DR.清白の診察室Ⅱ~幻影

翡翠

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手術

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直也の手術が行われる日が来た。真也は3日間の有給を取り術後はしばらくは、特別病棟の一室にカメラを設置して治療を行われるように配慮された部屋で付き添う事になった。 

 出来る限りの事を。 

 武が院長に密かに電話して指示したのを清方だけが知っていた。他の者に伏せらているのは、必要以上に気を使わせない為の思い遣りだとわかっていた。 

 執刀医は保。助手の一人として周が入る。 

 夕麿と雅久は取引先との会合で来れないが、榊が代わりに来ていた。 

 手術箇所は肝臓、脾臓ひぞうの二ヶ所。それ以外にも悪い部分があるが、今のところは投薬治療で改善されつつある。肝臓はどうしても出血の危険が伴う為、輸血用の血液も大量に用意された。 

 数時間後、手術は無事に終了し、直也は特別病棟の一番手前の個室へ移された。 

 特別病棟には全部で5室あり、一番奥の部屋が武と夕麿の専用になっている。両隣には周が泊まり込む部屋と、雫たち警護の警察官が泊まり込む部屋がある。その隣に1室ずつ病室がある。周が泊まり込む部屋も元々は病室だったが、宿直室が離れている為にここを使用している。 

 今日は術後の為、保もここに泊まり込む。榊は夕麿と雅久、それに武へ報告する為に帰った。義勝も自分の持ち場へ戻り、彼が宿直な為に清方も帰った。 

 通常の4人部屋の広さに、患者用のベッドと付き添い用の簡易ベッドがある。トイレやシャワーも完備、冷凍冷蔵庫もある。窓は二重で特殊樹脂コーティングされている。セキュリティードアの向こう側の待合室に案内された時、この厳重さに驚いた。他の病院の特別病棟がどんなものかは知らないが、ここまで厳重ではないのではないかとも思う。 

 執刀医の保の言葉によると、全身麻酔は日付が変わる頃には醒めると言う。だが手術をどこまで認識出来ているのか不明の為、自分で起き上がったりしないようにベッドに固定されている。仕方がない事だとはわかっているが、直也が不憫ふびんでならなかった。そうなるとあちこちに八つ当たりするのが人間だ。今日の手術は前から決まっていたのに、多忙だと言って来なかった夕麿を不実に思ってしまう。 

 時折、看護師が様子を見に来て、直也を麻酔の昏睡から防ぐ為に声をかける。すると彼は目を開けて何事か呟く。何度かそれが繰り返され、直也は日付が変わる頃に完全に麻酔から醒め吸入していた酸素も外された。 

 再び二人だけになると直也はじっと兄を見つめた。 

「直也?」 

 声を掛けると泣き出しそうな顔をする。 

「手術したばかりだから、我慢しような?」 

「ご褒美…頂戴」 

「いいよ? 何が欲しい?」 

「六条さま」 

「え……」 

 弟の返事に絶句するしかなかった。 

「直也は夕麿さまが好きか?」 

「うん。大好き…六条さま、欲しい…」 

 うっとりした面持ちで呟く。こうなると身内の欲目。真也は弟の為に夕麿と話し合いをしてみようと決意した。弟に何もしてやれず、助ける事も出来なかった過去が、後悔と罪悪感で満たされていた。 

 自分の心に生まれた思いが、残酷なものである事に彼は気付いてはいなかった。今はただ弟の為に。それだけしか考えられなかった。 

 次の日の夜、夕麿は貴之を護衛に特別病棟を訪れた。とは言っても待合室までという指示を清方が出していた。真也は病室から出て、待合室で夕麿と対面した。 

「今のところ経過は良好のようですね。必要なものがありましたら、周さんか義勝に言ってください」 

 優しく気遣うような態度を見て真也は内心で呟いた。そう思うならば何故、弟を見舞ってはくれないのかと。拘束されている状態なら、夕麿を襲ったりはしない筈だと。真也は待合室での対面を夕麿が望んだのだと思っていた。主治医である清方の指示だとは思いつきもしなかったのである。

