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異母弟
しおりを挟む夕麿を生徒会室から遠ざけて、武は執務室で待っていた。しばらくして敦紀が中等部の少年を連れて入って来た。
「お待たせいたしました、武さま」
「御厨、ありがとう」
「高等部生徒会長、紫霞宮 武さまです」
「はじめまして…六条 透麿です」
少年の口から出た声に武は目を見張った。あの映像から流れて来た、声変わりする前の夕麿の声にそっくりだったのだ。
「ふふ、御厨。ありがとう、間違いないよ、彼だ」
「名前は同じですが…?」
「声だよ。声変わりする前の声にそっくりだ」
「はあ……」
敦紀にすれば不思議だろう。武は高等部からの編入、声変わりする前を知っている筈がない。
「以前ね…ちょっと録音されたのを聴いた事があるから」
「ああ、成る程」
「さあ、座って」
「はい」
透麿にすれば自分が何故に、高等部の生徒会長執務室に呼ばれたのかわからない。武の事は高等部に身分の高い特待生がいる…くらいにしか知らない。
「単刀直入に聞く。君は夕麿の事を覚えてる?」
「え…!?」
突然、武の口から出た異母兄の名前に、透麿は驚きの声を上げた。
「その反応だとちゃんと覚えてるみたいだね?」
「はい、忘れる筈がありません!兄は…ボクの記憶の中ではとても優しい人でした。母が嫌っていたので側に寄る事も出来ませんでしたが、離れた場所から目が合うといつも優しく微笑んでいたのを覚えています」
まっすぐな眼差しで答える。
「じゃあ、君のお母さんとその実家が潰れた事に対しては、どう思ってる?」
「自業自得だと思っています。悲しい事ですが、母は兄を嫌い虐待していました。全てではありませんが、母が兄に何をしたのかも…多少、耳にしました。母の代わりに謝りたいくらいです。許してはもらえないとは思いますが…」
「わかった…御厨」
「承知いたしました」
敦紀が急いで執務室を飛び出した。
「あの…」
「君に今からある人に会ってもらいたい。ただし俺が許可するまで君は喋らない、いいね?」
「はい、わかりました」
透麿は不思議そうに武を見つめた。 程なくして御厨が戻って来た。 続いて何も知らされていない夕麿が執務室に入って来た。
「武、用事は終わったのですか?」
「俺はね」
「え…?」
笑顔を向けた武が移動させた視線を追って、そこに中等部の一般生徒の制服を着た少年を見て夕麿は黙った。恐らく、記憶のどこかに引っかかったのだろう。 何かを思い出すような仕草で彼を見つめている。 そしてゆっくりと目を見開いた。
「透…麿…? 透麿…なのですか?」
武は透麿に向かって頷いた。
「兄さま…夕麿兄さま…」
透麿は立ち上がると夕麿に駆け寄ろうとして、躊躇って立ち止まった。 夕麿に憎まれているかもしれない… その想いが足を止める。
「武、ありがとう。 でもどうして?」
夕麿が武を抱き締めて呟く。
「だって希の話をしてた時、会いたそうにしてたじゃないか。 何、俺が気付かないとでも?
