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明日の為に
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二日後、一通りの検査をクリアして玲は退院した。結果が出たものは全て異常なしで、結果待ちのものも異常はでないだろうとの診断での退院だった。
もう荷物は全て運びアパートも解約したと告げられ、半ば強制的に樹の新しいマンションに連れて来られた。与えられた部屋は1DKだったアパートの部屋よりも広い。部屋を荒らされた一件以後は、電化製品以外は備え付けの家具だったので、整えられた真新しい高級家具に囲まれてどこか落ち着かない。ゆえにほとんどリビングで過ごしていた。そのリビングにしてもアパートの部屋が3~4室入りそうな広さだ。誰もいない、一人で過ごす時間は酷く寂しい。
玲が入院中は仕事を控えてくれていたのだろう。樹はここへ玲を送った日から、早朝から夜遅くまで仕事に追われている様子だった。夜は待っていられるが、朝は玲がまだ眠っている間に出かけてしまう。当然ながら互いに別々の部屋で眠り、食事も共にする事がない。そうなると玲は不安になって来る。疑ってはならないと繰り返し自分に言い聞かせるのだが、長い間に刷り込まれて習慣化している『自己否定』が奥底から頭をもたげてくる。
『やっぱりあの場を収める方便だったのだ』
『やはり女性の方がいいに違いない』
『玲の存在は単なる迷惑でしかない』
否定しても否定しても、もう一人の自分が囁く。同時に異母兄が夢に出て来て同じ意味の言葉で、玲を激しく罵り続ける。
眠れない。眠りたくない。だから樹の帰りが何時になろうとも起きていられる。次の日の早朝に出て行く彼の為に、レンジで温められればよい朝食をつくって置く事もできる。それでも最後には睡魔に負けて眠り込み、悪夢にうなされて目が覚める。時には否定する自分の叫びで飛び起きる。自室が嫌でリビングにいても、いつの間にか眠ってしまう。結果は同じ事の繰り返しだ。
時々、バイトがない時に要が来てはくれる。だが彼も家を出る決心をした為に、かつての玲のように掛け持ちでやっているらしい。どこか疲れている様子の彼にわがままも相談もできない。ただ建物の外はおろか、1階のエントランスにも降りてはダメだと言われている玲は、彼に足らない食材等の購入を依頼するのはやめられなかった。
自分の食事はあるものでいい。けれど樹の為の朝食は外食続きの彼の為に、栄養のバランスと消化に良いものをつくりたかった。
要が来ると一緒に夕食を食べる為、きちんと料理をする。さも毎日、自分の分だけでもつくっている顔をして。
「兄さん、まだ忙しいわけ?」
「うん。毎日、疲れた顔で帰ってくる」
「そっかあ......俺たちは学生だし、まだまだ世間知らずだから何も出来ないのが悔しいな」
「そう......だね」
要は樹の会社等の事情を知っている様子だが、玲は何も聞かされてはいなかった。
「顔は見れてるんだ!」
「夜だけね」
「ふーん」
「何?」
「顔見るだけなんだ?」
と言って要はニヤニヤと玲の顔を眺めた。
「そう......だけど?」
恋愛絡みのからかいを知らない玲は、彼が何を言いたいのかわからない。
「寂しかった~って抱きついたりしないわけ?」
「はあ!?」
「甘えればいいじゃん」
「むむむむ無理無理無理!樹さん、疲れてるのに!」
真っ赤になって狼狽する玲を見て、要が笑い転げる。
「何で!」
抗議の声をあげるが、要は笑い続けている。どう対応して良いのか玲が戸惑っていると、要がポツリと言った。
「兄さんが玲にデレデレになったの、物凄~くわかるわ。お前が女なら俺でも惚れる」
「え?」
「俺はストレートだからさ、同性に惚れるのはないけど。玲って恋愛すると滅茶苦茶可愛いのな」
「かかかかか、かわかわかわ……」
言われた言葉にアワアワと戸惑い、身悶えする様がなんとも愛らしい。玲自身はまるっきり無自覚で、要がこれまで見て来た彼とは余りにも違い過ぎた。
「こっちが本当のお前なんだな」
「……」
彼が言っている意味はわかってはいる。これまでの玲はすぐに崩れてしまいそうな気持ちを厳重に箱に封印して、さらに強固な鎧を心に被せて強気である様に振舞うのを心掛けて来た。そうしなければ生きては来れないと考えてもいた。この大都会で頼る術も人もなく、未来への希望も展望も存在してはいなかった。
図書館の司書を希望していたのは本が好きだというのもあったが、サラリーマンよりは人間関係が希薄に見えたからだ。もちろんこんな事を考えているのを知られたら、きっと怒られるだろう。
要に出会い、樹に出逢って、薄皮を剥ぐように鎧が壊れて行った。友人の優しさに触れ、『愛人契約』という形であっても自分をそうの様に求められて、触れ合う温もりを知って全てがなくなった。残ったのは封印を解かれて開いた箱の中で、知ってしまった想いと絶望と再び孤独の中に投げ込まれた事に、ただ膝を抱えて震えるしかない弱く脆いだけの自分。
