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花散里の宮
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武は無言でかつての友人を見つめた。武が知っている彼は快活で身分が明らかになった後でも、変わらずに良き友人として接してくれた。そもそも右も左もわからない武と親しくしてくれた恩もある。夏休みの結婚式に来てくれた彼は本当に喜んで祝ってくれた。これはまぎれもない事実でしっかりと記憶している。
今から考えるとおかしくなったと思われる当初は、それまでと同じにしか見えない状態だった。演技をしていたとはどうしても思えなかったのだ。
武は目の前で跪くかつての友をジッと見つめた。
夕麿が催眠術下にあった時は、誰かが刷り込んだもので動く彼は別人のようだった。夕麿自身の元の姿をうまく利用してはいたが、歪められたものは普段の姿とは違う。
今ここにいる彼は昔の彼と同じに見える、感じられる。元より武は彼を責める気にはなれなかった。あれから十数年もの時が流れている。いまさら何をどう責めろと言うのだろうか?しかも彼はその間、異国の地でどんな目に遭わされていたのかすらわからないのだ。
「雫さん、彼はこの先どうなるの?」
皇国に於ける彼への処罰はどうなるのか。武にはそこが心配だった。武がどう思っていようとも、彼がやったことはまぎれもなくこの国では、皇家に対する不敬罪として咎められる。
「法的な処罰は行われないことになりました。ただ……板倉家からは板倉姓を名乗らぬようにと」
正巳は既にあの紫霄の事件で貴族籍は剥奪になっている。彼をそのまま一族に留めることは、家そのものに害が及ぶ可能性があると見たのだろう。それは間違ってはいない判断だ、貴族としては。
「そうでしょうね…後々に考えるとして、彼に対しての事情聴取などは行われないのですか」
家を追われたということは、帰る場所がないという意味でもある。静かなのに問いかけた夕麿自身が、異母弟から実感である六条の姓を剥奪して追放した経験がある。異母弟の場合は母親の姓にすればよかったが、正巳はどうもそうはできない様子だ。彼の母親は出自は貴族ではなくそこそこ裕福な庶民の出らしい。ただ正巳の関わった事件が原因で実家に帰ったという。ゆえに実家側も正巳が姓を名乗るのを拒否しているらしい。
「ですので彼の戸籍は宙ぶらりのままになっています」
彼が密かに国外へ連れ出され犯罪に関わったことで放置されてしまったという。
「さすがにそれは非人道的だろう」
トカゲの尻尾切で関わった人間が次々と生命を奪われた光景を見て来ただけに、医師として周は許せない気持ちでいっぱいだった。
「従って新たな姓を名乗ってもらう必要があります」
罪人として貴族籍を剥奪された者は貴族の養子にはなれない。だからこの場合は誰かの養子になるという解決法は使えないのだ。新たな姓を届けて別人としての戸籍を作成することになる。その許可は既に得ていると雫は言った。
「ただし条件が一つあります」
「条件?」
続いて雫の口から出た言葉をそのまま武は問い返した。
「彼の身元引受人と常に所在場所を報告する必要があります」
「それは紫霄から出る条件ですね」
朔耶が言うと雫が頷いて応えた。
「なるほど。つまり表向きはまだ学院都市の中にいることになっているのか」
武の暗殺のために超法規的措置を悪用して連れ出されたのであれば、それを逆手にとって中にずっといたことにしてしまえば様々な問題をスルーできる。今回の彼の帰国はこのような手はずを整えた上で行われたわけである。
「わかったけど……候補はあるのか?」
考えろと言われると困る。武はこの手のことは大の苦手だ。チラリと助けを求めるように夕麿を見た。彼は苦笑して視線をそらした。夕麿には彼が口にしたキーワードゆえに、後催眠で最愛の人の首を絞めて殺しかけた記憶がある。だから武以上に考えろと言われるのは困ってしまう。
このやり取りを正巳自身は武の足下に跪いて顔を伏せたままで、一言も発することなく黙って聞いていた。『姓を与える』行為は皇家の権限でもあるからだ。
「そうですね……紫霄で本来の姓を名乗れない者が名乗る姓はある程度あげることは可能ではありますが」
「先生のや、蓮みたいな?」
もう一つ知ってはいるがここでそれは口にはできない。
「はい。もちろん以外を選択する道もあります」
実は御園生を離れるにあたって義勝たちの姓も改めなければならない可能性があった。こちらも考えなければならないのだ。
「う~ん、名前と姓とかはある意味でその人間の何かを決める気がするんだよな」
武が直観的に言う。彼がこう言えばただの思い込みではない。夏休みに御園生邸に滞在して武の側近として過ごした蓮は、そのように言って従っていた。武に近い能力を持ち彼の言葉はそれだけの重みがあった。それで全員が何某かの影響を受けてしまっている。
「その一面はあると私も思います」
三日月が肯定し横に立つ朔耶も頷いた。蓮の出現で改めて彼の出身の上位に立つ御影家の役目を再確認して、彼ら兄弟の言葉も重みを増した。
少しずつだがそれぞれが何某かの変化を遂げて来た。むろん武自身も紫霄の編入から様々な方面で変化した。さほど裕福ではない母子家庭の私生児から、勲功貴族であり大財閥である御園生の養子に。夕麿との結婚により実は前東宮の遺児であったと知らされた。