もっと早くに会わせたかったんだけど…危険な目に合わせたくなかったし…成瀬さんの負担を増やすのは申し訳ないから。 ごめんね、夕麿」
「いいえ、お気遣いを感謝します」
「じゃ、俺、出てるから…ゆっくり話せよ」
「本当に…ありがとう」
夕麿から離れて会長執務室を出た。
「会長、お茶にします? オレンジ・ジュースにします? 御厨君が都市部でケーキを買って来てくれました」
「ケーキ? 食べる食べる。 じゃ、お茶にする」
見ると敦紀が会長執務室に紅茶とケーキを運んでいた。 彼のこんな心遣いもどこかしら夕麿に似ている。 武は切り分けてもらったケーキを笑顔で頬張った。
「あ、これ美味しい!」
「お口に合われましたか?中等部に近い所にあるスイーツ店なんですが甘さを控えてあって、素材の味が生きているんで人気があるんです」
「へぇ…今度場所を教えて?」
「言っていただければ、いつでも買って参ります」
「そう? でも自分で行って、目で確かめたい」
「わかりました、今度ご案内いまします」
「うん、頼むよ」
編入から一年半、武にはまだまだ知らない場所ばかり。 美味しいスイーツが手に入るなら、食欲のない時にも何とかなるかもしれない…
取り敢えず、一番の目的は果たせた。 会わせた後の事は二人の問題。 けれど夏休みに見せた夕麿の様子と、先程の透麿の言葉から判断して、心配はないだろうと思える。
……後3日。 本当は夜も昼も夕麿を独占していたいけれど、長い間離れ離れだった兄弟だ。 つまらない独占欲はこの際置いて交流を深めて欲しい。 少なくとも夜は二人っきりで過ごせる。
武はケーキを食べ終えるとノートPCを開いた。
「お皿、お下げしますね?」
「あ、ごちそうさま」
康孝はケーキが完食されているのを見て少しホッとした。 武は結局、昼食として摂ったのは、夕麿が作らせた湯豆腐とオレンジ半分だけ。 栄養もだがカロリーの低い食べ物ばかりだった。
「夕麿さま、弟君と上手く行かれると良いですね?」
行長が決済の必要な書類を手渡しながら言う。
「多分、大丈夫だと思うよ? お互い会いたかったみたいだから」
「でも、夕麿さまの弟君が編入して来たなら、何故話題にならなかったのでしょう?」
康孝が不思議そうに言う。
「あまり似ていないからじゃないでしょうか?」
御厨は武が認めるまで同姓同名の別人ではないかと思っていた。 異母兄弟だから容姿が似ていないのはわかる。 だが雰囲気が違い過ぎるのだ。誇り高く気品ある貴公子として知られる、夕麿の弟にしては透麿は地味で凡庸過ぎる。 成績も中の上くらいで到底、特待生に手が届く状態ではない。 一切貴族特有の言葉を使えない様子から見ても、誰も彼を夕麿の弟だとは思わないだろう。
詠美は貴族のしきたり等が嫌いだったように思える。 だから自分の息子にはそういうのを教えたがらなかったのだろうか。 佐田川 和喜やその取り巻きが放校措置を受けていなくなっても、中等部の風紀はあまり良い状態ではないと聞く。 前年度の生徒会長だった御厨 敦紀はかなり苦労した話を以前していた。
今は? これから学祭の実行委員会が始まる。
「御厨、今の中等部の生徒会はどんなだ?」
「お世辞にも良いとは言えません。 今期の会長は貴族にあるまじき性格をしています。夕麿さまは久我先輩を生徒会長としてはダメだったとおっしゃいますが、あの方はそれでも貴族としての矜持をお持ちになられています」
敦紀の顔が不快そうに歪む。
「そんなに酷いのか?」
「あれでは最低の成金のようです。 ただ…中等部には現在、さほど身分がある者がいないのです」
「学祭委員会の前に、一度実情をご覧になられますか、会長?」
行長が気の乗らない様子で聞く。
「その方が良いかもしれない。 検討してみてくれ、下河辺」
「わかりました」
敦紀は良いにしてもその後から上がって来る人間が、夕麿たちの苦労をぶち壊してしまうようなら考えなくてはならない。
「それと、六条 透麿だけど…特待生は無理か?」
「よほど良い家庭教師でも付けば、出来ない事はないとは思いますが…」
「じゃあ、そうしよう」
「本気ですか!?」
「伝説の生徒会長の弟が凡庸では、夕麿の名誉にも関わるからな」
