蓬莱皇国物語Ⅱ~飛翔

翡翠

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    揺れる心

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 病院の玄関前にいるといつもの車が止まった。 中から義勝と雅久が出て来ようとするのを、夕麿がとどめて二人で乗り込んだ。

〔お疲れさまです〕

 スピーカーから聞こえて来た声に武が驚いた。 車を運転していたのは雫だったのだ。

「な、成瀬さん、何で運転してるの!?」

〔たまにハンドルを握らないと感が鈍りますので〕

 そう運転席でそう答える彼に助手席の高辻が苦笑する。

「高辻先生まで…」

 驚きながらも二人の再会が、順調なのだとわかって武は心底嬉しかった。 成瀬 雫は退院後の療養を御園生邸で行っている。 未だに学院側の監視がある高辻が、御園生邸以外を住居に出来ないでいたからだ。本来ならば既に解放されているべきなのに…… そこに高辻の実母の実家の思惑が、悲喜交々ひきこもごもに様々にまとわりついているのがわかる。 高辻本人には実家への想いなど欠片も存在してはいないと言うのに…

「それで、どこへ連れて行ってくれるの?」

 雫ならば毛色の違う場所へ連れて行ってくれる。 そんな気がして武は期待に満ちた顔で尋ねた。

〔到着してからのお楽しみです。 学院では食べられないものを選択しました〕

「やった~」

 武が喜ぶと夕麿が笑い、他の者も笑う。

「なんだよ…」

「いえいえ、何でもありません」

 そう答えながら夕麿だけではなく他のみんなもまた笑う。

「何、みんなして…」

 拗ねる武を見て再び笑い声が漏れた。

「もう…何! あ、ガキだって言いたいんだろ!」

「武、そうではありません」

 夕麿に抱き寄せられて武は少し抵抗する。

「あなたの元気な姿が皆、嬉しいのです」

「え?」

 学院から帰宅してゆっくり義勝たちと話す間もなく、寝室に追いやられ朝すぐに検査入院の為に御園生邸を出た。

 そう義勝たちに『おかえり』も言っていなかったのだ。

「あ…義勝兄さん、雅久兄さん、おかえりなさい」

「ただいま、武」

「ただいま、武君」

 二人の笑顔が嬉しい。 やっと家族が揃った。

「あ…俺、まだ希に会ってない!」

「私もまだです」

 夕麿と二人で気付いて苦笑した。

「目許が武君そっくりで、鼻筋や口許はお義父さま似です」

 穏やかにおっとりと雅久が答えた。

「いいなぁ~俺も早く会いたい! 母さん、抱かせてくれるかな~?」

「それは大丈夫だ、お義母さんは喜んで抱かせてくれるぞ?」

「ええ、赤ちゃんって小さいのに…重いものなのですね?」

 今、車内にいる全員が我が子を抱く事は出来ない。 同性だからというだけではなく雫と高辻は恐らく、高辻の実家がそれを嫌うだろう。 武から見れば今更な気がする。 『高辻』という姓すら実家とは違うものだ。生まれてすぐにまだ子がいなかった久我家に預けられ、浅子夫人がなかなか身籠もらない故に、一時は彼を養子にする話もあった。 だがそれすらも高辻の実家は拒否したのだ。高辻の子でなくそれが雫の子であってもかの家は許さないだろう。

 高辻 清方。 彼の生い立ちは彼を学院から出す為に周から調査として聞いた。 武も夕麿も彼の実家の余りの身勝手さに不快感を抱いた程だ。 彼の身元引受が御園生であれば、武の関わりがはっきりとわかる為、流石に干渉は不可能だ。だから学院が絡んで来る。 けれどそれもそう遠くない日に変えられる筈だ。 有人が320席ある理事を、次々に押さえているからだ。 実際に有人本人だけではなく、先に夕麿、そして今、この車に乗る武以外が理事資格を手にしていた。 順次御園生や武の周囲で理事会を占有しようと、有人は夕麿たちの意向を受けて動いていた。

 学校経営は資金が必要だ。 紫霄のような特殊な学校は特に、生徒に制限がある為に常に資金難に陥っている。 戦前は寄付金も豊富だった。 だが今は思うように集まらず結局、余り素行の良くない生徒が金にものを言わせて入学し出している。 その余波を在校生であり生徒としての一番の権限を持つ、高等部生徒会長である武が被ってしまう状態になっているのだ。いつかは紫霄学院の在り方そのものを、大きく変革していかない限り学校として立ちいかない日が来る。武と夕麿は有人に御園生財閥で紫霄学院を乗っ取る話を持ち掛けた。 それくらいの気構えで行わないと、改革など出来ないと本気で感じていたからだ。 有人も学校経営に乗り気で、紫霄学院を手に入れたいと思っていた。

 武たちの世代では叶わなくても…いつかは学院を巡る悲劇を終わらせたいと、ここにいる全員が願っていたのだ。

 雫が彼らを連れて行ったのはとある中華レストランが、ランチタイムに行っている飲茶バイキングだった。 さほど高い値段ではないがとは言っても安いとも言えない。 だだこの店自体は二つ星ランキングで、夜間は高級料理を出していた。

「よくこんな店を知ってますね、雫?」

「部下や後輩にたまにはランチを奢るくらいしなきゃならないんでな。 高過ぎず安過ぎず…ちょうど良いんだ」

 そう答えた雫は社会人として大人としての顔をしていた。 人気があり常にいっぱいなので、前もって予約がされており、奥の窓際の席が確保されていた。

「雅久君、ここは様々な中国茶も揃っています。 気に入ったのがあれば、購入も可能ですよ?」

 雅久がロサンゼルスでも皆の為に、お茶を淹れている話を雫は高辻から聴いていた。

「ありがとうございます」

 雫のこういう細やかな気遣いが好きだ…と高辻は思う。

「ん? 清方、俺の顔に何か付いてるか? ああ、見とれてたのか…痛ッ!」

 雫の言葉が図星だった高辻は、照れ隠しに彼の脚を蹴飛ばした。驚いた武と夕麿が顔を見合わせた。 義勝と雅久はすっかり慣れてしまって知らない顔をする。

 兎に角、見ていて飽きないカップルなのは確かだ。

 その後、武は喜びの余りに食べられない分量を取ってしまい、夕麿たちに残りを食べてもらう羽目になった。 それでも学院の食堂には絶対に出ないラーメンやビーフン、肉まんや小龍包、ゴマ団子を喜んだ。