武は与えられた身分や立場に翻弄されて来た日々だった。その最初の凶事の犯人が目の前にいる正巳である。
「それで身元引受とかは誰が?」
まずはそこがわからなければ先がわからない。どこか遠くに住む人物になったら、そのあとは武にはどうにもできないからだ。彼が自分の敵になっていた事実があっても、恨んだり憎んだり嫌ったりはできないのだ。紫霄に編入して最初にできた友人で、しかも武の身分が明らかにされていない時に声をかけてくれたただ一人だ。むしろずっと彼に抱いていた感情は悲しみだった。
彼には彼の事情があったであろうが自分の存在ゆえに、しなくてもよい方向へと引きずり込まれたのだから恨んだり憎んだりできるはずがない。むしろ申し訳ないと思って来た。逆に償わなければならないのは自分の方だ。ここで彼が遠くに行ってしまったら今度こそ彼に償いをするのは不可能になる。自分が名乗りを上げれば良いが、立場上は深野であるのはわかっている。そんなことを言ったらきっと夕麿が激怒する。
「下河辺が希望しています」
答えたのは成美だった。
「下河辺が?」
武の身分が明らかになるまでこの二人はあまり仲が良くなかった。武を快く思わない行長と仲が良かった正巳はどちらかというと反目していたくらいだ。武のことがわかって同じ生徒会執行の仲間同士で、それなりに仲良くはなっていたと記憶している。仲が良かったという意味ではむしろここにいる成美の方が仲が良かったようにも思う。
「実は我々警護官は彼の身元引受にはなれないのです」
警護対象に害をなした者の身元引受にはなれないのだと成美の言葉に雫が重ねた。
「警察官としての立場であるならばできたのですが」
成美は少し残念そうに言った。
「ただ……下河辺君は紫霄に現在務めておりますから、彼の住居を用意できません。紫霄に戻せば間違いなく生命を狙われるでしょう。重要な役割を果たした者がいなくなった今は、何も知らなくてもあちら側には不都合な存在でしょう」
雫の言葉は十分に納得できる内容だった。
「住居?ここじゃダメなのか?」
マンションは今後も人員が増えることを想定してかなりの規模になっている。しかも足りなければ増築できるだけの広い敷地もあると説明を受けている。
「へたに外に見つけるのは危険じゃないか?」
関係者の尻尾切の対象になりそうで怖かった。せっかく貴之が見つけ出して連れ帰って来たのに、彼らの餌食になって生命を脅かされたり利用されたりするのは、あまりにもあまりではないかと武は思う。
「せっかく貴之が探して連れて来てくれたんだ。あちらに手を出されるのは防いだ方がいいだろな」
義勝が武の想いを口にすると他の人間も同意した。
「じゃ、決まりだな」
にこやかに言った武を正巳は驚いた顔で見ていた。
「では宗方さん、彼に何か仕事を振ってください」
こう言った夕麿には彼に対するわだかまりのようなものは残ってはいないのだろうか。さすがに武も心配げな表情を向け、気付いた夕麿が穏やかな微笑んで返した。
「承知いたしました」
宗方が承知したことで正巳はここに住み込みで働く職員になった。
「二度と武さまを裏切らないことを肝に銘じるんだな」
正巳のすぐ横に立っている貴之が低く言った。彼はもしもの場合に備えていつでも取り押さえる位置にいたのだ。
貴之の言葉に正巳はしっかりと頷きながら『はい』と小さく返事をした。
その姿に武は自分の胸が痛むのがわかった。あまりにも互いの立場が変わってしまったのが悲しい。紫霄学院で初めてできた友人だった。周囲に溶け込めない武が唯一、普通に話せる相手だった。裏切られても憎んだことも嫌ったことも一度もない。ましてやすべては武に害を為そうとする者たちに暗示をかけられ、人格を変えてまで利用されたことがわかっているのだ。
わかってはいる。彼をここへ閉じ込めることは同時に彼を守ることであるのを。そして貴族籍を剥奪された彼は武とは大きな身分の隔たりができたのだという事実も。頭では理解しているが心は納得はしない。
「姓については官敢えておく」
拳を握りしめて言うのがやっとだった、
「連れて行け」
雫の命でこの春に特務室に配属された男が正巳を連れて行った。彼はまだここにいる者たちの信用を得てはいない。当分は監視下に置かれるのは止むを得ないことなのだ。
部屋から連れて行かれる彼の後姿を武は無言で見送った。すぐそこにいてもかつての友人がこんなにも遠い。今の身分を得て失ったものはたくさんある。むろん得たものが決してないわけではない。それでも失ったものの多くは武の心の中から何かを剝ぎ取ってしまう。そこから如何に鮮血が染み出そうとも気が付かないふりをしてきた。時として傷を夕麿にすら隠して生きて来た。痛みも孤独もすべて吞み込んでここに立っている。
「武、自分を責めては駄目です」
夕麿が背後から抱きしめながら耳元で呟いた。
「あなたがいなかったらむしろ彼は生きてここにはいなかった、もしくは今も紫霄の学院都市の住人だったでしょう」
彼の言うことは真実だろう。それでも武は大事な友に犯罪を犯させてしまった事実に己の罪を感じていた。
「大切であるのは過去ではなくこれからです。立場や身分は以前とは違ってしまいましたが、あなたがもう一度彼との友情を願うのならばこれからまた築いて行けばいいのです」
「できる……かな?」
「できるさ」
義勝が横から手を伸ばして頬に触れて言った。
