蓬莱皇国物語Ⅵ~浮舟

翡翠

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すれ違う心、とどかぬ想い

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 数日後に復帰した智恭は、家広の態度が変わらない事が返って不安になった。

 あれは…何だったのだろう……乱れて感情がむき出しになりそうな心を懸命に抑えて、いつもの氷の表情を続ける苦痛に悲鳴を上げたくなる。

 上司と部下として共にいられるならばもう満足しよう。叶わぬ想い、相手を困らせるだけの恋ならば、もう諦めてしまおう。そう思ったばかりだったというのに……

 何故抱き締めた?

 何故口付けた?

 眠っている智恭に向けた感情は何だったのか……問い掛けたくても口にするのが怖い。家広を追い詰めればきっと、また何処かへ行ってしまう。今度こそ二度と手の届かない場所へ行ってしまうかもしれない。今の智恭にはその方が怖い。

 同時に制御出来ない心は余りにも不安定で、仕事のミスに繋がらないかと細心の注意を払う為、圧し掛かるストレスは病み上がりにの心身に蓄積するばかりだ。

 それでなくても春は新規参入を図る企業が、武たちに会合や接待を申し込んで来る数が半端ではない。業種毎に分類して、其々の企業の状態などの下調べを行い、ファイルにして統括秘書である雅久に渡す。この作業がかなり手間を喰って、スタッフルームの人員の手を煩わせる。新しいプロジェクトの企画書なども多数上がって来る時期で、怪我をしている武がデスクワークを一手に引き受けて、代わりに夕麿と影暁が社外を飛び回っている状態だ。自分の事で憂いている余裕など本当は何処にもないのだ。

「ふぅ…」

 一段落して息を吐くのも束の間で、武の補助が間に合わないと通宗からヘルプが来た。後を家広に任せて執務室に向かう。朔耶の大学が本格的に授業が開始されて、補助の手が減った事もあって細かい処理が追い付かないのだ。

 ここである程度はまとめておかないと、今度はスタッフルームでの仕分けに手間がかかったり、書類が他の場所にまぎれて移動してしまう様な事態になる。ただでさえ武たちの足を引っ張るネタを、鵜の目鷹の目で探している者たちがいるのだ。間違った……では済まされない。

 スタッフルームが作られる前にはこれらの作業全てを、経営者執務室で行っていた事実に今更ながら驚愕し、武たちの負担は想像を絶する状態だったというのを痛感する。他の企業は知らないが、ここの多忙さは半端ではない。

「持明院、無理するなよ?」

 病み上がりを心配した武の声が飛ぶ。

「武さまこそ、キリの良いところで一度おやすみください」

 左腕は未だに吊るしたまま右手だけで仕事をする姿は、身体が丈夫でない彼への負担がどうしても気になる。

「大丈夫だ。意外と元気だから」

 笑う武に苦笑で返す。武のこういう顔はまだ大丈夫なしるしだ。彼の体調の変化は高等部の生徒会とここでの経験で、ある程度は気配のようなものを感じるようになっていた。

 観察していると武は結構状態が顔に出る。

 発熱していると目元が赤みを帯びる。発作の兆候も昨年多発するのを目撃した所為か、武本人が気付く前に何となく感じるようになって来た。これを雅久に告げると夕麿に呼ばれて、気付いたらすぐに知らせるようにと頼まれたくらいだ。

 今回のように彼らが不在であると、定期的に武の様子を見て知らせて欲しいと言われる。今年は未だ、強い発作が起こっていないのが逆に、皆の心配を呼んでいるように智恭には見えた。今回の怪我も長時間の手術で砕けた骨を繋いだ為、一昼夜、高熱に苦しんだと聞いていた。それでも数日で退院して仕事に復帰したのは、春の多忙期と家広を武自らが面接採用する目的だった。

 有り難い気持ちと申し訳ない気持ちが一緒になって、武の為にという想いが強くなる。

「腕はもう痛まれないのですか?」

「ほとんど痛まなくなった。ギブスしててもうっかり指先とか動かして、最初は結構悲鳴ものだったんだがな」

 智恭の言葉に腕を撫でながら声を立てて笑う。首筋にうっすらとキスマークらしいのが見えるのは、愛嬌のようなものだと思う。小柄で華奢な身体とは逆に、豪胆で太っ腹なところがある武は、夕麿が嘆く程に我慢強い。体調不良で周囲に負担をかけるのを極端過ぎる程嫌うのだ。

「武さま、どうか隣でおやすみになられてください」

 専属秘書の通宗も嘆願する。

「わかった、わかった」

 二人に言われては気が咎めるのか、PCをそのままにして立ち上がった。

 今日は特に夕麿に気を付けるように言われているのは、侍医である周と清方が学会で不在だからだ。周は西の島に、清方は南の島へ出ている。すぐに駆け付けてくれる二人が不在な為に、武への負担には注意が必要なのだ。

 武が休息に隣室へ行ったので、通宗と智恭は顔を見合わせて安堵の溜息を吐いた。

「持明院さまも余り無理をなさらないでくださいね」

「ありがとうございます。でも根は丈夫な性質たちなので、もう大丈夫です。これを向こうに持って行って来ますね」

「御願い致します」

 出来上がった物を抱えてスタッフルームに戻ると、交代で昼食に行く最後のグループが出る所だった。

「持明院さまは如何なされますか?」

 考えてみれば自分も通宗も武も、まだ昼食を摂ってはいない。忙しさに感覚が麻痺していて、すっかり忘れていた。

「あ…忘れていた」

 その言葉に全員が爆笑する。

「これを頼む。武さまと通宗君を誘って私も食堂におりますから、電話をこちらにまわしておきます」

「承知いたしました」

 苦笑混じりの言葉に答えたのは家広で、珍しく彼も笑っていた。執務室に戻って昼食の話をすると、通宗も忘れていたらしく目を丸くして絶句した。

「どうします?一応、皆には降りると言って来ましたが」

「武さまに伺って参ります」

 慌てた様子で通宗が隣へ行くのを見送って、智恭は深々と息を吐いた。空腹すら忘れてしまう多忙さが今は有り難い。

 そこへ武が通宗と出て来た。

「気分転換に社員食堂へ行くぞ?」

「御意」

 わざとおどけて答えると武が噴出す。

「お前は普段は鉄面皮なのに、時々そういうのするよな?」

「鉄面皮…はあんまりです、武さま」

 そうまで言われると少し情けなく思ってしまう。確かに無表情なのはわざとな部分がある。

「あ、言い過ぎか、ごめん」

 謝罪を口にしながら声を上げて笑う。高等部時代程ではないけれど、可愛いと思ってしまう。ただし本人に言ったら膨れるので口にはしないが、そう思っているのは自分だけではないと周囲の眼差しで確認している。