 雅久も雫が手配して置いた為、通常では手に入らない黄茶や白茶を得てご機嫌だった。

 夕麿は皆にわからないように雫に近付いた。

「成瀬さん、心より感謝いたします。 良い店にご案内くださいましてありがとうございます」

 と囁いた。

「お役に立てて幸いです」

 武が不安定な状態なのを恐らくは高辻から、聞いたのであろうが一時的にしても気が紛れたらしいのを素直に喜んでいた。

「食べ過ぎたあ~」

「いつもよりはたくさん食べられましたね、武」

「うん! 成瀬さん、ありがとう! 目茶苦茶美味しかった!」

「お口に合われて幸いでした」

 上機嫌の武を乗せて、車は御園生邸へと戻った。

「ただいま戻りました」

 夕麿の声が屋敷内に響く。 出迎えた文月が夕麿たちに恭しく告げた。

「久我さまと良岑さまがいらっしゃってます」

 その言葉に武の顔が一瞬険しくなった。 だがすぐににこやかな笑顔になる。

「貴之先輩? 嬉しいなあ…」

 気持ちを貴之の訪れを喜ぶ方へと切り替えた。 全員でリビングに入る。

「母さん、ただいま!」

「おかえりなさい、武、夕麿さん。 お食事は如何でしたの?」

「美味しかったよ?」

 小夜子は息子の笑みに笑みで返した。

 周と貴之が立ち上がって、武たちに頭を下げた。

「お邪魔いたしております」

「いらっしゃい、周さん。 おかえりなさい、貴之先輩」

 笑顔で挨拶を返して、武はソファに座った。 次いで夕麿が座る。 全員が座るのを待って、貴之が雫に歩み寄った。

「父、刑事局長良岑 芳之より、あなたへの辞令をお預かりして参りました。お受け取りください」

 本来ならば雫の上司が持参するものを、貴之が持って来たのは異例な事だった。

「ありがとうございます」

 受け取った雫はすぐさまに内容を確認する。 すると彼は徐に立ち上がって武の足許に跪いた。

「成瀬さん?」

「紫霞宮武王さま。 私、皇宮警察所属成瀬 雫警視は本日只今より、あなたさま専属の警護を拝命いたしました」

「俺の…専属…」

 奇しくもそれは夕麿が成瀬に相談しようとしていた事だった。

「えっと…俺が卒業するまでずっと?」

「いいえ、私もUCLAへの留学願いを出しておりましたので…ロサンゼルスにもご一緒いたします」

「え!? あ…そうか…高辻先生がいるもんね」

 その言葉に雫が少し赤くなった。

「元より…犯罪心理学を学びたいと思っていましたので」

「じゃあ3年生に編入するの?」

「それではあなたさまの護衛にはなりません」

 帝大を首席で卒業した彼が、CLAに一から入学すると言う。

「…ありがとうございます」

 高辻と一緒にいる為であっても、それはやはり嬉しい事だった。

 その時、一人の少女がリビングに駆け込んで来た。

「お兄さま、まだなの!」

由衣子ゆいこ、紫霞宮さまの前ではしたない!」

 周が立ち上がって少女を叱責した。 全員の視線が二人に集中する。 少女は小学校の中学年くらいだろうか。 ネイビーブルーのワンピースに、白い上着姿の愛らしい少女。 周を兄と呼んでいるという事は、彼女が周の異母妹らしい。

「宮さま?」

 小首を傾げて彼女は武と夕麿を見た。 そして満面の笑みを浮かべて夕麿に走り寄った。

「こんにちは、素敵なお兄さま。 私、久我 由衣子です。 あの…私が18歳になったら、お嫁さんにしてください」

「!?」

 夕麿が絶句し次の瞬間、隣の武を見た。 今し方までご機嫌だった武の表情が一変した。

「夕麿はダメだ」

 相手が小学生だというのに、武は怒りを露わに言った。

「宮さまには訊いてません」

 彼女の発した言葉に周が蒼白になる。

「夕麿は俺の妃だ」

「変な宮さま。 お妃さまって女の方がなるものよ? どうして男の方がなれるの?」

 彼女にすれば純粋な疑問だろう。 だが今の武には彼女が周の異母妹だという事実が、神経をささくれ立たせる。

「由衣子さん…本当に私は、武さまの妃なのです。 ですからあなたをお嫁さんにはいただけません」

 横から割って入った夕麿の声が震えていた。

「由衣子、武さまにお詫びしなさい。 お前はなんという失礼な事を…」

 周も狼狽していた。 少女は不満そうに周を睨んでから渋々武に謝った。 そんな事では武の機嫌がなおる筈がない。 今にも立ち上がりそうな武の前に、周は進み出て手をついて床に額を押し付けるようにして言った。

「躾の行き届かぬ妹で申し訳ございません。 どうかお許しくださいませ」

 それはプライドの高い周には有り得ないような姿だった。 長年の付き合いである夕麿と高辻すらこの様子に驚いた。

「我が君、どうか彼にお許しを…」

 夕麿も頭を下げて請う。

「……わかった。 不問に付する」

「ありがとうございます」

 周は今一度、頭を床に押し付けた。 今ここで武の怒りを買い遠ざけられたら…周が懸命に申請した事が無効になる。 それだけは出来なかった。 雫が武付きになった今、周の役目は終わったに久しい。これが最後。 そう心に決めて御園生邸を訪れたのだ。 由衣子は無理やり母親に押し付けられただけ。 大人しくしている約束だった。 それがよりによって夕麿の嫁になりたい…などと周は心臓が止まりそうになったくらいだ。