夕麿もその方が喜ぶ。 夕麿の弟ならば伴侶である自分にとっても弟だ。 出来れば仲良くしたい。 夕麿からこれ以上、血縁者を遠ざけたくはないから。
「武さま、そろそろ夕麿さまにお声を掛けられた方が、よろしいのではありませんか?」
見ると15時を少し過ぎている。 馬場に行くならばそろそろ動かなくてはならない。 武は康孝に礼を言って立ち上がった。
会長執務室のドアを叩いて開ける。
「夕麿、そろそろ青紫の所に行かないと…」
「え…?ああ、もうこんな時間なのですね」
「ごめんね、話の途中で」
「あ、いえ…」
武に謝られて透麿は慌てた。
「武も行くのでしょう?」
「うん、顔だけ見に行く。
あ、一緒に行く?」
「どちらへ行かれるのですか?」
「大学部の馬場で」
「馬場? 兄さま、馬に乗るの?」
透麿の瞳が輝いた。
「武さま、警備配置終了いたしました。 いつでもお出まし可能です」
雫が声を掛けて来た。
「どうしますか、透麿?」
笑顔で問い掛ける兄に、透麿は満面の笑みで頷いた。
「じゃあ急ごう。 下河辺、戸締まり頼むね」
「承知いたしました。 行ってらっしゃいませ」
「行ってらっしゃいませ!」
見送られて生徒会室を出る。 なれていない透麿だけがオロオロとして、夕麿が笑いながら頭を撫でていた。 透麿の身長は160㎝代半ばというところ。 映像で観た昔の夕麿のようだ。
「えっと、透麿って呼んで良いかな、俺も?」
「あ、はい」
「次の日曜日から、こっちの生徒会室に来てくれ」
「あの…どうしてですか?」
「勉強見てやるよ。 特待生になりたくないか?」
「え?」
「本当は夕麿がしたいだろうけど?」
武が見上げると夕麿が微笑んだ。
「無理だから俺が代わるよ。 それに、夕麿の弟は俺にとっても弟だろう?」
「武…ありがとうございます。 透麿、あなたもお礼を」
「ありがとうございます。 よろしくお願いします」
エレベーターが一階に到着して、まず雫が辺りを警戒してから武たちを降ろす。 特別棟に直接、車が横付けされていた。 雫がドアを開いて武が乗り込む。 続いて夕麿が乗り透麿を乗せてから雫が乗る。 8人乗りの高級車は、御園生家が武の為に用意したもの。
これで武は高等部から出る場合、バス停まで歩いて行動する必要がなくなった。
「武、周さんも誘って、今夜は街で食事にしませんか?」
「構わないけど…?」
「一応、お祝いの席を持ちましょう」
「わかった、任せる」
「和食で構いませんか?」
「うん」
「では皆さま、私が予約しておきましょう。融通が利く店がありますから。
武さま、お造り(刺身)は食されますか?」
「えっと…白身魚ならちょっとだけ」
雫は手帳を開いてメモを取りながら問い掛けてくる。
「夕麿さまは人参がダメでしたよね?」
「え…?あ…」
この前の武と夕麿の口喧嘩で、人参の事を言ってたのでしっかりバレている。
「兄さま、人参嫌い?ボクも嫌いだよ?」
些細な共通点が嬉しいらしい透麿は、笑顔で夕麿に話し掛ける。
「透麿、それ、ここだけの話な?」
「え…?」
「普段は周囲に示しがつかないとか言って、やせ我慢して食べてるからさ。俺たちしか知らない秘密なんだ。一応、夕麿の名誉の為だから」
ニヤニヤと笑いながら武が言うと、透麿は真剣な顔をして頷いた。
「言ってくれましたね、武。後でたっぷりとお返ししてあげますからね?」
「受けて立ってやるよ?そっちこそ覚悟しとけよ?」
言葉の応酬に喧嘩だと思ったのか、透麿が互い違いに二人を見てオロオロする。
「お二方とも、狭い車の中でいちゃつくのはやめていただけませんか?」
雫がうんざりした顔で言うと、夕麿が挑発的な笑みを浮かべて答えた。
「嫉妬は見苦しいですよ、成瀬さん?」
「そちらこそ一々、見せ付ける趣味はやめていただけると嬉しいのですが?」
「いい加減にしろよ、二人とも!成瀬さん、夕麿に突っかかるのはやめて欲しいって言ってるだろ!?
夕麿、お前もお前だ。何で今更成瀬さんにライバル心を剥き出しにするんだよ?」
「ごめんなさい…」
「申し訳ございません」
「間に挟まれる俺と、事情のわからない透麿の身になってみろ。
成瀬さん、俺は言った筈です。 あなたと夕麿、同時に出会ったとしても、俺が選んだのは夕麿だと言ったでしょう? あなたが夕麿に絡み続けるなら、警護の指揮を交代させますよ?