 その時だった。家広がドアをノックして、困った顔で姿を現した。

「家広、どうした?」

 智恭が近付くと、彼はそっと耳打ちして来た。

「その…下の受付に母が来ているらしいのです」

「里子が?君はもしかして、こっちに戻ったと家に連絡を入れてないのか?」

「はい」

 家広が実家に連絡を入れたと思っていた智恭は、敢えて自分が動かなかった事を後悔した。居所がわかった件だけ知らせておいたので、家広の母 白根 里子は痺れを切らしてやって来たのだろう。

「どうした、持明院?」

「それが…私の乳母、つまり彼の母親が私たちを訪ねて来たようなのです」

「わかった、通宗、ここに上げるように受付に言ってくれ。ホールでは差し障りがあるだろう。食事はその後で良い」

「申し訳ございません」

「俺と通宗は隣にいる」

「承知いたしました」

 二人が隣室に入ってから程なくして、里子が執務室に案内されて来た。彼女に椅子を勧めて、智恭と家広も座った。里子は執務室を見回した。武の机に書類が山積みになってはいるが、他は主がいない状態なので比較的片付いている。

「お久し振りでございます、智恭さま」

「ああ。里子も息災なようで何よりだ」

 智恭はこの乳母が苦手だ。彼女は未だに昔の身分制度に縛られた考え方で、人間関係を左右しようとする気持ちが強い。確かに今現在、二人が勤めている部署は特殊ではある。彼女が社に来たという時点で家広が、慌てて知らせに来たのもわかるのだ。従って武が何かを察して、ここを貸してくれた気遣いに心から感謝していた。

「智恭さま、息子はこちらでそのまま働いているのでしょうか」

「ええ。多忙な部署なので家広は大変戦力になっています」

 御園生は一流の大企業だ。しかも家広はこの最上階に上がれる数少ない人員として、毎日を懸命に働いている。彼女は何が不満なのだろうかと、思わず首を捻ってしまう。

 対する家広は俯いたままで何も言わない。

「仕事に於いては智恭さまのお役に立っているのですね?では今、この子はどちらに住まいを置いているのでしょう?どなたもお知らせくださいませんので、私といたしても確認をいたしたく思います」

 彼女のこの言葉に家広はチラリと智恭を見て目を伏せた。

「この最上階に勤める者にはマンションが用意されています。私もそこに住んでいますし、家広もそうですよ?」

 家広の様子から同じ部屋に居住していると、敢えて告げる事を控えた方が良い気がした。すると彼女はもっと不機嫌そうな顔をした。

「私としてはこの子を連れて帰りたいのですが」

「連れて帰る?何故にそう思うのです、里子?」

「それは…」

 里子が智恭の問い掛けに答えようとした時だった。不意にデスクの上の電話が鳴った。スタッフルームに切り替えてある筈だが、敢えてここを鳴らすとしたら武への直接の電話が来たという事だ。家広が立ち上がって出た。

「おいでになられます…はい、お呼び致しますので少々お待ちください」

 電話を保留にして受話器を置き、隣室の武を呼びに行く。彼はすぐに出て来て電話を取った。

「武です。久し振りですね、伊佐さん」

 電話の相手は外務省の官僚で、公務の際に武の担当をする伊佐 隆基いさたかもとだった。

「何かありましたか?………え?サマルカンド前国王が崩御!?そうか…とうとう…わかりました。ええ、王子には俺から…はい。わざわざ有り難うございます…では」

 サマルカンド前国王、つまりハキムの父親が死んだという知らせだった。

「武さま…」

 智恭と家広とはハキムは同級生だ。

「通宗、すぐに特務室に連絡を入れてくれ。ハキムが生命を狙われる可能性がある」

 緊急事態に彼らは里子に気を回してはいられなくなった。

「私は雅久さんに連絡を」

「自分は時雨さんに」

 智恭と家広もスマホを取り出した。里子は事態が理解出来なくて彼らを代わる代わる観ている。だがしばらくして放置されている事に我慢がならなくなったのだろう。手にしていた鞄を床に投げ付けて叫んだ。

「いつまで私を放置したままにするのです!?」

 その声に全員がギョッとして動きを止めると、彼女は立ち上げって武に詰め寄った。

「大体なんです、あなたは。ここではあなたは偉いのかも知れませんが、少しは弁えたらどうなのです?智恭さまに命令するなんて、何を考えているのです」

 慌てて通宗が武と里子の間に割って入った。家広が母親の腕を掴んで引き離そうとし、智恭も彼女を下がらせる。

「おたあさん、やめてください。この方は…紫霞宮さまであらしゃいます」

「へ?」

 息子の言葉に戸惑って彼女が振り返る。

「下がりなさい、里子」

「今…何と?」

「この方は紫霞宮武王殿下であらしゃいます」

 智恭が噛み含めるようにゆっくりはっきりと告げた。

「はあ?何故に斯様かような場所に宮さまがあらしゃいます?ご冗談を召されますな」

 彼女の言葉に武が苦笑する。

 呆れた通宗が何かを言おうと口を開きかけると、今度はノックに続いてドアが開いた。成瀬 雫が伊佐を伴って来たのだ。

「雫さん、伊佐さん」

「殿下、どうかそのままで」

 ドアが閉まったのを確認しながら、伊佐が立ち上がろうとする武を止めた。

「殿下、ハキム王子に連絡は?」

「今入れる」

 緊迫した空気が執務室内に満ち始めた。

 この時点で白根 里子は完全な部外者になった。雫が彼女を気にしているのを見た武が家広に告げた。

「白根、ご母堂を連れて今日は帰れ」

「はっ」

 返事をしはしたが、彼が迷っているのは確かだ。

「持明院はうちへ。特待生の制服を着ていた同級生は用心した方が良いだろう?」

「そうですね…誰がどう狙われるのかは不明です」

 雫が武の言葉に同意する。

「では智恭さま、後ほどお荷物を御園生邸へお運びいたして置きます」

「頼みます。…大丈夫だとは思いますが、君も用心に越した事はありません」

「はい。では殿下、失礼いたします」

「ああ」

「家広、私の車を使いなさい。私は皆さまのお車に乗せていただけるから」

「有り難うございます、使わせていただきます。おたあさん、行きますよ」

「でも、家広、おもうさんも来るのよ」

「それは外で聞くから」

 家広が渋る母親を促して出て行くと、執務室の中は安堵の溜息に包まれた。

「武さま、乳母が失礼をいたしました」

「良いよ。俺がらしくないのも原因だってわかっているから」

「ですが…」

「今頃は白根が説明してくれているだろうさ。この話は終わりだ、持明院」

「はい。……あ!」

「どうした?」

「昼食…如何なされますか?」

「ああ…忘れてた。こっちに運ばせてくれ。夕麿たちが帰って来る前に摂っておくよ。それと…会議室を用意してくれ、ここの階のな」

「承知いたしました」

 この多忙な時に…また武への負担が増えると智恭は、執務室から出て乳母夫婦と家広の事も含めて深々と溜息を吐くのだった。




 最寄駅から自宅マンションまでの道程はさほど遠くはないが、部屋で待つ人もなく待つ事もない状態では、気持ちの重さを反映したように足取りは重い。帰りたくはない…と思いながらも、マンションの玄関口に到着してしまった。