「それで…周さん、今日はどのような御用でいらっしゃったのですか」

 夕麿は彼をソファに座るように促しながら来訪の理由を問い掛けた。

「義勝君と雅久君から武さまがご旅行に、お出向きになられないかと以前に相談をいただきました」

「旅行?」

 義勝と雅久が周とメールのやり取りをするようになったのは、武が肺炎で入院してからだった。周にすれば夕麿には言うわけにいかない事柄などを二人に話したり、武の様子を話して夕麿を彼ら側からサポートする要請をしたりしていた。その中でまず雅久が春の自分たちの旅行で、武を旅行に連れて行きたいと感じた話を持ち出した。義勝がそれを継ぐ形で夕麿も旅行の経験がない話をした。

 紫霄学院には宿泊学習や修学旅行はない。中等部以降は遠足も運動会もない。唯一の大掛かりな行事が2週間に及ぶ学祭なのだ。当然、学院に閉じ込められて来た夕麿には旅行の経験は皆無だ。義勝とて雅久との新婚旅行が初めての旅行だった。渡米して二人は夕麿が留守の夏休みに、オプショナルツアーを利用してグランドキャニオンやヨセミテ国立公園へと観光に出掛けた。そうやって出掛ければ出掛ける程、武と夕麿を旅行に行かせたいと思ってしまったのだ。

「義勝兄さん、雅久兄さん、ありがとう…」

 武は半ば茫然として感謝を口にした。

「それで周、許可は出たのですか?」

 高辻の言葉に周は少し得意気な笑みを浮かべて答えた。

「抜かりはありませんよ、清方さん? 上が絶対に反対出来ない場所がありますから」

「絶対反対出来ない場所?」

 夕麿が首を捻る。

「あ…そうか、西の皇神宮か!」

 真っ先に気付いたのは雫だった。 彼は皇宮警護官としてその見目の良さから何度か、皇家の行幸に同行していた。

「なる程、あそこならば武は皇家の一員として、参拝を望んでもおかしくはありませんね」

「最初の2日程で参拝を済ませて、然るべき場所に移動すればゆっくり出来る。 観光は神宮と月見ヶ浦の周辺しか出来ないが、その後は温泉宿でゆっくりしていただける」

「温泉宿?」

「それは有人さんが手配してくださったわ」

 今まで一切口を出さなかった小夜子が初めて口を開いた。

「神宮から少し北側へ移動した山に、御園生が所有している保養所があるの。 この季節は利用しないからあなた方だけの貸切よ?それなりに広さがあるし部屋付きの露天風呂もあるから十分でしょう?」

 小夜子の言葉に合わせて、文月が保養所のパンフレットを配る。

「近くには綺麗な滝があって、この季節は凍り付いた状態を見れるそうよ。 でも保養所の周囲は温泉の所為で地熱が高くて冬でも温暖なのですって」

 武はパンフレットを開いて目を輝かせていた。

「日程は明日から一週間」

 周の言葉に全員が驚いた。

「明日!?」

「一週間!?」

「そういうわけですので皆さま、本日から神宮参内が終了するまでの数日、身を慎んでいただきます」

 神宮に参拝するのだから当然、禁欲するのがルールである。 全員が今度は絶句してしまった。

「それで雫が今日付の辞令なわけですね」

 高辻が納得する。

「参加をお願いするのはここにいる全員と後数名に打診しています」

「わかりました」

 パンフレットに夢中な武に代わって夕麿が答えた。

「武さま」

 周に改めて声を掛けられ武が顔を上げた。

「この旅行を以て僕は学業に専念させていただく事になりました。 実習が増えて参りましたので、思うようにお側に上がるのが難しくなりました。成瀬さんの辞令は私の希望によるものです。 本来は大夫を辞するつもりでおりましたが、こちらは今上のお許しをいただけませんでした。従って休日などにはお側に上がらせていたたく事も…」

 周は静かに頭を下げた。

「私事で勝手を申し上げ、お詫びのしようがございません」

「ううん、そんな事ないよ。 周さんには感謝してる。 こちらこそごめんなさい。 いろんな事で困らせたり心配させたりして」

「武さま…」

「周さん、私からもお礼を申します。 ありがとうごさいました」

 実際、周はよく武に尽くした。 肺炎から始まって夕麿が狙われた事件、学祭… 発熱の頻度が上がり孤独感で不安定になった武の為に、懸命に奔走したのも周だった。

 周には何の咎もない。 誰かを想う心はコントロールなど出来ない。 それは武にもわかっている。周がこの半年近くで武の為に、してくれた事は余りにもたくさんあった。 夕麿と周に学業に戻ってもらう相談をしていたが周側から言い出された。 罪悪感が武の胸が痛む。

