、武の祝いの席の話から、いつものように雫との鞘当てが始まった。 事情のわからない透麿は困惑して、それを見かねた武が怒鳴った。

「いい加減にしろよ、二人とも! 成瀬さん、夕麿に突っかかるのはやめて欲しいって言ってるだろ!?

 夕麿、お前もお前だ。 何で今更成瀬さんにライバル心を剥き出しにするんだよ?」

 武は自分を挟んで、夕麿と雫が彼を取り合うような会話をするのを嫌う。

「ごめんなさい…」

「申し訳ございません」

「間に挟まれる俺と、事情のわからない透麿の身になってみろ。

 成瀬さん、俺は言った筈です。 あなたと夕麿、同時に出会ったとしても、俺が選んだのは夕麿だと言ったでしょう? あなたが夕麿に絡み続けるなら、警護の指揮を交代させますよ?

 俺は理不尽だろうがわがままだろうが、夕麿をどんな形であろうと傷付ける奴は許さない」

 武の苛立ちが伝わって来る。 宮家を建てさせられた事の不満も、苛立ちを増幅しているのだろう。 いつになく辛辣な言い方を武はしている。止めなければ…と思う。 立場が変わった武は今まで以上に、周囲に対する言葉を考慮しなければならない。 それが夕麿に起因する事ならば、尚更止めさせなければ。

「武、それは大袈裟です。 成瀬さんには悪意はありません」

「悪意があるかないかなんて関係ない!」

「武!」

 叱りつけるように名を呼んだ。

「もう良いのです。 私の為に自分を傷付けるのはやめてください」

 気が付くと震える手で武を抱き締めていた。 これ以上愛する人が傷付くのは見たくはなかった。

「武さま、この世の中の全てから、夕麿さまを守る事は不可能ですよ?」

 夕麿の意図を読んで雫も言葉を紡いでくれる。

「そんな事はわかってる。 それでも俺は嫌なんだ」

 拳を固めて目を伏せる武を愛しく想う反面、その優しさを鬼に変える情を痛ましく感じてしまう。 武が夕麿を守る為に、そして夕麿を傷付けた報復に、何をしたのかまでは知らない。 けれどそれは素直で優しい心を鬼へと変えてまで行ったものだとはわかる。

 それは結局、両刃の剣。 相手に報復すればする程、武自身も傷だらけになってしまう。 夕麿にはそれが悲しかった。 辛かった。

「武、聞いてください。 あなたの気持ちは嬉しいのです、とても。 けれどあなたが守られるだけが嫌なように、私もあなたに守られてばかりでは嫌なのです。

 それはわかってくださいますね?」

 納得して欲しい。 これから二人で歩む為には、絶対に必要な事だから。

「以前のような…自分の弱さを隠す為の見せ掛けの強さではありません。 私は私自身の弱さも愚かさも受け入れて、その上で強くなりたいと望んでいます。

 わかってはいただけませんか?」

 強がりは『強さ』ではない。 何某かの力を誇示するのも違う。 そんな所に『本物』は存在していない。

「弱さも愚かさも受け入れる?」

 それは恐らく武も考えてはいなかった事だと思う。 少し前の自分にもわからなかった。気付かせてくれたのは武なのだ。

「ええ。 私は気付いたのです。 弱さや愚かさを隠そうとしたり、無視するから脆い強さしか持てないのだと。 あなたが私に教えてくださったのですよ?」

「俺が…? 俺、バカな事しかしてない…」

「そうですね。 確かにあなたの直情的な言動にはハラハラさせられます。 でもあなたは誰かを守る為に計算をしない。 自分の立ち位置を計らない。 無茶苦茶ではあるけれど、それ故にあなたは強い。

 私にはそれがなかったのです。 何もかもを…名誉や誇りなどかなぐり捨てて、体当たりで直進しようとする強い信念が。 私はただ現実から逃げ回っていただけだったと自覚しました」

「夕麿…」

「ですからもう、そんなに尖らなくても良いのです、私の為に。 成瀬さんとのやり取りは、今の私にはリハビリのようなものなのです」

「リハビリ?」

「ロサンゼルスに戻ったら、もっと厳しい現実が待っていますから」

 偏見やおとなの駆け引きの醜さの中へ、帰って行く心の準備は出来ていた。 ひとりならば挫けるかもしれない。 だが義勝たちがいる。

「………そっか…わかった。 成瀬さん、ごめんなさい、酷い事を言いました」

「いえ…私も短慮でした」

 悪い行いを指摘されれば、きちんと認めて相手に謝罪する潔さ、素直さ。 自分と他者とを天秤に架けない。 武のそんな性格が生んだ強さであると夕麿は思う。

 馬場に到着して連れて来られた青紫は、飛び上がらんばかりに喜んだが、どういうわけか武には見向きもしない。 ここのところのストレスと、望まぬ立場を受け入れさせられた所為か、武は随分ナーバスになっていた。