 硝子張りの1階部分は暮れ始めた外の色に合わせて、煌々と灯が点されて眩い程だ。それが朔耶の寂しさを一層煽る。

「夕食…どうしようか…」

 昨晩は高子に招かれて、義理の両親である彼らと共に食卓を囲んだ。今夜は二人とも不在で、朔耶は料理はおろか包丁も握った事がない。街の弁当屋もコンビニの弁当も朔耶には縁がなく、同じ年頃の者が普通に選択する物は心の範疇はんちゅうにはない。とは言っても紫霄学院の中で小等部から生活していて、卒業後は周がずっと手料理を食べさせてくれていたので、待ち合わせ以外でレストランにも一人で行った事がないのだ。

 今更ながら何も知らず、何も出来ない自分に気付いて途方にくれてしまう。

「あれ、朔耶?」

 後ろから声を掛けられて振り向いた。

「雫…さん?今日はもう終わったのですか?」

 雫が帰って来るにはかなり早い時間だった。

「いや、今夜から御園生邸に泊り込む事になって、着替えを取りに戻って来たんだ」

「え?義兄さんは?」

 いつもならば清方が一緒になる為、彼が用意をして移動するのが常だった。

「あれ?聞いてないか?清方は今日から南の島に学会に行ってる」

「学会で南の島?」

 周も一昨日から西の島へ10日間学会で行っている。

「ああ、周もだったな。あいつはいつまでだ?」

「来週末までと聞いています。義兄さんは、いつまで?」

「清方も来週末まで不在だ。学会自体は3日間なんだが、少し骨休めの旅行をして来ると言ってた」

「骨休め?」

「ああ、PTSDもまだ完治してないからな。どこかで歪みみたいなのがあるのか、余計なストレスがかかるらしい。今は俺は動けないから、ついでに行って来ると言うんだ」

「学会が3日間?」

「ああ、清方はそう言ってが…」

 周の日程は長過ぎると朔耶が訝っているのもわかる。雫もそんなに長い日程のは聞いた事がない。

「ああ、あれだ。西の島は確か以前、周が研修で半年間行っていた場所だから、今回も何か特別な予定があるんじゃないか?」

 とっさに思い付いた事を口にした。

「そう…なのですか?」

「ああ。それより夕食はどうする?」

「ええ、何処かに食べに行くしかないかと思って、その…社に御願いして社員食堂で食べようかと考えていたんです」

 たった今思い付いた事を口にした。

「だったら小夜子さまに御願いして、俺と一緒に御園生邸に行こう。あちらに行く事に関しては周には俺からメールを入れておく。

 ちょっと非常事態なんだ。お前を一人にしておくのは特務室としても心配だ」

 御園生邸にいてくれれば、高子と久方も安心なのではないかとも雫は思った。

 雫に言われて部屋へ着替えを取りに行く。クローゼットを開けて衣類を出しながら、朔耶はどうしても心に浮かんだ疑念が振り払えずにいた。

 周は本当に10日間も研修なのだろうかと。もしかしたら清方と合流して、どこかへ行ったのではないのか。ここのところ周は時折、哀しそうな目で朔耶を見ている時があった。向けられる微笑にも影が見えた。

 自分の何が愛する人にそんな表情をさせてしまうのか。問い掛けたいのに何故か出来ないまま、周は学会に出掛けてしまった。帰って来たら訊こうと思っていた、清方までもが西へ行っている事実を知るまでは。

 周が遠い……彼が何を想い、何を見詰めているのかがわからない。手を伸ばしても遠くてやっと届いたと思った刹那、すり抜けて行ってしまうような感覚を受ける。

 誰にも言えずどこにも置き場がない不安が、朔耶を苦しめ続けていた。もし周が自分を必要ではないと言ったら…朔耶にはもう行く場所も存在していない。確かに高子と久方は受け入れてはくれるだろうが、朔耶にとっては周がいての自分だと思えるからだ。

 溢れて来る涙を止める術を知らない。誰かを想い涙を流すのも、寂しさに震える事も、周が朔耶に教えたのだから。

「周…周…私は…私はどうすれば…」

 自分から強引に奪って始まった恋は結局、儚く消えてしまうのだろうか。

 側にいて欲しい。つまらない思い込みはやめろと叱って抱き締めて欲しい。愛していると優しく囁いて。

 どんなに嘆いても願っても、周はここにはいない。この声も想いも届かない場所にいる。涙に胸の中が満たされてしまっても、雫の言葉に従って御園生邸に行く約束をしてしまったので、朔耶は荷物をまとめて顔を洗って階下へと降りて行った。

 御園生邸へ向かう車の中、雫は何も朔耶には問い掛ける事はなかった。

 彼はどう思っているのだろうか。もしかしたら清方は周と中で合流するかもしれないという懸念はないのだろうか。それとも周と清方が再び…というのは、彼の許容範囲なのであろうか。