「お気遣いを有り難うございます。あの一度、どこかでお食事でも如何でしょうか」

「え…いえ…申し訳ございません。恐らくは時間を取るのが難しいかと思います」

 夕麿の戸惑いを真也は拒否だと感じていた。彼には誠意がない。それは自分勝手な思い込みだった。同じ被害者でありながら彼は、資産家へ養子に行って企業の経営に参加している。左手の薬指には結婚指輪がある。彼だけが幸せになった。

 嫉妬なのか、それとも何も出来ない自分を嫌悪する感情の反映なのか。両親が破産した結果、金銭で苦労した彼の資産家への恨みなのか。恐らく真也自身も判断が出来なかっただろう。ただ全ての負の感情を集めたものが、夕麿へ向いてしまったのは確かだった。

 この病院に直也が入院していて、その費用を全て夕麿たちが支払っている。純粋にかつての同級生への友情と、同情である事にすら真也は想いを馳せる事が出来なくなっていた。自分の心をどこへ置いて良いのか、わからなくなった人間の自己保存という本能的な反応だった。

 直也の見舞いは代わる代わる来るが夕麿は、手術日の夜に顔を出しただけなのが気になった。

 そんな時だった。病棟全体が慌しくなった。様々な機材が処置室へ運び込まれ、副院長や保、義勝たちが血相を変えて病棟に上がって来た。

 直也の様子に変わりはない。

 しばらくすると全員がエレベーターホールに移動した。エレベーターのドアが開いて、どっと人が降りて来た。その中には夕麿や清方、周の姿もあった。続いてストレッチャーが降ろされる。ぐったりとした誰かが寝かされているが、真也のいる場所からは顔が見えなかった。

 ストレッチャーが処置室に入った後、夕麿が血の気のない顔で出て来た。すぐに義勝が駆け寄って待合室に座らせた。夕麿は酷く取り乱した様子で、懸命に義勝が宥めている風に見える。

 真也はそっとセキュリティードアから出た。そのまま待合室に近付く。

 夕麿の声が聞こえた。

「私の所為です…武の身にこれ以上何かあったら…」

「落ち着け、夕麿。検査の結果が出るまで待て」

「周さんに立見さんの事を問い合わせておくべきでした」 

 真也は弟の病室へ戻ろうとして、処置室から出て来た清方と鉢合わせした。清方のスーツの胸元や袖には、今運ばれて来た人物のものらしい血が付着していた。 

「申し訳ありません、部屋にお戻りいただけますか?」 

「何かあったのですか?」 

「ええ、御園生 武さまが暴漢に襲われて、大怪我をされたのです。ここは間もなく警備が強化されます。 

 どうぞ部屋へお戻りください」 

 言葉使いは丁寧だが、有無を言わせぬ圧力があった。真也は無言で頷いて部屋に戻った。それでも気になるので病室のドアを開けて外を見ていた。 

 しばらくして意識のない小柄な青年が、義勝に抱かれて奥の部屋へ運ばれた。その後を夕麿が追うように入った。普段とは違う彼の姿に、真也は武に興味を持った。 

 武が入院した特別病棟は、真也の目から見れば異様だった。セキュリティードアの前に警備員が詰め、病室の隣には貴之が一緒にいる事から警察官が詰めていると判断出来る。 周も泊り込み、看護師たちの態度も緊迫した感じがした。

 それとなく彼らに武の事を訊いても、首を振って話してはくれない。

「兄さん…」

「直也、どうした?どこか痛むのか?」

「六条さまはどこ?声が聞こえた」

「夕麿さまはいらっしゃらないよ」

 奥の病室へ向かう時、彼はこちらを見向きもしなかった。あれが義勝が行っていた弟なのだとしたら…扱いの差に怒りが湧いて来る。

「僕は夕麿さまの代わり…だからどんな事も我慢する」

「え?」

 弟が脈絡もなく口にした内容に真也は愕然となった。弟が夕麿の身代わり?本当は競売にかけられて売られるのは、夕麿の筈だったとしたら?二人の立場は入れ替わっていたかもしれない?そんな思いが真也の心を駆け巡った。

 たとえ夕麿が同じ様な目に遭ったとしても、直也を売ったのは両親なのだ。夕麿が売られていたとしても、それは真也・直也兄弟の両親が破産したのとは別の話だ。その事実が変わる事はない。夕麿が売られようと売られまいと、あの事件以後の直也の境遇が変わる理由はどこにもなかった。 