「では僕はこれで失礼させていただきます。 明日は早朝にお迎えに参りますので、本日は早めにお休みくださいますように」

「わかりました、本日はありがとうごさいました」

 夕麿の言葉に周は穏やかな微笑みで返した。

「由衣子、帰るよ? 皆さまにご挨拶しなさい」

「ええ~つまんない」

「由衣子、いい加減にしろ。武さま方はお疲れだ。それにご一家の団欒の邪魔をしてはいけない」

「つまんない!」

 下級生を手懐けるのが得意の周も、女の子でしかも自分の妹には叶わないらしい。

「周さん、よろしければもう少し、ゆっくりなされば?」

 見かねた小夜子が言った。

「ご迷惑では…」

「そんな事はありませんわ、ね、武?」

 いきなり話を振られ、武が戸惑った。

「貴之さんもゆっくりして行ってくださいね?」

「いえ…約束があるので…」

「貴之、ここに呼べば良いのではありませんか?明日早朝に出発するのですから、荷物は持って来てもらえば良いでしょう?」

 当然のように言う夕麿に貴之は絶句した。それを見て他の者も沈黙する。ただ夕麿だけが楽しげな笑みを浮かべていた。

「あのさ…夕麿、何それ?誰の事?」

 武が夕麿を見上げて言う。

「すぐにわかりますよ。貴之、私から連絡をしましょうか?」

「いえ…自分で…します…」

 貴之は立ち上がって、リビングから廊下に出て行った。

「夕麿、ちょっと意地悪だ」

「彼にはあれくらいしないと、すぐに尻込みしますから」

 武の言葉なぞどこ吹く風だ。

「何を企んだんだ、夕麿?」

 義勝が苦笑混じりに言う。

「人聞きの悪い事を言わないでいただけませんか、義勝?私はただ…ふふ、これ以上は言わない事にします」

「何だ?随分と思わせぶりだな?」

 だが義勝の言葉に夕麿は笑って返しただけだった。武は夕麿が帰国してすぐの出来事を思い出した。夕麿にそっと耳打ちする。

「これって…御厨の相談と関係してる?」

 その言葉に夕麿は婉然と微笑んだ。

「やっぱり…ちょっと意外」

「私も意外でしたよ?」

 二人でクスクスと笑い合う。視線を感じて見ると由衣子がじっと二人の様子を見つめていた。武の視線を感じたのか、彼女はプイっと横を向く。

 ムカつく。

 武は咄嗟にそう思った。彼女の非礼を咎める筈の周は、電話をかける為に席を外していた。武は視線の隅に由衣子の姿を捉えながら夕麿に凭れかかった。

「武?疲れたのですか?」

「少し…」

「部屋へ行って休みますか?」

 心配した夕麿が武を抱き締めた。

「ん…大丈夫、そこまでじゃない」

「本当に? 皆がいるからと言って、気を遣っていませんか?」

 夕麿の余りの心配の仕方に、武は困って視線を泳がせた。 その結果、雅久としっかり目が合ってしまった。雅久はクスッと笑って立ち上がった。

「お義母さま、お茶にいたしませんか?」

「そうねぇ~」

 小夜子も武の行動の意味が分かっているらしく、振り返って笑ってから雅久とキッチンへと姿を消した。

 そこへ貴之が戻って来た。

「…すぐに来るそうです…」

 決まりが悪そうに呟く。

 武を抱き締めたまま、夕麿が笑っているのがわかる。 武は小さく溜息を吐いた。

「武、これ…土産だ」

「あ、ありがとう、義勝兄さん」

 武は渡された包みを喜んで解く。 お土産なんてほとんどもらった事がない。 中から出て来たのは調味料入れ。 白い器と黒い器が手を差し出して、抱き合っている形をしていた。

「えっと…」

 どう礼を言うべきか、武は戸惑ってしまった。

「だから言ったでしょう、義勝。 それではお土産にはならないと」

 トレイにお茶を淹れて来た雅久の言葉、義勝が困った顔をした。

「すまん…土産というのが良くわからん」

「ううん…夕麿のよりは可愛いかな?」

「可愛くなくて悪かったですね…」

 拗ねたように言う夕麿に、武がクスクス笑い出した。

「夕麿は何を買って来たんだ、武?」

「UCLAのロゴ入りグッズ」

「はあ?俺も偉そうな事は言えんが、来年留学する武にそれはないだろう?」

「人の事は言えないでしょう?武君、私からはこれを」

「あ、ありがとう、雅久兄さん」

 雅久の土産はアンティークなデザインの置き時計だった。手のひらサイズだが、凝ったデザインが美しい。

「凄~い、ありがとう!」

「気に入っていただけましたか?」

「うん!」

 瞳を輝かせている武を見て、夕麿と義勝はがっくりと肩を落とした。

「あ、でも、お土産って余りもらった事ないから、もらえるだけでも嬉しいよ、俺?」

 武が笑顔で言うと夕麿が武の肩に頬をあてて抱き締めた。義勝も照れたような笑みを浮かべた。今度は貴之が武に包みを差し出した。

「あ、ありがとうございます、貴之先輩」

 満面の笑みで受け取った武は、義勝の土産と同じように包装を解いた。中から出て来たのは数冊の本だった。

「皇国では手に入らない物ですので」

「うん!ありがとう、嬉しい」

「どうやら貴之の勝ちですね」

 夕麿が力なく言った。

「夕麿、お土産に勝ち負けはないよ?俺はみんなが俺の為に選んでくれたんだから大切にする」

「武…」

 武は計算や機嫌取りでこういう事は口にしない。本当にそう思っているからこそ、素直な気持ちでそう言う。嬉しさの余り夕麿が武に口付けようとすると周が咳払いして止めた。

「身を慎めと言った筈だが?」

「あ…すみません、つい…」

 赤くなった夕麿に皆が苦笑した。多かれ少なかれうっかり……は全員が有り得そうなのだ。

「あ、そうだ、武」

「ん?」

 義勝が少し照れたような顔して武に声を掛けた。

「お前たちがしてるミサンガなんだが…」

「兄さんたちも作る?手伝うよ?貴之先輩も高辻先生と成瀬さんもいるよね?」

 言われた3人が頷く。よく見ると貴之がほんのりと赤くなっていた。

「じゃあ、旅行から帰って来たら」

 武の言葉に全員が頷いた。

「失礼いたします。御厨 敦紀さまがいらっしゃいました」

「御厨!?」

 武と夕麿、そして貴之以外が素っ頓狂な声を上げた。彼らに一斉に視線を向けられた貴之は困って視線を泳がせた。

「お邪魔いたし…ま…す?」

 全員に注目されているのを感じて、敦紀の言葉の終わりが疑問形になってしまった。次いで貴之に視線が移動し口許に笑みが浮かぶ。 照れ隠しのように不機嫌な顔をして貴之がそっぽを向いた。

「あの…えっと…」

 何となく状況はわかったが、どうして良いやら敦紀にもわからない。 ところがその空気をものともしない人物が一人いた。由衣子である。 彼女は敦紀に近付いてマジマジとその顔を見上げた。

