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   憎悪

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 寮の自室で教師が監督の上の試験。 特別処置で無事前期試験を終えた二人は、休み明けにようやく登校許可が出た。

 学祭の企画は二人が休養している間に、中・高・大学の各学部で会議が行われ、高等部生徒会の提案が本年度の企画として認証された。

 武の発案をベースに作成された企画である。

 益々多忙になる中、義勝たちは夕麿と武をそれぞれ、絶対にひとりにしない…という取り決めをしていた。お茶などを準備して運ぶのも、候補の一般生徒にはさせない事も。

 久しぶりに生徒会室へ足を運んだ夕麿は、万事が義勝を中心にして機能している事に感謝した。

「お帰りなさいませ、夕麿さま」

 口々に出迎えた一般生徒を見て、夕麿の視界が揺らいだ。

「夕麿!?」

 武が飛び付くようにして身体を支えた。 顔から血の気がひいている。

「夕麿、また頭が痛いの?」
 返事をしようとするが、声が出ない。 ぐらりと倒れかかる身体を、義勝が受け止めソファに横たえた。

「夕麿!? おい、夕麿! しっかりしろ!」

 肩を揺すり頬を叩く。

「う…あ…痛ッ!」

「夕麿!?」

「武、薬はどこだ?」

 義勝に言われて慌てて、ポケットからピルケースを出す。 緊急の為に分けて、武が預かって持ち歩いていた。

「武君、水です」

 雅久がミネラルウォーターの入ったグラスを手渡す。

「夕麿、薬…」

 襲ってくる激痛に薬を受け付けない。

「義勝先輩、夕麿を押さえて!」

 武の意図を理解した義勝が、ソファに夕麿を押さえつけた。 すかさず武は彼の口に錠剤を入れて、口移しに水を流し込む。 確かに錠剤が嚥下されるのを確認して義勝が離れた。 錠剤が体内で溶けて効果を現すのに、およそ15分が必要である。心臓発作などの生命に関わる緊急な状態の場合、錠剤では間に合わない。 この場合、舌下錠と呼ばれるものを使用する。 これは舌の下で錠剤を溶かし、舌の裏側にある血管に吸収される為、2~3分で効果が出る。

 夕麿の場合、苦しんでも生命の危険にまでは及ばない為、身体に負担の少ない通常の錠剤が処方されていた。 武は効果が出るまでの間、夕麿を抱き締めて少しでも苦痛を和らげようとする。

 初めての出来事に、一般生徒たちは動揺し、涙ぐむ者までいた。

 義勝と貴之は互いに目配せをして、夕麿の発作を誘発した原因を探して室内を見回す。 犯人が一般生徒の制服を着ていた事は、武の証言からもわかっている。それが原因にしては、余りにも激し過ぎるように感じたのだ。犯人がこの部屋にいて自分の正体を隠蔽する為に、小細工を行った…と判断した方が良い気がした。

 催眠術は網膜に刺激を与える事で、脳に影響を及ぼす。 強い光の点滅や宝石などの輝きが有効である。 また音を一定のリズムで繰り返し、催眠を促す場合もある。一度催眠状態にすると、キィワードやものを見せるだけで催眠状態にしたり、苦痛を与えたり命令を実行させたり出来る。 しかし術者が素人の場合、きちんとしたメカニズムを理解しておらず、相手の苦痛などを呼び起こす結果を生む事もあるのである。また深い催眠状態から覚めなくなり、相手を精神疾患に追い込んだ例もあり、医療行為として医師免許がない者の使用が禁じられている所以はそこにある。

 義勝と貴之が見た感じでは、それを感じさせるようなものは見当たらない。

 取り敢えず薬の効果が出て、夕麿が落ち着いて来た。 まだ荒い呼吸を繰り返してはいるが、放心したようにソファに身を投げ出していた。

「夕麿、水、もっと飲む?」

 武は頷いた夕麿の口元にグラスを近付けゆっくりと飲ませた。

「ありがとう…武…痛みは治まりました…」

「まだ顔色悪いよ? もう少しこのままでいて」

「落ち着いたら今日はもう、寮に戻って休め、夕麿」

 義勝の言葉に全員が頷く。 さすがにあんな光景を目の当たりにして、全員が色をなくした顔をしていた。

「…そうは…行きません。 これ以上、業務を遅れさせるわけには…」

「お前がいなくても、全員でフォローしている。 今は無理をするな」

「そうですよ、会長。 第一、武君の身にもなってあげて下さい」

 雅久の言葉に振り返って見ると、武は目を潤ませて夕麿を抱き締めていた。

「武、もう大丈夫です」

 抱き締める腕に手を添えて言うと、安堵の溜息が漏れて武が離れた。

「わかりました。 では30分だけ業務に当たらせて下さい。

 義勝、私でなければならない書類が溜まっている筈です。 それをここへ。

 武…?」

 夕麿から離れた武がキョロキョロと、周囲の床を見て何かを探していた。

「あ…ごめんなさい。 記章が弾け飛んじゃって…」

 どうやら襟の記章がひとつ、もがく夕麿の指に当たって飛んでしまったらしい。

「どこに行ったかなあ…?」

 そのまま床に手をつきそうになった武に、夕麿の鋭い声が飛んだ。

「武、ダメです! 立ちなさい!」

「え?」

 皇家の人間は通常、床や地面に手を触れない。 それは穢れに触れる事である。 これは徹底されており、衣服を着付ける者などは手をついて挨拶する場合、手の甲を下にして挨拶しなければならない。掌を下にして手をつけば、床に指先が触れてしまう。 その手で皇家の人間に触れてはならないのだ。 従って武が床に手をついて探し物をするなど、とんでもない事だった。