 だが今の真也の心を満たすのは、歪んだ嫉妬から来る怒りだった。同じ事件の被害者でありながら…と、夕麿の見た目だけでその境遇を判断してしまっていた。真也は失念していたが、この病室は常にモニターで観察され記録されている。交わされる会話も当然収録されているのだ。その事についての承諾書にサインもしていたのに、夕麿への憎しみを募らせる真也の心にはその事は欠片も残ってはいなかった。 

 御園生の養子になっていたのは、直也だった筈………あり得ない結果に辿り着いてしまった真也の、憎悪に満ちた顔だけが記録されていた。 


「困った事になったかもしれません」 

 帰宅して開口一番、そんな事を言う清方をソファに座った雫が見上げた。 

「どうしたんだ?」 

 守秘義務を破って口にするのは、並々ならぬ事態になったのだとはわかる。 

「本庄 直也が例の、自分は夕麿さまの身代わりだったという話を、兄に話してしまったのです。恐らく彼はそれを信じたと感じられます。

 雫、夕麿さまの警護を強化してください。暴力に訴えるとは思えはしませんが、念の為に御願いします」

「まだあの事件が尾を引くのか…」

 直也に夕麿の身代わりの話を吹き込んだのは、錦小路 守貞だった。競売にかけるまでの期間、直也を預かって自らの欲望のままに慰み者にしたのだ。その後、競売にかけられて最初の所有者の手へ渡されたのが判明していた。確かに守貞は夕麿を欲しがっていたのは事実だ。多々良の所業があんな形で表面化しなければ、夕麿も直也と同じ道かもしくは、もっと悲惨な境遇に落とされていただろう。

「本庄 直也を売ったのは両親だぞ?夕麿さまには何の関係も罪もない」

「ええ。でも今の真也さんには何を言っても、私たちが夕麿さまを庇っているようにしか思えないのではないかと」

 真也の陥った心理は理解出来るし分析する事も出来る。時間を掛けて誤解を解いて行く事も可能だ。だが、それまでの間に彼が夕麿に対してどういう態度をとるのか、真也をそこまで知らないだけに判断が出来ないのだ。

 精神科医といっても万能ではない。

「わかった。このまま貴之と俺が交代で病院に詰めよう」

「御願いします」

 夕麿だって決して穏やかな日々をおくれているわけではない。

 問題は山積して、苦悩の中で自分の答えを求めている。

 外から見た目にはわからないだけなのだという当たり前にも思える事実を、実際に関わりがない人間に理解させるのは難しい。特に真也はその家格に見合った生活から、既に長く隔たった生き方をしている。両親への怒りがそのまま、夕麿への怒りにすり替えられてもおかしくない状態だった。 

「問題は…この事で夕麿さまが傷付かれないかという事です。そしてこの事によって武さまのお怒りを買えば…」 

「本庄 直也は病院から追われ、発作のデータ収集も治療も難しくなる…か」 

「ええ。私は彼を普通の生活に戻してあげたいのです」 

 もし自分が中等部時代にあの事件があったならば、間違いなく被害者に名前を連ねていた。夕麿より直也の姿が自分に近いように感じていたのだ。自分の時代にはたまたまなかっただけ。清方にはそのような想いもあった。本当に武や夕麿の為だけではなかった。清方には清方の理由があり、想いがあったのである。 

「焦るな、清方」 

 雫は彼を抱き寄せて耳に囁いた。 

「わかってはいるのですが…私もまだまだ修行が足りませんね」

 長い間、紫霄学院という閉鎖された場所で、似たような症例しか扱って来なかった。外に出ても最近まで、彼が治療していたのは武と夕麿、それに雅久の3人だけだった。

 御園生系の病院の嘱託医になり、警察庁特務室の顧問精神科医も引き受けた結果、味わうのは自分の未熟さばかり。向き合う現実に清方もまた悩んでいた。周囲にはそれを悟らせないようにしていただけなのだ。ただ雫だけは愛する人の状態を理解していた。

