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愛するがゆえに
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その夜の夕食後に武は先に夕麿を部屋に返して、全員が集まる用のリビングのソファで時間を見ながらくつろいでいた。
この日、響は自分がこれまで見て来たのとは違う武の顔の意味がわからず、ここに宿泊する許可を久方に求めた。久方は武の思惑がわかっていたらしく、わざと渋った顔で許可を出した。
夕麿がバスルームから出て来るのを、ベッドに寝転んで待つ。
ここしばらく触れ合わない時間が続いた。一つには武が治療を受けていたためだ。それに重なって老帝の崩御があって、夕麿が軽く触れて慰めるだけだった。ましてや逆になったのはもういつだったのかすら記憶にない。
いい意味でも悪い意味でも、互いに年齢を重ねた……ということなのだろう。少なくとも武はそう解釈している。
ただ……いつどの様な形で、向こうが仕掛けてくるかはわからない。できればその場に夕麿がいないことだけは祈っている。凶事に倒れるのは自分だけがいい。過去にあった様に巻き込みたくはない。夕麿には武の伴侶という以外に、狙われる理由は存在していないのだから。
今度こそ生命はない……と覚悟している。先帝の加護が失われた今、武は翼を失くした鳥に過ぎない。しかもどう頑張っても大きくて獰猛な鳥にはなれなかった。相手の手を嘴で突くのが精一杯だ。
現在、雫に頼んで夕麿の警護には貴之に就いてもらっている。もちろん、彼一人ではなく交代でもう一人が付くが、非番のとり方も配慮してもらった。貴之には無理を強いることになる。だから武は彼に頭を下げて頼んだ。敦紀にも自分のわがままを謝罪した。
でもある意味でホッと胸を撫で下ろした。貴之にはもしもの時に自分に殉じるのではなく、夕麿を守り続けて欲しかったからだ。貴之が殉じれば敦紀も共にそうするだろう。あの才能も失われてはならない。
自分の生命が消えるのであれば、一人だけで消えていきたい。誰も巻き込みたくない。失われてはいけない。
武は両手を差し出してジッと見つめた。もう少し何かができると信じた時もあった。だがこうして振り返って見れば、何と無力であったのだろうか……そして今も何も変わってはいない。
せめて愛するひとだけは守りたい。彼が幸せであるように祈らずにはいられなかった。
「お待たせしました」
夕麿の少し艶を帯びた声が降って来た。見上げると素肌にバスローブだけを着たユが、頬を染めてのぞき込んでいる。
武は手を伸ばして夕麿の腕を掴み、そのままベッドに引き入れた。
「ああ……我が君……」
期待を含んでさらに声が艶を増し、甘く鼻にかかってかすれる。
その甘さに武の雄が制御を振り切ろうとする。愛しい者を押し開き、渇望のまま欲しいままに甘美な肉体を蹂躙したくなる。
目の前にあるのは自分の、自分だけのものだ……と心も身体も荒れ狂うのを懸命に押さえ込む。
猛り狂う自分とそれを押さえ込んで、最愛の人を優しく慈しみたい自分が鬩ぎ合う。
もしかしたら……これが最後かもしれない。明日の自分は冷たい『骸』と化して、どこかに転がっているかもしれない。
頭を過る幻が、暴走しそうな自分を完全に止めた。
「愛してる」
もっともっとこの胸の内を言葉にしたいと思うのに……どれも違う気がして戸惑ってしまう。ならば指先で、唇で、全身全霊を込めてこの想いで抱きしめよう。いつも彼が自分を慈しんでくれるように。
どこもかしこも滑らかで良い匂いがする。触れればしばらくそうせずにいられたことが不思議になる。夕麿の何もかもが愛しい。
「武……武……お願いです、もう……ください……」
濃厚な愛撫にさすがに焦れたのか、甘い声をあげて身悶えする。
「ん~?どうするかな……」
既に武もいっぱいいっぱいになっているが、焦れる夕麿の姿ももう少し眺めていたくもある。自分が抱かれる側になったら焦らされるのも、意地悪をされるのも大嫌いなのに。我ながら勝手な思考に苦笑する。
「ぁあ……武……早く」
さらに焦れる姿がかわいく見える。本人に言ったら怒るだろうか、それとも喜ぶだろうか。確かめたくなるけれど、確かめたくない自分がいる。
「まだここには触れてないから無理だぞ?」
指先で欲情に蠢く蕾をなぞると夕麿の唇から悩まし気な溜息が漏れる。
そばに投げ出しておいたジェルを手に取って、たっぷりと指に乗せた。ゆっくり蕾に塗り付け、次いで物欲しげにわずかに開いたそこに指を潜り込ませた。
「ン、ンぅん」
くぐもった声に顔を上げれば、夕麿が枕を噛みしめていた。
彼は指を噛みしめることはしない。指を傷付ける行為はそのまま、鍵盤を叩けなくする行為に繋がる。自分でドアを開くのも限られた時にしかしない。
そもそも皇家に繋がる立場の者は、公の場でドアに触れたりしない。これは警護の問題もあるからだ。
『何か』に携わる者は常に『何か』の制約を受ける。才能や地位、身分、富等に嫉妬する者は多いが、制約を受けて生活をする意味を理解しているのだろうか。
武自身が様々な制約を受けているゆえに、その不自由さと難しさを身にしみてわかっている。その大切さを教えてくれたのは夕麿だ。返しても返しても返しきれない、深い感謝と愛があった。
さすがにこれ以上はいじめているようなものだと判断した武は、挿入していた指を引き抜いた。その刺激にすら大きく反応する。
「ああ、武、来て……ください」
ようやく与えられる悦びに染まる、妖艶で美しい笑みが魅了する。