「…ごめん…俺…変だ…」

 自分の感情が制御出来ないらしい武を、青紫から降りて抱き締めた。

「少し神経質になっているようですね。 今日はいろいろありましたから」

 少し気持ちが落ち着いたのか、武が腕の中で少し緊張を解いた。

「不安なのはわかります。 出来る限り私たちがバックアップします。 あなたは今まで通りで良いのですよ、武?」

 背中を撫でて囁くと答えるように、見上げて来た瞳に涙が浮かんでいた。 唇を噛み締めて堪える姿が、あまりにも痛々しい。

「泣いても良いのですよ?」

 そう囁いても武は人目が気になるのか、激しく首を振った。 泣き言一つ口に出来ないと思ってしまっている様子に、夕麿は武をこの場から連れ出す決意をした。

「周さん…約束は守れないようです」

「仕方がないな…行って来い」

 周にしても武のこの状態はわかっている。 武に優しい眼差しを向けて許可を出した。

「ありがとうございます」

 武を青紫に乗せて自分も騎乗し、青紫を立ち上がらせると森林の中へと分け入った。

 木立の中は風に揺れる梢の音と、鳥の囀り、残暑に僅かに残っている蜩の声が聞こえて来るだけだった。 武の傷に響かぬように、青紫をゆっくりと進ませて行く。 武は項垂れてたままで、無言で揺られていた。

 夕麿は十分に奥に入ったと判断して青紫を止めて跪かせた。 先に降りて武を抱き降ろす。

 森林の空気は澄み渡って心地良かった。

「ここなら誰もいませんよ、武」

 壊れもののように華奢な身体を抱き寄せた。

「我慢しないで、武」

「夕麿…夕麿…うわあぁぁぁぁ!!」

 悲痛な声をあげて泣きじゃくる武の震える背中を、精一杯の愛を込めて撫でる。 まだ17歳になったばかりで、しかも未だに社会にも社交界にも出ていない。 それなのに残酷で過酷な運命を押し付けられた。

「イヤだ…イヤだ…イヤだあぁぁぁぁ!!」

 右手の拳を固めて夕麿の胸を打つ。 何故捨て置いてはくれないのだろう。 武も自分も望んだのは静かに暮らす未来だけ。

 御園生の人間として、普通に生きて行く道のどこが悪いと言うのだろう。 何故武はこんな苦しみを背負わされるのだろう。 武の存在すら知らないうちにこの世を去った父親が、たまたま前の東宮だったというだけで。 これまでの人生だって、武の言葉の端々から鑑みるに、決して安楽なものではなかったらしいのに。

 しばらく激しく泣いていた武の声が次第に小さくなって来た。 唇が紫になり全身が小刻みに震えている。 この状態は他ならぬ夕麿自身がよく知っている。過呼吸だ。 落ち着かせる為に倒木に座り、武を抱きかかえて背を撫で続ける。 だがなかなか症状が治まらない。

 夕麿は雫の携帯に電話を掛けて、周を呼んでくれるように頼んだ。

 周が騎乗している場合、マナーでも携帯が着信すれば馬が反応する。 黒曜は優しい分臆病な気性なのだ。

 直ぐに周が黒曜を駆って現れた。 武の様子を見て脈を診る。

「夕麿、お前の薬を出せ。 本来は許されないが非常事態だ」

 通常、処方された薬を他者に与える事は法律で禁じられている。 特に向精神薬の類は弊害の多さから厳しい。 それを敢えて周は飲ませようとしていた。 夕麿は黙って薬のケースを周に手渡す。

「武さま、これをお飲みください」

 錠剤を口に入れ、持って来たペットボトルの水に口を付けさす。 武は喘ぎながらも薬を飲み下した。

「もうすぐ楽になりますから」

 武に穏やかに声を掛けてから周は夕麿に告げた。

「感情が高ぶり過ぎても、過呼吸を起こす事がある。一時的な事だから、心配しなくても良い」

「ありがとうございます、周さん」

 過呼吸の苦しみや恐怖は夕麿がよく知っている。いつも武がしてくれているように、夕麿は華奢な身体を抱き締めて、薬の効果が現れるのを待った。薬はすぐに効いて、武の呼吸が正常になる。