「お前は十分、頑張っているさ」

「ふふ」

「ん?」

「今日、周にも同じ事を言われました」

 周も清方が口にしない事を敏感に感じ取っていた。

「彼はお前を大切に想っているからな。見るところは見ているのだろう」

「雫…私が役に立たないと思ったら、遠慮なく顧問から外してください」

「それはないな、絶対に」

 雫は自信満々にそう答えた。

「理由を訊いても良いですか、雫」

「少なくともお前は武さまと夕麿さまには詳しい。特務室の本当の仕事は紫霞宮夫妻の警護だ。5月の時のような武さまがいなくなられた事態にも、お前の経験と知識がなかったらもっと時間が必要だった」

 それはまぎれもない事実で、その後の雫たちの警護のあり方を考えさせる理由になっていた。

「それに…思いっ切り、俺の私情もあるから」 

「は?あなたの私情?」 

 驚く清方に口付けをして、少し照れたように言った。 

「お前を側に置きたい。二度と離れ離れにならないように」 

 紫霄学院の中にいた清方には諦めの歳月だった。けれども雫はその間に、様々な足掻きを繰り返した。その結果、清方への愛だけが残ったのだ。 

「雫…」 

「やっと取り戻したんだ。俺は…あんな想いは二度とごめんだ。爺になってもお前といたい」 

「私もです。あなたのいない生活はもうしたくはありません。だから、警護は仕事ですが、死なないでくださいね?もう、私を残していなくならないで…」 

 再会してからはずっと、離れ離れだった時間を埋めるのに、お互いに懸命になっていた。味わった悲しみや不安を、互いに見ないようにしていた。 

 ロサンゼルスで一緒に暮らし始めた時、再び引き裂かれる夢を見て目を覚まし、傍らの温もりに安堵する日が何度もあった。帰国してこのマンションに移り、階下に両親も移って来た。余りにも幸せ過ぎて怖くなる時がある。雫の告白を聞いて彼も同じであったのだとわかった。 

「私を離さないでください。あなたの傍らにずっといさせてください」 

「ああ、どんな犠牲を払っても、お前を離さない。絶対にだ。約束する」 

 雫は自分の家族の事を何も語らない。それが心苦しくもあるが、でもこの手を離す事は出来ない。愛する人を失って生きたくないから。 

「愛しています、雫、あなただけを」 

「俺も、お前だけだ。愛してる、清方」 

 唇を重ね合い、互いを貪りながら思う。 

 今の自分たちには紫霞宮夫妻というとても強い味方がいる。二人を引き裂こうとする誰かがいれば、彼らが絶対に許さないだろう。 

 雫は武の父の従弟。 

 清方は夕麿の従兄。 

 その結び付きだけではないが彼らとの絆は強い。引き裂かれる事はない。そうわかっていても、離れ離れになった記憶は不安を呼ぶ。 

「あッ…雫…」 

 ネクタイを引き抜かれスーツの上着を脱がされ、開かれたシャツから覗く胸に雫の口付けが繰り返される。仰け反りながらも懸命に手を伸ばして、雫のトラウザーズの前をくつろげる。しっかりと欲望のカタチを示しているモノが嬉しい。 

「もう…こんなに…ああ…早くベッドへ…」 

 満たして欲しい。その熱情で心も身体も。愛しているから……それだけが清方の祈りにも似た切なる願いだった。 



 あの日から奥の病室に、夕麿はずっと付き添って泊まっている。 

 時々、見舞いが来る。上品で美しい年配女性二人と、そのお供らしい歳を重ねた女性。彼女たちの為に夕麿がセキュリティドアまで出迎える。 

「お義母さん、高子伯母さまお運びありがとうございます」 

 夕麿はそう言った。 

 どちらかが御園生夫人なのだろう。夕麿の妻はどうして来ないのだろう?入院したのは彼らの弟と呼ばれる人物。夕麿が御園生に婿入りしたのであれば妻は御園生の令嬢の筈。それとも養子後に外から妻を娶ったのか。 

 事情を知らない真也は、姿を現さない夕麿の妻を毎日待った。けれどそれらしき人間は姿を現さない。政略結婚で心の通わない夫婦なのだろうか。もしそうならば直也の事を考えてみて欲しい。 