 夕麿の勢いに驚いた武が立ち上がると、雅久たちが一斉に探し始めた。 武は困ったような顔で、夕麿に呼ばれてソファに座った。

「あ…あった!」

 麗が記章を見つけた。 すかさず雅久がハンカチで受ける。

「留め金はこっちだ」

 貴之が指で摘んで、ハンカチに乗せる。 雅久はそれを綺麗に拭って、今度は義勝が差し出したハンカチに乗せた。 すると義勝もそれを丁寧に拭い、夕麿が出したハンカチに乗せた。床に落ちて穢れた記章を、綺麗に拭って差し出したのである。

「武、付けてあげますから、こっちを向いて下さい」

「うん」

 夕麿の指が記章を摘み、武の襟に付けた。

「ありがとう」

 この手順に意味があるらしいと感じた武が笑顔で礼を言う。 だがこの光景は一般生徒の何人かを、心底怒らせるものだった。 彼らにすれば最も低い位置にいる武に、最も高貴な位置にいる夕麿が奉仕した…というように見えた。 この学院…否、彼らの身分による序列では有り得ない事だった。自分たちの憧れであり、尊敬の対象である高貴なる存在。 その夕麿がまるで従者のように振る舞った。御園生が金で夕麿を買った。 その財力で夕麿だけでなく、生徒会メンバーまで屈服させている。 彼らは武をそんな想いで見ていた。

 すぐに悪意に満ちた噂は広がった。 今までにも増して陰湿な嫌がらせが開始された。 一般クラスでの連絡事項やプリントなどが武には回って来ない。 通りすがりに嫌みや暴言を言われ、教室の机は隅に追いやられた。 数人が寄り集まっている所に武が近付くと、さっと人がいなくなる。 1年生だけではなく、上級生にまで憎しみを帯びた視線を向けられる。

 ある時はどこからか石が飛んで来た。 咄嗟に側にいた正己が気付いて庇った為、大事にはいたらなかった。

 そして… …

「武、ちゃんと食事してるか?」

 げっそりとやつれた武に正己が心配げに聞く。

「あんまり食欲ないんだ…夕麿にも叱られるんだけど…」

 特別教室から普通教室への移動は、このところ出来るだけ正己も一緒に動いていた。 投石の件の後、彼の護衛は貴之ひとりよりも、二人いた方が良いと正己自身が願い出たのである。武は一度それを断っていた。 貴之と行動を共にするのでさえ、夕麿の次に貴之を誘惑しているのだど噂された。 夕麿と貴之、二人の名前を貶めているようで、自分の事を言われるより不快だった。だが夕麿がそれを承諾した。 貴之も1年生の一般授業までは、入って武を守る事は出来ない。彼も学生である以上、 自分の授業もある。そこを指摘されれば武は反論出来ない。 貴之に負担をかけている自覚があったから。

 誰にも迷惑をかけたくない。

 だがそれを「迷惑」と考えるのではなく、自分の身分に対する責任と義務として、受け入れるものなのだと夕麿に諭された。 身動きの出来ない堅苦しさに、少しずつ息が詰まって来ていた。 こんな状態が本当に、当たり前になるのだろうか。正己と取り留めのない会話を交わしながら、心を過ぎる不安に視線を泳がせた瞬間、上から全身に軽い衝撃が起こった。

「え?」

 水が階上から大量に降って来たのだ。

「うわ~ッ、誰だ!」

 すぐ横にいた正己も被って、ずぶ濡れになっていた。だが見たところ上の渡り廊下に人影はない。

「委員長~逃げられました!」

 武たちのクラスの風紀委員が駆け上がったが、既に誰の姿もなかった。

「武、大丈夫か?」

「うん、ちょっとびっくりしたけど…」

「良岑先輩、ちょっと急いで良いですか? 武、ロッカーのジャージに取り敢えず着替えよう」

 10月に入ってグッと下がった気温が、濡れた服を通じて体温を奪っていた。

「急いだ方が良いだろう」

 貴之は話していた携帯を切って答えた。 武がくしゃみをして身体を震わせた。

「武! 風邪ひくぞ、急げ!」

 石の次は水か…と怒りを露わにしながら、正己が武を引っ張ってロッカールームに急いだ。 ずぶ濡れの二人が廊下を駆け周囲を警戒しながら、後に続く風紀委員長に生徒たちが驚いて道をあける。