一木 茉莉子が現れて連絡が取れなくなった樹に続いて、要との友人関係も失う可能性が出て来てた。彼女には精一杯反論してはみたけれど……その言い様があまりにも異母兄に似ていたのもあって、言葉とは裏腹に心はくじけてしまっていた。割れたマグカップは自分の心の象徴のように感じた。組み立てて接着しても足らないパーツがあって、どんなに形を合わせても元の姿にはならない。
血の繋がらない従兄弟たちに再会して、あのような状況になって思ったのは、決して逃れられないものが人生には存在しているのだと。それでも樹との想い出を穢されるならば、逃れられない人生からの唯一の逃げ道としての『死』を望んだ。あの時の玲にとっての唯一つの選択肢だった。
「玲?お~い、聞いてる?」
要に覗き込まれるようにして言われて、自分が考え込んでいたのに気付いた。
「あ、ごめん......何の話?」
「いや、大した話じゃないんだけど......なあ、何が問題?」
「え?」
「凄く悩んでますって顔してた」
「......」
「兄さんには言えない事?あ、言う時間ないか、今は」
「ううん......ボクの問題だから」
「だったら話しなよ。もう俺たちは家族なんだからさ」
そう言われて思わず要の顔を見た。彼は頷いてにっこりと笑った。
「遠慮はやめてくれよな?俺は後悔してんだ」
「後悔?何を?」
「まずは兄さんに確認しないであの女の事をお前に話した事。で、もっと側に付いてて守れなかった事......とかさ」
「要がわるい訳じゃないと思うけど......あの女ひとの事は要もわからなかったんだし......ボクが連れて行かれたのは、要には関係ない事だよ?たまたまあのタイミングだっただけだと思うから」
「それでも俺はもっとなにかできたんじゃないのかって、後悔しかないんだよ!」
「ごめんね」
「何で謝るわけ?玲は悪くないだろ?」
「でも原因はボクだから」
「確かにあの従兄弟とかってのはお前絡みだけど、あの女は関係ないだろ?」
「でも......」
少なくとも自分さえいなければ、茉莉子の件はああも複雑にはならなかったはずだ。
「それさ~兄さんに構ってもらえなくて寂しい~って病気だろ?」
「え?」
「余計な事ばっかり考えちゃうんだよな?わかった、兄さんに伝えとく」
「え?え?」
玲には要が言っている意味がわからない。だが自分の不安定さを樹に言われるのは、多忙な彼に迷惑をかけてしまうからいやだと思う。
「えっと、よくわからないんだけど......樹さんに言わなくていいよ?忙しいんだから、迷惑かけたくない」
と取り敢えず釘を刺しておいた。要は不満そうだったが玲が睨んだのでそのまま黙った。
「大学復帰は四月から?」
「だってもう講義終わってるでしょ、今期のは?」
「まあね。お陰でバイト三昧だけどさ、俺は」
「もう少ししたら卒業絡みのパーティ増えるよね?その辺からバイトは復帰したいんだよね。ここにいつまでもこもってるのは嫌だから」
「だろうな......ジムとか利用しても限界あるだろえし」
「うん、それ。ボクさ、鍛えても筋肉太んないの」
「へえ~ま、ムキムキの玲は想像つかないけどさ」
「何それ、何気に酷くない、要?」
「何で?」
「ボクだって男なんだからもうちょっとこの細いだけの身体、なんとかしたいと思うよ?」
「そんな事したら兄さんが泣くよ?折角の美人がだいなしになるあって」
「美人って......ボク、女の子じゃない」
自分の容姿が人の目を惹くらしいのは、玲も自分自身で自覚はしている。しかし『美人』と呼ばれるのは嬉しくはなかった。
「はいはい、ごめんなさい」
両手を上げて頭を倒してそう言った要の頭を、玲は傍にあった雑誌を手に取って軽く叩いた。
「悪いとは思ってないくせに......」
「イヤだって......玲の顔って俗に言う『イケメン』とは違うと思うし、美青年って逆に妖しくない?」
「妖しいって......ボクは妖怪か何か?」
「あの兄さんを変えちゃったんだから、なんと言われても文句は言えないんじゃないかな?」
実は玲、要のこの言い分が今一つ理解できない。玲にとっての樹は優しい人間だからだ。
「あのね、それって酷くない?実のお兄さんでしょ?」
「何が?兄さんが男として酷い奴だったのは、『契約』なんてさせられた玲が一番知ってるでしょ?」
「あれはボクを援助する為だよ。何もなくお金もらうのボクが嫌ってたから......」
「はいはい、誤魔化さないの!親切心から援助するのに、なんで身体を要求するの?普通に考えて非道な行為でしょ!」
あの頃、樹の申し出に戸惑った記憶はある。だが彼を『酷い』とは思った事がない。自分の気持ちに気が付いてショックを受けたし悩んだ。樹に背を向けられるのが怖かった。
「あれ?玲、兄さんを酷い奴だって思ってないの?」
「......うん」
呆れられるのを覚悟で頷いた。