 まだ幾分、顔色は悪いが動けるようだ。抱きかかえて青紫に乗って、馬場へとゆっくりと戻った。馬を戻して一度、寮へ戻る。食事には行きたいと武が言うので、予約時間を1時間ずらして行く事になった。

 透麿も自然に部屋へ来る事になった。ベッドへ寝かそうとすると頑なに武は首を振った。

「良いよ、ここで」

 未だ血の気の戻らぬ白い顔で少し拗ねたように言う。

「何を言ってるのです、こんな時にわがままはやめてください」

「行かない、ここにいる。 それより何か温かい飲み物が欲しい」

 また意固地に振る舞う武がわからない。

 雫が気を利かせて日本茶を淹れてくれたが、過呼吸の症状の一つとしての末端の痺れがまだ完全にとれていないらしく、武は自分で湯呑みを掴む事が出来なかった。 左腕で武を抱き寄せ右手で湯呑みを取り上げ、口元に当てると一気に飲み干してしまう。 ホッとしたのか腕の中の身体が身を委ねて来た。

「夕麿…お願い、今日だけはわがまま言わせて」

 右手の指で夕麿のシャツを掴んで、縋り付くような目が見上げて来る。夕麿は深々と溜息を吐いた。 やっぱり今日の意固地さと聞き分けの無さ過ぎる、わがままの理由が夕麿にはわからない。

 過呼吸の発作は軽いものでも後々まで尾を引いてしまう。 身体が十分に回復するまでは安静にしていなければ辛い時が多々ある。武の様子から判断して、起きているのは辛い筈なのだ。

「成瀬さん、ありがとう。 ちょっと落ち着いた」

 無理に造った笑顔は見ている方が辛い。 それでも武は座っているのを望んでいた。 見かねた周が武の脈をとる。

「夕麿、武さまはもう大丈夫だ」

 だが周の言葉にも不安は消えない。

「武さま、お気持ちはわかりますがあまり、感情を抑え過ぎられるのは良くありません。 一度に爆発させられますと、今回のような状態になる可能性があります」

「ごめんなさい…どうして良いのか、わからなくて…」

 出会った頃の武は、極端に感情の起伏が少ない少年だった。 辛い時も悲しい時も自分の周りに壁を作り上げて、自分の中に深く入り込まないようにするかのようだった。 それは元々の激しい気性を凍らせた夕麿とは、また別の形で自分を取り巻くものを拒否していた。 だから武は今でも時折、自分の激情を暴走させて体調へ響かせてしまう。

 今回は内側に溜め込んでいたものと、今日直面したものが合わさってしまったからだろう。 いつもの発熱ではなく過呼吸という形で身体に出てしまったとも言えた。

「夕麿、ちょっと来い」

 周に呼ばれてリビングから、玄関ホールへと移動した。

「お前…ちょっとは武さまのお気持ちをもっと汲んでやれよ」

「武の気持ち…?」

「やっぱり気が付いていないか。 武さまはお前と透麿をもっと、一緒にいさせてやりたいと思っておられるのだと思うが?」

 周に言われてやっと武のわがままの理由を理解した。

「でも…」

「お前が武さまを最優先にするのはわかる。 だが武さまはお前たちを早く再会させられなかったのを、悔やんでいらっしゃるのだろう。 今回の騒動がなかったら…とな。

 武さまは僕が寝室へ連れて行って付き添う。 食事まではまだ2時間ほどあるし、休まれるにはちょうど良いだろう」

「周さん…」

 最近の周は本当に別人だった。 あの怠惰な彼はどこへ行ったのだろう? これが彼の本来の姿だとしたら? いや少なくとも夕麿にお菓子をくれて遊んでくれた、幼き日の彼は確かに優しくて面倒見が良かった。彼を無気力にしたのは、何で誰なのだろう? 問い掛けるわけにはいかない疑問を、仕方なく夕麿は自分の胸の内へとしまい込んだ。

 リビングに戻ると周が何かを武に囁き武が頷いた。 周は武を抱き上げるとそのまま、階上の寝室へと姿を消した。

「では私も時間まで下がらせていただきます」

「お疲れさまです、成瀬さん」

 雫も気を利かせて隣室へと去った。 武の気持ちに気が付かずにいたのは、どうやら自分だけだったらしいと夕麿は自分の至らなさを反省する。 武の事を小夜子の次くらいに理解していると思っていたのは、自分の思い上がりだったのかもしれない。 武を心配する余りに、自分の感情で動いてしまった。 だから武が夕麿の為に考えてくれているのを、わからなくなる程に視野が狭くなっていたのかもしれない。 今は武の心遣いを有り難くもらって、透麿としばしの会話をしよう。