「!!」

 ロッカーを開けた武が、声なき悲鳴を上げて飛び退いた。

「武?」

「あ…あ…」

「な…」

 恐怖に崩れ落ちた武を抱き起こした貴之は、彼のロッカーを見て絶句した。 ロッカーの中身は鋭利な刃物で引き裂かれた状態で、その上に時間が過ぎて赤黒く染まった血が大量にぶちまけられていた。制服をかけるハンガーには、鳩と思える死体が惨殺され首を失った状態でぶら下がっていた。 ロッカーの扉にはその血で書いたらしい字があった。

 【お前も死ね】と。異様な様子に驚いてロッカーを覗いた正己も言葉を失う。

「板倉、武を外へ」

「あ…はい」

 貴之から武を受け取った瞬間、武が絶叫して手を振り払ってロッカールームを飛び出そうとした。

「武、落ち着け!」

 羽交い締めにして何とか引き止めようとする。 恐らく既に限界は過ぎていたのだろう。 叫びながら暴れる身体を、正己には押さえるだけで精一杯だ。

「武!」

 外から叫び声を聞きつけたらしい夕麿が、血相を変えて入って来た。

「夕麿、夕麿ァ…わあああああああ…」

 ずぶ濡れで半狂乱の武の有り様に、夕麿は事情がわからず戸惑った。 貴之が歩み寄って、武の首筋を手刀で叩いた。 武は小さく声を上げて、夕麿の腕に倒れ込んだ。

「板倉、ちょっと武を頼む。 会長、見てくれ」

 促されて武のロッカーを覗いた夕麿は、余りの惨状に息を呑んだ。これは最早、悪戯や嫌がらせのレベルではない。 明確な殺意すら込められていた。

「都市警察に通報します。 よろしいですね、会長?」

 学院内の事は出来うるだけ学院内で処理する。 それが本来のルール。 都市警察への通報には、生徒会長か学院教職員の許可が必要とされる。

「許可…します」

 無理やり絞り出した声だった。 この状態は夕麿にも衝撃を与えた。

「とにかく…武を外へ…」

 意識のない身体を正己から受け取って夕麿は、生徒たちが騒ぎを聞きつけて集まって来ていた廊下へ出た。 義勝が一緒に出て来た正己に、事情を聞こうとしたその時、夕麿が武を抱いたままがっくりと膝をついた。

「夕麿!?」

 また発作かと慌てた義勝の目の前で、夕麿はゆっくりと顔を上げた。 そこにあったのは、怒りと憎しみに歪んだ顔だった。 普段、夕麿は感情の乱れを露わにしない。 幼い時から制御する教育を徹底して受けているからだ。生徒会室で武絡みのノロケで、感情を出す事はある。武に対しても感情を見せる。だがあくまで生徒たちの前では、冷静沈着で優秀な生徒会長を貫いて来た。

 中等部からの親友の義勝ですら、見た事のない姿だった。

「誰です…こんな…こんな事をしたのは誰です!よくも私の武を…!名乗り出て来なさい!」

 ヒステリックに叫ぶ夕麿なぞ見た事がない。武を抱き締めて周囲を見回す姿が異様だった。

「夕麿、おい、夕麿!しっかりしろ!」

 声をかけてもどこか焦点が合わない目。義勝は咄嗟に夕麿の頬を打った。

「!?」

 夕麿が息を呑んだ。

「私は…今…何を…」

 自分が口走った事はちゃんと記憶している。だが、感情を爆発させた事が信じられない。

「またか!」

 見回すとそこには生徒会の候補生が揃っていた。見えない罠が荊の蔓のように、武と夕麿に絡み付き、残酷に切り裂き続けていた。束縛はジワジワと二人の心を追い詰め始めていた。言い知れぬ闇が残忍な触手を伸ばし、生徒会メンバー全員に絡み付こうとしていた。


憎悪

 あいつが悪い…!

 あいつが悪い…!

 あいつが悪い…!

 あいつが悪い…!

 あいつが悪い…!

 憎い…憎い…憎い…憎い…憎い…!

 お前など消えてしまえ…!