「そうですとも。私たちみんなが武君を大好きなんです。彼もきっとそう思っていますよ」
雅久が武の目を覗き込んで優しく言った。
「うん……」
ここにいるのは武にとって身内だ。実父は生まれる前に他界し、実母も手を伸ばすのをためらう存在になってしまった。武は既に子供ではなくある程度の年齢を重ねた大人である。ただ発作の影響を色濃く受けているのと元からの性格ゆえ、今でも年齢にそぐわない幼さを見せる。本人も自覚しているのか外向きの顔にはさほど幼さは見えない。けれどもストレスが溜まり、夕麿やみんなの前だけでは幼さがむき出しになる。もちろん誰も咎めたりしない。
武の見せる幼さを一つの個性として皆が受け入れている。そもそも高等部時代に同年代の生徒よりも幼さがあった。ある程度は夕麿によって表面は何とかなっている。だが身内と呼ぶに相応しい仲間内では、外面を取り繕う意味も理由もない。むしろたくさんのものを背負って生きる武を、少しでも良いから甘やかして癒やしたいと願う。夕麿のそれは既に願いを超えて祈りになっている。
そして……二人を取り囲む者たちは夕麿の想いを補助し、武の支えになろうとして来た。
現皇帝の崩御は近い将来に避けることはできない現実となるだろう。これによって武の立場が大きく揺れて、この十年ほど安定していた平穏が失われる可能性が強かった。何がどう動くのかはまだ未知数で、誰もが不安を抱えている現状だった。
武本人はできれば自分に害が及ぶのは仕方がないとしても、できるだけ周囲を、特に夕麿を巻き込みたくはなかった。ゆえに『もしも』に備えての相談と手配を雫と進めている。
雫の方は直属の上司である良岑 芳之、宮中で相談役の立場に就く護院 久方の双方に武との話の内容を伝えている。これは武の承認をちゃんと受けてのことだ。
次々と部屋を案内されて最後に最上階にある居間に案内された。ここは背後の丘の頂上近くに斜面に沿って建てられている。
「ここより丘の上に出ることができます」
宗方の先導で土の上に踏み出す。ふわりと土の香りと木々の匂いが鼻腔を満たした。
「御園生邸にも樹木や小高くなった所があるけど、ここのは完全に自然だって感じる」
「御園生の庭園は美しくはありますが、あの小高い場所も含めて人工的に計算して造園されたものでしょう」
「そうですね。木々も草花も場所も選定されていると感じます」
武もよく庭に出るが敦紀と雅久は気分転換だろうか、度々庭を歩き回ったり四阿にいるのを見かける。
「こちら側はできるだけ手を加えるのは少なくと考えております。理由は……」
宗方が言葉を切って武たちを案内したのは丘の頂上、少し開けた場所に一本の大きな樹があった。
「これは……枝垂れ桜、ですね」
「さようでございます」
それは見事な一本桜だった。
「樹齢はおよそ三百年と言われております」
「一本桜?じゃあ名前があるの?」
一本桜というのは桜の巨木で、数百年の樹齢を重ねたものを言う。古くから神木としても崇められ、何某かの名前が付けられているものだ。
ソメイヨシノは普通は一本桜にはならない。なぜならばソメイヨシノの寿命は八十年前後と言われているからだ。そこまでの大きさにはなるまでには樹木としての時間が短い。またソメイヨシノは実からの発芽を望めない。ゼロではないにしても未成熟で落下する実は、芽が出ても育ち難く挿木で増えて来た。つまり全てがクローン状態である。江戸時代に一人の植木職人が配合して作り出した品種で、明治時代に全国へ広がった。
「祖父から『花散里』という名前を聞いております」
「花散里?」
「はい。この一帯がかつては六条家の領地で、夕麿さまのご先祖さまが温泉の湧く当家の領地と交換を申し出られたそうです。何でも当時の北の方さまのご療養のためとか」
「その話は父から聞いたことがあります。ここがそうなのですか」
縁とは真に不可思議なものである。かつて六条家の所領地だった場所が今、武と夕麿のための宮となるのだ。
「ここは六条家に因んで『六条ヶ原』と呼ばれております」
「六条ヶ原の花散里かぁ、何かもう物語だな」
武が笑顔で言った。
「御厨」
「はい、武さま」
「花が咲いたら描いてくれるよな?」
「私も描いてみたいと思っておりました」
「じゃ、楽しみにしてる」
「はい」
枝が重いのか、樹木としては老齢だからなのか、横へと伸びている枝は支えが噛ましてあった。根元にむやみに人が踏み入らないように柵が設けられ、その周囲は樹の妨げにならないように広範囲に樹木が取り払われている。
「居間からご覧になれるようにいたしたかったのですが、ここまでのすべての樹木を伐採するのは如何なものかと」
「遠いわけじゃないから足を運ぶさ」
「そうですね。ですが今少し道の整備をお願いしたいです」
正巳の帰国は同時に彼についての膨大なデータももたらされたということだ。見たところ彼は発作は起こさないのではないか……という感じがする。
それでももしもの時に武が車椅子であってもここへ来れるように、また平時でも負担が軽減されるように。夕麿の想いは常に愛する人のためだった。
「ここの自然を守るためにアスファルトやコンクリートは敷き詰められませんので、現在は素材を考えているところです」
「少し溝ができるが天然石を並べるのが一番だろうな」
地面の土に触れながら周が言った。
「石畳はそれなりに手入れが必要ですが、雨水を大地に吸収させて自然の循環を守ります」