「うわっ!何それ!兄さんって付き合う相手にそう思わせちゃうわけ?それとも玲限定?」
「だ・か・ら!何で樹さんの事を酷いって言うの、要。うちの異母兄ならまだしも、樹さんはいい人じゃないか」
「そりゃ、異母兄と比べたら大抵の人間は善人になるよ。玲、基準がそもそもおかしいの!」
それはわかっているが......樹は酷いと言われるような人間とは思っていない。
「ああもう!わかった、わかった。まったく......完全に痘痕もエクボだな、お前」
「うるさいよ、要」
再び赤く頬を染めた玲は、誤魔化すように冷めきった紅茶を飲んだ。
「ホントに可愛いよな~玲は」
「可愛いって言うな!」
「はいはい」
ニヤニヤ笑う彼を憎たらしく思うけれども、反論ができない玲は俯いて火照る顔を隠すか、相手を睨む事しかできない。しかしその有様もまた要が『可愛い』と思うのだとは気付かずにいた。
要は夜9時を過ぎた辺りに帰って行った。
散々からかわれたが、彼がいなくなった部屋は閑散として静かだった。かすかに空調の音が聞こえるくらいで、TVを観ない為に他の音はしない。
玲はしばらくリビングのソファで膝を抱えて座っていたが、気を取り直して立ち上がった。キッチンに立って帰ってくる樹の夜食と朝食を作り出した。樹は夜食はほとんど摂らないが、一応は用意しておく。残っていたら次の日の玲が朝食にする。逆に朝食は必ず食べて行く。食器は軽く洗って食洗機に入れておいてくれる。
玲には樹は優しいと感じる。食器はテーブルに残してくれていても、玲は普通に思える。玲が大学に復帰したりバイトを再開したら、こういう心遣いは普通に感じるのかもしれない。けれども今はこの部屋で一日中過ごしているのだから、何もかもを任せてくれてもいいのにとさえ思ってしまう。
食事をつくり終えるとバスルームに向かう。大きなバスタブに湯を張って入浴剤を入れて、ゆったりと湯に入った。脱衣場で眺めた自分の身体の怪我はまだまだ生々しい。青黒いアザ。首の指痕。ジッと見ていると気持ち悪くなるので、早々に目をそらせてバスタブに逃げ込んだ。
樹は書類の整理が一段落して、背を椅子に預けてホッと息を吐いた。両親からの嫌がらせを予想して、社は御園生が所有しているビルに移転した。以前よりも広くなったが、移転後の整理やら足らなくなった人員の補充やらで四苦八苦していた。
以前にメインバンクとして利用していた銀行が、取引の中止を一方的に言って来た。既に御園生が推奨している銀行に替えて、両親へのダミーに残していただけなので、即刻解約した。預金残高もほとんど残ってはいない。これに騙されて圧力をかけたつもりでいるのだろうか?もちろん社は今は御園生の傘下で、樹は経営を任されているに過ぎない。当然ながらこの事は本社に報告した。両親だからと手心を加えるつもりは無い。第一、樹に圧力をかける余裕はそろそろなくなって来ているはずだ。
前々から計画していた事ではあるが、本来はもう少し時間をかけるつもりだった。もっと社が軌道に乗ってから......と。しかし玲の事や母親が結婚相手をゴリ押しして来たのを見て、道を塞がれる前に手を打つ必要が出て来た。友人の伝をつかってまで御園生に身売りしたのは『寄らば大樹の陰』だった。御園生を現在実質的に動かしているのは誰であるかは知っているし、彼らの後ろには経済界の頭ドンと呼ばれる人物もいる。両親共に安易に手を出せないのを見越しての決断だった。佐伯も一族と縁を切ってまで自分についてきてくれた。だからこそ潰される訳にはいかない。
同時に御園生から仕事が回って来るので、事業としては良い方向へ動き出した。御園生関連のみの請負ではなく、これまでの顧客も受けて良い約束になっているので、登録人員を増やす事になった。同時に大学を卒業した登録者を社員として雇用した。困ったのは最高ランクの登録者の補充がなかなかに難しい事だった。教育は順次してはいるが、それでものになるのはわずかだ。残念ながら持って生まれた資質と育った環境に培われた立ち振る舞いは修正が難しい。時間をかければ何とかなる者もいるにはいる。だが今はその時間がないのだ。
樹は初めて玲に会った時を思い出していた。容姿の美しさはもちろんだが、その立ち振る舞いの美しさにも目を奪われた。彼の異母兄にはそれ程の品位は見られなかった。あれはどこから培われたものなのだろうか?そういう観点でみれば本当に不思議な子だと思う。
ぼんやり物思いにふけっているとデスクの上でスマホが振動し始めた。手に取って見ると要からのメールだった。
『玲に会った。心持ち痩せた気がすんだけど?
それにちょっとした拍子に寂しそうな顔をしてた。兄さん、忙しい理由もなにもわかってるけどさ、玲を一人ぼっちにずっとしてるんなら意味なくない?
玲の為なはずだよね?だけどこのままだと玲は良くない結論出すかもしんないけど?
ホント、いなくなっても文句は言えないんじゃないかな?絶対に悪い方向へ考えが行ってるよ、あれは?