 募り蓄積するのは激しい憎しみ。

 嫉妬…

 夕麿はみんなの憧れだった。

 難攻不落だからこそ彼は素晴らしかった。

 孤高の貴公子。

 それこそが彼の美しさ。

 それを武が乱した。

 奪った。

 不可侵の貴公子を武が穢した。

 冷たく光る眼差しが、穏やかな温もりのあるものになってしまった。

 生徒会メンバーでもある友人たち以外を、凛とした態度で拒絶する姿が消えた。

 武が編入して来て夕麿自らが世話をやいているのが、〈彼〉には奇妙に感じられた。

 夕麿の事は中等部から知っている。

 あのおぞましい事件の被害者のひとりである事も。

 凍り付いた心。

 誰も解かす事など出来ぬと思っていた。

 だが武を前に次第に揺らぎ出したのを、〈彼〉はずっとみつめていた。

 武が慈園院 司と星合 清治の餌食になりかけたらしい。

 彼らが使用した催淫剤の解消の為に、夕麿が武を抱いた事も。

 生徒会がどんなに隠蔽しても、漏れるものは漏れる。

 だがそれから夕麿の態度が一変した。

 突き放されてもがく武を見ているのは、愉快でたまらなかった。

 懸命に自分の心を殺そうとする姿は、滑稽だった。

 だが〈彼〉は気付いてしまった。

 夕麿の態度は迷いから来たものだと。

 離れた場所から武を見つめる眼差しは、深い愛情の色を帯びていた。

 ほどなくして二人が心身共に、結ばれた事を知った。

 そして…夏休みの結婚。

 御園生へ婿としとの養子縁組み。

 帰校した夕麿は別人だった。

 〈彼〉が崇拝に近い感情を抱いていた孤高の貴公子はもう、どこにもいなくなっていた。

 あの夕麿を取り戻せないなら奪ってしまおう。

 だが催眠術にはかかったものの、〈彼〉を組み敷いた夕麿の身体は、欲情のカタチを示さなかったのだ。

 せっかく生徒会の来年度候補に選抜されたのに。

 こうまで夕麿の心を縛る武が憎い。

 だからキィワードと命令を与えて、いつでも発動するように暗示をかけた。

 あの発作は拒否反応らしいが…

 確かに誤算と言えば誤算。

 必要以上に夕麿まで苦しめてしまっている。

 けれど武が夕麿の側にいる限り、嫉妬と憎悪と嫌悪は、一般生徒へ波紋のように広がっていく。

 外の学校のような、形が残るイジメ方をここの奴らはしない。

 陰湿に粘液質な嫌がらせが続く。

 それが間怠っこくて、ロッカーに細工してやった。

 PCの音楽ファイルに入った曲を再生する。

 ショパンの『幻想即興曲』

 昨年の学祭イベントで、夕麿が弾いたものを録音したものである。

〈彼〉はリビングのソファに座って、外部音を完全に遮断せるヘッドホンで聴きしれる。

〈彼〉の脳裏に浮かぶのは、昨年の夕麿の姿。

 武さえいなくなれば、元通りの凍れる貴公子に戻る筈。

 夕麿への執着と武への嫉妬は、既に〈彼〉を狂気の色に染め上げていた。

 次はどのようにして、武を苦しめてやろうか。

 順番に生徒会メンバーを傷付ければ、それが〈彼〉の仕業だとわかれば、武はもっともっと傷付くだろう。

 苦しめば良い。

 苦しんで苦しんで、壊れてしまえば良い。

 お前なんかいらない…

 お前なんかいらない…

 消えてしまえ!



 都市警察に通報した事で、学院は中等部・高等部・大学部の総てが緊急休校になった。 武と夕麿の身分を考えれば、当然の処置ではあるが…警察官が二人の護衛に付き、寮の部屋にまで入り込んで来た。

 武はショックのあまり不眠症に陥っていた。 眠っても酷くうなされ時には悲鳴を上げて飛び起き、暗闇やひとりでいるのを恐れるようになった。 睡眠は誘発剤で何とかなったが、寮の部屋から出て行けない状態が続いていた。

 その日、昼食後に生徒会執行部が全員、二人の部屋に集合した。 休校であっても、生徒会で積もり積もった業務を処理しなければならない。 特別に書類の移動と、夕麿たちのPCを生徒会のPCにアクセスして、リビングでの業務になったのだ。

「学祭イベントだが…今年はどうするんだ?」

「会長~ピアノ演奏は今年もするんだよね?」

「嫌だと言っても、執拗にリクエストが来るぞ」

 麗と義勝がニヤニヤと笑いながら言う。

「断れないのはわかってます」

 ソファに座って書類をまとめていた武が、嬉しそうな顔を向けた。 ここのところ、ふさぎがちだった彼の笑顔に、全員がホッとした顔をする。

「夕麿、ピアノ演奏するの?」

「多分」

「会長は去年も演奏して、後で録音データが学祭中に広がったんだよ、武」

「え、俺、それ欲しい」

「生で演奏してもらえば?」

 麗の言葉に武が夕麿をチラリと見た。

「わかりました…でも、武に聴いていただくならピアノを移動させないと」

「待て…俺たちで移動させるつもりか!? あれは戦前に造られたベヒシュタインだろうが!」

「リビングの中央に引っ張って来るだけですから。 手伝っていただけますよね?」

 夕麿は控えていた警察官にまで笑顔で威圧する。

 ベヒシュタインというのは、世界三大ピアノのひとつである。 リストやドビュッシーが絶賛した音色を持ち、戦前に造られたものは名器中の名器と呼ばれ、『ピアノのストラディバリウス』とまで呼ばれる名器である。