 夕麿は毎朝、セキュリティードアの近くまで出て雅久に電話を掛ける。雅久は出社の車中で電話を受け、この時間には発作を起こしている武はまだ眠っている。 

「では雅久、何かありましたら連絡をください」 

 電話を終えた夕麿はいつもこの病室の前を通り過ぎる。 

 外出の為にナースステーションへ声をかけた時に、見た夕麿の行動は毎朝同じだった。だからある程度は動いて良くなった直也の拘束を解き、ドアのロックを解除して少し開けて待つ。電話を切った夕麿が歩いて来る。通り過ぎる瞬間を狙って、腕を掴んで室内に引きずり込んだ。次いで首に隠して持ち込んだ、カッターナイフを突き付けた。 

「騒がないでください」 

 夕麿は無言で頷いた。 

「直也、夕麿さまだよ?」 

 ベッドの上から直也が立ち上がった。 

「六条さま……」 

「ご褒美だよ、直也。ちゃんと私が捕まえているからね」 

「嬉しい……」 

 腕の中の夕麿が息を呑み、身体が震え出した。直也の手が夕麿の頬に添えられる。 

「六条さま…六条さま…」 

 譫言うわごとのように呟き、直也の唇が近付くと夕麿がもがいた。それを押し止めるように、カッターナイフの刃を突き付けた手に力を入れる。ピクリと夕麿が反応し、更に激しく震え始めた。直也はそれを気にも止めずに夕麿に口付け、そのままシャツのボタンを外した。 

 シミ一つない白く滑らかな胸が露わになる。艶めかしい美しさに、ストレートの筈の真也まで喉を鳴らす。弟の直也は顔立ちの美しさで言えば、絶世とも言える雅久と比べて遜色はない。だが…人から人へ性的対象として売られ、蹂躙じゅうりんされた身体は病み、白い肌は既に輝きを失っていた。この違いが真也を悲しませ更なる残酷さを煽る。 

 その胸に直也が口付ける。愛しげに掌で撫で回す。ガクリと夕麿の身体から力が抜け、もう少しで刃が本当に肌を傷付ける所だった。床に倒れた彼は口を開いて喉元を押さえている。ヒューヒューと喉がなり、様子がおかしい。 

 真也が慌てて立ち上がった瞬間、ドアが勢いよく破らた。雫と貴之が立っていた。 

「夕麿さま!?」 

 彼の様子を見た雫が駆け寄る。 

「義勝、夕麿さまが!」 

 貴之が叫んだ声に義勝が駆け込んで来た。夕麿を見てナースコールを押して、薬品の名前を叫んだ。 

「夕麿、落ち着け。もう大丈夫だ」 

 義勝が夕麿を抱き上げて声をかけた。看護師が注射器を手に駆け込んで来た。それを受け取り雫が押さえていた直也を、看護師たちにベッドに拘束するように指示する。 

 貴之が持って来たシーツを夕麿に掛け、義勝が注射を打った。 

 ゆっくりと過呼吸が落ち着いていく。それでも恐怖に震える夕麿を、義勝はしっかりと抱き締めて背中を軽く叩いた。 

「もう大丈夫だ。本庄はちゃんと拘束した」 

 恐怖を吹き払うかのように夕麿は何度も頷く。過呼吸が治まったのを確認して、義勝は貴之の手を借りて夕麿を奥の病室へ運んで行った。 

 雫は貴之と交代する為に来て、夕麿の姿がないのに気付いたのだ。セキュリティドアの外の警備員は、夕麿が出てはいないと証言した。そうなると居場所は一ヶ所しか考えられなかった。 それでドアを貴之と蹴り破ったのだ。 

 真也はカッターナイフを手にしたまま、茫然として立っていた。 

「あなたは夕麿さまを殺すつもりですか」 

 雫の怒りの籠もった声が室内に低く響いた。 

「私は…ただ…直也の為に…」 

 雫は看護師たちに直也を任せて、真也の腕を掴んで待合室へと連れて行った。 

「夕麿さまは接触恐怖症の治療を受けられていたんだ。原因はあの事件や家庭的事情…そして、あの事件の犯人が出所後に夕麿さまに大怪我を負わせた事によるPTSD」 

 雫は蒼白になっている真也に言った。 

「夕麿さまは薬物投与の治療は終えられてはいるが、それでも未だにカウンセリングは受けられている。あなたには彼は何の苦労もなく幸せでいられるように見えるかもしれないが、それは他人の芝生が青く見えるだけだ」 

「でも…彼は結婚してます。直也は、弟は日常生活すらままならないのに!」 

「わかった。 夕麿さまのご伴侶に会わせてやろう。 

 ついて来い」 

 看護師に清方に連絡を入れるように言って、雫は真也を連れて奥へと足を向けた。

「成瀬だ、開けてくれ」

 ずっとこの部屋へ出入りする人間を見ていた。あの3人の年配女性以外は、看護師や医師も含めて男しか出入りしていない。

 いつ、ここに夕麿の妻が来たと言うのか?