 朔耶は半ばパニック状態だった。誰にも相談出来ない想いを抱いたまま、孤独に潰されそうな自分を支え続けられなくなって来ていた。



 寮に戻って薫は、今日の月耶の言葉を葵に話した。葵は薫が目を見開いて見詰める程、優しい笑みを浮かべてそう答えた。

「月耶君はあなたの乳兄弟の中でも同じ年齢。しかも生まれ月まで同じ。言うなれば双子のようなものではありませんか?」

「双子…私と月耶が?」

「薫、あなたは生まれてすぐに双子の兄弟と引き離されました。でもあなたの乳部となった御影家には彼がいた…ね、月耶君は乳兄弟という、あなたの双子の兄が」

「私と月耶が双子…」

「一番身近で一番あなたをわかっている者、それが月耶君でしょう?」

「うん、そうだね。じゃあ、月耶と仲直りする為にも葵、何を悩んでいるのか私に話して欲しいな」

「薫…」

「月耶と揉めた原因はそこなんだから」

 葵が悩むのはきっと自分の事だと薫は確信していたから、嘘偽りも遠回しな問い掛けも敢えてしなかった。

 二人の問題は二人で話し合う。その上で結果を月耶に報告したいと思う。

「私は葵を困らせるような事をしたの?御願い、ちゃんと話して」

 葵を見詰める葵の瞳には一点の曇りもなかった。迷いのない真っ直ぐな眼差しに葵は小さく頷いて、周が抱いている懸念に自分が同調してしまい、自分と薫の未来を憂いてしまった事を正直に話した。その上で現実となった時の自分の覚悟も、隠す事なく正直に薫に話した。

「う~ん…確かにね、未来に絶対はないのだろうとは私も思うよ?でも葵、誰かを本当に好きになるって事を私に教えてくれたのは、葵だってちゃんと自覚してくれてるの?葵は兄さまたちが候補に選んでくれたけど、葵が良いって決めて望んだのは私だって忘れてない?」

「薫…私を許してください。なんて愚かだったのでしょう…」

 何故、周の抱く苦悩に巻き込まれてしまったのか。今になれば逆に不思議だった。

「周先生は…ご自分の想いに応えてもらう事に、愛する人に想い返されるという事にきっと、慣れてはいらっしゃらないのかもしれませんね」

「うん。周先生は辛い事や悲しい事が一杯あったんだって、清方先生が言っていらっしゃった」

 今ならあの時に清方が言った事の意味が、薫にも何となくではあるがわかる気がした。

「でも…周先生と朔耶君は、乗り越えて行くべきなのだと思います。良いですか、薫。周先生の事は朔耶君には言ってダメですよ?

 彼はきっと深く傷付いてしまって、問題が深く重くなるかもしれませんからね?」

「うん、わかった」



 朔耶は門へ向かう道を歩いていた。周囲には何となくグループとして成立してしまった友人たちがいる。

 今日の授業の話

 異性の話題

 家族の事

 取り留めない話題に口を挟む事もあるが、どちらかというと大抵は聞き役に回る事が多い。入学から1ヶ月以上経過した今でも時折、彼らが口にする話題の内容が理解出来ない事が多かった。

 皇立を蹴って私立であるこの大学を受けたのは、総合医の育成に力を入れているからだった。希の願いを聞き入れる程の才覚はないと感じていたし、その為には恐らくは臨床医より研究者を選択しなければならないだろう。

 朔耶は周と肩を並べて紫霞宮家の為、如いては薫と葵の為に働きたいのだ。周の負担を軽減する為にも同じ道を進む決意をして、この大学の医学部を選んだ。当然ながら皇・国公立よりも授業料が高いこの大学は、比較的裕福な家庭の子息子女が多い。と言っても偏差値は決して低くはなく、周囲もここの受験を渋ったりはしなかった。それでも貴族で資産家の令息という朔耶の立場は他よりも抜きん出てはいた。敢えて貴族であるなどとは口にはしないが、資産家の子息子女であるならば護院という姓だけで、朔耶の出自をわかってしまうのが難点である。

 当然ながら自分自身の立場や家のランクを上げたい者が寄って来る。だが自分の周囲にいる者たちはそんな考えを持っていないと感じられる者たちだった。それでも朔耶に近付きたがる者は絶える事がない。

 周が迎えに来てからは彼を狙う者たちまで寄って来ようとする。うんざりする朔耶に周囲は同情的だった。恋人や花嫁志望の女性には自分には許婚者がいて、周にも同棲中の恋人がいると言ってはいる。

 皇国にはまだまだ偏見が多く同性愛者の医師というのは、患者からは理解されない可能性も強いと周や清方に言われて大学では隠すしかない状態だった。



 サマルカンド前国王の崩御による騒動は、武たちと御園生にかかる不安を軽減する為を考えたハキムとカリムが、アメリカに亡命を願い出て在日アメリカ大使館に保護された事で一応の収束と考えられた。

 朔耶に派遣されていた要人警護専任者も退いた。

 周は少し日程が延びて、明々後日帰って来ると連絡があった。それ以外の日常が帰って来ていたが、一人のマンションの部屋はやっぱり寂しかった。周囲の笑い声に笑顔で応えながら、すっかり新緑に彩られた木々を見上げた。するとポケットの中のスマホが震え出したのを感じて手に取ると、弟の月耶の名前が液晶画面に浮かび上がった。

「珍しいですね、月耶、あなたからかけて来るなんて…何かありましたか?」

 腕時計を見ると6時限目と7時限目の間の休み時間だった。

「え?…周が…そんな事を?………わかりました、その事は私に任せてください。…大丈夫…ええ…それでは…ごきげんよう」

 切った後のスマホの画面を唇を噛み締めて見詰め、それからある決意をして朔耶は顔を上げた。友人たちに忘れ物を思い出したと告げて学内に取って返した。



 周が帰宅したのは既に日が沈んで、街の灯が点る時間帯だった。駅からタクシーでマンションの玄関エントランスに降り立った。

 学会の後、臓器移植の手術に立ち合わせてもらえるチャンスを得て、術後経過の見守りにも参加させてもらった。臓器移植は西の島の方が先進しており、総合医である周がそういった手術に関わる機会はないであろうが、またとない経験は多くの実りある学びになったと感じていた。