「傷付けたら大変な事になるだろうが! 寮の部屋を移動する度に高額の費用がかかる化け物ピアノが…」

「義勝、早く手を貸して下さい」

 文句を並べ立てる義勝に、怒りのオーラを振り撒きながらながら夕麿が促す。

「はい、手袋」

 素手で触れる事すら嫌う、それだけで音の響きが変わるのだ。そういえばこの部屋は常に湿度と温度が一定以上に上がったり、下がってしまわないようにしてある…と、あれはピアノの為だったのか…と今更ながら武は気付いた。

 ゆっくりとピアノがリビングの中央に移動した。

「ご苦労さまです」

 満足げに微笑みかけ、夕麿は自室に楽譜を取りに行く。

 その間に全員が飲み物の用意をした。

 夕麿は持って来た楽譜の山からひとつを手にしてピアノの前に座った。

「15分ほど時間を下さい。 義勝、蒸しタオルをお願いします」

 ピアノを弾くにも準備運動のようなものが必要で、夕麿の指先が軽やかに鍵盤の上を踊って美しい音を奏でていく。

 雅久が小首を傾げた。

「データのピアノと、かなり音色が違いますね?」

 色聴能力者の雅久が言うと、本当に音が違うのだと思う。

「ええ、イベントホールのピアノはスタンウェイですから。 ベヒシュタインはホールには向かないピアノなんです。

 まあ…最近のものは金属フレームなどを入れて、大きな場所でも響くような仕様になってますが…あれはもはやベヒシュタインではありません。

 スタンウェイはコンサート向きのピアノですから、どこにでも普通にありますね」

「夕麿」

 義勝が差し出した蒸しタオルを受け取り、しばらく指を温める。 それからまた、鍵盤に向かいゆっくりとした練習曲を奏でる。

「本当になんて美しい音色でしょう」

 雅久は音の響きと共に乱舞する色彩に、ウットリとした顔をする。 それを見た警察官が喉を鳴らしたのを、義勝が一瞥いちべつして牽制する。

「お待たせしました」

 楽譜を開きながら夕麿が言うとすかさず義勝が傍らに立った。 何故かいつも、夕麿の演奏時に楽譜を捲る役は、義勝がつとめていた。

 夕麿は鍵盤の上手を置いて、深く息を吐き目を閉じた。 しばらくして指が鍵盤を叩き、『幻想即興』の激しいメロディーを奏で始めた。

 ショパンの名曲である『幻想即興曲』は、激しい音の移り変わりとフォルテシモの音を要求する。 なかなかに体力が必要な曲である。ピアノの鍵盤は重い。 鍵盤を指で叩く事でハンマーが持ち上がり、中の弦を叩く事で音が出る為である。 昨今は電子ピアノが横行しているが、古く音色の良いピアノ程鍵盤は重い。 故にピアニストは意外に力持ちであるが、指を傷めるのを嫌う為、あまり重いものは持たない。 ピアニストと握手をすればわかる。 繊細に見える指が力強く、それなりの筋肉を持っている事を。

 夕麿も多分にもれずこの前のように激痛にもがくのを押さえ込むのは、力のある義勝か貴之でないと不可能だったりする。 武では到底太刀打ち出来ないのだ。

 最後の1音が空間に溶けて行くまで、誰もが息をする事すら忘れていた。 名器ベヒシュタインの音色…というのもあるだろうが、夕麿の演奏は充分プロとして通じるレベルのものだった。

 実際に彼は自費で外部からの教授を呼び寄せて、週に何回かのレッスンを受けていた。

「夕麿…音大に進学したら?」

「それも魅力的ですが、御園生財閥を思うならやはり経営学になりますね」

「何言ってんの! もったいない!」

「武、世界にはもっともっと、素晴らしいピアニストがいます。 演奏は好きですが、職業にするつもりはないんです」

 武と出会う前には売れないピアニストでも構わない…と思った時期が確かに存在した。

 だが今は違う。 武と共に歩く、御園生の後継者としての未来が存在する。 自分の能力を余す事なく発揮出来る場所を、与えられた喜びはピアノを演奏する喜びを既に凌駕していた。 ピアノを捨てる気はない。 だが、身近な人々に楽しんでもらえるレベルの演奏で今はもう満足なのだ。

「不公平だよね~神さまってさぁ」

 麗が呟く。 それに武が頷いて同意した。

 夕麿が苦笑する。

「言っておきますが、私にも出来ない事はたくさんあります。 ただ、私は負けず嫌いなので、何でもやろうと手を出してしまうんです。 お陰でどちらかと言うと、器用貧乏、多芸の無芸になってしまいました。