「私…」

「由衣子、彼にもちゃんと相手がいる。 言っても無駄だからやめなさい」

 周がうんざりしたように言う。

「ええ~」

 思いっ切り不満の声を上げた異母妹に、周は疲れた顔で念を押した。

「こちらにいらっしゃる皆さんには、決まった相手がおられる。 由衣子、お前の出番はないからやめなさい」

 周にすればこれ以上引っ掻き回されるのはうんざりだった。

「じゃあ、お兄さまは? お兄さまにもお相手がいらっしゃるの?」

 子供というものは恐ろしい。 妙な所で人間が一番訊かれたくない場所を突いて来る。

「僕は…僕には今のところ相手はいない」

「ええ~!? お兄さまってモテないの?」

「はあ!?」

 素っ頓狂な声を上げて絶句した周を見て、全員が一斉に吹き出した。

「そ、そんなわけがないだろう? たまたま今はいないだけだ!」

 狼狽する兄に由衣子はそっと抱き付いて言った。

「恥ずかしいからって、誤魔化さなくても良いのよ、お兄さま。 良いわ。 由衣子がお嫁さんを連れて来て上げる」

 彼女の言葉に全員が悶絶する。 笑い過ぎて涙を浮かべた武がツッコミをいれた。

「周さん、お嫁に行くんじゃなかったっけ?」

「武さま、それはおやめくださいと、お願いしましたでしょう!?」

 学祭の時のからかいを蒸し返されて真っ赤になった周が叫ぶ。 意味がわからない夕麿たちに敦紀が説明した。 夕麿たちが再び笑い転げる。

 すると雫が言う。

「どうです、周さま。 清方の所へ嫁に来たら、そうしたら夜毎3P…痛い! 清方、抓らなくても良いだろう!?」

「子供がいる場所で、何て言う不埒な発言をするんです、あなたは!? 仮にも警察官でしょう!?」

「妬かなくても大丈夫だ。 俺はお前の嫁には手を出さ…痛ぇ!」

「これ以上言うと、ただではすませませんからね、雫?」

「う~ん残念。 気が付いて料理が出来て…お買い得だと思うんだけど」

「誰がお買い得ですか、成瀬さん!?」

 叫ぶ周に全員の笑い声が止まない。 下級生を何人も侍らせていた昔の面影は、既に今の周には存在しない。 武はその理由を知っているだけに、わき上がる嫉妬に胸が妬ける。

「お兄さまって…本当は変な人なの?」

「あのな…由衣子…」

「変な人だからモテないのね?」

「……」

 周はどうやら妹に答える気力を失った様子だった。 流石に気の毒に思った夕麿が口を開いた。

「由衣子さん、周さんは変な人ではありませんよ? お兄さまの事をそんな風に言ってはいけません。 周さんはとても優しい方です。 ですから学院では、たくさんの者が周を慕っています。 モテないわけでもありません。

 ねぇ、周さん?」

 夕麿に庇われて周は赤面した。 想う相手に庇われて、嬉しくない者がどこにいるだろう? だがそれは武の心にま、黒い感情を追加してしまった。浮かべた笑みの仮面の裏側で、嫉妬と失う事への恐怖に揺れる武の心は、新たなる血の涙を流していた。 だがそれにまだ誰も気が付かないでいた。一人の少女が投げた石はそこにいる者たちが、思っているよりも遥かに大きく鋭かったという事実に。



 武の心は晴れぬまま初めて来る西の島の地に到着した。 参拝はマイクロバスに乗っての移動。 神宮の特殊な参拝作法を前日に雫に教えられた武は玉串を手に必死だった。

 夕方、宿泊地である月見ヶ浦に到着する。 皇家の為に建設された戦前からの古い老舗旅館が宿泊先だった。 長時間の移動は武の身体にはかなりの負担で、せっかく並べられた豪華な夕食もほとんど喉を通らなかった。

 入浴する体力もなく夕麿が湯をもらって、全身を拭ってくれたがそれすらも怠い身体には大変だった。 早々に床を延べてもらい武は横になった。

「ごめんなさい」

 皆を夜の散策に出させて夕麿が武に付き添っていた。

「こんなに長時間を移動したのは初めてですから仕方がありませんね」

 笑顔でそう言われても武は心苦しい。 こんな状態で10時間も飛行機に乗って、アメリカまで行けるのだろうか。 そんな不安がわいて来た。

「俺…こんなんで、アメリカまで行けるのかな?」

「大丈夫です。 今日はずっと興奮していたから疲れたのですよ?」

「だって…」

「責めているのではありません。 楽しかったのでしょう?」

「うん」

 見るもの触れるもの、初めてのものばかりだった。 神宮の門前横町では出来立ての餅を武は喜んで食べた。 知らないものばかりで、雫にいろいろと訊いて回った。

「失礼いたします」

 外から掛かった声に夕麿が答えた。 宿の女将が盆に食べ物を乗せて入って来た。

「久我さまに申し付かって、お雑炊をお持ちいたしました」

「ご苦労さまです」

 女将は盆を差し出すと頭を下げて退室した。

「雑炊ならば食べられそうですか?」

「少しだけなら…多分」

 部屋に備え付けの座椅子を移動させて、身を起こした武の背にあてがった。 添えられた器に少量取り分け、ある程度冷ましてからレンゲで掬って武の口へ運んだ。

 口を開いて少し含む。

「あ、美味しい…」

 伊勢海老の頭で出汁を取りその身を解して入れてある。

「夕麿はちゃんと食べた?」

「もちろん。 あなたの分まで義勝や貴之と一緒にいただきましたよ?」

「そっか…良かった」

 自分を心配する余り夕麿まで、食事をしていなかったら嫌だと思っていた。 ちゃんと食べたと聞いてホッとする。

「神宮の所で食べたお餅、美味しかったね…」

「来れなかった方の分も含めて、家に発送してもらう手続きをしましたから、帰っても食べられますよ?」

「本当? ありがとう、夕麿」

「まだ食べられますか?」

「もう少しだけ」

 身体に力が入らないが熱っぽい感じはない。 明日は朝食後に月見神社に詣でる。 その後、宿を出発して保養所へ行くと言う。 急遽予定が変更になったと言われて、は驚いた。