 3月のサマルカンドへの公務随行に続いての長期の留守は、朔耶に申し訳がないとは思ってはいる。途中で起こった騒動も一応、特務室から連絡を受けていた。

 やっと帰って来た。鍵を開けて室内に入ると、周はホッと一息吐いた。

「おかえりなさい、周」

 朔耶が笑顔で迎えてくれた。

「お風呂の準備が出来ています。まずは身体を解してください」

「そうする」

 周は迎えられた言葉と笑顔に胸が温かくなった。


 
 数日後、周は行き付けの書店から取り寄せていた本が届いたとの連絡を受けて、夜勤明けの午後に足を向けた。

「周?」

 背後からの声に振り返ると雫が本を抱えて立っている。

「雫さん…今日は非番?」

「午後からな。丸一日の非番は無理なんだ」

 特務室の人員不足は既に雫から休日を奪うまでに至っている様子だった。

「落ち着いたら一度、ドックに入った方が良い」

 どんなに丈夫でも無理をすれば身体は悲鳴を上げる。それは夕麿で痛いほど見て来た。周自身も公務などの随行後に発熱などを経験している。

 雫は周たちよりも年齢が上だ。当然ながら無理は健康を損なう原因になり兼ねない。

「そうだな…その時はよろしく頼むよ、周」

「任せて。で、清方さんは帰って来たの?」

「いや、もう少しいたいと連絡があった。PTSDの事も在る。気が済むまで好きにさせても良いかな…と思ってな。俺といるのさえ近頃はストレスになっていたから」

「そうか…」

 清方の想いを聞いているだけに、周はそれ以上は口に出来なかった。

「じゃあ…夕食はうちに来る?特務室詰めだと御園生の社食だろう?」

「いや、今日は午後から帰宅すると言ったら、高子さんが是非にと仰るんであちらでいただく」

「高子さまもお寂しいのかな?」

「じゃないかな?昼食は摂ったか?」

「いや、まだだ。何処かで適当にと思ってるけど、雫さんもまだ?」

「ああ、一緒に何処か入るか?」

「雫さんが良いなら」

「決まりだな」

 異母妹がいるだけの周には、雫も清方も信頼出来る年齢の離れた兄のような存在だった。

 書店を出て食堂街へと歩いて行く。周が学会での事や移植手術の立会いが出来た事を話すのに、雫は絶妙な相槌で耳を傾けてくれる。夢中になって周が話していると、向かい側からまだ若い男が駆け寄って来た。

「あの…護院 朔耶君のご親戚ですよね?」

 少し背の低い彼は、長身の周を見上げるようにして問い掛けた。朔耶が周との関係をそう言っているのは聞いている。

「そうだが、君は?」

「同じ医学部の学生です。あの…朔耶君はどこか具合が悪いのですか?」

「え?」

 彼が口にした言葉の意味を図りかねて、周と雫が顔を見合わせた。

「ご存知ないんですか?朔耶君、先週からずっと大学に出て来ていないんです。最初は取っている講義が違うのかと思っていたのですが、友人たちの誰もが彼に会っていないんです」

「そんな…」

 周が絶句してしまう。

「周、昨日は当直だったんだよな?出勤する前の朔耶の様子はどうだったんだ?」

「僕は…一昨日の深夜から当直に入っていたけど…家を出る時は別に変わったところはなかった。一昨日は出席する講義がないってマンションにいたけどっ…」

 応えながら狼狽する。体調が悪いならばすぐに気が付いている。学会から帰宅してから毎日、共に過ごしてベッドも共にしているのだから。

「落ち着け周…兎に角帰って本人に確かめてみよう。こんな時に清方がいてくれたら…電話で問い合わせてみるか?」

 周の様子と雫の苦々しい顔を見て朔耶の友人と名乗った男は二人が、本当に朔耶が大学を休んでいる事実を知らなかったのだと理解して、友人たちが皆で心配していると告げて帰って行った。

 何かあったのならば何故、自分に言ってはくれないのだろう。軽いパニックに陥っている周に車の運転は無理だと判断して、雫は自分の車に周を乗せてマンションへと急いだ。



 マンションの自分の部屋で、朔耶は一人膝を抱えて座っていた。住まいとしているこの部屋から出なくなって、日付を数える事もやめてしまった。今日が何日で何曜日なのか、もうどうでも良かった。どこにも行かず周以外の誰とも会わなければ、彼は朔耶の想いを信じてくれるだろうか。

 何にもなれなくても良い。お金はここに閉じ篭っていても稼げる。周だけを見て生きて行ければ…欲しいものなんて何も存在しない。愛する人がいない未来が訪れると言うのなら、このまま朽ちてしまいたい。

 でももし周にいらないと言われるなら……どこへ行けば良い?

 そうなったら最早、行く場所も願いも祈りも消えてしまう。自分の何かが周にああいう想いを抱かせるのなら、きっといつかは周を傷付けて嫌われてしまうに違いないのだ。でも…防ぐ方法も朔耶にはわからない。

 自分の何がいけなくて、周に哀しい想いをさせてしまっているのだろう。問い掛けても問い掛けても答えが見付からなかった。不安で…怖くて…せめて今は、周に嫌われてしまわないように懸命に笑顔を造っている。

 学会から帰って来た周はその後も忙しくて、朔耶が知ってしまった事実に未だに気が付いてはいない。

 気が付かなければ良い……朔耶がこうして閉じ篭っている事も何もかもを。自分を見て笑いかけてくれて、抱き締めてくれれば何もいらないのだから。

 与えられ要求される条件に従う。

 朔耶の人生はこれまでそんな色に縁取られていた。その枠の中でならば自分の想いで選択し、行動する事が可能ではあった。その枠は完全に消え去ったわけではないが、同時に周といる為にはどうすれば良いのかという迷いも存在していた。だから些細な事に不安になり、周の過去の相手や彼に近付く者に嫉妬し威嚇までした。

 紫霄を卒業して周と暮らすようになって純粋に嬉しかった。幸せだった。

 けれども清方と彼の間に漂う何かが、共に目撃した雫の態度が、朔耶の不安を煽って心を揺れさせた。

 周を失わない為に何をどうすれば良いのかがわからない。本人に問い掛ける言葉も紡げないままで、彼は学会へと出掛けて行ってしまった。しかも清方も時期を同じくして学会へ行ったという事実は、朔耶の不安を更に募らせてしまった。

 周と清方の年齢差は朔耶と周の差とほぼ同じ。本当は年下よりも年上である清方の方が…周の気持ちは傾いているのではないのか。

 人間は思い詰めるとあり得ない事、余計な心配まで抱え込んで、どんどんと想いの創り出す負の深みへと落ち込んでいくものだ。

 そこへ弟 月耶の電話が来た。

 周が憂いている事。

 朔耶には驚き以外なにものでもなかったが、想いの底にいる状態にはいつか事実になるのかもしれない…という根拠ない不安の種子が根付いてしまった。

 いつか自分が周を裏切って傷付けると言うのであれば、どこへも行かず誰にも会わなければそんな事にはならないという結論を出してしまったのだ。

 朔耶がここまで思い詰めた根底には、紫霄の中だけで生きて来た弊害があった。夕麿や義勝はまだ皆と一緒に、しかも異国の地で大学へ通った為に表に出る事はないままに解消した。だが朔耶は一人でしかも皇国で、まるで違う環境へ入ったのだ。紫霄に編入した武が経験したよりも激しく、外の世界の学校は朔耶には異世界であったと言える。