影暁が言った。彼はフランスに住んでいた時に周辺へ出かけ、石畳の街を歩いた経験がある。
「イタリアやフランスは一度は石畳を排除して、車の走行がしやすくコストの低いアスファルト敷きにしました。しかし前世紀の終わり頃に環境問題から再び、石畳へと戻して行きました。イタリアでは近くの遺跡に廃棄した元の石畳を戻したとも聞いています」
石畳は風雨にさらされて徐々に削られ崩壊していく。そこへ重みがかかることによって割れる。当然ながら凸凹になる。欠けた石を取り替えるか、その部分を含む一部を切り取り新たな石を貼り合わせるか。天然石だけに生半可なでではない。
「プラスチックとかではいけないのですか?」
朔耶の疑問は誰もが持つものかもしれない。
「ダメだ。プラスチックは風雨にさらすと数年で劣化して崩壊する。それが環境問題になっているマイクロプラスチックで、細かい粒子状になって拡散される。それが植物や様々な動物の体内に入り、やがては人間が摂取する」
「体内に入るとどうなりますか?」
「まだ未知数だ。海洋汚染による環境破壊すら近年になってやっと問題視され始めたところだからな」
最近ではプランターでの野菜栽培にもマイクロプラスチックの発生が懸念されている。でき得るならば一年に一回は取り替えるべきなのだ。
昔はプラスチックは腐敗しないと信じられていた。しかし最近は細く砕けて崩壊していくことが判明している。
「この森を、ここの自然をマイクロプラスチックで汚染するのは困ります」
敦紀は基本的には風景画を得意とする。雅久をモデルにしたシリーズや貴之を描くのは特別とも言える。彼は自然のありのままの姿に『美』を感じる。そこにこの地球の生命の息吹を実感するからだ。
自然界には無駄はない。人間だけが無駄を創り出す。そして自然を改変し破壊してしまう。遥か太古から栄枯盛衰を繰り返して築かれてきたのが、この地球の自然というありのままの姿である。人間もまたその一つであり一部である事実を忘れて生きている。
忘れているからこそ環境問題を訴える時に、現実的なことを見ないで盲目的に『誰か』や『何か』を攻撃する。まるで捨てれもしない今の文化文明を放棄する方向を示すように。
「僕も好きじゃないかな?」
最近、この手の集まりでは積極的に発言しなくなった麗が呟いた。
「確かに便利であることは大切だし、先々を見越しての配慮は必要だと思うよ?でも人間が言う『使いやすさ』は自然に優しくないものが多いよね……」
今見つめる風景が美しいのはここがほとんど手つかずのままだったからだ。ある意味で人間は乱入者である。
「石畳や水に強い木材などで道をつくれるか、専門家に相談いたします」
宗方が答えた声は清方によく似た響きだった。
どこかで着信音がする。上着の胸ポケットからスマホを取り出したのは宗方だった。
「お茶の用意が整ったようです」
その言葉を合図に全員が戻るために歩き出した。
すると周囲を一応警戒しながら歩く雫にそっと雅久が近寄って来て、その手に何やらメモを握らせて離れて行った。どうやら武か夕麿に知られたくはないらしい。
雅久は自分の身分や立場をよく心得ていて、普段はこのような行動は絶対に取らない。あえてしたということは何か武か夕麿、もしくは双方に関わる問題があるという意味だ。すぐにでも手渡されたものを開いて目にしたいが、やはり二人が近くにいる状態では避けた方が良い。
ふと視線を感じて振り返ると貴之が小さく頷いた。雅久の手渡したものの内容を彼は承知しているらしい。無言で頷き返すと貴之の視線が武と夕麿に向けられた。つられて視線を向ける。すると夕麿が少し振り向いて目を伏せた。どうやら夕麿の依頼だと雫は判断した。
武には話せないこと、おそらくは知られたくはない『何か』は並々のことではない。様々な懸念が武を中心に渦巻始めていた。一つひとつは繋がりがあるようには見えない。けれど武をめぐるものがゆっくりと変化して来ている。これがそのまま何某かの『凶事』にならないか……雫には不安だった。
『ご相談がございます。御園生邸では話せませんし、今は武さまにお聞かせいたしたくはございません。しかしあまりにも由々しき事態です。どうかお時間をいただきたくこのような形をさせていただきました』
文面からは詳細はやはりわからないが、書かれた文字の状態から切羽詰まった感じと怒りが読み取れた。
「どう思う?」
紙を手渡して清方に問いかけてみる。
「よほどのことですね。恐れくは雅久君だけでなく、武さま以外がこの件を心配しているのではないでしょうか。御園生邸内の何かでしょう。武さまに伏せての相談であることからも急いだ方がよいのでは」
「わかった。貴之はわかっている様子だったがあえて報告に来ないのも理由があるんだろうな」
「宮の完成を前倒しにして転居を急いだ方が良いかもしれません」
相談の内容が何であっても御園生邸では問題があり過ぎる。このままでは武と夕麿の立場も身の安全もはかり難くなるばかりだ。もっと早く護院家を後ろ盾にして宮の造営していたら……と今更ではあるが後悔する。
「集まる場所はここにして雅久君が稽古に来る日を利用しよう」
「では私は両親と周たちに知らせます」
「頼んだ」
何が起こっているのかを知らない現状でも、直ちに二人を転居させたい気持ちでいっぱいだった。