 本当は武の身体に負担をかけない日程だったらしい。 雫が警護の問題と言ったので、それ以上は訊くのを止めた。

 雑炊は半分も喉を通らなかった。

「夕麿」

「はい」

「眠るまで側にいて」

「ずっとここにいますから、ゆっくり眠ってください」

「うん…おやすみなさい…」

 武はすぐに眠り込んでしまった。 そのまま朝までぐっすりと眠った武は、その所為かすっかり元気になっていた。

 朝食の為に広間に行くと周が来て体温や脈拍を調べた。

「すっかりおよろしいようですね」

「うん。 きっと周さんが注文してくれた雑炊のおかげだと思う」

「お役に立てて幸いです」

 嫉妬心はある。 だが同時に懸命に尽くしてくれる彼を、無碍には出来ないと言う気持ちもあった。 武が席に着いて食事を始めると全員が箸を手にした。

「武さま、残念でしたね。 夫婦岩から昇る満月は、美しかったですよ?」

「そうなの? 残念!」

「一応、写真と映像は映した。 まあ…実物の方が綺麗だが」

「ううん、それでも嬉しい」

 皆が月の出を見たのならば武は満足だった。 月見ヶ浦の夫婦岩は、夏は日が間から昇るを見られる。 冬は満月が昇るのだ。 海に昇る満月は海面に続く月光の道が、常世の国への入口と信じられていた。

「武、またいつか来ましょう?」

「うん、その時には朝日を見れると良いな」

「そうですね」

 自由に旅行出来る日はいつか来るのだろうか。 そう思いながらもそのいつかを信じたかった。


 朝食後、荷物をまとめてから月見神社へと向かう。 面白いのはこの神社の御使いは蛙だという事である。

「蛙って…海にいたっけ? 溶けないのかな、潮水で?」

「武さま、蛞蝓なめくじじゃありませんから、溶けません」

 武の疑問に敦紀が慌てて答える。

「そうだっけ?」

 と呑気にまた首を捻る。 神社に参拝して武は沖の夫婦岩を眺めた。

「あ、、あれが夫婦岩か…」

「武さま、夫婦岩はこの神社の鳥居でもあります」

「鳥居? 通れないのに?」

「夫婦岩の鳥居は神さまだけが、お通りになられるのです」

「そうなんだ」

 知らない事だらけで雫のガイドに懸命に耳を傾ける。

「義勝、夫婦守り買いませんか?」

 紅白のお守りがセットになって、夫婦円満のお守りとして売られている。 カップルがそれぞれ買い求める。 夕麿も買い求めたらしい。

 段々気温が上がって来ると観光客が増え始めた。 雫が宿へ引き上げるように合図した。 この時期はオフシーズンではあるがそれでも観光客はいる。

 警戒すべき人物が伊勢にいる。

 雫は神経を尖らせていた。

 宿をチェックアウトして、武たちはマイクロバスに乗った。

「1時間半前後で保養所へ到着する予定です」

 周の言葉に頷いて武は辺りを見回した。 昨日は景色を見る余裕もなかった。

「武、はいこれ」

 振り向くと夕麿が先程の夫婦守りを差し出していた。

「え~俺が赤い方なの?」

「何か不満でも?」

「夕麿がお妃なんだから、赤い方だろう?」

「最初に私が婿入りしたのですよ?」

「ヤダ、絶対に白が良い!」

 他のカップルは受攻が固定している。 故に普通に紅白を分けても揉めたりはしない。武と夕麿。 時折逆転するカップルはこれだから面倒くさい…と義勝が天を仰いで呟いた。 それを聞いて雅久が吹き出した。