俺は理不尽だろうがわがままだろうが、夕麿をどんな形であろうと傷付ける奴は許さない」
今は言葉遊びでもいつかは無意識に、傷付けるような言葉が紡がれるかもしれない。 それが夕麿の心にどのような傷を与えるかわからない。
「武、それは大袈裟です。 成瀬さんには悪意はありません」
「悪意があるかないかなんて関係ない!」
「武! もう良いのです。 私の為に自分を傷付けるのはやめてください」
武を抱き締めた手が震えていた。
「武さま、この世の中の全てから、夕麿さまを守る事は不可能ですよ?」
「そんな事はわかってる。 それでも俺は嫌なんだ」
愛する人が傷付くのは自分の身が引き裂かれるより痛い。
「武、聞いてください。あなたの気持ちは嬉しいのです、とても。 けれどあなたが守られるだけが嫌なように、私もあなたに守られてばかりでは嫌なのです。
それはわかってくださいますね?」
その言葉に武は気付いた。 また自分の思い込みだけで、突っ走っていたのだというのを。
「以前のような…自分の弱さを隠す為の見せ掛けの強さではありません。 私は私自身の弱さも愚かさも受け入れて、その上で強くなりたいと望んでいます。
わかってはいただけませんか?」
「弱さも愚かさも受け入れる?」
「ええ。 私は気付いたのです。 弱さや愚かさを隠そうとしたり、無視するから脆い強さしか持てないのだと。
あなたが私に教えてくださったのですよ?」
「俺が…?」
夕麿が愚かだというのなら、自分はただのバカだと武は思う。 無鉄砲にその時の感情だけで、状況を見ずに行動してしまう。 そこに夕麿が絡めば完全に暴走状態になって、結局、夕麿を困らせたり苦しめる。
「俺、バカな事しかしてない…」
「そうですね。 確かにあなたの直情的な言動にはハラハラさせられます。 でもあなたは誰かを守る為に計算をしない。 自分の立ち位置を計らない。 無茶苦茶ではあるけれど、それ故にあなたは強い。
私にはそれがなかったのです。 何もかもを…名誉や誇りなどかなぐり捨てて、体当たりで直進しようとする強い信念が。 私はただ現実から逃げ回っていただけだったと」
「夕麿…」
「ですからもう、そんなに尖らなくても良いのです、私の為に。 成瀬さんとのやり取りは、今の私にはリハビリのようなものなのです」
「リハビリ?」
「ロサンゼルスに戻ったら、もっと厳しい現実が待っていますから」
「………そっか…わかった。
成瀬さん、ごめんなさい、酷い事を言いました」
「いえ…私も短慮でした」
非を非として素直に認めて即座に謝罪する。 武の素直さと夕麿の教育に雫は改めて頭が下がる思いだった。 寄り添う二人はこれ以上ない夫婦だと雫は思った。
久しぶりに夕麿に会った青紫の喜びようは、周囲が苦笑する程だった。夕麿を乗せて馬場を駆ける姿は、まさに人馬一体の美しさ。
「やっぱり、夕麿を乗せてる時が一番機嫌良いよな、わかりやすい奴」
「確かに」
「今日は俺を思いっきり無視してくれたぞ、あいつ。あ~もう、ムカつく。夕麿の馬だってわかってても、気分悪い!」
拗ねまくる武に周と雫が苦笑する。そこへ夕麿が青紫を回して来た。
「さっきから何を拗ねているんです、武?」
「別に」
ぷいとそっぽを向く。
「見なさい、青紫。お前が無視するから、武が拗ねてしまったではありませんか」
夕麿が首を軽く叩いて言うと青紫は嘶いて答えた。武に頭を寄せて甘えて来る。武は後ろに下がって苦々しげに言った。
「夕麿に言われてから、機嫌取りするな」
自分でも子供っぽいとは思うが、腹立たしいものは仕方がない。
「兄さまの馬って綺麗だね」
透麿が目を細めて青紫に手を伸ばした。
「あ!?」
「え…?うわっ!?」
武が慌てて引き止めようとしたが一瞬遅かった。青紫は差し出された透麿の手に噛み付いた。慌てて武が青紫の鼻面を叩いた。
「何て事するんだ、お前は!?透麿はお前のご主人の弟だぞ!」
武の怒りように青紫は頭を垂れて唸る。
「透麿、大丈夫か!?」
「はい、赤くなってるだけです」
「ごめんな。こいつ、滅茶苦茶人見知りするんだ。今のところ、まともに触れるの夕麿と俺と、何人かの世話人だけなんだ」
「いえ、突然触ったボクも悪いから」
「全く…」
もっと機嫌が悪くなった武に謝るように、青紫は夕麿を乗せたままゆっくりと跪いた。
「武、機嫌を直してください。青紫も悪いと思っているようですよ?