誘われるままに唇を重ね、ゆっくりと中へ自分のモノを挿入していく。待ちかねていたそこは吸い付くように迎え入れ、更なる奥へと誘導していく。
何だか悔しい。焦らして感じさせて喘がせて、主導権は自分のはずなのに彼の躰は淫らに誘い導いてくる。久しぶりの逆転だから……と気を使った部分もあるだけに少しムッとして、一気に叩き付ける様に身を沈めた。
夕麿の唇から悲鳴のような嬌声があがり、中が強く収縮した。躰はガクガクと震え彼から吐き出された白濁が、武にも彼の胸にも激しく飛び散った。
「あ……あ……あ……あ……」
まだ躰は官能に震え、唇からは甘い声が漏れ続けている。この状態は見たことがない。
武はゆっくりと手を伸ばして、強すぎた快感に意識を持っていかれたままの夕麿の髪を撫でた。しばらくして熱が引いたのか、夕麿の口から深い溜息が漏れた。髪に触れていた手をそのまま頬に移して、そっと唇を重ねた。
「よかったか?」
耳朶を甘噛みして囁いた。
「イジワルですね」
夕麿が少し拗ねた声で答える。
「いや、もうイヤだと言われそうで」
「そんな訳ないでしょう……覚悟しろって言ったくせに」
両腕と両脚を絡ませて言う。
夕麿が最初の男が与えた癖から抜け出せたのは、最近のことだった。武が自分の姿にどれほど心を痛めてくれているのかを感じ、夕麿自身も変わりたいと切に願ったからだ。
ただ、絶頂の後の霞んだ意識で唇から漏れる言葉を止めるのは難しかった。いつも武が言葉をかけてくれ、すべてを受け入れてくれたからこそ、夕麿は懸命に足掻くことができた。
今でも思わず零れそうになるが、今日の様に武が防いでくれる。だから違う言葉を紡げる。笑顔でいられる。
「ならば遠慮はしない」
不敵な笑みを浮かべてそう宣言し、もう一度不覚唇を重ねた。
背中にまわされた腕に力がこもり、同時に武を受け入れている中が律動して、堪らなく欲情をかき立てられる。
夕麿の高貴なる美しさは、周囲を惹き付けてやまない。それは雅久とは別の意味で『傾国の佳人』なのかもしれない。
「あッ……武、ああ……」
ゆっくりと動き出すとさきほどのが過敏にさせているのか、夕麿の反応がいつもより強い様に感じた。
気を抜くとすぐにこちらが引っ張られてしまう。『覚悟をしろ』と言った手前、それでは面目が立たない気がする。単なる武の意地であっても。
「ンぁあ!武……武、も、もう……」
二度目にはあまり時間がかからなかった。艷やかに匂い立つ様に、長く共にいても未だに息を呑む。
「いいよ、イッて!俺も限界」
中を抉る様に突いて甘い声で囁いた途端に、夕麿は悲鳴の様に嬌声を放って達した。先程よりもさらに仰け反り、全身が絶頂に震える。武を受け入れている部分も激しく収縮して痙攣する。
「夕麿……!」
あまりの刺激に引きずられて、武も頭が真っ白になるような感覚で吐精した。
朔耶と暮らす部屋に戻って、ソファに座りながら深々と溜息を吐いた。
自分ではどうにもできない事態が進行している。何故に新参者に十数年培って来た繋がりが、バラバラに切り離されて行く有様を指をくわえて見なければならないのだろうか。
夏に響が現れ、とうとう先帝が崩御した。新帝が、彼の生母である近徽殿御息所が、彼女の実家である九條家が、この先どう出て来るのかが不明のままで、皆の不安が募るばかりになっている。
響はその不安定さを突いて来ている様な気がするのだ。一条家が九條側ではないのは、貴之の調査で判明している。彼の調べは欠けたことはあっても、間違っていたことはない。
響の真意を確かめたくても周は、摂関貴族の血は女系でしか流れていない。摂関貴族と清華貴族との間はハッキリと別れている。実家久我家は清華の筆頭ではあるが、この場合はそれは何の効力もない。それが歯痒い。
ソファでしばらく考え込んだ後、周は立ち上がってキッチンへ入った。冷蔵庫を開けて中の材料を確認する。ここのところ忙しくて食料の補充ができていない。
朔耶は夕方にならなければ帰らない。年末の今は当然ながら大学は休みで、朔耶は周も所属する御園生系列の病院でアルバイトをしている。一方で周は昨夜から今朝にかけて当直で、武の散歩の時間に合わせて昼過ぎまで御在所側にいた。昨夜は比較的穏やかでERに呼ばれることもなく、病棟の仮眠室でそれなりに眠れたために眠気もない。
ここの欠点は商業施設から遠いのとネット注文で配達してもらうのが難しいこと。今のところ物資の搬入は未だに移転が完了していないこともあって、警備面での問題でかなり難しい手続きが必要になる。当然ながら当日の生鮮食品は不可能に近い。武たちの食事の材料すら雅久たちが交代で購入している。
結局、複数のスーパーを梯子して必要な物を買い揃えたら結構な大荷物になった。車からおろしているところに行き会った、蓮と幸久たちが部屋まで運ぶのを手伝ってくれた。彼らも買い物の帰りだったらしい。
部屋に入ってすぐに買って来た物を冷蔵庫やパントリーに移し、忙しい時用の下処理を始める。一部はそのまま調理して、周が不在の時にレンジで温めれば良いようにしておく。
実際には御在所側に行けば、普通に食事は用意されるのだが……様々なことを想定して作り置きする。もちろん、不要であれば日常の食事にアレンジして出す。
第三者から見れば医師としての勤務も、侍医としての役目も果たす忙しさの中で、そこまでしなくても良いのではないかと思えるだろう。御在所側に行けば三食とも食べられるのだから。
それでも周はでき得る限りはキッチンに立つ。恋人に手料理を食べさせたい気持ちがある。多分、武の影響だろう。
同時に周自身が料理の楽しさを覚え、すっかり趣味になっているのもある。忙しい生活を送るからこそ、朔耶と囲む食卓が楽しい。日々のとりとめもない話は、今の周には何よりもの癒やしでもあった。