 むしろ雅久の方が、スペシャリストでしょう?」

「そうかなあ…? ね、雅久先輩は何かするの?」

「舞いか和楽器のどちらにするか、迷っています。 どちらも忘れてはいないようなのですが…ちゃんと出来るかどうか…」

 不安な面持ちで口ごもる。すると夕麿が細長い木箱を雅久に差し出した。

「これをあなたに渡そうと思っていたのですが、ここのところの騒動で失念していました」

「これは…?」

「開けてみて下さい」

 中に入っていたのは、長い歳月に染まった龍笛であった。

「おい…夕麿、これは六条家の¦忍冬《すいかずら》だろうが!」

「そうですよ? それを亡き祖父から譲られたのは私ですから。 私のものなんです。

 第一、誰かさんに売り飛ばされかねないので、ずっと前に持ち出しておいたのですが。 私が持っていても宝の持ち腐れですので、雅久。 あなたに差し上げます。私の代わりに吹いてあげてください。どんな名器も演奏する者がいて、初めて存在する意味があるのですから」

「よろしいのですか…?」

「亡くなった祖父も喜びます」

「ではお言葉に甘えまして」

 雅久は譲られた龍笛『忍冬』を、目を細めて抱き締めた。 奏でる者にとって、名器との出会い程、嬉しい事はない。

「ゆっくりと語り合ってから、お聴かせいたしますね」

 柔らかな笑みが交わされるのを見て、武は少し羨ましくなった。

「良いなあ…俺、楽器は全然だから羨ましい」

 そう誰に言うとはなく呟いて、テーブルの上の楽譜の山を覗く。

「で、こっちは何だ?」

 義勝もそれに視線を移して、眉をひそめて聞いた。

「慈園院 司の遺品です。 古い映画の曲がほとんどですが…どれも彼らしい、美しくて哀しい曲ばかりです。 題名は知っていますが、さすがに映画の内容までは知りません」

「へえ…」

 どれどれとみんなが楽譜を手にする。

「慈園院の追悼を兼ねて、今年はその中から何曲か演奏しようと考えています」

 と言われても楽譜をさほど読めない武には、よくわからないし知らない曲ばかりに思えた。 ただ大切にされていた形跡があり、楽譜のあちこちに司のものらしい、繊細で神経質な感じを受ける文字の書き込みがしてあった。

「あ…これ、知ってる。 母さんの好きな曲だ」

「お義母さんの?」

 武の手にしている曲を見て、夕麿は納得した。『love Story』 ……日本題『ある愛の詩』

「なんかね、思い出の曲だって、よく唄ってたよ?」

「思い出の曲…亡くなられたあの方との思い出でしょうか」

「えっと…お父さんの?」

「恐らくは。 歌詞を覚えていますか?」

「多分…」

「では唄って、武」

「え!?」

 驚く武に有無を言わせないで、夕麿はピアノに向かい、演奏を始めた。

 【Where do I begin to tell the story of how great a love can be………】

 武の歌声に全員が目を見張った。 澄んだ優しい声だった。 唄い終わって真っ赤になった彼に、全員が賞賛の拍手を送った。

「武、知っていますか? 最高の楽器は、人間自身の喉であると言われているのを」

「確かにそうですね。 人の声ほど、美しい色彩を持つ音はないように思えます。

 武君の歌声は素晴らしい色でした」

 雅久の言葉に武は一層赤くなる。 夕麿はそれを笑顔で見つめてから、ピアノに向き直った。

「この曲には日本題の歌詞もあります」

 今度は夕麿の歌声が、ピアノの音色に重なる。

【 海よりも  美しい愛があるのを  教えてくれたのは  あなた  この深い愛を私は  唄うの

 いつかしら  最初に声かけてくれた  あの時のあなたは  私の世界に  光といのちを与えた…………】

「うわっ、また、ベターな歌詞だねぇ」

 麗が吹き出すと、貴之と義勝はげっそりとした顔をする。

「俺…砂吐きそう…」

「俺なんざ、砂糖を吐きそうだ…」

 何でこうなる…と言いたげな視線の中、夕麿は上機嫌の顔で武に言った。

「次に帰った時には、お義母さんに聴いていただきましょう」

「うん、きっと喜ぶよ」

 こうなるともう二人の世界になる。 これではたまらない。

「で、他にはどんな曲があるんだ?」

 それを何とかしたくて、義勝が唸るように問い掛ける。

「そうですね…これが一番のお気に入りだった可能性があります」

 次に奏でられたのは、美しいが繊細で哀しい調べだった。

「……『Windmills Of Your Mind』…ああ、『華麗なる賭け』の主題歌か」

「よく知ってますね、義勝?」

「まあな。 だが、何でお気に入りだったと思うんだ」

「書き込みが他より多い上に、歌詞まで手書きで書き込まれていますから。」

「どんな歌詞だ?」

「会長、聴かせて~」

【 Round like a oircle in a wheol Never ending or Beginning on an ever-spinning reel…………】

「これはまた、変わった歌詞だな」

「らしい…と言えば、らしいが…」

「はい、1年生。 今のを訳して」

「え…えっと…【渦巻く円のように回り、 車輪の回転のように、 いつまでも終端にたどり着かず始まりもない、 いつまでも回り続けるリールのように……】

 ってうわ、不毛な歌詞」

 まるで終わりのない、迷路をぐるぐると彷徨うような歌詞だった。

「これが恐らく、彼の、行き場をなくした心そのものだったのでしょう」

「他にはどのような曲が?」

「書き込みが多かったのは、『シェルブールの雨傘』とか『MORE』とか…です。 クラシックではシュトラウスの『南国の薔薇』や『美しき青きドナウ』の楽譜が、細かくチェックしてありました」