周さん、馬場をゆっくりと回るくらいならば、傷に障らないでしょう?」
「駆けるのはなしだぞ?」
「約束します。武、乗ってください。馬場を軽く回りましょう」
「ヤダ…乗ってなんかやらない!」
「武、どうしたのです?」
いつになく意固地になってしまう自分が自分でわからない。
「…ごめん…俺…変だ…」
夕麿の弟の前でカッコ悪いところを見せたくない。 夕麿が青紫から降りて武を抱き締めた。
「少し神経質になっているようですね。 今日はいろいろありましたからね」
夕麿の温もりを感じると少し気持ちが落ち着いた。
「不安なのはわかります。 出来る限り私たちがバックアップします。 あなたは今まで通りで良いのですよ、武?」
夕麿の優しい言葉に涙が溢れる。 拒否する事も泣く事も出来ずに、ただ受け入れる事だけを要求される。 心は拒否しているというのに。 いらないと言うものを無理やり押し付けられる。それなのに…それ故に、愛する人が生命を脅かされた。 受け入れると決めても、人間の心はそんなに簡単に納得はしない。
「泣いても良いのですよ?」
それでもこんな場所で泣くわけにはいかない。 武は夕麿に縋り付いたままで首を振った。
「周さん…約束は守れないようです」
「仕方がないな…行って来い」
「ありがとうございます」
夕麿は武を青紫に乗せて自分も騎乗した。 武は片手で鞍に縋り、夕麿は青紫を立ち上がらせると、森林の中へと分け入った。
周と雫は無言でその後ろ姿を見送る。 武の想いは二人とも理解していた。
「透麿、馬に乗せてあげよう。 僕の愛馬はあれと違っておとなしい」
兄の後ろ姿をじっと見つめていた透麿に周が見かねて声を掛けた。実は周は透麿の顔は見知ってはいたが、側近くで言葉を交わすのは初めてだった。
周の愛馬、黒曜は牝馬で気性が穏やかだ。 それ故に厩舎の仕切りが隣の青紫に噛まれる。 引き出されて来た黒曜に跨り、透麿を引っ張り上げた。 そのまま馬場をゆっくりと歩み始めた。
「透麿、夕麿が武さまを優先するのは許してやれ。 武さまがいなかったらお前の兄は今頃、生きてはいなかったかもしれない。 一年前…六条家に廃嫡になった時点で。
生きていても…正気を保っていられたかどうか…わからない。 今でも治療を受けている状態なんだ」
「でも…寂しいです。 ボクの兄さまなのに…」
「今はまだ武さまの支えが必要だ。 けれど少しずつ良くなっている。 夕麿は夕麿なりにお前の兄らしい事をしたい筈だ、違うか?」
「お金を…振り込んでくださると」
「ならばそれにまず甘えてやれ。 夕麿は妙なところが不器用だ。 わかってやってくれ。
武さまも夕麿の代わりをなさろうと思われている筈だ。 あの方はお気の毒な方だ。 庶民として育って、一代限りで非公開の宮家を建てさせられた」
周はそう言うと彼らが姿を消した木立の奥へ視線をやった。 今頃はきっと武を泣きたいだけ泣かせてやっているだろう。
「ボクは男同士のそういうの…わかんない。 母さまは『穢らわしい』って、兄さまに酷い事を言ってた」
自分でそうさせておいて夕麿をそんな風に詰って責めたのか…と周は歯軋りした。 あの中等部の一件の後、夕麿が何時生命を絶とうとしたのを貴之から聞いていた。一番最後のものが……どうやら詠美が所持していた映像と、彼女の非難が原因だった事も高辻から耳にした。