あんな広い所に一人で閉じこもってたら、俺でも病むよ。一日だけでもいいから早く帰ってやんなよ。
俺の親友、大事にしてくれよな?』
『いなくなるかも』と言われて、樹はスマホを握りしめたまま愕然とした。そこへ佐伯が「これなんですが......」とファイルを手に入って来た。
「どうかなさいましたか?」
思わずスマホと佐伯を交互に見てしまい、彼が軽く眉を動かせて聞いてきた。樹は無言で要からのメールをスマホを手渡して見せた。
「要様の仰る事は一理ありますねえ......秋月君は言わば『幸せ慣れ』してない人ですから。それにお伺いした異母兄という人物の物言いから判断して、マイナス方向へと思考するようになってるんではありませんか?」
「わかってるつもりだったのだが......」
「ここのところ、殺人的な忙しさでしたから。旦那様と奥様の動向も気になります。もしかしたら既に秋月君の事を突き止めていらっしゃるかもしれません」
「多分、突き止めているだろうと私も思っている」
「あちらと秋月君、双方への第一の対策として、まず婚姻届を出されるのをオススメします」
「なるほど......先に既成事実をつくる、か」
「秋月君はそれで一安心するでしょう。あちらへの牽制にもなりますし、同性婚したという理由で投げ出してくださるかも。少なくとも奥様の対策にはなるでしょう」
「ははは......あの人がキレそうだ」
「思う壷ではありませんか」
「確かに」
「では本日はこのままお帰りになられてください。明日は午後からご出社を」
「任せていいか?」
「はい」
「じゃ、頼んだ」
樹自身、忙しさに玲と会話すらままならない状態に行き詰まった感じがしていた。それを仕事で必死に誤魔化していたのだが、部屋に一人でいる玲の現状まで気持ちが回ってなかったのだ。
近くで大慌てで荷物をまとめて飛ぶように帰って行く樹の後ろ姿を見て、佐伯が普段の鉄面皮からは想像できないくらいに笑っていたのを知る者はいない。
エレベーターが降りて来るのすらもどかしい。やっと乗ると今度は昇っていく時間が長く感じてしまう。高層マンションのエレベーターゆえに高速で昇降しているというのに、逸る気持ちは待つ事を忘れてしまっている様だった。指紋照合と静脈照合の双方で解除するロックにもイライラする。同時にこんな自分に苦笑すらする。まるで以前の自分とは別人になってしまったようだった。
「ただいま......??」
ドアの開閉音でいつも玲がリビングから出迎えに来てくれるのに、今夜は室内が静まり返っていた。脳裏に要のメールの言葉が蘇る。樹は慌てていつも玲がいるリビングに向かったが......部屋の中には誰もいない。
「玲?」
彼の部屋も無人だ。
「どこだ?」
懸命に自分を落ち着かせて冷静になろうとする。その効果だろうか。バスルームの小窓に明かりが着いているのに気付いた。
「玲?」
ドア越しにバスルームへ声をかけると水音がして、ドアが心持ち開いた。
「え?あ、樹さん?おかえりなさい......えっと、気付かなくてごめんなさい」
隙間から顔だけ出しているのは、恥ずかしいのだろう。彼のこういう可愛らしさを愛しく感じる。
「ここにいたら玄関の音は聞こえないから、当たり前だと思うよ、玲。
......ただいま」
「おかえりなさい」
ニッコリ笑う顔が綺麗で可愛い。
「私も入ろうかな?」
「え......はい。すぐ出ますね」
「出なくても構わないよ。一緒に入ろう」
笑顔でそう言うと玲は見る見るうちに真っ赤になった。ドアの向こうに隠れている身体もきっと赤くなっているのだろう。
「......は、はい」
困ったような顔をして、消え入りそうな声で答えてドアが閉まった。本当に可愛い。
よくよく思い返せば、これまで付き合って来た女たちはいつも、挑戦的で恥じらいを見せる者はいなかったように思う。それはそれで魅惑的ではあるが、『可愛い』と感じた記憶はない。だがその様な相手を選んでいた自分がいたのは否定はしない。その方が楽であったし、相手も単なる快楽の相手を求めていたに過ぎない。時折付き合いが長くなって勘違いする女もいたが、一貫して『遊び』である姿勢を崩した事はなかった。
友人の天羽 榊に言わせれば『性悪なタラシ』に分類されるのかもしれないが、付き合う時には欲しがるものは買い与えたし、最高級のレストランで食事して最高級のホテルラウンジでカクテルを呑み、ホテルを望むならば展望の良いホテルの部屋を取った。もちろん、ただの一度だって彼女たちに財布をバックから出させた事はない。『一夜の遊び』の代価としては十分だったはずだ。ただ彼女たちに心が動いた記憶は、ただの一度もなかった。既に顔も名前も記憶してはいない相手もいる。相手だってほとんどがそんなものだろう。買い与えたブランド物は既に金銭に替えられているだろう。
玲だけは違ったのだ。手付かずで知識もさほどないとわかっていて求めたのは初めてだった。『処女』よりも経験を積んだ相手の方が楽であるし、互いの官能を堪能できる。樹には光源氏のような未経験な相手を『自分好みに育て上げる』趣味趣向はない。