時間を見て夕食の準備も同時に始める。
朔耶は年齢の割には和食が好きで、必然的に周の料理のレパートリーも和食寄りになった。
今日は豚角肉と大根とゆで卵の煮物がメインだ。
まず一時間ほど昆布を浸けた水を昆布ごと鍋に入れて、七十度程で三十分煮る。昆布を取り出してから火を強め沸騰させる。浮いてきたヌメリと灰汁を取り、火を止めて削節を入れ三十分ほど置く。これをざると布巾で漉してできた合わせ出汁に、皮を剥いて切れ込みを入れた大根を入れて弱火でゆっくり煮る。
その間にゆで卵をつくる。煮物は正しい手順で保存すればそれなりに保つ。なのでゆで卵も多めにつくる。茹であがったら水で冷やしておく。
次に角肉をフライパンで軽く焼いて、日本酒、味醂、砂糖、醤油の順番で入れて沸騰したら弱火で煮る。日本酒を多めに入れて水は入れない。
大根が透明になったら取り出し、今度はゆで卵を入れて十五分ほど煮る。そこへフライパンで煮ていた角肉を煮汁ごと入れて大根も入れ、再び三十分ほど煮る。
その後一度火からおろして冷やし、味が中に染み込むのを待つ。
周はこの間に副菜として揚げ豆腐、味噌汁を用意する。
そこへ朔耶が帰宅した。彼が自室で着替えている間に煮物を再び加熱してから大皿に盛る。残った煮汁に小松菜を入れてひと煮立ちさせて、大皿にのせる。この青物は季節によって変えることにしている。
テーブルにセッティングして周も席に着いた。
主菜を大皿にするのは、朔耶に思う存分食べて欲しいからだ。
「いい匂いですね」
朔耶が笑顔で向かい側の席に着いた。
「いただきます」
空腹だったのか、それとも目の前の料理に触発されたのか、朔耶は笑顔で箸を手にした。
「御在所に寄ってきたのですが、夕麿さまはピアノのレッスン中で、武さまとお話をして来ました」
「あ~そう言えば、夕方頃にメンテナンスが終了して運び込むと言うのを誰かが言っていたな」
「みたいですね。それで武さまはご機嫌でいらして、逆に一条さんが不満そうに座っていました」
プライベートなリビングではなく、皆が集まる用のリビングに武はいたことになる。
「部屋には彼と武さまだけ?」
「いいえ、雅久さんがいました」
夕麿が御在所に移ったというのもあるだろうが、武のご機嫌はおそらく……と考えると周は溜息吐いた。
「散歩の後はお休みくださいとお願いしたのにな……あの二人はまったく」
夕麿が武を抱いたのは間違いないだろう。
「一条 響の不機嫌は夕麿がペントハウスから移ったことと、散歩の後のことを気付いているからだろうな」
「ふふ、あの方、絶対に夕麿さまに気がありますよ」
朔耶がいたずらっぽい顔で笑って言った。
「ふん、どうせ夕麿を抱きたいのだろう」
普段は身分が違うゆえにそれなりに言葉を選ぶが、朔耶と二人ならばその必要はない。武を軽んじる態度は腹に据えかねている。
「武さまは抱かれる側だ決めつけてる感じかな?」
「確かに。私もそう思ってました、最初は」
「あの身長差だからな~。でもあの方はあれでちゃんと男だ」
「ですね」
そこで周は昼間の武の言葉を思い出して噴き出した。
「?」
キョトンとしている朔耶に笑いながら言った。
「昼間にちょっとしたことから、『今夜は覚悟しておけ』とか夕麿に仰られてたんだ」
「ああ……なるほど」
立場が逆転したらどうなるのかは、朔耶も知っていることだ。
「それは……是非とも一条さんの顔が見たいですね」
朔耶が悪ノリする。元はこの手の話はあまりしなかったが、やはり大学で庶民に混じっているからだろうか。最近は下世話な話も口にする。
これはこれで下品なわけではない。意外と貴族たちも下世話な話に花を咲かせる。性的なことはそのまま生殖に関わり、後継者を必要とする彼らには当たり前のことだ。
ただ紫霄という閉鎖空間で、心臓に欠陥を抱えていた朔耶は、この手の話をふられることが少なかっただけだ。
「では雅久に連絡を入れておこう。武さまの食欲などを確認したいので、そちらで昼食をいただくと」
雅久と義勝は御在所内にプライベートスペースがあり、武のために動いている。これは宮内省からの人員が入って来たため、武の口にするものや身につけるものに目を配るようにしている。これまでの経緯があるだけに、彼らは神経質なくらいに気を配っている。
実は突然行っても食事は用意されるが、そこは礼儀として連絡を入れるのは当たり前だ。もっとも昨日、響が夕麿に勝手について来て、当たり前のように夕食を食べた様子だが。
「義父が言っていたのですが、一条さんはあくまでも一条家の傍流で、本来ならば彼の父親の代で『新家』の叙任が下りるはずの立場だそうです」
皇国では摂関貴族から別れた『新家』は、貴之や成実が所属する『羽林家』と同じ身分になる。つまり清華貴族の筆頭である久我家の出身である周は、響よりは本来は身分が上になるのだ。
「今は余程のことがない限り、新たな叙任は行われないからな」
そのことは周も気が付いてはいた。しかし叙任が行われない現在は、当主の弟の息子であっても摂関貴族を名乗れるのである。もっとも心ある者はそんなことはしない。遜りこそはしないが、もっと控え目な行動をする。
「夕麿さま目当てなのか、それとも傍流のコンプレックスなのか、武さまを蔑ろにする態度は腹に据えかねます」
朔耶の憤慨もわかる。武に対する態度もだが、実家である近衛家から半ば勘当絶縁状態だった高子と彼女の兄である現当主とを、響は和解させた事実があった。それ故に彼は高子とその息子たちから絶大な信用を得てしまっている。清方も例外ではなく響があれ程恩を受けた武に不敬としか表現のしようがない言動を繰り返しても、気付いているのかいないのかはわからないが咎めだて一つしようとはしない。高子も清方もこの十数年間の出来事を忘れてしまったかのように。