 何とか会話を交わして集まる仲間は出来た。その彼らさえ大抵は朔耶に理解出来ないままだ。しかも周との関係を彼らに話す事は出来ない現実は、望みもしない人間を呼び集める。

 確かに女性に対する嫌悪感は感じてはいない。この事実がいつかは周の言うような事態を生むのだろうか。養母以外の女性が近くにいた経験がない朔耶には、異性とどう向き合えばよいのかすらわからない。

 恋愛経験そのものも周が初めてで、未だにどこかわからない部分が多いのだ。だからこそ言われた事を歪んだ形で信じてしまったとも言える。

 今の朔耶にはマンションの自分と周の部屋しか居場所がない、という結論が正しいとしか思えなかったのだ。

「え!?……朔耶に…話しちゃったの、月耶!?」

 周の件を朔耶に話したと聞いて、薫は絶句してしまった。

「だって下河辺先生には話すなって言ってたけど、朔耶兄さんにはダメだって言わなかったじゃん?」

 月耶は自分が何をしたのかをまるで理解していない様子だった。

「あのさ…月耶って、弟のくせに朔耶の性格がわかってないよね?」

 側で見ている葵はもしかしたら実弟の月耶よりも、薫の方が朔耶をわかっているのかもしれないと思った。だから一度は二人が同じ相手を望んだのだとも感じてしまう。もちろん葵は薫の周への想いが、恋を知らない状態の憧れと依存からだったのは聞いて知っている。もしかしたら周に朔耶が惹かれていくのをどこかで感じて、トレースしていたのかもしれないとも思う。

 外に出られない薫に朔耶は同じように、学院都市に閉じ込められて寄り添い続けて来た。彼は薫の世話係であり、教育係でもあったのだ。三兄弟の中で朔耶だけが違う母から生まれ、先天性の心臓疾患ゆえに捨石とされていた。その境遇には共通する部分があり、二人は互いに相手の想いに共鳴する部分があるのかもしれない。

 逆に月耶は末っ子として兄たちにも家族にも、大切に甘やかされて成長している。彼は朔耶の苦悩も哀しみも理解していなかったのは、自分だけが取り残されたと強く主張する事からも窺える。

 次男の三日月は御影家を継ぐのは彼だと言い聞かされて育ったと言う。だから彼は朔耶が異母兄であるのを早いうちに知ったらしい。心臓が悪い兄と何も知らされずにいる弟の間で、三日月は苦悩し哀しみ苦しんだ。

 長与 秀一との事は彼にようやく安らぎを与えたのではないのか。そう思うと葵は、月耶の無頓着で無神経な有様に少し苛立ちを覚えた。

「薫、こうなっては仕方がありません。下河辺先生に相談しましょう。放置しておくと取り返しがつかない事態を招くやもしれません」

「うん、私もそう思う」

 昨年の夏休みに夕麿の異母弟 透麿の偽りの話を、朔耶が信じてしまったのを薫は覚えていた。

 朔耶が何を想い何を考えたのか。薫にはわかる気がしたのだ。

「朔耶はこれまで自分の為に何かを考えて来なかったと私は思っています」

 薫に寄り添い薫の為だけに彼の人生は存在する事を許されていた。そこに朔耶の希望や未来はあってはならないものだった。駆け付けて来た行長に事情を説明して、薫は最近理解した朔耶が学院で置かれていた状況を口にした。

「多分…周先生の心配を解消する為に、彼は極端な結論を出して実行すると思われます」

 薫の言葉を受けて葵も自分が抱いた懸念を口にした。

 紫霄学院での生活から解放された朔耶は、自分の意志で物事を決定する事を未だに躊躇ちゅうちょしている部分があるのかもしれないと行長は思った。

 生徒会長としての彼は非常に優秀だった。彼は与えられた環境や条件下では、持てる才能を十分過ぎる程発揮する。朔耶は自分が所属している学年に於ける、最も身分高き優秀な生徒としての役目を見事なくらいに果たした。

 今は武の周囲を取り巻く人々のようなグループを形成する核になろうと、懸命に様々な事を思案しているのはわかっていた。だが朔耶には自分で人員を集める知識も経験もない。人望も魅力もあると行長は思うのだが、彼が強い絆を持って来たのは身内だけなのだ。

 不慣れな環境に馴染もうとする努力も、朔耶を疲れさせる原因になっているだろう。今の朔耶の心の拠りどころは周とその愛情しかない。その周が朔耶との未来に不安を持ってしまった。

 自分が未来に愛する人を裏切り、深く傷付けてしまうかもしれない。夕麿に似たような懸念を持たれながらも、すっぱりと否定していた武と朔耶では余りにも性格が違う。自分の意志を明確に実行する武と、両親の望むままに生きるのが正しいと教えられて育った朔耶。

 同じ局面に遭遇しても、朔耶には否定する事も跳ね除ける事も出来ない。ただ周の望みを実行しようとする筈だ。

 これは大変な事態になっているかもしれない。行長は慌てて清方をコールした。


「周、本当に心辺りはないのか?」

 雫の問い掛けに周は首を振って応えた。大学をどれくらい休んでいるのかと問い合わせに行けば、周が学会に出た数日後に休学届けを出している事実が判明した。

 高子に尋ねても何も聞いてはいないと答えた。

 周は雫と清方の部屋に来ていた。朔耶と顔を合わせれば間違いなく、彼を問い詰めてしまうだろう。途中で清方から連絡が来て出来るだけ早い便に搭乗して帰るから、今は周と朔耶を会わさないで欲しいと要請されたのだ。

 周には朔耶に急患が入って帰宅が遅れると連絡させた。話を聞いた高子が何も知らない顔で、朔耶の様子を見に行ってくれてる。清方は電話でははっきり口にしなかったが、何かを知っているようだと雫は思っていた。それでなくてもここのところ、清方の様子が前にも増してよそよそしかった。

 周が以前よりも彼の側にいる様子が、雫の不安を駆り立てていたのは確かだ。思い当たらない…と言うのは本当なのだろうか。周の想いの何かを朔耶が知ってしまっただけなのではないのか。そうは思うが問い詰める事も出来ない。

 周と朔耶。双方共に脆く傷付きやすい。それぞれの生い立ちから来る事情が異なる為に、脆さがむき出しになってしまう事態が違うだけだ。もっとも周の脆さは何処に出るかは雫も経験済みだ。

 朔耶の脆さの一部は昨年の夏に見たが、今の状況に対する情報が雫にはない。情報がなければプロファイルも出来ないのだ。ただ今のところはどうやら、部屋に引き篭もっているだけの様子だ。そこが放浪癖を持つ周とは真逆だとも言える。がっくりと肩を落として座る周を横目で見ながら、清方が帰って来る時間までどうすれば良いのかと途方にくれる雫だった。