今更ながら自分の素直な気持ちを受け入れられなかったのだとわかる。最初から玲に惹かれていたのだ。ただ認めたくはなかっただけだ。気にそまぬ相手でも女性を妻に迎えて、嵯峨野の後継者をつくらなければならないのだという呪縛に縛られていた。あまりにも心に深く突き刺さった呪いゆえに、自分を否定し、玲を物のように扱う事で逃げていた。けれども......本心は正直だった。女たちには絶対にやらなかった事......旅行に行く、マンションに同居する等の選択をしていた。もっともっと早く気付くべきだった。そうすれば玲を苦しめなかったのに......衣類を脱いでバスルームにはいり、愛しいひとの小柄な身体を抱き締めて後悔してる自分がいる。
「寂しかった?」
わかり切ったことを問う。すると玲は樹の腕の中でコクリと頷いた。
「ごめんね。あともう少しで終わるから」
「はい」
玲の笑顔は自分の寂しさよりも、多忙な樹を気遣っているように見えた。
軽くシャワーを浴びた樹は、玲を誘ってバスタブに入った。
恥ずかしそうにしている彼を抱き寄せて軽く口付けてから囁いた。
「それでね、明日は午後から出社なのだけど、玲にお願いがあるんだ」
「お願い?ボクにできる事ですか?」
「君しかできない」
「何でしょう?」
「婚姻届を出したい」
「え?」
「式はちゃんとする。式場も押さえてある。だけどあの男の存在を考えたら、君を『秋月』の姓でいさせたくない、それに......こうして一緒にいられる時間が少ないからこそ、今は確かな証が欲しい」
「樹さん......」
樹を見上げる瞳があっという間に潤んだ。
「返事をもらえるかな?」
「はい......嬉しいです......ボクを、お嫁さんにしてください」
「喜んで。幸せになろう」
「はい」
周囲に対してどちらかと言うと強気な顔をする玲。こんなに不安げで素直で健気な顔は多分、樹しか知らないだろう......と思うと頬が緩む。
「では約束して欲しい」
「約束?」
「あのね、幸せは与えるものでももらうものでもない。二人が協力して紡いで行くものなんだよ」
「二人で?」
「そう、二人で作らないと本物にはならないんだ。ある方の言葉をお借りすると、幸せは織物と同じなんだそうだ。縦糸と横糸が必要なんだって」
「縦糸と横糸......」
「だから私たちもそうであろう」
「はい」
嘘偽りはないが今は、樹には玲が必要なのだとはっきりとわからせるべきなのだ。これは榊からのアドバイスだった。彼のパートナーも不安定で、言葉が足らないと自分を追い詰める傾向があったそうだ。
「あんな、言葉で足りるんやったらある意味、楽な事やと思わへんか?ようわからへん事やったら動きようがない時もあるやろ?ちょっとした言葉で安心させられるんやったら、出し惜しみせぇへんといくらでも言うたり」
自分の気持ちがわからなくて何も言わない時があった。時期を見てと思っていたら問題が起こって、何も言えない状態になった。その間に愛する人は苦しみ続け、絶望していた。死を願う程に。
もう同じ過ちは繰り返してはいけない。愛する人を守り、これから先への道を歩いていくのだ。
まずは明日の婚姻届提出の前に、すっかり渇望した身も心も互いに満たさないといけない。明日は寝不足でも佐伯は怒らないだろう。
樹は今の想いを込めて再び玲に口付けをしたのだった。
バスルームからベッドに移動して、口付けを繰り返す。優しく啄む様に……だが次第に深くなっていく。触れ合えなかった時間を取戻そうとするかの如く。
「樹さん......樹さん......」
繰り返される口付けの合間に、愛しいひとの名前を呼ぶ。二度とないと思っていた。知ってしまった温もりを記憶に残したまま、これから先の人生をどう生きて行こうと考えては、悲しくて辛くて泣き続けた。彼が求めたのはベッドの相手で、愛情ではないとわかっていても、心に芽生えてしまった『想い』は消せはしなかった。
「玲、玲......私の玲......」
樹の唇から零れる言葉に胸が熱く震える。彼が呼ぶのは他の誰でもない、今ここにいる自分であるという感動に。彼の何もかもが欲しいと思った。得られないならば......という思いも過ぎった。これで終わると思った場面から救い出されて、彼は玲の手を取った。生涯の伴侶にと。
「樹さん......ボクはあなたのもの?」
彼の巧みな愛撫に呼吸を乱しながら、玲は縋るような眼差しで問いかけた。
「君がイヤだと言っても離さない。玲の全てを私のものにしたい」
告げられる言葉に胸も目蓋も熱くなる。
「うん......ボクは樹さんのものでいたい......でも、樹さんはボクのもの?」
彼に数多の女性の影を見て来た。『結婚』という『特別』をもらっても、彼を独占できないのかもしれない。自分にはふくよかな胸はない。美しく着飾って自信たっぷりに行動する彼女たちには敵わない気がしていた。