 真也は雫の怒りに何も問い掛ける事は出来なかった。中に入ると一斉に視線が注がれる。真也は無言で彼らを見回した。

 やはり男しかいない。

 夕麿は付き添い用のベッドで眠っていた。患者側のベッドには頭部や顔を包帯で包まれた武が寝かされていた。

「義勝君、武さまのご様子は?」

「夕麿の様子を見てショックを受けたみたいで…幻覚の発作を起こさないか、要観察という状態です」

「清方はすぐ来ると思うから」

「ありがとうございます」

 義勝の言葉に間違いなく、このベッドで寝ているのが彼らの弟だとわかった。

「真也さん、この方が夕麿さまのご伴侶です」

「…え?」 

 言われた意味がわからず問い返した。焦れたように義勝が答えた。

「武は俺たちの弟だが、夕麿にとっては生涯を誓った相手だ。ついでに言うとな、武があんたがした事を耳にしたら、本庄は…あんたの弟はこの病院から叩き出されるぞ? 

 夕麿が箝口令かんこうれいを出したから、今回だけは目を瞑る」 

 義勝が呆れ果てたと言わんばかりに言った。 

「発作の時に起こってる事は弟の記憶には残らない。幸運だったと八百万神に感謝するんだな」 

「武さまは夕麿さまを傷付ける相手を絶対にお許しにはならない」 

「弟は御園生の後継者だ。実際に義父は武と夕麿に、社の経営を含めた実権を既に半分は委譲している。この病院もその一つだ」 

 真也は驚きの眼差しで横たわる武を見た。包帯で覆われている為、顔はよくわからない。小柄で華奢な身体が幼いイメージを与える。これが本当に皇国屈指の資産家、御園生の後継者? 

 そう感じた途端、夕麿の役目がわかった。真也はなる程…と勝手に得心した。夕麿はその為に御園生に買われたのだと。性的玩具としては売られなかったが、同性の伴侶となって財閥を継承する者を補う為の人員として六条家に売られたのだ。 

 それが歪んだ想いに曲げられた、真也の夕麿に対する思い込みだった。 



 事態を聞いた清方は頭を抱えた。まだ直也を精神科隔離病棟に戻すのは無理だ。武の症状は落ち着いた。夕麿の為にも退院させて自宅療養に変えた方が良い。カンファレンスの結果、次の日の午前中に武を退院させる事にした。と同時に真也のカウンセリングを行う事になった。その費用も直也の治療費に計上すると義勝が言う。清方はどちらでも良かったのだが、武が聞いたら必ず計上するように言う筈だからと押し切られた。 

「何でこんな事になったのでしょうね」 

 義勝にすれば夕麿に被害が及ぶのが我慢ならない。武が夕麿を懸命に守ろうとする気持ちを、最も理解しているのが義勝と貴之だった。今、発作を起こしている彼に代わって、判断をするのは自分の役目だと思っていた。 

「彼は弟が売られたのを知っても、何も出来なかった過去を悔い、自分を責め続けて来たのでしょう。だから恐らくは直也君の一番の望みを叶えたくなった、と考えるのが一番だと思います」 

「夕麿の意志はどうなるんです。あいつには本庄 直也は中等部時代の同級生で、同じ事件の被害者同士という関係以外はないんですよ?」 

「理解したくないのかもしれないですね」 

「理解してもらわないと困るんです。武がこの事を知ったら…」 

「いつかは耳にされるでしょう」 

 それまでにもっと状態を改善させてやりたい。 

「夕麿と真也さんを会わせるのはやめた方が良いでしょうね」 

「一概には言えないかもしれません」 

「どういう意味ですか?」 

「真也さんは私たちが故意に、夕麿さまを隠したと考えるかもしれません。武さまの御心に従ってね。それを彼は夕麿さまを武さまが、ご自分の持ち物扱いをしていると考えるかもしれません」 