 行長からの電話を受けて、清方は蒼白になった。周が朔耶に抱いている心配はもちろん知っていた。愚かな感情だとはわかってはいても、周の不安は清方自身の不安と重なり合ってしまう。まるで月蝕の月に地球の影が重なるように、彼らの想いは闇を向いて重なり合い寄り添ってしまう。

 二人の紫霄での日々が心を響かせ、時折互いの想いに同調して身動きがとれないようになる。それが互いに害になってしまう事も自覚していた。だから精神的な依存から周は清方を離れ、清方もまた周から距離を取った。

 一昨年の夏の船旅は、武と夕麿の心を無茶苦茶にに破壊した。それでも愛する強い気持ちが絆として、二人をもう一度寄り添わせて生きる事を望んだ。だが破壊されたのは周の心も清方の心もだった。清方の場合は雫との大きな溝として、今現在も心を揺るがせている。

 周の心は朔耶の出現で一応修復されたかに見えていた。本来ならば周を諌めているべき清方が、哀しみと苦悩の中に自分と同じものを見てしまった為に、結局は朔耶を傷付けてしまう事態を引き起こしてしまったのだ。

 そして……朔耶が周の想いを知った事を、彼はまだ知らないままでいる。

 ―――精神科医失格だ。空港からマンションへ帰るタクシーの中で、清方は自分の過ちに歯軋はぎしりしていた。一昨年末の雫との事と昨年の夏の事件、双方が自分の心を蝕んでいるのは自覚してはいた。それでも何とか折り合いを見付けたつもりだったのだ。

 診療所は現在も閉めたままで再開出来てはいない。嘱託の御園生系病院も方も、未だに復帰は中途半端な状態。かろうじてHPだけは機能させている…というのが清方の今の姿だった。

 慌てて帰って来たが、もうどうして良いのかすらわからない。タクシーの中から義勝に助けを求めた。駆け出しの研修医に救いを求めるなどと、本来はあってはならない事だとは思う。だが彼らの事情を全て把握している精神科医は、義勝以外にはいないのだ。

 すぐにマンションに向かうと返事をしてくれた義勝に、今は縋るしかないと思っていた。


 義勝は清方がエレベーターを待っていると、息を切らして駆け寄って来た。本当に急いで来てくれたのだとわかる。彼は思い込みや独りよがりな部分がまだ残ってはいるが、誠実で真面目な青年で将来は良い精神科医になると清方は見込んでいる。

 義勝は義勝で近頃の清方と周の様子に違和感を感じて、何事かの騒動にならないかと心配していたのだ。先にマンションに着いて駐車場に車を止めて、方々から事態についての情報を電話で集めて考え込んだところに、清方を乗せたタクシーが到着するのが見えて慌てて車を飛び出した。

 雫と清方が何某かの傷を残したままでいるのには気付いてはいた。周に影響を与え最終的な皺寄せが、まだ10代の朔耶に行ってしまうとまでは考えが及ばなかった。もっと早くに二人のカウンセリングをしておくべきだった。スタッフの状態をベストにするのは、御園生姓を名乗る一人として、責任を持って考えて実行しなければならなかった事項だ。

 武や夕麿に比べたら自分はまだまだ甘い。血の気の失せた顔でエレベーターを待つ清方を見て、義勝は自分の不甲斐なさを心の中で叱りつけていた。エレベーターの中で義勝は清方に当分の間は周に、朔耶の思い込みの原因を話さない事、朔耶を御園生邸で預かる事を告げた。

 周はかなりナーバスになっている。事実を知らせれば今度は周が不安定になるのは目に見えている。それは今の周には安易に乗り越えられないと感じるのと同時に、病院では彼を必要としている事実がある。ただでさえ人手不足で、しかも周は紫霞宮家の侍医でもあるのだ。

 武の怪我はかなり回復して来たが、逆に不自由な状態で多忙を極めている状態では、いつ発作が起こるかもわからないのだ。義勝にとっても病院にとっても、武は最優先にするべき人間。

 その上で朔耶を御園生で預かって、内側に向かってしまった気持ちを何とかする。周から離れる事は嫌がるだろうが説得するしかないだろう。

 同時に周と清方をそれぞれにカウンセリングする必要がある。もちろん義勝だけでは不可能であるから、精神科の部長医師に相談した上で進めるべきだろう。時と場合によっては雫にも必要であるかもしれない。

 この手のすれ違いはある程度は武と夕麿で見て来ている。今回の周と朔耶の問題にしても程度の差はあるが、あの二人も似たような事を互いに考え、互いに相手を大切に想うがゆえに苦しんでいた。様々な事を乗り越えた二人が、今はそのような考えを持っていたのをどう感じているか。朔耶には良いヒントになるのではないだろうか。

 エレベーター内で簡単な説明と打ち合わせを済ませて、義勝は周と朔耶の住む部屋がある階で降りた。一人自室に上がって行く清方は、周にどの様に説明すればよいのかを考えているうちに到着してしまった。

 カードキィを出してドアを開けた。靴を脱いで上がると雫がリビングから出て来た。今回の一件の理由は未だ、雫も知らないままになっている筈だ。行長には雫には知らせないように、周囲に口止めさせておいた。周の状態を確認せずに知らせるのは問題だと考えたからだ。

 結果的に義勝が言ったように、正しい判断だったと言える。

「周は?」

「リビングにいる。少しアルコールを摂らせて落ち着かせた」

 恐らくはすぐに朔耶に理由を問い掛けに行きそうだったのだろう。

「ありがとう…あなたにも後で話があります」

「わかった」

 周を引き摺ってしまった責任は自分にある。今更かもしれないが雫に、自分の中のわだかまりを話してしまおう。改めて清方はそう決意していた。

「周と二人にしてもらえますか?」

「わかった。俺は部屋にいる」

「ありがとう」

 そっと雫に抱き付いてから離れて、清方は周のいるリビングへ向かった。ソファに肩を落として座っていた周は、清方が入って来たのを見てホッとしたように小さく息を吐いた。清方は歩み寄ると横に座るのではなく、敷き詰められた絨毯の上に片膝を着いて周の顔を覗き込んだ。

「周、朔耶の所には今、義勝君が行ってくれています。恐らくは大学の環境に慣れなくて、ストレスから気鬱になっているのでしょう。5月病と呼ばれるものかもしれません。あなたも昨今は多忙で不在がちですから、彼も寂しかったのでしょう。しばらくは環境を変える為に、御園生邸に預かっていただく事になりました。もちろん、あなたも顔を見せに行ってあげてください」