この新しいマンションに今のところは女性が入った痕跡はない。もしかしたら別にどこかに部屋があって、今度はそこに玲の知らない女性が招かれているのかもしれない。それでもいいと思った。樹の傍にいられるならば、自分が樹のものと言ってもらえるならば。けれども真実は知っておきたい。自分の立ち位置はわかっておかなければならない。たとえ彼を独占できなかったとしても、ここに必ず戻って来てくれるならば。
「もちろん、私は君のものだよ」
「本当?」
「嘘を言ってどうするの」
「だって......お付き合いしてた女の人いたでしょ?」
事実を口にするのが辛くて、そっと視線をはずした。知らないフリをしている方が良いのだとは思う。きっとその方が楽だろう。知らない顔でいれば上手く隠し続けてくれるだろうから。
不意に玲の顔を覗き込む様にして、樹が深々と溜息を吐いた。
ああ......聞いてはならない事を口にしてしまったのだと、れは自分の浅はかさに胸が苦しくなった。
「私に信用がないのは......要や榊に言わせれば自業自得なのだろうね。昨年末までは実際にそうであったし......」
「昨年末......?」
「そう、この想いに気付く昨年末まではね」
玲の頬にそっと手を添えて樹は言った。
「全て切ったよ。愛する人ができたのに不実はダメだろう?」
ふと視線を戻すと優しい眼差しが見おろしていた。
「本当に......ボクだけ?」
「そうだ」
嘘ではないと感じた。本当に彼は自分だけを選んでくれたのだと思うと涙が溢れた。
「ごめんなさい」
「謝らなくていい。君の気持ちもわかるからね」
「有難うございます......でもボク、恥ずかしいです。何だかすっかり弱くなっちゃったみたいで」
本当に自分はどうしてしまったのか。樹のちょっとした事にすぐに涙が溢れそうになる。こんな弱い筈ではなかったのに。
「それはきっと君がこれまで張っていた心のバリアみたいなのがなくなったからじゃないのかな?」
「心のバリア?」
「そう。君はずっとそうやって他人との距離をとってきた。でも要が強引に友だちになって、これまで壁になっていたそれに最初の傷をいれたのだろうね。
私としては弟に先を越されたのはちょっと悔しいのだけどね」
軽くウィンクして言う。玲は思わず赤面した。
「玲、私は家を出たからこれまでのようには行かないだろう。でも君ならば私の傍らにいてくれると信じている」
「ボクがどんな役に立つのかわからないけれど......できる事をやりたいです」
できない事をできるとは言えない。自分ができるものを確実にやって、その上で必要な事があるならば学んでみたい......と玲は素直に口にした。
「それでいい。もっとも玲は自分で思っているよりもできる人間だと私は思うけどね」
いくらなんでもそれは買い被り過ぎだと抗議しようとしたが、話は終わりとばかりに口付けで塞がれてしまった。
途中で話をしてしまった為に一度冷めた熱が帰って来る。今度は喋らさない、とばかりに樹の愛撫にも熱が篭っていた。互いの気持ちを再確認したからだろうか?素直に愛する人を想う事ができる歓びからだろうか。これまでよりも触れられた部分が熱い。
「あ......ダメ、樹さん......」
「ん?ダメ?何が?それともどこが、かな?」
玲の呟きに答える樹も常になく楽しそうだ。
「ん、んん......あッ......」
このまま溶けて『自分』という形が無くなってしまいそうで、思わず樹の背にしがみついた。彼は笑みを浮かべて玲を抱き返し、繰り返し繰り返し『愛してる』と甘い囁きを口にする。
玲の心は初めての時の様に震え、身体も初めて受け入れるように緊張した。幾度も重ねた肌である筈なのに、最初から全てをやり直す様な感覚が玲を戸惑わせた。
樹は玲の様子をうかがいながら、ゆっくりと緊張を解こうと優しく常になく丁寧に触れて来る。
「あ......あぁあ......」
旅行の夜以来の抱擁。好きで好きでどうにも止まらない気持ちを抱えて初めて、玲は樹を受け入れた。痛みはない。
「玲、玲......大丈夫か?辛くないか」
どちらが辛いのかと問い返したくなるような顔で樹が言う。玲は笑みを浮かべてこう言った。
「樹さん......大好き」
と。このまま人生が終わると誰かに言われても後悔はしない。
「ボク......幸せだよ......」
「私もだ」
胸を満たすこの想いを表す言葉を知らない。ただ揺さぶられるままに愛しい人の名前を呼ぶ。
「樹さん......樹さん......ダメ......も、もう......ボク......」
目の前がチカチカする。官能が身体の中で出口を求めるように螺旋の渦になっている気がして、今にも弾けそうになっていた。
「私も......玲、一緒に......!」
「ぁあああああ!!」
身体フワッと浮き上がる様な感覚と共に、全身が大きく震えた。頭が真っ白になって何もわからなくなる。どこかで樹が深く息を吐いたのは聞いたが、その後は何もわからなくなってしまった............