「わからなければそれでも構わない。だが否定したり嫌ったりはしないで欲しい。この学院には様々な理由で同性で結び付くしかなかった者がたくさんいる。非難されるべきは、みんなをそんな状態へと追いやった人々の方だ…」
ここにいる者に何の罪があると言うのだろう?子を成してはならぬと決め付けておきながら、一歩外へ出れば同性愛に対する偏見が牙を剥く。ここへ子供たちを閉じ込めた張本人が、偏見を持って攻撃して来るのだ。
武と夕麿はその一番の被害者だ。家族や周囲の親しい者が受け入れているからまだ救われているのだ。もしここで透麿が二人の間を否定したら…どんなに傷付くだろうか?それだけは避けたいと周は思っていた。
「よくわかんない」
「でも、そういうのを聞いても夕麿は嫌いじゃないだろう?」
「うん…ボクの兄さまだもん」
「武さまの事は?」
「わかんない…嫌いじゃない」
……でも兄さまをとられたくない。言葉にしない想いが心の中を渦巻く。皆の尊敬を集めて大切にされて…だから兄さまを返して欲しいとも思う。けれど武のようになりたいとも思う。兄の跡を継いで高等部の生徒会長を務める姿に純粋に憧れを抱いてしまう。 その姿の向こうに兄の生徒会長としてのかつての姿が見える気がした。
「もっと、兄さまといたかったのに…」
時間は残酷に流れて行く。 誰の願いも聴き届ける事などなく。
そこへ雫が声を掛けて来た。 慌てて馬を寄せる。
「武さまが過呼吸を起こされたそうです。 夕麿さまが応急処置をされているそうですが、効果が見られないと」
「わかりました、すぐに向かいます。
透麿、馬にはいつでも乗せてあげるから、ここで待っていてくれ」
「はい」
透麿を降ろして周は走り去った。 雫は急いで車を呼ぶ。 程なく武を抱いて騎乗した夕麿が戻り、馬を世話人に渡す。彼らはぐったりとしている武を抱えて、取り敢えず寮に急いだ。
「武、とにかくベッドへ」
「良いよ、ここで」
ソファにぐったりと座って武は答えた。
「何を言ってるのです、こんな時にわがままはやめてください」
「行かない、ここにいる。 それより何か温かい飲み物が欲しい」
自分が上に行けば必然的に夕麿も来る。 そうすれば透麿から夕麿を取り上げてしまう形になる。 もっと一緒にいて話をさせてやりたい。
雫が気を利かせて日本茶を淹れてくれたが、まだ感覚がおかしい手で湯呑みは持てなかった。夕麿が手に取って武の口に運んだ。 少し温めのお茶にホッとする。
「夕麿…お願い、今日だけはわがまま言わせて」
それを彼が何と理解したかはわからない。 夕麿は深々と溜息を吐いて困った顔をした。 自分の発作と比べてしまうのだろう。
「成瀬さん、ありがとう。 ちょっと落ち着いた」
笑顔になる武の脈を取り周が言った。
「夕麿、武さまはもう大丈夫だ。
武さま、お気持ちはわかりますがあまり、感情を抑え過ぎられるのは良くありません。 一度に爆発させられますと、今回のような状態になる可能性があります」
「ごめんなさい…どうして良いのか、わからなくて…」
突然苦しくなって息を吸えば吸う程頭がボウッとなった。 そのうち手足が痺れて来た。 夕麿の過呼吸の発作は見ていたが、自分で経験するのは初めてだ。 彼はいつもこんな苦しくて怖い状態を経験していたのかと思うと、自分は何もわかっていなかったと思ってしまう。