その流れに朔耶と久方は同調できない。雫に至っては『もしも』の時には袂を分つつもりだと口にしているのだ。
「本当に一条さんと九条家は関わりがないのでしょうか」
「……貴之の調査は常に正確だ、信じても良いだろう。上司である雫さんがそう言っている。ただ……」
「ただ?」
言い淀んだ周にその先を促す。
「直接ではないにしても誰かを通じて入り知恵くらいはされているかもしれん」
その可能性は久方も示唆していた。これまでギリギリの部分で武の幽閉や暗殺を防げたのは、久方に言わせると武を取り巻く者たちがいたからからと考えられると。現在は護院家が加わり、朔耶たち兄弟、幸久、そして夕麿の異母弟である静麿も加わった。しかも武の『皇家の霊感』を補助するかのような強い能力を持つ、蓮までもが加わったのだから九條家側の懸念は膨らむ一方だろう。ゆえに切り崩しを謀っても何ら不思議なことはない。むしろ有効な補法であると言えるだろう。
「一条さんが『蟻の一穴』にならなければよいのですが」
朔耶が顔を曇らせて言う。『蟻の一穴』というのは小さな小さな穴が次第に大きくなって、やがては巨大なものをも破壊する原因になることを言う。始まりは小さな『キズ』であっても、決して見逃してはならない、何某かの予防策は考えておくべきなのだ。
「僕は自分の無力さを呪うよ」
自分にできるのは何かが起こった時に、医師としての役目を果たすことでしかない。未然に何かを防ぐことはできない。それがとても歯痒い。
「それは私も同じ思いです」
薫の時には葵の暴走と逸脱を防ぐことも止めることもできなかった。朔耶にできたのは彼らの選択に同意できないことを示しただけだ。彼らを思いとどませられなかった。
違いがあるとしたら雫たちが紫霞宮家の専属警護官になって、既に様々な経験をしているということだろう。現在は人員が増えて十分な人数を配置できるようにもなった。ただ、でき得る限り紫霄の卒業生を転属させてもらってはいるが、そうでない人員も若干は配属されている。どちらにもあちら側から送り込まれた者はいるだろう。彼らの上司であり、貴之の実父である芳之とて、完全な人員を選ぶことはできない。
「結局は八百万の神々の御手の上なのだろう」
非科学的と言われようが何だろうが、もう周にはそうとしか言えない、思えない。実際に武の力を目の当たりにしている事実もある。何もかもを『科学』で測るには人間自身もその知識も、まだまだ未熟であるのかもしれない。
「僕はただ二人には幸せに笑っていて欲しい。それだけが願いなんだが……」
武自身が多くを望んではいない。愛する人や大切な人々と穏やかに微笑んで生きていたいだけだ。
「私も同じです。当たり前の人としての幸せが、こんなに難しいとは思いませんでした」
周も朔耶も様々な想いを乗り越えてここにいる。どんなに心を尽くし、努力を重ねても、残るのは後悔ばかりだった。乗り越えたその時にはホッと胸を撫で下ろしたというのに。
努力すれば何でも叶うと言う人がいる。だが現実はそうではない。もちろん努力そのものは決して無駄にはならない。学びも実りもちゃんと生まれる。だがそれが必ずしも望んだものであるとは限らないのだ。
人は愛ゆえに苦しみ、悲しみ、歓喜する。愛を知らなければこれらを知ることもない。それを良しとする者もいるかもしれない。けれど人はそれでも愛を求め、愛に生きる。
たとえ愛に苦しみ、悲しんだとしても。何も知らぬ『哀しさ』こそ人として不幸であると感じるからだ。
人が人である限りこのジレンマは続くのかもしれない。そしてそれをも人生の歓びとして、愛に寄り添って歩んで行くのかもしれない。
次の日、武は夕麿に気付かれない様に義勝に相談した。
「あ~多分だが、ホッとしたんじゃないのか?」
「ホッとした?」
意外な返事に戸惑う。
「ん?意外か?実に夕麿らしいと俺は思うぞ」
「何で?」
「ここのところ、いろいろあっただろうが。お前の治療中も夕麿はずっと付いていたかったみたいだが、様々な事情がそれを叶えてはくれなかっただろう?」
「それは……仕方がないと思うけど」
「夕麿もわかってるさ、それは。だがわかりたくないのが気持ちってもんだろ」
「あ~」
それは武にも理解できるだが、それと昨夜のアレはどう繋がるのかは理解できない。
「わからないか?」
「イマイチ」
「夕麿にとって誰かに触れられるというのは、物凄く特別だからだ。温もりを欲していても、あいつの場合はお前限定になる」
「それはわかるけど」
「お前のところに戻れたと安心したんだろうよ。実に夕麿らしい理由だぞ?」
「だったらいいんだけど……」
愛するひとの憂いはすべて取り払いたい。だが不可能であることも十分過ぎるほどわかってはいる。
「じゃあ、逆にお前が抱かれる側の時の気持ちは?」
「え……あ、そっか」
抱きしめられ口付けられるだけで、確かにホッとするし嬉しい。
「ま、夕麿もあの一条さんのこととかで、お前に申し訳なく思ってるのかもな」
彼の目に余る言動を義勝も不快に感じている。雅久などはまさに怒り心頭な状態である。警護に付いている貴之などは、愚痴はこぼしはしないが、かなりストレスをためている様に思えた。
義勝はあえてそれらを口にはしなかったが。
困ったものだと義勝は思う。突然現れた響一人に、十年以上の時間をかけて培って来たものが、かき回されて不安定になりつつある。果たしてこれは響個人の思惑からのものなのか、それとも裏で糸を引く『誰か』の策略であるのか。今はまだ誰も判断できないでいる。