玲が目を覚ました時は樹の腕の中にいた。
「おはよう、玲」
柔らかな声と笑顔が降ってくる。
「おはようございます......えっと、今、何時ですか?」
「九時半を少し過ぎたくらいかな」
「え!?」
時間を聞いて玲は慌てた。
「ご、ごめんなさい!」
「何が?」
樹は玲を抱き寄せながらクスクスと笑っている。
「だって......朝ご飯......」
「今日くらい外でもいいだろう?」
「え......あ、はい」
樹の言葉に目を丸くしながらも、彼がそう言うのであれば良いのだと了承する。
「ん?ああ、玲は朝食を外で摂った事がないんだね」
「はい」
玲にとって『外食』は贅沢で、大学の学食すら滅多に利用はしない。そう考えてみると昨年の春、カフェで要に出会ったのはこうして樹に寄り添う為の運命だった気がする。
「ん?でも要とは大学のカフェで同席したのがきっかけだったよね?」
「あれは......当時やっていたバイトのシフトを頼まれて代わったので、お礼としてランチのチケットをもらったんです」
シフトを代わった相手はランチ・チケットの綴りから一枚ちぎって手渡してくれたものを手に、なくさないうちにと次の日のランチに出向いたのだ。しかしカフェは満席でようやく空いた席に座った途端に、要に相席を求められたのだ......というのを樹に話してみる。
「なるほど、不思議な縁だね。それがなければ私は君に逢っていなかったのだから。これはもう、神さまの思し召しだと思うしかない」
玲の髪を優しく撫でながら樹が呟く。これまで玲は『神』を信じた事はない。信じられる『何か』が存在してはいなかったのだ。けれども樹の腕の中にいて、これからも傍らにいられるという事実は、確かに神の存在を信じても良いのではないかと思えて来る。
「ボクは......これまで神さまがいるかどうかなんて考えた事がありません。でも、今は信じられるような気がします」
けれども......玲にとっての一番の神さまは樹だと思っていた。孤独の中に自分自身を閉じ込めて、ひたすらに一人で生きて行こうと考えていた。誰かと過ごす時間は自分には縁がないものであるとさえ思って来た。最初の頃は要の気遣いすら邪魔に感じた。本人が聞いたら怒るだろうが。
「これからは私がいる。要もいる。君はもう一人でいなくていい」
「はい」
誰かがいる。それがこんなにも心休まるものなのだとこれまで知らなかった自分は、これまでの人生が凄く勿体なかった気がした。故郷では難しかっただろうが、大学に入ってからならばいつでも誰かと仲良くなれたはずなのにと。けれども過去は変える事は不可能だ。戻ってやり直す事もできはしない。だから今この瞬間からこれまでとは違う生き方をする、樹の傍らで。新しい自分になるのだと玲は思った。
その後、二人でシャワーを浴び、樹が差し出した婚姻届にサインをした。カフェで遅めの食事を摂り、役所に婚姻届を提出、無事に受理され二人は晴れて結婚した。
「指輪を注文しよう」
玲にすれば届けを出しただけで十分であるのに、樹はちゃんと式を挙げると言う。既に場所は押さえてあり、そこは同性婚もOKなのだと言う。
「指輪交換は式でするとして......でも、結婚した証みたいなのはいるね。取り敢えず仮の物も購入しよう」
既にかなり高額な品物と思える婚約指輪ももらっているというのに、この上に仮の結婚指輪で、式に正式な指輪を交換する......という樹の思考に玲はついていけない。
しかしあれよあれよもいう間に宝飾店に連れて行かれ、店舗の奥のVIP室に座っている自分がいる。
樹はというと差し出された見本やパンフレットを楽しげにみつめていた。
「う~ん、やっぱり他の人がしているようなのは裂けたいな、ね、玲?」
「え?え?」
突然に話を振られて慌てる。その様子に樹は笑いながら左手を取った。
「この婚約指輪のようにやはり特注したい。デザインからお願いできるかな?」
「二ヶ月ほどお時間をいただく事になりますが......」
「かまわないよ?式は六月だから十分間に合う」
「承知致しました」
玲が戸惑っている間に樹はさっさと注文をしてしまう。彼が個人としても資産家であるのは理解してはいる。しかし実家と決別し、社をグループ企業の傘下に入れてしまった今、今後はこれまでのようにはできないのではないか......という懸念もある。
「あの、あの......」
ここで事実を問う事はできない。彼の立場にキズがつく。何をどう表現すればいいのかわからなくて、玲は樹の袖を掴んでオロオロした。
すると彼は玲にそっと耳打ちした。
「君が思っている事はわかってるよ。だけど今日だけはわがままを許して。それに貴金属は資産のひとつになる」
と言って微笑んだ。
―――『資産』、中東やインド等では銀行を今一つ信用しない風習がある。なので金等の貴金属を購入して貯める事が多い。特に金は宝石よりも換金がしやすく、アクセサリーとしても好まれているのだ。樹にすれば何かあった時の為にも、玲に遺せるものを用意しておきたい。法的に守られている部分はあっても、アクセサリー等の形で渡しておければ誰かからの干渉を回避出来る。そんな事があってはもちろん困るのだが。
「これを許してくれたら後は玲の意見をちゃんときくよ」
「わかりました、約束ですよ?」