『相談』という形で雅久がSOSを告げて来た事実は、雫率いる特務室の面々にも以外の者たちにも密かな騒動になった。そしてそれはどうやら夕麿のSOSでもあるのでは……と皆が心配し始めた。
武と夕麿以外が雫と清方の部屋のリビングに集まる日まで、全員が時の流れを遅く感じたのだった。
今から考えるとおかしくなったと思われる当初は、それまでと同じにしか見えない状態だった。演技をしていたとはどうしても思えなかったのだ。
武は目の前で跪くかつての友をジッと見つめた。
夕麿が催眠術下にあった時は、誰かが刷り込んだもので動く彼は別人のようだった。夕麿自身の元の姿をうまく利用してはいたが、歪められたものは普段の姿とは違う。
今ここにいる彼は昔の彼と同じに見える、感じられる。元より武は彼を責める気にはなれなかった。あれから十数年もの時が流れている。いまさら何をどう責めろと言うのだろうか?しかも彼はその間、異国の地でどんな目に遭わされていたのかすらわからないのだ。
「雫さん、彼はこの先どうなるの?」
皇国に於ける彼への処罰はどうなるのか。武にはそこが心配だった。武がどう思っていようとも、彼がやったことはまぎれもなくこの国では、皇家に対する不敬罪として咎められる。
「法的な処罰は行われないことになりました。ただ……板倉家からは板倉姓を名乗らぬようにと」
正巳は既にあの紫霄の事件で貴族籍は剥奪になっている。彼をそのまま一族に留めることは、家そのものに害が及ぶ可能性があると見たのだろう。それは間違ってはいない判断だ、貴族としては。
「そうでしょうね…後々に考えるとして、彼に対しての事情聴取などは行われないのですか」
家を追われたということは、帰る場所がないという意味でもある。静かなのに問いかけた夕麿自身が、異母弟から実感である六条の姓を剥奪して追放した経験がある。異母弟の場合は母親の姓にすればよかったが、正巳はどうもそうはできない様子だ。彼の母親は出自は貴族ではなくそこそこ裕福な庶民の出らしい。ただ正巳の関わった事件が原因で実家に帰ったという。ゆえに実家側も正巳が姓を名乗るのを拒否しているらしい。
「ですので彼の戸籍は宙ぶらりのままになっています」
彼が密かに国外へ連れ出され犯罪に関わったことで放置されてしまったという。
「さすがにそれは非人道的だろう」
トカゲの尻尾切で関わった人間が次々と生命を奪われた光景を見て来ただけに、医師として周は許せない気持ちでいっぱいだった。
「従って新たな姓を名乗ってもらう必要があります」
罪人として貴族籍を剥奪された者は貴族の養子にはなれない。だからこの場合は誰かの養子になるという解決法は使えないのだ。新たな姓を届けて別人としての戸籍を作成することになる。その許可は既に得ていると雫は言った。
「ただし条件が一つあります」
「条件?」
続いて雫の口から出た言葉をそのまま武は問い返した。
「彼の身元引受人と常に所在場所を報告する必要があります」
「それは紫霄から出る条件ですね」
朔耶が言うと雫が頷いて応えた。
「なるほど。つまり表向きはまだ学院都市の中にいることになっているのか」
武の暗殺のために超法規的措置を悪用して連れ出されたのであれば、それを逆手にとって中にずっといたことにしてしまえば様々な問題をスルーできる。今回の彼の帰国はこのような手はずを整えた上で行われたわけである。
「わかったけど……候補はあるのか?」
考えろと言われると困る。武はこの手のことは大の苦手だ。チラリと助けを求めるように夕麿を見た。彼は苦笑して視線をそらした。夕麿には彼が口にしたキーワードゆえに、後催眠で最愛の人の首を絞めて殺しかけた記憶がある。だから武以上に考えろと言われるのは困ってしまう。
このやり取りを正巳自身は武の足下に跪いて顔を伏せたままで、一言も発することなく黙って聞いていた。『姓を与える』行為は皇家の権限でもあるからだ。
「そうですね……紫霄で本来の姓を名乗れない者が名乗る姓はある程度あげることは可能ではありますが」
「先生のや、蓮みたいな?」
もう一つ知ってはいるがここでそれは口にはできない。
「はい。もちろん以外を選択する道もあります」
実は御園生を離れるにあたって義勝たちの姓も改めなければならない可能性があった。こちらも考えなければならないのだ。
「う~ん、名前と姓とかはある意味でその人間の何かを決める気がするんだよな」
武が直観的に言う。彼がこう言えばただの思い込みではない。夏休みに御園生邸に滞在して武の側近として過ごした蓮は、そのように言って従っていた。武に近い能力を持ち彼の言葉はそれだけの重みがあった。それで全員が何某かの影響を受けてしまっている。
「その一面はあると私も思います」
三日月が肯定し横に立つ朔耶も頷いた。蓮の出現で改めて彼の出身の上位に立つ御影家の役目を再確認して、彼ら兄弟の言葉も重みを増した。
少しずつだがそれぞれが何某かの変化を遂げて来た。むろん武自身も紫霄の編入から様々な方面で変化した。さほど裕福ではない母子家庭の私生児から、勲功貴族であり大財閥である御園生の養子に。夕麿との結婚により実は前東宮の遺児であったと知らされた。
武は与えられた身分や立場に翻弄されて来た日々だった。その最初の凶事の犯人が目の前にいる正巳である。
「それで身元引受とかは誰が?」