この大事な時に……そう思うのは一人や二人ではなかった。
この日、響は自分がこれまで見て来たのとは違う武の顔の意味がわからず、ここに宿泊する許可を久方に求めた。久方は武の思惑がわかっていたらしく、わざと渋った顔で許可を出した。
夕麿がバスルームから出て来るのを、ベッドに寝転んで待つ。
ここしばらく触れ合わない時間が続いた。一つには武が治療を受けていたためだ。それに重なって老帝の崩御があって、夕麿が軽く触れて慰めるだけだった。ましてや逆になったのはもういつだったのかすら記憶にない。
いい意味でも悪い意味でも、互いに年齢を重ねた……ということなのだろう。少なくとも武はそう解釈している。
ただ……いつどの様な形で、向こうが仕掛けてくるかはわからない。できればその場に夕麿がいないことだけは祈っている。凶事に倒れるのは自分だけがいい。過去にあった様に巻き込みたくはない。夕麿には武の伴侶という以外に、狙われる理由は存在していないのだから。
今度こそ生命はない……と覚悟している。先帝の加護が失われた今、武は翼を失くした鳥に過ぎない。しかもどう頑張っても大きくて獰猛な鳥にはなれなかった。相手の手を嘴で突くのが精一杯だ。
現在、雫に頼んで夕麿の警護には貴之に就いてもらっている。もちろん、彼一人ではなく交代でもう一人が付くが、非番のとり方も配慮してもらった。貴之には無理を強いることになる。だから武は彼に頭を下げて頼んだ。敦紀にも自分のわがままを謝罪した。
でもある意味でホッと胸を撫で下ろした。貴之にはもしもの時に自分に殉じるのではなく、夕麿を守り続けて欲しかったからだ。貴之が殉じれば敦紀も共にそうするだろう。あの才能も失われてはならない。
自分の生命が消えるのであれば、一人だけで消えていきたい。誰も巻き込みたくない。失われてはいけない。
武は両手を差し出してジッと見つめた。もう少し何かができると信じた時もあった。だがこうして振り返って見れば、何と無力であったのだろうか……そして今も何も変わってはいない。
せめて愛するひとだけは守りたい。彼が幸せであるように祈らずにはいられなかった。
「お待たせしました」
夕麿の少し艶を帯びた声が降って来た。見上げると素肌にバスローブだけを着たユが、頬を染めてのぞき込んでいる。
武は手を伸ばして夕麿の腕を掴み、そのままベッドに引き入れた。
「ああ……我が君……」
期待を含んでさらに声が艶を増し、甘く鼻にかかってかすれる。
その甘さに武の雄が制御を振り切ろうとする。愛しい者を押し開き、渇望のまま欲しいままに甘美な肉体を蹂躙したくなる。
目の前にあるのは自分の、自分だけのものだ……と心も身体も荒れ狂うのを懸命に押さえ込む。
猛り狂う自分とそれを押さえ込んで、最愛の人を優しく慈しみたい自分が鬩ぎ合う。
もしかしたら……これが最後かもしれない。明日の自分は冷たい『骸』と化して、どこかに転がっているかもしれない。
頭を過る幻が、暴走しそうな自分を完全に止めた。
「愛してる」
もっともっとこの胸の内を言葉にしたいと思うのに……どれも違う気がして戸惑ってしまう。ならば指先で、唇で、全身全霊を込めてこの想いで抱きしめよう。いつも彼が自分を慈しんでくれるように。
どこもかしこも滑らかで良い匂いがする。触れればしばらくそうせずにいられたことが不思議になる。夕麿の何もかもが愛しい。
「武……武……お願いです、もう……ください……」
濃厚な愛撫にさすがに焦れたのか、甘い声をあげて身悶えする。
「ん~?どうするかな……」
既に武もいっぱいいっぱいになっているが、焦れる夕麿の姿ももう少し眺めていたくもある。自分が抱かれる側になったら焦らされるのも、意地悪をされるのも大嫌いなのに。我ながら勝手な思考に苦笑する。
「ぁあ……武……早く」
さらに焦れる姿がかわいく見える。本人に言ったら怒るだろうか、それとも喜ぶだろうか。確かめたくなるけれど、確かめたくない自分がいる。
「まだここには触れてないから無理だぞ?」
指先で欲情に蠢く蕾をなぞると夕麿の唇から悩まし気な溜息が漏れる。
そばに投げ出しておいたジェルを手に取って、たっぷりと指に乗せた。ゆっくり蕾に塗り付け、次いで物欲しげにわずかに開いたそこに指を潜り込ませた。
「ン、ンぅん」
くぐもった声に顔を上げれば、夕麿が枕を噛みしめていた。
彼は指を噛みしめることはしない。指を傷付ける行為はそのまま、鍵盤を叩けなくする行為に繋がる。自分でドアを開くのも限られた時にしかしない。
そもそも皇家に繋がる立場の者は、公の場でドアに触れたりしない。これは警護の問題もあるからだ。
『何か』に携わる者は常に『何か』の制約を受ける。才能や地位、身分、富等に嫉妬する者は多いが、制約を受けて生活をする意味を理解しているのだろうか。
武自身が様々な制約を受けているゆえに、その不自由さと難しさを身にしみてわかっている。その大切さを教えてくれたのは夕麿だ。返しても返しても返しきれない、深い感謝と愛があった。
さすがにこれ以上はいじめているようなものだと判断した武は、挿入していた指を引き抜いた。その刺激にすら大きく反応する。
「ああ、武、来て……ください」
ようやく与えられる悦びに染まる、妖艶で美しい笑みが魅了する。
誘われるままに唇を重ね、ゆっくりと中へ自分のモノを挿入していく。待ちかねていたそこは吸い付くように迎え入れ、更なる奥へと誘導していく。
何だか悔しい。焦らして感じさせて喘がせて、主導権は自分のはずなのに彼の躰は淫らに誘い導いてくる。久しぶりの逆転だから……と気を使った部分もあるだけに少しムッとして、一気に叩き付ける様に身を沈めた。