「馬場はどうでしたか?」

「周さんの馬に乗せていただきました」

「ああ、黒曜はおとなしい馬ですから。 どのような感じでした?」

「最初は高くて…ちょっと怖かった。 見てるより高いんだね?」

「そうですね、私も最初はそう思いました」

 先に乗馬を始めたのは義勝の方だった。 それに付き合って通ううちに青紫と出会ったのだ。

「兄さまの馬、凄く綺麗だね?」

「美しいでしょう? あの気難しい性格さえなければ、あなたを乗せてあげたかったのですが…」

 いきなり噛み付いたのから判断しても、青紫は透麿を騎乗させる事はおろか、近付けさせもしないだろう。 武に初対面で懐いてしまったのは、やはり奇跡なのかもしれない。

「青紫は今まで、私と武にしか懐いていないのです。 厩舎の世話人すら時には、噛み付かれたり、蹴られたりしています」

「そうなんだ…あ、でも、兄さまが馬に乗っているの…写真で欲しかったな」

「半年前のものならありますよ? 後で携帯メールに送信してあげます」

「本当? やった!」

 夕麿が青紫に騎乗している写真ならば、春に武が撮影して携帯とPCに入れている。 夕麿自身が持っているのは、武の騎乗姿と二人が騎乗しているのを周が撮影したものだ。 この場合、出すべきではないだろうと何となく思ってしまう。



 わかってはいても別れの時が訪れたのは辛かった。

 与えられた身分に不安を抱き、自分の言動に怯えを抱いてしまった武を残して、遠く離れてしまうのは心残りだった。 確かに不安定で未だ子供っぽさ抜けない武は、時折とんでもない事を言ったり行ったりする。

 自分の中に流れる血を知って、一年にしかならないのだ。 無理と言えば無理なのだ。 だが天性の素直がそれをカバーして余りある、強い魅力を放っていると言う事実がある。

 現に周の次に今度は雫が落ちた。 武に跪き二心なき忠誠を誓ったのだ。 現皇帝の末の妹を実母に持つ彼が武を主と認めた。これは大きな事だった。 確かに未だに彼には何某かの形で、武を想う気持ちが存在している。 それが良い方向へ働いてくれるならば、願ってもない事だと夕麿は思った。

 貴族としての成人を迎えたとはいえ、まだまだおとなには程遠い自分や、子供である武をしっかりとしたおとなの目線で助けて欲しいと思う。御園生 有人は経営者、財閥の総帥としては尊敬するが所詮は外の人間。 紫霞宮としての武を支える柱としては、雫ほど頼りになる存在はいないだろう。

 たくさんの不安を抱えたまま、それでも未来の為に夕麿は渡米する。

「兄さま、もう行ってしまわれるの?」

 まだ幼さの直中にいる透麿は、兄の旅立ちをひたすらに悲しむ。

「言ったでしょう? 冬休みには帰国します。 御園生家に遊びにいらっしゃい、透麿」

「家に帰って来て、兄さま」

「それは出来ません。 私の帰るべき場所は、武さまのいらっしゃる所だけなのです。 私はもう六条でも御園生でもなく、紫霞宮家の人間なのです、透麿」

 夕麿の立場を理解するのは、そのように育てられなかった透麿には、酷な事実であるのかもしれない。 だがここできちんと線引きをして於かなければならない。

 透麿はやがては、六条家の当主にならなければならないのだ。 優柔不断で小心者の父が、六条を破滅させかけた事実は、息子としてしっかりと受け止めている。

 武が有人に手を突いて頭を下げ、借金してまで救ってくれたのだ。 親子だとか兄弟だとかの、甘えたロマンチックな感傷に浸っていては、武の澪標を無駄にしてしまう。

 側にはいれないが夕麿は異母弟を当主に相応しい人間に育てたいと思っていた。

「透麿、ちゃんと勉強するのですよ?」

 まずは武が見てくれる勉強に、身を入れてくれなければ。 武との交流が増えれば、当然だが透麿が夕麿の異母弟である事が広がるだろう。 一般生徒の立場で辛くなるのは他ならぬ透麿自身。 努力する事も成績を上げて特待生になる事も、当主になる為には必要なものだと思う。

「兄さま、兄さまはそしたら喜んでくださる?」

「もちろんです。 可愛い弟が懸命に頑張っているのを、喜ばない兄がどこにいると言うのです?」

「じゃあ、ボク、頑張る」

 今はそれでも良い。 本当は自分自身の為、六条家の為に頑張って欲しいが、それを透麿の年齢でどこまで理解出来るだろう?