「武さま、夕麿さま。 今、くじを作りますから」

「くじ? 御厨、それはないんじゃないの?」

「そんな事ないぞ? くじ引きは天に判断を任せるって事だ。 神さまが決めるんだから納得出来るだろう?」

 義勝に言われて武は渋々頷いた。

「はい、出来ました」

「順番はコインで…武、どっちだ?」

「んと…裏!」

 元気良く答えた武に、コインを見せた。

「あ、表だ…」

「夕麿から引け」

「わかりました」

 武が見つめる中、夕麿が先にくじを選んだ。 残った方を武が手にする。 二人同時に開く。

「え~何で~」

 武が赤を引いた。 悔しがる武に夕麿が笑みを浮かべて赤いお守りを差し出した。 それを渋々受け取る。

 街中をマイクロバスは抜けて行く。

「うーむ」

「どうかしましたか、雫?」

「いや、流石に欲求不満かな?」

「いきなり何です?」

「いや…今、節電グッズって書かれた看板があったんだが…」

「節電グッズ? それがどうかしたのですか?」

「…貧乳グッズと呼んでしま…痛い!」

 雫は高辻に力いっぱい殴られた頭を押さえた。

「貧乳で悪かったですね!? そんな読み間違いをするなら、どこかで可愛い女の子でもナンパして来なさい!」

「良いのか?」

「明日は永遠に来なくても構わないならば」

「清方~」

「ああもう、鬱陶しい! 離れなさい、雫! みっともない!」

 雫と高辻の漫才のような言い合いに全員が笑い転げた。

「周さん、高辻先生って…あんなキャラだっけ?」

 恐る恐る後部座席の周に尋ねてみた。

「ああ、今までは猫を被っていましたから…あれが素です」

「はあ…」

 平然と答えた周に武は苦笑で返した。

「武」

「ん?」

「あなたは生徒会長としての在り方を、いろいろ考えていましたが、成瀬さんを見てわかるでしょう?」

「何が?」

「伝説の切れ者生徒会長と言っても所詮は人間、ま、16年も過ぎればただのエロオヤジです」

「夕麿さま? 今、何か私の事を仰いましたか?」

「別に? エロオヤジだなんて、言ってませんね」

「聞き捨てなりませんね、夕麿さま」

「おや? 違うとでも?」

「ああもう! 止めろよ、二人とも!」

 いつかのような皮肉の応酬に、武が耐えかねてストップをかける。

「まあ…伝説だの功績などというものは、周囲や後の人間が勝手に言うだけです」

「う~ん…前ほどは気にしなくはなったけど…御厨が困るような状態にはならないようにしておきたいとは思う」

「大丈夫ですよ、武。 あなたは十分に有能な生徒会長だと思います。

 そうではありませんか、御厨君?」

 突然話を振られた敦紀が飛び上がった。

「あ、はい。 私は武さまを尊敬してます!」

「ね?」

 武は敦紀の言葉に真っ赤になって俯いた。 体調を崩して迷惑ばかりかけている。 それなのにそんな言葉をもらう。 気恥ずかしくて仕方がなかった。

 そうこうしているうちに、マイクロバスは山道を上がって行く。 やがて『御園生ホールディングス保養所』と案内板がありその向こうに門が見えた。門が音を立てて開き、マイクロバスがゆっくりと通り過ぎた。 その先の道はすぐに終わり目の前に豪奢な建物があった。 玄関口では従業員が全員、武たちを出迎えた。

「流石は元は公社の持ち物だっただけあるな」

「保養所としてなら有効かもしれないが、観光施設としては立地条件が滅茶苦茶だな」

 義勝と貴之が呆れ顔で言う。

 現在は政治的な事は国選の政治家が行い、宮内省や警察省の一部と軍部は皇帝及び貴族の管轄にと分けられている。本来は堅実質素を掲げている皇家の方針は、そのまま皇国人民政府にも受け継がれた筈であった。しかし国民から集めた金を湯水の如く使い作られた豪奢で無用の施設を、多数建設した上での公社破綻などの事態を招き貴族たちは眉をひそめた。国民の中には戦前のように皇帝による政治を望む声も最近では上がっている程だ。

 貴族階級を捨てて政治家へと転身した者も多かったが、多数が庶民階級より選出された者が多い。貴族出身の政治家も庶民にたいしてはピントがズレたものがおり、庶民出身の政治家には国のためにというよりも自らの権力保持へ走る傾向が強かった。その中で湯水のように国民から預かった税金を浪費して、このような物経営のノウハウもないまま多数建設して破綻したのだった。その負債を解消する為に豪奢な施設が二束三文で売りに出され、御園生が多数買い取って手入れし御園生の全関連企業に従事する者が安価で利用出来る施設にした。 御園生にはこのような保養所が20ヶ所程あると言う。

 ここの施設は全室和室で少人数用の部屋には露天風呂がある。 ジムやカラオケ、バーカウンターもあり、そこにはピアノも設置されていた。 大浴場も露天風呂もサウナもある。 地下には温泉プール、野外にも夏に使用出来るプールがある。 マッサージルームやアロマテラピーと音楽を使ったヒーリングルーム。 大画面でDVDを楽しめるシアタールーム。 地熱を利用した温室もある。 全室に光通信が引かれている。

「流石ですね、こんな山中なのに携帯のアンテナがちゃんとあります」

 雅久が携帯を開いて言った。 透麿などは余りの豪華さに目を丸くしていた。

 すぐさま、それぞれが部屋に案内された。 武と夕麿が案内されたのは三間続きの角部屋で片側は露天風呂に続いている。 奥の部屋は周辺の景色を一望出来るようになっていた。

「御昼食の用意が整いましたらお知らせいたします。 一階の蓮華の間にお運びくださいませ」

 案内をして来た女性従業員がそう言って下がった。

「あはは、蓮華の間だって夕麿」

「ふふ、偶然でしょうか?」

「どうだろ」

 荷物を整理し終わって雅久が頭を下げて出ていった。それを見て武がポツリと言った。

「みんな一緒なのに、昼間に部屋に籠もるのはつまらないなあ……」

「そうですね、集まって過ごす場所はあると思います」

「残り五泊はここで過ごすの?」

「どうでしょう? 私も詳しい予定は聞いていませんので、食事の時にでも訊いてみましょう?」

「うん」

「少し、下へ行って来ますね?」

「あ、うん?」

「PCを借りられるようですから、借りに行って来ます」

「わかった。 行ってらっしゃい」

 夕麿が部屋を出て待っていたがなかなか戻って来ない。 退屈になった武は夕麿を探しに部屋を出た。 廊下を進み階段を降りて左右を見回した武は立ち竦んだ。廊下の向こう側に夕麿がいた、周と一緒に。 かなり距離があったが今更二人を見間違える筈はない。 二人はそこで抱き合っていた。 他者に触れられる事を好しとしない夕麿が、縋り付くように身を預けそれを周がしっかりと抱き締めていたのだ。 やがて周が夕麿の腰を抱くようにして近くの部屋へと姿を消した。

 武はノロノロと元来た道を辿って戻り奥の部屋で力なく座り込んだ。脳が思考を拒否していた。衝撃のあまりに涙すら出て来ない。ただ絶望に満たされた心がぽっかりと闇の口を開いていた。全身の震えが止まらない。

 怖かった。

 見知らぬ土地の見知らぬ場所で、武はたった独りで投げ出されたように感じていた。

 突然電話が鳴った。武は這うようにして室内に設置された電話に近付いて受話器を取った。

「はい…」

〔ご昼食の用意が整いました〕

「はい…」

 受話器を戻して操り人形のような足取りで洗面所に立った。鏡の中の自分の顔はまるで死人のようだった。蛇口を捻って熱めの湯水で顔を洗う。こんな顔で下に行けば間違いなくまた皆を心配させてしまう。もう一度鏡をみると湯の温度に少しだけ顔に赤味が戻った。武は頬を自らの手で打ち鏡に向かって懸命に笑顔を造った。だが鏡の中には今にも泣き出しそうな顔しかない。武はもう一度顔を洗ってから俯き加減に部屋を後にした。