夕麿の唇から悲鳴のような嬌声があがり、中が強く収縮した。躰はガクガクと震え彼から吐き出された白濁が、武にも彼の胸にも激しく飛び散った。
「あ……あ……あ……あ……」
まだ躰は官能に震え、唇からは甘い声が漏れ続けている。この状態は見たことがない。
武はゆっくりと手を伸ばして、強すぎた快感に意識を持っていかれたままの夕麿の髪を撫でた。しばらくして熱が引いたのか、夕麿の口から深い溜息が漏れた。髪に触れていた手をそのまま頬に移して、そっと唇を重ねた。
「よかったか?」
耳朶を甘噛みして囁いた。
「イジワルですね」
夕麿が少し拗ねた声で答える。
「いや、もうイヤだと言われそうで」
「そんな訳ないでしょう……覚悟しろって言ったくせに」
両腕と両脚を絡ませて言う。
夕麿が最初の男が与えた癖から抜け出せたのは、最近のことだった。武が自分の姿にどれほど心を痛めてくれているのかを感じ、夕麿自身も変わりたいと切に願ったからだ。
ただ、絶頂の後の霞んだ意識で唇から漏れる言葉を止めるのは難しかった。いつも武が言葉をかけてくれ、すべてを受け入れてくれたからこそ、夕麿は懸命に足掻くことができた。
今でも思わず零れそうになるが、今日の様に武が防いでくれる。だから違う言葉を紡げる。笑顔でいられる。
「ならば遠慮はしない」
不敵な笑みを浮かべてそう宣言し、もう一度不覚唇を重ねた。
背中にまわされた腕に力がこもり、同時に武を受け入れている中が律動して、堪らなく欲情をかき立てられる。
夕麿の高貴なる美しさは、周囲を惹き付けてやまない。それは雅久とは別の意味で『傾国の佳人』なのかもしれない。
「あッ……武、ああ……」
ゆっくりと動き出すとさきほどのが過敏にさせているのか、夕麿の反応がいつもより強い様に感じた。
気を抜くとすぐにこちらが引っ張られてしまう。『覚悟をしろ』と言った手前、それでは面目が立たない気がする。単なる武の意地であっても。
「ンぁあ!武……武、も、もう……」
二度目にはあまり時間がかからなかった。艷やかに匂い立つ様に、長く共にいても未だに息を呑む。
「いいよ、イッて!俺も限界」
中を抉る様に突いて甘い声で囁いた途端に、夕麿は悲鳴の様に嬌声を放って達した。先程よりもさらに仰け反り、全身が絶頂に震える。武を受け入れている部分も激しく収縮して痙攣する。
「夕麿……!」
あまりの刺激に引きずられて、武も頭が真っ白になるような感覚で吐精した。
朔耶と暮らす部屋に戻って、ソファに座りながら深々と溜息を吐いた。
自分ではどうにもできない事態が進行している。何故に新参者に十数年培って来た繋がりが、バラバラに切り離されて行く有様を指をくわえて見なければならないのだろうか。
夏に響が現れ、とうとう先帝が崩御した。新帝が、彼の生母である近徽殿御息所が、彼女の実家である九條家が、この先どう出て来るのかが不明のままで、皆の不安が募るばかりになっている。
響はその不安定さを突いて来ている様な気がするのだ。一条家が九條側ではないのは、貴之の調査で判明している。彼の調べは欠けたことはあっても、間違っていたことはない。
響の真意を確かめたくても周は、摂関貴族の血は女系でしか流れていない。摂関貴族と清華貴族との間はハッキリと別れている。実家久我家は清華の筆頭ではあるが、この場合はそれは何の効力もない。それが歯痒い。
ソファでしばらく考え込んだ後、周は立ち上がってキッチンへ入った。冷蔵庫を開けて中の材料を確認する。ここのところ忙しくて食料の補充ができていない。
朔耶は夕方にならなければ帰らない。年末の今は当然ながら大学は休みで、朔耶は周も所属する御園生系列の病院でアルバイトをしている。一方で周は昨夜から今朝にかけて当直で、武の散歩の時間に合わせて昼過ぎまで御在所側にいた。昨夜は比較的穏やかでERに呼ばれることもなく、病棟の仮眠室でそれなりに眠れたために眠気もない。
ここの欠点は商業施設から遠いのとネット注文で配達してもらうのが難しいこと。今のところ物資の搬入は未だに移転が完了していないこともあって、警備面での問題でかなり難しい手続きが必要になる。当然ながら当日の生鮮食品は不可能に近い。武たちの食事の材料すら雅久たちが交代で購入している。
結局、複数のスーパーを梯子して必要な物を買い揃えたら結構な大荷物になった。車からおろしているところに行き会った、蓮と幸久たちが部屋まで運ぶのを手伝ってくれた。彼らも買い物の帰りだったらしい。
部屋に入ってすぐに買って来た物を冷蔵庫やパントリーに移し、忙しい時用の下処理を始める。一部はそのまま調理して、周が不在の時にレンジで温めれば良いようにしておく。
実際には御在所側に行けば、普通に食事は用意されるのだが……様々なことを想定して作り置きする。もちろん、不要であれば日常の食事にアレンジして出す。
第三者から見れば医師としての勤務も、侍医としての役目も果たす忙しさの中で、そこまでしなくても良いのではないかと思えるだろう。御在所側に行けば三食とも食べられるのだから。
それでも周はでき得る限りはキッチンに立つ。恋人に手料理を食べさせたい気持ちがある。多分、武の影響だろう。
同時に周自身が料理の楽しさを覚え、すっかり趣味になっているのもある。忙しい生活を送るからこそ、朔耶と囲む食卓が楽しい。日々のとりとめもない話は、今の周には何よりもの癒やしでもあった。
時間を見て夕食の準備も同時に始める。
朔耶は年齢の割には和食が好きで、必然的に周の料理のレパートリーも和食寄りになった。
今日は豚角肉と大根とゆで卵の煮物がメインだ。