まずはそこがわからなければ先がわからない。どこか遠くに住む人物になったら、そのあとは武にはどうにもできないからだ。彼が自分の敵になっていた事実があっても、恨んだり憎んだり嫌ったりはできないのだ。紫霄に編入して最初にできた友人で、しかも武の身分が明らかにされていない時に声をかけてくれたただ一人だ。むしろずっと彼に抱いていた感情は悲しみだった。
彼には彼の事情があったであろうが自分の存在ゆえに、しなくてもよい方向へと引きずり込まれたのだから恨んだり憎んだりできるはずがない。むしろ申し訳ないと思って来た。逆に償わなければならないのは自分の方だ。ここで彼が遠くに行ってしまったら今度こそ彼に償いをするのは不可能になる。自分が名乗りを上げれば良いが、立場上は深野であるのはわかっている。そんなことを言ったらきっと夕麿が激怒する。
「下河辺が希望しています」
答えたのは成美だった。
「下河辺が?」
武の身分が明らかになるまでこの二人はあまり仲が良くなかった。武を快く思わない行長と仲が良かった正巳はどちらかというと反目していたくらいだ。武のことがわかって同じ生徒会執行の仲間同士で、それなりに仲良くはなっていたと記憶している。仲が良かったという意味ではむしろここにいる成美の方が仲が良かったようにも思う。
「実は我々警護官は彼の身元引受にはなれないのです」
警護対象に害をなした者の身元引受にはなれないのだと成美の言葉に雫が重ねた。
「警察官としての立場であるならばできたのですが」
成美は少し残念そうに言った。
「ただ……下河辺君は紫霄に現在務めておりますから、彼の住居を用意できません。紫霄に戻せば間違いなく生命を狙われるでしょう。重要な役割を果たした者がいなくなった今は、何も知らなくてもあちら側には不都合な存在でしょう」
雫の言葉は十分に納得できる内容だった。
「住居?ここじゃダメなのか?」
マンションは今後も人員が増えることを想定してかなりの規模になっている。しかも足りなければ増築できるだけの広い敷地もあると説明を受けている。
「へたに外に見つけるのは危険じゃないか?」
関係者の尻尾切の対象になりそうで怖かった。せっかく貴之が見つけ出して連れ帰って来たのに、彼らの餌食になって生命を脅かされたり利用されたりするのは、あまりにもあまりではないかと武は思う。
「せっかく貴之が探して連れて来てくれたんだ。あちらに手を出されるのは防いだ方がいいだろな」
義勝が武の想いを口にすると他の人間も同意した。
「じゃ、決まりだな」
にこやかに言った武を正巳は驚いた顔で見ていた。
「では宗方さん、彼に何か仕事を振ってください」
こう言った夕麿には彼に対するわだかまりのようなものは残ってはいないのだろうか。さすがに武も心配げな表情を向け、気付いた夕麿が穏やかな微笑んで返した。
「承知いたしました」
宗方が承知したことで正巳はここに住み込みで働く職員になった。
「二度と武さまを裏切らないことを肝に銘じるんだな」
正巳のすぐ横に立っている貴之が低く言った。彼はもしもの場合に備えていつでも取り押さえる位置にいたのだ。
貴之の言葉に正巳はしっかりと頷きながら『はい』と小さく返事をした。
その姿に武は自分の胸が痛むのがわかった。あまりにも互いの立場が変わってしまったのが悲しい。紫霄学院で初めてできた友人だった。周囲に溶け込めない武が唯一、普通に話せる相手だった。裏切られても憎んだことも嫌ったことも一度もない。ましてやすべては武に害を為そうとする者たちに暗示をかけられ、人格を変えてまで利用されたことがわかっているのだ。
わかってはいる。彼をここへ閉じ込めることは同時に彼を守ることであるのを。そして貴族籍を剥奪された彼は武とは大きな身分の隔たりができたのだという事実も。頭では理解しているが心は納得はしない。
「姓については官敢えておく」
拳を握りしめて言うのがやっとだった、
「連れて行け」
雫の命でこの春に特務室に配属された男が正巳を連れて行った。彼はまだここにいる者たちの信用を得てはいない。当分は監視下に置かれるのは止むを得ないことなのだ。
部屋から連れて行かれる彼の後姿を武は無言で見送った。すぐそこにいてもかつての友人がこんなにも遠い。今の身分を得て失ったものはたくさんある。むろん得たものが決してないわけではない。それでも失ったものの多くは武の心の中から何かを剝ぎ取ってしまう。そこから如何に鮮血が染み出そうとも気が付かないふりをしてきた。時として傷を夕麿にすら隠して生きて来た。痛みも孤独もすべて吞み込んでここに立っている。
「武、自分を責めては駄目です」
夕麿が背後から抱きしめながら耳元で呟いた。
「あなたがいなかったらむしろ彼は生きてここにはいなかった、もしくは今も紫霄の学院都市の住人だったでしょう」
彼の言うことは真実だろう。それでも武は大事な友に犯罪を犯させてしまった事実に己の罪を感じていた。
「大切であるのは過去ではなくこれからです。立場や身分は以前とは違ってしまいましたが、あなたがもう一度彼との友情を願うのならばこれからまた築いて行けばいいのです」
「できる……かな?」
「できるさ」
義勝が横から手を伸ばして頬に触れて言った。
「そうですとも。私たちみんなが武君を大好きなんです。彼もきっとそう思っていますよ」
雅久が武の目を覗き込んで優しく言った。
「うん……」