 清方の言葉に義勝は考え込んだ。そして同じような考え方をしている人間がいるのに気付いた。 

「透麿と同じになると?」 

「夕麿さまが御園生に入られ武さまとご結婚された経過に、金銭の授受があったのは事実です。 実際に出されたのが夕麿さまだというのは、御園生側の関係者しか知らない事でもあります」 

「夕麿は自分の意志で御園生に入って武と結婚したのに……」 

「武さまに暴力を働いた立見 美聖たちみびせいも同じだったと言えます。武さまと夕麿さまのご愛情は私たちにはわかりやすく見えますが、彼らには夕麿さまのお心遣いに見えるのでしょう」 

 まずは今後の真也への対応について、夕麿自身と話し合うべきだと清方は考えていた。 



 真也は自分の貯金を下ろして、武について興信所を使って調べ上げる事にした。美聖と同じ事を考えたのだ。真也が美聖と違ったのは、自分でも情報収集に動き始めた事だった。御園生ビル周辺の店で噂を聞き込み、美聖の勤めていた企業を割り出した。次いでその企業の社員がよく利用している飲食店、特に居酒屋やバーなどで近くに席を得て彼らの会話を聞いた。 

 特に女子社員たちは口さがない。そのうちの何人かが行きつけの店に通い、それとなく仲良くなった。直也程ではなくても真也もそれなりの美形で釣られた女性たちと親しくなった。 

 彼女たちは御園生との共同プロジェクトのレセプションに出席していたという。 

「大きな企業のそういうのって経験ないからよくわからないけど…凄いんだろうね?」 

「そりゃ、凄いわよ?」 

「ホテルの大きな会場を一日貸し切って、テーブルにはご馳走だらけ。お土産までもらったわ」 

「お土産?」 

「何種類か用意されててそこから選べるの。 

 由美、あんた、何もらったの?」 

「香水。 

 奈津、あんたは?」 

「ブランド物のスカーフ」 

 どれくらいの人数を集めたのかはわからないが、かなりの大盤振る舞いだったといえる。御園生とそれを実質的に動かしている武と夕麿の立場が窺えた。 

「凄いな。そんな大企業のトップってどんなの?」 

「CEOの有人氏は今回のプロジェクトには、関わっていないんだって」 

 アルコールが入ると人間は口が軽くなる。真也は笑顔で彼女たちに酒を注ぐ。 

「COOの二人がメインだって言ってたよね?」 

 由美と呼ばれた方が幾分、口が軽いように見えた。 

「それはどんな人?」 

「若いよ?」 

「そうそう。しかも滅茶苦茶にイケメン」 

「私は背の高い方…夕麿さんの方が好みだな」 

「あ、私も!でもね…」 

 二人は互いに視線を交わして溜息を吐いた。 

「何がでもね、なの?」 

「あのね、御園生のCOOの二人って、経済界では有名なゲイカップルなんだって」 

「特に夕麿さんはもの凄い女嫌いで通ってるって上司が言うの」 

「あら、私はもう一人が嫉妬深くて、夕麿さんに近付く女に容赦がないって訊いたわよ?」 

 噂というのは常に尾ひれが付くものである。特に武が嫉妬深いという話の出所は、夕麿に色仕掛けの女を近付けた事で怒りを買い、取引を中止された企業の仕返しとも言えた。噂好きの女性たちには事実はどうでも良かったのである。噂話として面白ければ。 