まず一時間ほど昆布を浸けた水を昆布ごと鍋に入れて、七十度程で三十分煮る。昆布を取り出してから火を強め沸騰させる。浮いてきたヌメリと灰汁を取り、火を止めて削節を入れ三十分ほど置く。これをざると布巾で漉してできた合わせ出汁に、皮を剥いて切れ込みを入れた大根を入れて弱火でゆっくり煮る。
その間にゆで卵をつくる。煮物は正しい手順で保存すればそれなりに保つ。なのでゆで卵も多めにつくる。茹であがったら水で冷やしておく。
次に角肉をフライパンで軽く焼いて、日本酒、味醂、砂糖、醤油の順番で入れて沸騰したら弱火で煮る。日本酒を多めに入れて水は入れない。
大根が透明になったら取り出し、今度はゆで卵を入れて十五分ほど煮る。そこへフライパンで煮ていた角肉を煮汁ごと入れて大根も入れ、再び三十分ほど煮る。
その後一度火からおろして冷やし、味が中に染み込むのを待つ。
周はこの間に副菜として揚げ豆腐、味噌汁を用意する。
そこへ朔耶が帰宅した。彼が自室で着替えている間に煮物を再び加熱してから大皿に盛る。残った煮汁に小松菜を入れてひと煮立ちさせて、大皿にのせる。この青物は季節によって変えることにしている。
テーブルにセッティングして周も席に着いた。
主菜を大皿にするのは、朔耶に思う存分食べて欲しいからだ。
「いい匂いですね」
朔耶が笑顔で向かい側の席に着いた。
「いただきます」
空腹だったのか、それとも目の前の料理に触発されたのか、朔耶は笑顔で箸を手にした。
「御在所に寄ってきたのですが、夕麿さまはピアノのレッスン中で、武さまとお話をして来ました」
「あ~そう言えば、夕方頃にメンテナンスが終了して運び込むと言うのを誰かが言っていたな」
「みたいですね。それで武さまはご機嫌でいらして、逆に一条さんが不満そうに座っていました」
プライベートなリビングではなく、皆が集まる用のリビングに武はいたことになる。
「部屋には彼と武さまだけ?」
「いいえ、雅久さんがいました」
夕麿が御在所に移ったというのもあるだろうが、武のご機嫌はおそらく……と考えると周は溜息吐いた。
「散歩の後はお休みくださいとお願いしたのにな……あの二人はまったく」
夕麿が武を抱いたのは間違いないだろう。
「一条 響の不機嫌は夕麿がペントハウスから移ったことと、散歩の後のことを気付いているからだろうな」
「ふふ、あの方、絶対に夕麿さまに気がありますよ」
朔耶がいたずらっぽい顔で笑って言った。
「ふん、どうせ夕麿を抱きたいのだろう」
普段は身分が違うゆえにそれなりに言葉を選ぶが、朔耶と二人ならばその必要はない。武を軽んじる態度は腹に据えかねている。
「武さまは抱かれる側だ決めつけてる感じかな?」
「確かに。私もそう思ってました、最初は」
「あの身長差だからな~。でもあの方はあれでちゃんと男だ」
「ですね」
そこで周は昼間の武の言葉を思い出して噴き出した。
「?」
キョトンとしている朔耶に笑いながら言った。
「昼間にちょっとしたことから、『今夜は覚悟しておけ』とか夕麿に仰られてたんだ」
「ああ……なるほど」
立場が逆転したらどうなるのかは、朔耶も知っていることだ。
「それは……是非とも一条さんの顔が見たいですね」
朔耶が悪ノリする。元はこの手の話はあまりしなかったが、やはり大学で庶民に混じっているからだろうか。最近は下世話な話も口にする。
これはこれで下品なわけではない。意外と貴族たちも下世話な話に花を咲かせる。性的なことはそのまま生殖に関わり、後継者を必要とする彼らには当たり前のことだ。
ただ紫霄という閉鎖空間で、心臓に欠陥を抱えていた朔耶は、この手の話をふられることが少なかっただけだ。
「では雅久に連絡を入れておこう。武さまの食欲などを確認したいので、そちらで昼食をいただくと」
雅久と義勝は御在所内にプライベートスペースがあり、武のために動いている。これは宮内省からの人員が入って来たため、武の口にするものや身につけるものに目を配るようにしている。これまでの経緯があるだけに、彼らは神経質なくらいに気を配っている。
実は突然行っても食事は用意されるが、そこは礼儀として連絡を入れるのは当たり前だ。もっとも昨日、響が夕麿に勝手について来て、当たり前のように夕食を食べた様子だが。
「義父が言っていたのですが、一条さんはあくまでも一条家の傍流で、本来ならば彼の父親の代で『新家』の叙任が下りるはずの立場だそうです」
皇国では摂関貴族から別れた『新家』は、貴之や成実が所属する『羽林家』と同じ身分になる。つまり清華貴族の筆頭である久我家の出身である周は、響よりは本来は身分が上になるのだ。
「今は余程のことがない限り、新たな叙任は行われないからな」
そのことは周も気が付いてはいた。しかし叙任が行われない現在は、当主の弟の息子であっても摂関貴族を名乗れるのである。もっとも心ある者はそんなことはしない。遜りこそはしないが、もっと控え目な行動をする。
「夕麿さま目当てなのか、それとも傍流のコンプレックスなのか、武さまを蔑ろにする態度は腹に据えかねます」
朔耶の憤慨もわかる。武に対する態度もだが、実家である近衛家から半ば勘当絶縁状態だった高子と彼女の兄である現当主とを、響は和解させた事実があった。それ故に彼は高子とその息子たちから絶大な信用を得てしまっている。清方も例外ではなく響があれ程恩を受けた武に不敬としか表現のしようがない言動を繰り返しても、気付いているのかいないのかはわからないが咎めだて一つしようとはしない。高子も清方もこの十数年間の出来事を忘れてしまったかのように。