そうぼんやり考えていると、夕麿が周に呼ばれてリビングを出て行った。
「武さま、お茶をもう一杯、召し上がられますか?」
「ありがとう、もらうよ」
「承知いたしました」
雫の淹れてくれる日本茶は、雅久のものと同じくらいに美味しい。
「ねぇ、成瀬さん」
お代わりを持って来た雫に聞いてみる。
「成瀬さんって茶道する人だよね?」
「よくおわかりですね?」
「雅久兄さんが淹れてくれるお茶と一緒だから。 ちょうど飲みやすい温度で、甘くて良い香りで美味しい」
「お褒めにあずかりまして、光栄でございます。
雅久さんと言われますと、正月の宮中の宴で今上が大層お喜びになられた舞楽師ですね?」
「あ、成瀬さんも観た?」
「警備に当たっていましたが、ちょうど休憩中で」
「ありがとうございます。
どちらをご覧になりました?」
「後の『納曾利』の方を。 『蘭陵王』は少しだけ。
素晴らしいの一言でした。」
「ありがとうございます。 雅久兄さんが聞いたら喜びます」
「彼も前年度の生徒会メンバーなのでしたね?」
「そう鬼の会計って呼ばれてた。 見た目は『弱竹の伽具耶姫』って呼ばれるくらい、細くて絶世の美形なのに、怒らせると滅茶苦茶怖いんだ。夕麿すらかなわない時があったよ?」
「それ程美しい方ですか?」
「写真見る?」
武は携帯を取り出してデータフォルダーに入れている、桜の下の雅久の写真を見せた。
「確かに…こんなに美しい方が存在するのですね…」
雫はそれを透麿に手渡した。
「うわ~本当に綺麗な人」
「舞う時はもっと綺麗だよ。 義勝兄さんがよく、天人に例えている.。半分惚気だけどさ。
あ、義勝兄さんは前年度の副会長で夕麿の親友。身長が190㎝以上あるんだ。で、雅久兄さんの旦那さま。
二人とも御園生に養子に入ったから、兄さんって呼んでる」
今度は義勝と雅久、二人が一緒に移っている写真を見せた。 次いで前年度生徒会メンバー全員の写真を。
「なる程、これが在任中から伝説と呼ばれた81代生徒会メンバーですか」
「そう。 俺の理想でもあるけど、やっぱり夕麿にはかなわないや」
夕麿が皆のいる所に入るだけで、その場所の空気が変わる。 学院に緊急避難して来て、改めてそれを思い知った。 夕麿になる必要はなくても、やはり少しでも近付きたいと思ってしまう。
「やっぱり夕麿はカッコイイんだよなぁ…悔しいけど」
思わず漏らした武の言葉に、透麿が嬉しそうに頷いた。
「あ、透麿、夕麿の写真を後であげるよ、いるだろ?」
「はい、欲しいです」
幾分気分が回復して来た。 ニコニコとしていると、夕麿と周がリビングに戻って来る。 すぐに周が耳打ちして来た。
「夕麿を説得しました。 僕がお付きいたしますから、ベッドへお入りください」
その言葉に頷くと周に抱き上げられた。 そのまま寝室へと運ばれてベッドに降ろされた。
「ありがとう」
「時間になったらお知らせいたしますから、少しお休みになられませ」
「うん、お願いする」
目を閉じるとベッドに腰をおろした周の指が髪を梳く。 その仕草が夕麿と同じだった。ああ、この人は夕麿の従兄なんだと感じる。
人間とは不思議なものだ。 どんなに否定しても血の繋がりを示す何かを互いに持っている。 透麿の声が昔の夕麿の声と重なるように。雫と武も血が繋がっている。 どこかが似ているのだろうか? それは写真でしか知らない父とも、似ているのだろうか?