「真逆な曲だな。 『南国の薔薇』なんかは、派手で華麗なものが大好きだったあの人らしいが…」

「こうされては如何でしょうか? それらの曲を歌も入れて演奏するというのは」

「あ、それ賛成! 会長の歌なんて、学院中の生徒垂涎ものだし! ついでに武君もさっきの唄ったら、生徒会のノルマ果たせるよ?」

「……俺が…唄うんですか…麗先輩? それにノルマって何です?」

「あれ、言ってなかったっけ? 生徒会のメンバーは全員、イベントで何かやらなきゃダメなんだよ?武君、何かやるものあるの?」

「いえ…ないです…」

「じゃ、決まりだね、会長。 武君も会長と一緒なら、まだ気が楽でしょう?」

 麗に畳み込まれるように言われるとぐうの音も出ない。

「一曲…だけなら…」

 楽器も弾けないし踊れるわけでもない。 隠し芸ももちろんない。 机に向かってひたすら勉強して、成績を上げる事しかやって来なかった。 何かしろと言われたら確かに困ってしまう。

「一曲で充分ですよ、武」

 大切な人の美声をそんなに簡単に聴かせたくはない…夕麿にすればそんな想いもある。

「さて、生徒会業務に戻りましょう」

 ピアノの蓋を閉め、小さな傷などを防ぐ為に、柔らかな布製のカバーをかける。 義勝がそれを手伝い、他のみんなはテーブルのお茶を片付けた。 再びソファに全員が座ったところで、武が言った。

「録音データが広がるって事は、ニーズがあるって事だよね?」

「そうだけど、どうしたの、武君? 何か思い付いたわけ? 聞かせて、聞かせて~」

 麗は武の発想力を面白いと思っていた。

 武は録音データをCDとして、『暁の会』の寄付金の礼に配布しようと言い出した。 慈園院 司の追悼の演奏会であるならば、学院都市内に『暁の会』の事を広める為にも都合がよいと。

「武、今のところ資金は豊富にあります」

「使う金額が半端じゃないから、すぐ尽きてしまうよ? 俺たちが未来永劫に資金提供出来るわけじゃないし。 いつか…を考えて、今から出来うる限り の事はしておきたい」

 未来永劫…そう言われて夕麿は言葉を失った。 つい最近まで見ないふり、考えないふりをしていた為、そういう眼差しを忘れていた。

「どれくらい作るんだ?」

「希望に従ってで良いと思うけど?

 録音データだから、後渡しになるわけだし…その辺は臨機応変で良いんじゃないかな」

「わかりました。 生徒会は全面的に『暁の会』を支援する決定をしましたから」

 現在の『暁の会』の学院側理事は、生徒会執行部に所属する者だ。 外部理事は武の祖父を名誉理事長に、御園生 小夜子が務めている。

 現在、白鳳会を中心に、『暁の会』の説明をすすめている状態である。 学祭イベントを利用して、広報活動を行おうと言うのである。

「わかった、次の学祭執行委員会に出してみよう」

 義勝が約束した。

 慈園院 司と星合 清治の悲劇を繰り返さない為にも。 過去のたくさんの生徒たちの涙の為にも。

 彼らは今一度、楽譜の山を見つめた。 そこに慈園院 司と星合 清治がいるかのように。

 生徒会業務は19時に終了した。 その後、全員で食堂に降りて夕食を摂る事になった。混み合う時間帯だが、2階の奥が生徒会の専用テーブルになっている為、混雑に左右される事はない。 見ると正己たちも2階で食事を始めたばかりらしかった。