その流れに朔耶と久方は同調できない。雫に至っては『もしも』の時には袂を分つつもりだと口にしているのだ。
「本当に一条さんと九条家は関わりがないのでしょうか」
「……貴之の調査は常に正確だ、信じても良いだろう。上司である雫さんがそう言っている。ただ……」
「ただ?」
言い淀んだ周にその先を促す。
「直接ではないにしても誰かを通じて入り知恵くらいはされているかもしれん」
その可能性は久方も示唆していた。これまでギリギリの部分で武の幽閉や暗殺を防げたのは、久方に言わせると武を取り巻く者たちがいたからからと考えられると。現在は護院家が加わり、朔耶たち兄弟、幸久、そして夕麿の異母弟である静麿も加わった。しかも武の『皇家の霊感』を補助するかのような強い能力を持つ、蓮までもが加わったのだから九條家側の懸念は膨らむ一方だろう。ゆえに切り崩しを謀っても何ら不思議なことはない。むしろ有効な補法であると言えるだろう。
「一条さんが『蟻の一穴』にならなければよいのですが」
朔耶が顔を曇らせて言う。『蟻の一穴』というのは小さな小さな穴が次第に大きくなって、やがては巨大なものをも破壊する原因になることを言う。始まりは小さな『キズ』であっても、決して見逃してはならない、何某かの予防策は考えておくべきなのだ。
「僕は自分の無力さを呪うよ」
自分にできるのは何かが起こった時に、医師としての役目を果たすことでしかない。未然に何かを防ぐことはできない。それがとても歯痒い。
「それは私も同じ思いです」
薫の時には葵の暴走と逸脱を防ぐことも止めることもできなかった。朔耶にできたのは彼らの選択に同意できないことを示しただけだ。彼らを思いとどませられなかった。
違いがあるとしたら雫たちが紫霞宮家の専属警護官になって、既に様々な経験をしているということだろう。現在は人員が増えて十分な人数を配置できるようにもなった。ただ、でき得る限り紫霄の卒業生を転属させてもらってはいるが、そうでない人員も若干は配属されている。どちらにもあちら側から送り込まれた者はいるだろう。彼らの上司であり、貴之の実父である芳之とて、完全な人員を選ぶことはできない。
「結局は八百万の神々の御手の上なのだろう」
非科学的と言われようが何だろうが、もう周にはそうとしか言えない、思えない。実際に武の力を目の当たりにしている事実もある。何もかもを『科学』で測るには人間自身もその知識も、まだまだ未熟であるのかもしれない。
「僕はただ二人には幸せに笑っていて欲しい。それだけが願いなんだが……」
武自身が多くを望んではいない。愛する人や大切な人々と穏やかに微笑んで生きていたいだけだ。
「私も同じです。当たり前の人としての幸せが、こんなに難しいとは思いませんでした」
周も朔耶も様々な想いを乗り越えてここにいる。どんなに心を尽くし、努力を重ねても、残るのは後悔ばかりだった。乗り越えたその時にはホッと胸を撫で下ろしたというのに。
努力すれば何でも叶うと言う人がいる。だが現実はそうではない。もちろん努力そのものは決して無駄にはならない。学びも実りもちゃんと生まれる。だがそれが必ずしも望んだものであるとは限らないのだ。
人は愛ゆえに苦しみ、悲しみ、歓喜する。愛を知らなければこれらを知ることもない。それを良しとする者もいるかもしれない。けれど人はそれでも愛を求め、愛に生きる。
たとえ愛に苦しみ、悲しんだとしても。何も知らぬ『哀しさ』こそ人として不幸であると感じるからだ。
人が人である限りこのジレンマは続くのかもしれない。そしてそれをも人生の歓びとして、愛に寄り添って歩んで行くのかもしれない。
次の日、武は夕麿に気付かれない様に義勝に相談した。
「あ~多分だが、ホッとしたんじゃないのか?」
「ホッとした?」
意外な返事に戸惑う。
「ん?意外か?実に夕麿らしいと俺は思うぞ」
「何で?」
「ここのところ、いろいろあっただろうが。お前の治療中も夕麿はずっと付いていたかったみたいだが、様々な事情がそれを叶えてはくれなかっただろう?」
「それは……仕方がないと思うけど」
「夕麿もわかってるさ、それは。だがわかりたくないのが気持ちってもんだろ」
「あ~」
それは武にも理解できるだが、それと昨夜のアレはどう繋がるのかは理解できない。
「わからないか?」
「イマイチ」
「夕麿にとって誰かに触れられるというのは、物凄く特別だからだ。温もりを欲していても、あいつの場合はお前限定になる」
「それはわかるけど」
「お前のところに戻れたと安心したんだろうよ。実に夕麿らしい理由だぞ?」
「だったらいいんだけど……」
愛するひとの憂いはすべて取り払いたい。だが不可能であることも十分過ぎるほどわかってはいる。
「じゃあ、逆にお前が抱かれる側の時の気持ちは?」
「え……あ、そっか」
抱きしめられ口付けられるだけで、確かにホッとするし嬉しい。
「ま、夕麿もあの一条さんのこととかで、お前に申し訳なく思ってるのかもな」
彼の目に余る言動を義勝も不快に感じている。雅久などはまさに怒り心頭な状態である。警護に付いている貴之などは、愚痴はこぼしはしないが、かなりストレスをためている様に思えた。
義勝はあえてそれらを口にはしなかったが。
困ったものだと義勝は思う。突然現れた響一人に、十年以上の時間をかけて培って来たものが、かき回されて不安定になりつつある。果たしてこれは響個人の思惑からのものなのか、それとも裏で糸を引く『誰か』の策略であるのか。今はまだ誰も判断できないでいる。
この大事な時に……そう思うのは一人や二人ではなかった。
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