ぐるぐると考えているうちに、武は心地良さそうに眠ってしまった。
夕麿が再び旅立つ日は、何処までも蒼い晴れ空が続いている日だった。
前期試験を控えて学院は対策の授業が行われており特待生は自由登校になった。
昼過ぎまで二人はベッドの中で求め合っていた。
「夕麿…もっと…もっと…」
永遠に別れるわけではない。 数ヶ月後の冬休みには、夕麿はちゃんと帰国する予定だ。
それでも離れ難い。 肌を合わせ唇を重ね指を絡める。 互いの冷めぬ熱に突き動かされ、寝食を忘れて貪り合う。
武の心は不安でいっぱいになっていた。 今まで通りに振る舞えば良い。 そう言われても与えられた身分に戸惑うばかりだ。 いつもこんな時に様々な事を教えてくれる夕麿が、側からいなくなってしまうのは辛い。
周がある程度教えてはくれるが彼も、大学の授業が始まりしかも間もなく大学側も前期試験なのだ。 雫も助力をしてくれはする。それでも武にとって全ての手本となるのは夕麿なのだ。 すぐに判断しなくて良いものならば、夕麿にメールや電話で聞く事は可能だ。 だが直ちに判断して立場や身分にそった対応をしなければならない場合、今までは夕麿が前面に出て対応してくれていた。
それがなくなるのだ。 武にはまだ自分の身分に合う、立ち振る舞いが十分に呑み込めていない。 すぐに感情に走ってしまう、自分の子供っぽさはわかってはいるが制御出来ない。
来年ならば夕麿の側にいられたのに…と思ってしまう。
夕麿の立ち振る舞いを観ると立場が逆だったらと思ってしまう。 夕麿ならば完璧に『宮』として振る舞える。
そう考えると不安で泣きたくなってくる。 何故自分なのだろう。 そんな不安を忘れて今は、夕麿に抱かれる幸せを味わっていたかった。
学院側は学部長の事もあり、武が出した要望書を受理可決した。
こうして夕麿の旅立ちを見送る許可も出した。 中等部の生徒の透麿も立ち会う許可を出した。 中等部のゲート口で別れを惜しむ、夕麿と透麿を武は高等部側のゲート口で見守っていた。 透麿が縋り付いて泣いているのを見て、やせ我慢をした卒業式の日を武は思い出していた。結局、逆に夕麿を心配させただけだったから、今はもうバカな事をしようとは思わない。
やがて時計を見た夕麿が、透麿から離れて歩いて来た。
「武、透麿の事をお願いします」
「うん。 出来るだけの事はする」
「無理はしないでください?」
抱き寄せられて優しく囁かれると涙が溢れて来る。
「武、何度も言いますが、あなたはあなたのままで良いのですよ? 無理に自分の何かを変えようとしないで。大丈夫です、 自信を持って」
「本当に? 今のままで良いの?」
過ちは教育係としての夕麿の名誉を傷付ける。 一番怖いのはそこにある。 武は貴族なら基本的に知っていなければならない事すら知らないものばかり。 ましてや皇家の一員としての知識もない。そこを誰かに突かれたら、武には何をどう対処して良いのかわからない。 だから怖い。 自分ひとりが恥をかくならばまだ耐えられる。夕麿に恥をかかせ、周や雫や義父や母、強いては祖父にまで迷惑をかけてしまう。
でも不安ばっかりを言うと夕麿が出発し辛くなる。
武の心は揺らぐばかりだ。 強気もわがままも夕麿がいてくれるから言える。 夕麿がいけない事は叱ってくれるから、自由でいられたのだとわかる。周に優しく諭されるのは嫌いじゃないけれど、制御出来ない感情を止めてくれるわけじゃない。
「ごめん…頑張ってみる…」
泣きながら呟くと強く抱き締められた。
「武、離れていても私の心はあなたと共にいます。 朝雲暮雨の言葉の如く」
「バカ…雨が嫌いな癖に…」
『朝雲暮雨』とは古代中国の楚の懐王が夢の中で神女と契り、その別れの時に彼女が朝は雲、夕は雨となって側にいると言った故事から愛する者の堅い契りを差す。
「嫌いなものでもあなたの為になら、変化してみせます」
「訳わかんないよ…」
「それぐらいの気持ちだと思ってください。
……曲、出来たらメールしますね? 良い詞をお願いします」
「善処する…」
顔が熱くなる。 夕麿のクスクス笑いに見上げると唇が降りて来た。 惜しむように貪りゆっくりと離された。
「冬休みには必ず戻ります。 身体を大事にしてください、武」
「夕麿こそ、今度痩せて帰って来たら承知しないからな」
「善処します。
周さん、成瀬さん、武をお願いします」
「誠心誠意お仕えします」
「この身に代えましても」
二人の言葉に夕麿は頷いた。
「では皆さま、ごきげんよう。 行って来ます」
「行ってらっしゃい、夕麿」
「行ってらっしゃいませ」
走り去った行く車を見ていたいのに、溢れる涙が邪魔をして歪んでしまう。 たった1ヶ月離れただけで、すれ違ってしまったのに…今度は12月まで逢えない。
寂しい。
辛い。
不安に胸が押し潰されそうだった。 追いかける事も泣き叫ぶ事ももう許されない。
ただ立ち尽くして泣く武を雫がそっと抱き締めた。
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