「あ、お疲れさまです」

 正己が立ち上がって挨拶すると、みんながそれに習う。 すっかりまとめ役になっている感じだ。

「失礼します」

 そこへ声をかけて来たのは、温室で会った赤佐 実彦だった。

「これをもらっていただけないかと…」

 警護の警察官に合図して、実彦の手にある物を受け取らせた。

「薔薇?」

 それは和紙に包まれた、薔薇の花束だった。

「来年の初夏まで花を咲かせないように、この時期に枝を切るんです。

 私たちはそれをいつもいただいていたのですが…お持ちしたのは司さまの為の品種で…出来れば夕麿さまのお部屋にでもお飾りいただけたら、司さまも喜ばれると思えるのです」

 横から武が覗き込んで、緑がかった白薔薇と紫色の薔薇に感嘆の声を上げた。

「わかりました。 喜んでいただきます。

 この薔薇の品種名を教えて下さい」

「白い方は『緑光』と申します。 緑がかった白い花びらが美しいと、司さまが大変愛でられたら品種です。

 紫色のはブルームーンと言って、世界で初めて創られた青みかがかった色の薔薇です。 星合さんが司さまのようだと申されて、大切になさっていました」

「名前も綺麗だね」

 武はあのロッカーの件から、数日ぶりに部屋から出られたのである。 生徒会執行部と一緒だと言うのが、安心の原因なのは明らかだった。

 薔薇の花束の贈り物は、武の心を和ませた様子だった。

「ありがとうございます、赤佐先輩!」

「此方こそお受け取り下さいました事を感謝致します」

 繊細な感じのする彼は、穏やかに微笑んでその場を辞した。

「綺麗だし…良い香り…」

「寝室に飾りましょう」

「うん」

 薔薇の花束を嬉しそうに抱きかかえる武は、よく見ると少しも食が進んでいない。

「武、やはり喉を通りませんか? 今少し食べないと、本当に倒れてしまいます。 点滴の栄養だけでは、体力が持ちませんよ?」

 シャツで隠しているがすっかり痩せ細った腕は、度重なる点滴の跡が痛々しい状態だった。 他のみんなから隠せても、夕麿は全部知っているのだからどうする事も出来ない。

「ごめんなさい…」

「叱っているのではありませんよ。 あなたの身体が心配なのです」

 夕麿は武を雅久に任せて、消化の良いあっさりとした物を選んで皿に取って来たのだが、それすらもわずかに口を付けただけだった。

「もう少し頑張ってみる…」

 無理もない…とは思う。 特に鶏肉や鴨肉の料理は、見るだけで吐く程の拒絶反応を示す。 赤い食べ物もダメ。一番減っているホワイトソースとチーズのリゾットは、武に渡す前に海老や人参、パプリカなどの赤いものを全部取り除いた。 頑張ると言って、武が食べたのもリゾットだった。 牛肉などの肉類も、口に入れて咀嚼までは出来るが、飲み込めない。 今は食べると言うより、流し込む状態だった。

 夕麿も武の前では、肉類全部に手をつけないように注意していた。 武はかろうじてリゾットだけは、皿の中の分量を飲み込んだ。 夕麿はそれを喜んで見せ、誉めて、それ以上の無理強いはしなかった。

 武はみんなが食べ終わるまで好物のオレンジ・ジュースを飲みながら、懸命に皿の他の食べ物をつついて、食べれそうならば口に入れていたが、そのうちの幾つかは、嚥下出来ないらしく口から出してしまっていた。

 自分の身体が自分のものでないようなもどかしさ。 それ故に夕麿を困らせ、みんなに迷惑をかけていると感じていた。

「武君、これはどうですか?」

 雅久が差し出したのは、シナモンの香りが漂う焼きたてのアップルパイだった。

「良い匂い…」

 武はそれをフォークで切り取って口に含んだ。

「ン…美味しい…」

 笑顔が零れた。 夕麿が驚いて雅久を見る。

「オレンジ・ジュースは普通に飲まれていますから、フルーツは大丈夫だと思いました。 シナモンの香りは食欲を刺激しますし」

「雅久先輩…ありがとう」

 美味しいと感じて食べれる物がまだあった事に、武は涙ぐむほど喜んだ。

「雅久、私からもお礼を言います」

「いえ…私も食が細いですから、何となく試してみただけですから」

 柔らかい笑みを浮かべて、雅久も喜んでいた。

「オレンジ・ジュースだけではなく、野菜ジュースなども試してみられたらどうでしょう? 甘い物も私は食が進まない時に、カロリーを摂取する為にいただきます」

 雅久は雅楽の舞である、舞楽を生業とする。 舞は体力がいる。 激しい舞よりも、静かに静かに一挙手一投足にまで神経を使う舞ほど、削ぐように体力を消耗する。 食の細い彼は、必要なカロリーを甘い物で補って来た。 そうしなければ、体力が続かない。

「サプリメントも私は使っていますが…武君には無理そうですね」

 稀有の天才…とまで賞される雅久の舞が、そのような努力の上に体力を保っていると聴かされて武は驚いた。 夕麿はかつて中等部時代に同室だったので、雅久のそのような姿は熟知していた。 が、記憶を失った今でもそれを実行しているというのは…と義勝を見ると、彼はしっかりと頷いた。 全ては彼が教えたらしい。 ゆっくりと時間をかけて、と言った意味がこれかと夕麿は納得した。

 悪い事ばかり起こっているわけではない。 良い方向へ動きつつあるものもある。

 それは夕麿を勇気付けるには充分だった。 次々と起きる事に武が傷付いて、守り切れない事に歯痒さを感じていた。 それではダメなのだと、改めて義勝に教えられた気がした。

 掴み損ねていたアリアドネの糸を、見つけた気がした。

「武、たくさん頑張りましたね。 嬉しいですよ。 後でたっぷり、ご褒美をあげましょう」

 耳元で囁かれた言葉に、音がしたのではと思うほど、瞬時に武が真っ赤になった。

 それを見て、またか…と言わんばかりに、全員が天井を仰いだのはいつも通りだった。


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