「武?」

 上から声を掛けられて見上げると義勝だった。

「武君…真っ青ですよ? 気分が悪いのですか?」

 和装に着替え雅久が武を抱き寄せた。 すると義勝が額に手をあてる。

「熱はないようだな? 夕麿はどうした?」

「……下に」

「お前をひとりにしてか?」

 義勝と雅久が顔を見合わせたのがわかった。

「フロントで…PC借りて来るって…」

「武君、大丈夫ですか? 無理をして話さないでくださいね?」

 途切れ途切れに話しているのを、気分が優れないからだと雅久が思った様子だった。

「部屋に戻るか? 夕麿を呼んで来てやろう」

「ううん、大丈夫…それ程じゃない…から」

「我慢出来なくなられたら、言ってくださいね、必ず」

「うん…」

 武はそのまま雅久に支えられるようにして階下に降りた。 『蓮華の間』の前で貴之たちと合流して雫が戸を開けた。すると室内には夕麿と周が来ていた。 周は夕麿の手を取って脈をはかっていた。武たちが来たのを見て立ち上がって自分の席に戻った。

 武は雅久に礼を言って夕麿の横に着席した。 夕麿は武の視線から逃れるようにして顔を背けた。

 武は黙っていた。 ただ昼食をひたすらに口に運んで咀嚼したが味などわからなかった。

 見かねた高辻が武の側に来た。

「武さま、御不快でいらっしゃるのではありませんか?」

「少しだけだから……大丈夫です」

「失礼いたします」

 高辻はまず脈をはかり武の首筋に手を当てて熱を見た。

「脈が少し遅いようですが…熱はありませんね? 無理にお食べになられないように」

「はい…ありがとうございます」

 笑顔で答えらた。 今度はちゃんと笑えた。 視線を感じて振り向くと夕麿の心配そうな眼差しとぶつかった。

「…大丈夫だから」

 高辻に向ける倍の努力で夕麿に笑顔を向けた。

 そして皆の視線が集まる中、武は箸を再び手にした。


 食べ終えてお茶を飲みながらマイクロバスの中であったような会話がまた始まっていた。 雫と高辻の夫婦漫才に義勝がチャチャを入れる。 そこへ雅久がキツいツッコミを入れて義勝と雫が同時に凹む。

 武は彼らのその様子に微笑んだ。 夕麿も途中で加わって話が余計にややこしくなる。

 敦紀と貴之はそれを見て笑い転げていた。

 全員が話に夢中になっている中、武はそっと部屋を出た。 夕麿を失えばこのような光景もなくなる。 武を気遣ってくれる義勝と雅久も離れて行く。 武はそんな想いを抱いて階段を上がって、部屋へ向かう廊下を独り歩いていると不意に後ろから声が掛けられた。

「武さま」

 振り返ると透麿が立っていた。

「武さま、いい加減に兄さまを解放してくださいませんか?」

「透麿…」

「兄さまを学院から自由にしてくださったのは、僕も感謝しています。 さっきのあれ…僕も見ました。 兄さまは周さんといた方がきっと自由で幸せです。兄さまと別れてください。 あなたはもう不要なんだとわかっているでしょう?」

 透麿が強い口調で発する言葉に何も返す事ができなかった。 そのまま身を翻して部屋へと駆け込んでしまった。 彼の言葉は間違ってはいない。 そう思うからこそ辛かった。今は奥の部屋で膝を抱いて、声を殺して泣く事しか出来なかった。 もうどこにも自分の居場所はない。 胸の痛みに気が狂いそうだった。

 奥の部屋の明るさが嫌だった。 自分が独りぼっちだと思い知らされているようで降り注ぐ光が辛かった。 景観を楽しむように大きく取られた窓をカーテンを閉めて塞いだ。 断熱性の厚いカーテンは完全に光を遮り、室内は暗闇とはいかないまでも暗くなった。

 武の体調不良を理由に予定を早めた事になっていたのでこの部屋には布団が敷かれている。そこへ身を投げ出すように横たわった。 ぼんやりと『蓮華の間』に入った時に見たのを思い出す。再び夕麿が周と二人でいるのを見てやっと心が動き出した。 夕麿が視線をそらした。全てが終わったのだと言うかのように。

 溢れ出る涙は止まらない。 両手で口を押さえて身体を丸めて泣き続けた。 夕麿を信じたかった。 けれどあれをどう説明すれば良い? 何故、視線をそらされた? そして透麿は何と言った? 嫉妬にかられた自分の歪んだ眼差しが見せた、幻ではなかった。

 その時、ドアの開閉音が聞こえて声がした。

「武、いるのですか?」

 夕麿だ。 武がいなくなった事に気が付いて戻って来たらしい。 武は急いで布団の中に入った。 涙を拭って隣部屋とを隔てている襖に背を向けた。

 すぐにその襖が開けられた。

「やっぱり、気分が悪いのですか?」

 灯りを点けようという気配に武は慌てた。

「点けないで…暗い方が良い…」

 今は泣き顔を見られたくない。

「わかりました」

 襖を閉じて夕麿が近付いて来た。

「武? 高辻先生を呼びますか…あっ!?」

 気が付くと肩に置かれた手を取って夕麿を組み敷いていた。 気合い投げの要領で、引き倒してしまったのだ。

「武!?」

 驚きと戸惑いの入り混じった声を上げるのを無視して、有無を言わせずに唇を強引に塞いだ。 舌先で唇を舐め開かれた口へと舌を差し入れる。

「ン…ンふ…ン…」

 そのまま唇を貪ってシャツのボタンを外していく。 夕麿の肌が露わになると唇を首筋に移動させて指で滑らかな肌を撫で回した。

「あ…武…ダメ…ああッ」

 抗う言葉が聴きたくなくて乳首を口に含んで歯をたてる。

「武…武…ンぁ…お願い…あッ…」

 抗おうとする度に刺激を強めて夕麿から衣類を剥いでいく。 もちろん本気で抵抗されれば、武にはかなわない。 少しでもそうしようとするなら暴力に出ても抱く。 武の中で制御不能の嫉妬と怒りと絶望が荒れ狂っていた。

 悲しかった。

 苦しかった。

 もう何も見えなかった。



  
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