ここにいるのは武にとって身内だ。実父は生まれる前に他界し、実母も手を伸ばすのをためらう存在になってしまった。武は既に子供ではなくある程度の年齢を重ねた大人である。ただ発作の影響を色濃く受けているのと元からの性格ゆえ、今でも年齢にそぐわない幼さを見せる。本人も自覚しているのか外向きの顔にはさほど幼さは見えない。けれどもストレスが溜まり、夕麿やみんなの前だけでは幼さがむき出しになる。もちろん誰も咎めたりしない。
武の見せる幼さを一つの個性として皆が受け入れている。そもそも高等部時代に同年代の生徒よりも幼さがあった。ある程度は夕麿によって表面は何とかなっている。だが身内と呼ぶに相応しい仲間内では、外面を取り繕う意味も理由もない。むしろたくさんのものを背負って生きる武を、少しでも良いから甘やかして癒やしたいと願う。夕麿のそれは既に願いを超えて祈りになっている。
そして……二人を取り囲む者たちは夕麿の想いを補助し、武の支えになろうとして来た。
現皇帝の崩御は近い将来に避けることはできない現実となるだろう。これによって武の立場が大きく揺れて、この十年ほど安定していた平穏が失われる可能性が強かった。何がどう動くのかはまだ未知数で、誰もが不安を抱えている現状だった。
武本人はできれば自分に害が及ぶのは仕方がないとしても、できるだけ周囲を、特に夕麿を巻き込みたくはなかった。ゆえに『もしも』に備えての相談と手配を雫と進めている。
雫の方は直属の上司である良岑 芳之、宮中で相談役の立場に就く護院 久方の双方に武との話の内容を伝えている。これは武の承認をちゃんと受けてのことだ。
次々と部屋を案内されて最後に最上階にある居間に案内された。ここは背後の丘の頂上近くに斜面に沿って建てられている。
「ここより丘の上に出ることができます」
宗方の先導で土の上に踏み出す。ふわりと土の香りと木々の匂いが鼻腔を満たした。
「御園生邸にも樹木や小高くなった所があるけど、ここのは完全に自然だって感じる」
「御園生の庭園は美しくはありますが、あの小高い場所も含めて人工的に計算して造園されたものでしょう」
「そうですね。木々も草花も場所も選定されていると感じます」
武もよく庭に出るが敦紀と雅久は気分転換だろうか、度々庭を歩き回ったり四阿にいるのを見かける。
「こちら側はできるだけ手を加えるのは少なくと考えております。理由は……」
宗方が言葉を切って武たちを案内したのは丘の頂上、少し開けた場所に一本の大きな樹があった。
「これは……枝垂れ桜、ですね」
「さようでございます」
それは見事な一本桜だった。
「樹齢はおよそ三百年と言われております」
「一本桜?じゃあ名前があるの?」
一本桜というのは桜の巨木で、数百年の樹齢を重ねたものを言う。古くから神木としても崇められ、何某かの名前が付けられているものだ。
ソメイヨシノは普通は一本桜にはならない。なぜならばソメイヨシノの寿命は八十年前後と言われているからだ。そこまでの大きさにはなるまでには樹木としての時間が短い。またソメイヨシノは実からの発芽を望めない。ゼロではないにしても未成熟で落下する実は、芽が出ても育ち難く挿木で増えて来た。つまり全てがクローン状態である。江戸時代に一人の植木職人が配合して作り出した品種で、明治時代に全国へ広がった。
「祖父から『花散里』という名前を聞いております」
「花散里?」
「はい。この一帯がかつては六条家の領地で、夕麿さまのご先祖さまが温泉の湧く当家の領地と交換を申し出られたそうです。何でも当時の北の方さまのご療養のためとか」
「その話は父から聞いたことがあります。ここがそうなのですか」
縁とは真に不可思議なものである。かつて六条家の所領地だった場所が今、武と夕麿のための宮となるのだ。
「ここは六条家に因んで『六条ヶ原』と呼ばれております」
「六条ヶ原の花散里かぁ、何かもう物語だな」
武が笑顔で言った。
「御厨」
「はい、武さま」
「花が咲いたら描いてくれるよな?」
「私も描いてみたいと思っておりました」
「じゃ、楽しみにしてる」
「はい」
枝が重いのか、樹木としては老齢だからなのか、横へと伸びている枝は支えが噛ましてあった。根元にむやみに人が踏み入らないように柵が設けられ、その周囲は樹の妨げにならないように広範囲に樹木が取り払われている。
「居間からご覧になれるようにいたしたかったのですが、ここまでのすべての樹木を伐採するのは如何なものかと」
「遠いわけじゃないから足を運ぶさ」
「そうですね。ですが今少し道の整備をお願いしたいです」
正巳の帰国は同時に彼についての膨大なデータももたらされたということだ。見たところ彼は発作は起こさないのではないか……という感じがする。
それでももしもの時に武が車椅子であってもここへ来れるように、また平時でも負担が軽減されるように。夕麿の想いは常に愛する人のためだった。
「ここの自然を守るためにアスファルトやコンクリートは敷き詰められませんので、現在は素材を考えているところです」
「少し溝ができるが天然石を並べるのが一番だろうな」
地面の土に触れながら周が言った。
「石畳はそれなりに手入れが必要ですが、雨水を大地に吸収させて自然の循環を守ります」
影暁が言った。彼はフランスに住んでいた時に周辺へ出かけ、石畳の街を歩いた経験がある。
「イタリアやフランスは一度は石畳を排除して、車の走行がしやすくコストの低いアスファルト敷きにしました。しかし前世紀の終わり頃に環境問題から再び、石畳へと戻して行きました。イタリアでは近くの遺跡に廃棄した元の石畳を戻したとも聞いています」