 だが真也は違った。彼には全てが真実に聞こえたのだった。 

「そう言えばさあ…立見さんがね…」 

 すっかり酔っ払った由美が口にした名前に、さすがにマズイと思ったのか口を開こうとした。真也は慌てて由美に酌をしながら言った。 

「誰、それ?君の彼氏?」 

「彼氏ィ?やめてよね、あんないけ好かない奴!」 

「嫌な奴なんだ?」 

「そ、貴族だとかって言っていっつも威張ってさあ…たいした仕事、出来なかったクセに、ねぇ?」 

「あ…うん。目立つのは大好きな人だったけど」 

 奈津は仕方なく話に加わる。そこで真也は彼女に酌をしながら言った。 

「そんな奴がいたら困ったんじゃないの、いろいろと」 

「困ったなんてもんじゃないのよ~もう少しで御園生とのプロジェクトがおじゃんになるとこだったの」 

「由美、やめなよ」 

 奈津が慌てて止める。真也は疑われてはマズいのでとっさに話題を変えた。 

 その日はそれで二人と別れた。 

 数日後、聞いていたメアドにメールをして、由美の方だけを呼び出した。お決まりのデートの後に酒に誘う。上手く誘導してこの前の話へ持っていく。 

「でもさあ、何でそんな事を訊くの?」 

「弟の知り合いが御園生にいるんだけど…この前、何か騒動があったらしいって聞いたんだ」 

「ああ、それで。それ、多分、立見さんの起こした奴だわ」 

「嫌な奴だって言ってたよね?」 

「うん。また聞きだからアレなんだけど、立見さんって夕麿さんの高校の先輩だったみたいなの」 

 夕麿の名前が出て来た。武が大怪我をした理由がわかるかもしれない、と真也は思った。 

「そうなんだ 何か上の人が大怪我したって聞いてるけど?」 

「うん、それそれ。夕麿さんの知り合いって事で、双方のパイプ役とかになったらしいけど、ほとんど入り浸りで遊んでいたみたいなのよね。その挙げ句にえっと…武って人に暴力振るったって」 

 武の大怪我と話が合った。 

「ふうん。でも彼は夕麿って人の先輩なんだろ?」 

「武さんは夕麿さんの1年後輩だから、立見さんの後輩って事じゃない?」 

「あ、そうなんだ」 

 武が紫霄の卒業生。夕麿との関わりがそこからだとわかる。 

「先輩が後輩を…って、何だか嫌な話だね」 

「何かさあ…立見さん、うちの方のプロジェクト参加者に、武さんの悪口を言って回ってたみたい」 

 昨日、真也に武の身元調査の結果が渡されていた。

 御園生 有人と結婚した、葛岡 小夜子の連れ子。しかも父親が不明な私生児だという。御園生では有人の隠し子の噂があるが真実は不明。ただ武本人の戸籍謄本も拓本も、住民票さえもが一切手に入らなかったと言うのだ。

 警察官の警護付きで異常に厳重だった彼の病室。それは立見の事件があったからかもしれない。

「その人は逮捕されたの?」

「うん、そう聞いてる」

「しかし、何でそんな事をしたんだろうね?」

「う~ん、これ、誰かに言わないでね?」

「言わないよ、絶対に」

「立見さんが事件起こす前に言ってたらしいの。夕麿さまに私生児なんかは相応しくないって」

 やはり自分と同じ考えだったのか。だがやり方がまずかった。暴力事件を起こしては意味がない。そんな事をすればどうなるのか。真也はこの前に夕麿を弟の病室に引き込んだのでわかっていた。

 名残惜しそうな由美と別れて、真也は自分のマンションへ戻った。

 夕麿を救い出すにはどうすれば良いのか。まずは説得してみるべきか。

 真也は武の調査と同時に夕麿の調査も依頼していた。次の日、それが届いた。興信所には上司の娘との縁談が考えられていて、どちらに話を持っていくかを決める為と言った。だからかなり細かく調べてくれた。そして、夕麿もまた戸籍や住民票が手には入らないと告げられた。

 奇妙な話だった。御園生家の人間全ての戸籍や住民票が、どんなにしても手に入らないのだと言う。

 何かある……それすらも真也には、夕麿を御園生に縛り付ける策略に思えた。部屋で一人、夕麿を救い出して弟と一緒に両親の所へ逃がす。こんな図式が出来上がっていた。

 そうだ。本庄家は六条家ほどではないが、室町時代以前から続く家柄だ。父親がわからない私生児より直也の方が夕麿には相応しい。きっと二人は幸せになる筈だ。

 真也の妄執は募る一方だった。

 昔は弟を守れなかった。だが今はもう自分は子供ではない。弟の幸せの為に出来る事がある。

 彼は本気でそう想い、正しいのだと信じきっていた。落とされた境遇と薬漬けの結果、心を病んでしまった直也と過ごすうちに真也もまた、彼の見詰めている狂気の世界に引きずり込まれてしまったのかもしれない。

 直也の望みこそが全てになっていた。
   
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