 慣れぬ環境でストレスが溜まったらしいのは嘘ではない。そこへ周の不在が重なって不安定になっていたところに、月耶に話を聞いて思い詰めてしまったというのが真実だろう。頑なに閉じてしまった朔耶の心を開かせながら、周の無用な憂いを晴らさなければならない。

 だが義勝はどちらも任せて欲しいと言っていた。

 清方もカウンセリングをと指示された。大丈夫なつもりであったのに…次々と周囲に影響を与えて巻き込んでしまっている。自分が様々な事から向き合うのに背を向けていたのだ。だから揺らぎの幅が大きくなって状態が悪化しても、自分で事実を認めたくなくて認めなかった。

 きっと…雫も苦しめていたのだろうと思う。

 本当は自分自身に嘘は吐けないものだ。自分を誤魔化して暗示にかけても、必ずどこかに歪みが来る。身体に出ない場合は歪みは周囲を巻き込んで毒を放つ。

 清方は自分のしてしまった事で起こった事態に、胸が激しく痛んでいた。



 一方…智恭と家広の方にも面倒が起こっていた。

 後からやって来た家広の父親 白根 家成しらねいえなりが息子の仕事の様子を見たいと言って、有人に直談判して許可を得てしまったのだ。

 監視と観察の為だけにいる男。

 当然ながら武に対するストレスの原因となっていた。しかも母親の方はというと本来は智恭の部屋である場所を我が物顔に使用して、挙句に息子のクレジット・カードを使って街で買い物三昧を楽しんでいた。

 確かに経営スタッフルームは武たちの補助が中心の為に、業務はかなりの激務であると言える。従って与えられる報酬もかなりの高額であり、社員はこれを株式投資で資産活用するのが普通だった。家広は地方の子会社に勤めていた時から、資産運用だけはやっていたので、確かにかなり高額が口座にある。

 生活費をと家族用カードを手渡されて、彼女は浮かれてしまっているのだ。太平洋戦争以前から破産状態だった家はかなりに上る。白根家は炭鉱で巨額の富を築いて、勲功貴族の地位尾を与えられた経歴を持っていた。だが炭鉱は既に採掘し尽して廃鉱となり、白根家の富も消え去った。現在は普通のサラリーマン家庭であり、本来の主人である持明院家に仕える身内を複数輩出している。家広の母もその一人であった。

「武、そろそろ昼餉に行きませんか」

「あ、もうこんな時間か。ごめん…」

「社食も空いて来る時間ですし、全員で降りる事にいたしませんか?」

 影暁が室内を見回して言った。この時室内には、智恭と家広も補助に来ていた。当然ながら家成も二人に付いて入室して、状況をただ座って眺めていた。

「そうだな」

「全員で降りて一緒に戻って来る方が、バラバラで行くよりも能率が良いかもしれません」

 武に夕麿が同意して、全員が席を立った。当然のような顔で家成も立ち上がる。

 彼の存在に一番苛立っているのは雅久だった。機密情報の管理面から言っても、部外者がこの執務室に出入りするのを許せないのだ。スタッフルームでも機密情報は扱うが、重さはここの方が必然的に上になる。幾らなんでもこの部屋にまで入り込むのは非常識だとは考えられないのだろうか。

 10時にお茶の用意をしながら、雅久は手伝ってくれた榊に不満を愚痴った程だった。一般のサラリーマンにここで取り扱う情報は、わからないと信じたいが楽天的な思考であるとも思う。

 息子の仕事を見たいと言って1週間。もう十分だろうと言って追い払いたいと雅久は本気で考えていた。

 食堂に武たちが姿を現すと残っていた社員たちが、テーブルを寄せて人数分の席を用意してくれた。

「武さま、定食になさいますか?」

「さほど空腹じゃないから、オムライスがいい」

「承知いたしました」

 武の食事は通宗が、夕麿の食事は榊が訊いて注文し運んで来る。後の者はそれぞれ自分の物を自分で運ぶ。最初、家広は智恭の分も倣って運ぼうとした。しかし経営執務室に所属している者が、そのような扱いを受けているのはよろしくない。他の者への示しが付かなくなる。智恭はそう言って家広を諌めた。

 紫霄の卒業生ばかりがいる部署に所属していると、うっかりして学院にいた時のように振舞ってしまいそうになる。だが社内では異質な行為なのだ。

 武と夕麿が特別扱いされるのは彼らも普通の光景として受け入れている。それでも二人は特別なのだ。同じ御園生姓を名乗ってはいても、雅久と影暁は自分の食事は自分で食券を購入して、皆と一緒に並んで食事のトレイを来る。

 智恭はいつものように、家広は父親の分も購入して列に並んだ。家成はただ座ってこの食堂の様子を窺っている。

 彼は武や夕麿に敬意すら払わない。智恭が苛立ちを見せているが、今は傍観するように雅久を通じて夕麿に命じられていた。

「お待たせいたしました」

 通宗と榊がトレイを二人の前にそれぞれ置いた。運んで来た二人の分は、食事を終えた社員が気を利かせて運んで来る。誰かが命じた訳ではない。いつの間にかこういうルールが社員の間で広まっているのだ。もちろん強制ではない為に、知らない顔をする者は一切関わらない。咎める者もいない。

「いただきます」

 全員がテーブルに揃ったのを確認して、武がスプーンを手にした。続いて夕麿が箸を手に取ると、他の者たちが揃って箸を手にした。

「ん~美味しい」

 武が唸る。オムライスは武の為の特別メニューで、通常の半分に作られている。美味しいと言う武の姿に全員がホッとする。そう言っている間はまだ発作の原因であるストレスが、彼の身体に影響を及ぼす段階ではないという証明だった。

「食事中をすまない」

 近付いて来て声を掛けたのは大橋 了介だった。

「ん?どうしたんだ、了介?」

 スプーンを置いて武が問い返した。見ると彼は新入社員らしい青年を連れている。

「ちょっと個人的な相談にのってやって欲しいんだ」

「個人的?ここじゃダメなんだな?お前たちは食事は済ませたのか?」

「いや、今二人で外回りから帰って来たばかりなんだ。これから食事にしようと思って来たら、ちょうど行き会ったもんだから」

「じゃあテーブルを足してお前たちも座れ。相談はその後、上に移動して聞く事にしよう」

 無闇に最上階に人を受け入れるのは問題がありはする。だが基本的に社員を信用する、というのが武のスタンスだった

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