石畳は風雨にさらされて徐々に削られ崩壊していく。そこへ重みがかかることによって割れる。当然ながら凸凹になる。欠けた石を取り替えるか、その部分を含む一部を切り取り新たな石を貼り合わせるか。天然石だけに生半可なでではない。
「プラスチックとかではいけないのですか?」
朔耶の疑問は誰もが持つものかもしれない。
「ダメだ。プラスチックは風雨にさらすと数年で劣化して崩壊する。それが環境問題になっているマイクロプラスチックで、細かい粒子状になって拡散される。それが植物や様々な動物の体内に入り、やがては人間が摂取する」
「体内に入るとどうなりますか?」
「まだ未知数だ。海洋汚染による環境破壊すら近年になってやっと問題視され始めたところだからな」
最近ではプランターでの野菜栽培にもマイクロプラスチックの発生が懸念されている。でき得るならば一年に一回は取り替えるべきなのだ。
昔はプラスチックは腐敗しないと信じられていた。しかし最近は細く砕けて崩壊していくことが判明している。
「この森を、ここの自然をマイクロプラスチックで汚染するのは困ります」
敦紀は基本的には風景画を得意とする。雅久をモデルにしたシリーズや貴之を描くのは特別とも言える。彼は自然のありのままの姿に『美』を感じる。そこにこの地球の生命の息吹を実感するからだ。
自然界には無駄はない。人間だけが無駄を創り出す。そして自然を改変し破壊してしまう。遥か太古から栄枯盛衰を繰り返して築かれてきたのが、この地球の自然というありのままの姿である。人間もまたその一つであり一部である事実を忘れて生きている。
忘れているからこそ環境問題を訴える時に、現実的なことを見ないで盲目的に『誰か』や『何か』を攻撃する。まるで捨てれもしない今の文化文明を放棄する方向を示すように。
「僕も好きじゃないかな?」
最近、この手の集まりでは積極的に発言しなくなった麗が呟いた。
「確かに便利であることは大切だし、先々を見越しての配慮は必要だと思うよ?でも人間が言う『使いやすさ』は自然に優しくないものが多いよね……」
今見つめる風景が美しいのはここがほとんど手つかずのままだったからだ。ある意味で人間は乱入者である。
「石畳や水に強い木材などで道をつくれるか、専門家に相談いたします」
宗方が答えた声は清方によく似た響きだった。
どこかで着信音がする。上着の胸ポケットからスマホを取り出したのは宗方だった。
「お茶の用意が整ったようです」
その言葉を合図に全員が戻るために歩き出した。
すると周囲を一応警戒しながら歩く雫にそっと雅久が近寄って来て、その手に何やらメモを握らせて離れて行った。どうやら武か夕麿に知られたくはないらしい。
雅久は自分の身分や立場をよく心得ていて、普段はこのような行動は絶対に取らない。あえてしたということは何か武か夕麿、もしくは双方に関わる問題があるという意味だ。すぐにでも手渡されたものを開いて目にしたいが、やはり二人が近くにいる状態では避けた方が良い。
ふと視線を感じて振り返ると貴之が小さく頷いた。雅久の手渡したものの内容を彼は承知しているらしい。無言で頷き返すと貴之の視線が武と夕麿に向けられた。つられて視線を向ける。すると夕麿が少し振り向いて目を伏せた。どうやら夕麿の依頼だと雫は判断した。
武には話せないこと、おそらくは知られたくはない『何か』は並々のことではない。様々な懸念が武を中心に渦巻始めていた。一つひとつは繋がりがあるようには見えない。けれど武をめぐるものがゆっくりと変化して来ている。これがそのまま何某かの『凶事』にならないか……雫には不安だった。
『ご相談がございます。御園生邸では話せませんし、今は武さまにお聞かせいたしたくはございません。しかしあまりにも由々しき事態です。どうかお時間をいただきたくこのような形をさせていただきました』
文面からは詳細はやはりわからないが、書かれた文字の状態から切羽詰まった感じと怒りが読み取れた。
「どう思う?」
紙を手渡して清方に問いかけてみる。
「よほどのことですね。恐れくは雅久君だけでなく、武さま以外がこの件を心配しているのではないでしょうか。御園生邸内の何かでしょう。武さまに伏せての相談であることからも急いだ方がよいのでは」
「わかった。貴之はわかっている様子だったがあえて報告に来ないのも理由があるんだろうな」
「宮の完成を前倒しにして転居を急いだ方が良いかもしれません」
相談の内容が何であっても御園生邸では問題があり過ぎる。このままでは武と夕麿の立場も身の安全もはかり難くなるばかりだ。もっと早く護院家を後ろ盾にして宮の造営していたら……と今更ではあるが後悔する。
「集まる場所はここにして雅久君が稽古に来る日を利用しよう」
「では私は両親と周たちに知らせます」
「頼んだ」
何が起こっているのかを知らない現状でも、直ちに二人を転居させたい気持ちでいっぱいだった。
『相談』という形で雅久がSOSを告げて来た事実は、雫率いる特務室の面々にも以外の者たちにも密かな騒動になった。そしてそれはどうやら夕麿のSOSでもあるのでは……と皆が心配し始めた。
武と夕麿以外が雫と清方の部屋のリビングに集まる日まで、全員が時の流れを遅く感じたのだった。
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