 嫡男として物心ついた時には、後継ぎ教育を受けていた夕麿とは違う。 夕麿さえいなくなれば自分の子が後継ぎとしか考えていなかった詠美には、摂関貴族の当主になる意味がわかっていなかったと思われた。自覚のないままに家を継げばまた、六条家は危機にさらされる。次はないのだ。紫霞宮家の外戚として、六条家にはしっかりと足場を固めて欲しい。可愛い弟と想うからこそ彼に後継を託したい。

 夕麿はいつかは自分のこの願いが、透麿に届いて欲しいと思った。

「困った事があったら遠慮せずに言いなさい。武さまや周さんもいます」

「うん。兄さま、電話しても良い?」

「構いませんが、先にメールをしてください。折り返しかけますから。時間帯によってはすぐにかけれない時もありますが」

「じゃあ、メールする。

 兄さま、行ってらっしゃい」

「行って来ます」

 透麿の頭を撫でて、武のいる場所へと戻る。武の瞳はすでに潤み始めていた。

「武、透麿の事をお願いします」

「うん。出来るだけの事はする」

「無理はしないでください?」

 透麿の事も自分の事も無理な事はして欲しくない。 倒れても側にいられない辛さと歯痒さ、もどかしさがどれほどのものかを十分過ぎるくらい知ってしまったから。

 武の頬を涙が零れ落ちる。 それを拭いながら、噛み含めるように言う。

「武、何度も言いますが、あなたはあなたのままで良いのですよ? 無理に自分の何かを変えようとしないで。 大丈夫です。 自信を持って」

「本当に? 今のままで良いの?」

 不安の色を帯びた眼差しが揺れる。

「ごめん…頑張ってみる…」

 それでも健気に言う姿が、愛しくて抱き締める力が強くなる。

「武、離れていても私の心はあなたと共にいます。 朝雲暮雨ちょううんぼうの言葉の如く」

「バカ…雨が嫌いな癖に…」

「嫌いなものでもあなたの為になら、変化してみせます」

「訳わかんないよ…」

「それぐらいの気持ちだと思ってください。

 ……曲、出来たらメールしますね? 良い詞をお願いします」

「善処する…」

 オリジナル曲の作詞の話を振ると、真っ赤になって恨みがましく睨んで来る。 あまりにも可愛くて漏らした笑い声に、武は一層睨み付けて来た。

 可愛くて…愛しくて唇を重ねた。 武も名残惜しいと言うように、貪るように舌を絡めて来る。 このまま攫って行けたら…と思ってしまう。 だから自分の身を切り裂くような想いで唇を放した。

「冬休みには必ず戻ります。 身体を大事にしてください、武」

「夕麿こそ、今度痩せて帰って来たら承知しないからな」

「善処します。 周さん、成瀬さん、武をお願いします」

 全てを彼らに託して旅立つ決意を今一度する。

「誠心誠意お仕えします」

「この身に代えましても」

 二人の言葉にしっかりと頷いたのは、自分を納得させる為だった。

「では皆さま、ごきげんよう」

 同じように見送りに出て来てくれた、全員に別れを告げ、もう一度武を見つめた。

「行って来ます」

「行ってらっしゃい、夕麿」

 涙声で答える声に精一杯の笑顔で返して車に乗った。 互いの心残りを隔てるように、ドアが閉められ車が動き出す。

  シートベルトを締めるのすら忘れて振り返った。 路上に佇む武。 その姿が遠ざかり、小さくなって行く。 雫がその背後に立っていた。やがて車が坂を下り始めてその姿は完全に見えなくなった。 夕麿はシートに座り直して、シートベルトを締めた。

 卒業式の日は武との別れに耐え切れずに泣く夕麿を、義勝が抱き締めてくれた。 雅久が懸命に優しい言葉をかけてくれた。

 今日はひとり学院を去る。 永遠の別れではない。 互いの人生の為の暫しの別れ。 それぞれがいる場所で、今、為さなくてはならない事を為す。

 夕麿はシートに身を預けて静かに目を閉じた。

 また戦いの日々が始まる。
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