樹には樹の考えがある。問えば必ず答えてくれるだろう。玲は頷いて高価な指輪を受け入れる事にした。
もう荷物は全て運びアパートも解約したと告げられ、半ば強制的に樹の新しいマンションに連れて来られた。与えられた部屋は1DKだったアパートの部屋よりも広い。部屋を荒らされた一件以後は、電化製品以外は備え付けの家具だったので、整えられた真新しい高級家具に囲まれてどこか落ち着かない。ゆえにほとんどリビングで過ごしていた。そのリビングにしてもアパートの部屋が3~4室入りそうな広さだ。誰もいない、一人で過ごす時間は酷く寂しい。
玲が入院中は仕事を控えてくれていたのだろう。樹はここへ玲を送った日から、早朝から夜遅くまで仕事に追われている様子だった。夜は待っていられるが、朝は玲がまだ眠っている間に出かけてしまう。当然ながら互いに別々の部屋で眠り、食事も共にする事がない。そうなると玲は不安になって来る。疑ってはならないと繰り返し自分に言い聞かせるのだが、長い間に刷り込まれて習慣化している『自己否定』が奥底から頭をもたげてくる。
『やっぱりあの場を収める方便だったのだ』
『やはり女性の方がいいに違いない』
『玲の存在は単なる迷惑でしかない』
否定しても否定しても、もう一人の自分が囁く。同時に異母兄が夢に出て来て同じ意味の言葉で、玲を激しく罵り続ける。
眠れない。眠りたくない。だから樹の帰りが何時になろうとも起きていられる。次の日の早朝に出て行く彼の為に、レンジで温められればよい朝食をつくって置く事もできる。それでも最後には睡魔に負けて眠り込み、悪夢にうなされて目が覚める。時には否定する自分の叫びで飛び起きる。自室が嫌でリビングにいても、いつの間にか眠ってしまう。結果は同じ事の繰り返しだ。
時々、バイトがない時に要が来てはくれる。だが彼も家を出る決心をした為に、かつての玲のように掛け持ちでやっているらしい。どこか疲れている様子の彼にわがままも相談もできない。ただ建物の外はおろか、1階のエントランスにも降りてはダメだと言われている玲は、彼に足らない食材等の購入を依頼するのはやめられなかった。
自分の食事はあるものでいい。けれど樹の為の朝食は外食続きの彼の為に、栄養のバランスと消化に良いものをつくりたかった。
要が来ると一緒に夕食を食べる為、きちんと料理をする。さも毎日、自分の分だけでもつくっている顔をして。
「兄さん、まだ忙しいわけ?」
「うん。毎日、疲れた顔で帰ってくる」
「そっかあ......俺たちは学生だし、まだまだ世間知らずだから何も出来ないのが悔しいな」
「そう......だね」
要は樹の会社等の事情を知っている様子だが、玲は何も聞かされてはいなかった。
「顔は見れてるんだ!」
「夜だけね」
「ふーん」
「何?」
「顔見るだけなんだ?」
と言って要はニヤニヤと玲の顔を眺めた。
「そう......だけど?」
恋愛絡みのからかいを知らない玲は、彼が何を言いたいのかわからない。
「寂しかった~って抱きついたりしないわけ?」
「はあ!?」
「甘えればいいじゃん」
「むむむむ無理無理無理!樹さん、疲れてるのに!」
真っ赤になって狼狽する玲を見て、要が笑い転げる。
「何で!」
抗議の声をあげるが、要は笑い続けている。どう対応して良いのか玲が戸惑っていると、要がポツリと言った。
「兄さんが玲にデレデレになったの、物凄~くわかるわ。お前が女なら俺でも惚れる」
「え?」
「俺はストレートだからさ、同性に惚れるのはないけど。玲って恋愛すると滅茶苦茶可愛いのな」
「かかかかか、かわかわかわ……」
言われた言葉にアワアワと戸惑い、身悶えする様がなんとも愛らしい。玲自身はまるっきり無自覚で、要がこれまで見て来た彼とは余りにも違い過ぎた。
「こっちが本当のお前なんだな」
「……」
彼が言っている意味はわかってはいる。これまでの玲はすぐに崩れてしまいそうな気持ちを厳重に箱に封印して、さらに強固な鎧を心に被せて強気である様に振舞うのを心掛けて来た。そうしなければ生きては来れないと考えてもいた。この大都会で頼る術も人もなく、未来への希望も展望も存在してはいなかった。
図書館の司書を希望していたのは本が好きだというのもあったが、サラリーマンよりは人間関係が希薄に見えたからだ。もちろんこんな事を考えているのを知られたら、きっと怒られるだろう。
要に出会い、樹に出逢って、薄皮を剥ぐように鎧が壊れて行った。友人の優しさに触れ、『愛人契約』という形であっても自分をそうの様に求められて、触れ合う温もりを知って全てがなくなった。残ったのは封印を解かれて開いた箱の中で、知ってしまった想いと絶望と再び孤独の中に投げ込まれた事に、ただ膝を抱えて震えるしかない弱く脆いだけの自分。
一木 茉莉子が現れて連絡が取れなくなった樹に続いて、要との友人関係も失う可能性が出て来てた。彼女には精一杯反論してはみたけれど……その言い様があまりにも異母兄に似ていたのもあって、言葉とは裏腹に心はくじけてしまっていた。割れたマグカップは自分の心の象徴のように感じた。組み立てて接着しても足らないパーツがあって、どんなに形を合わせても元の姿にはならない。
血の繋がらない従兄弟たちに再会して、あのような状況になって思ったのは、決して逃れられないものが人生には存在しているのだと。それでも樹との想い出を穢されるならば、逃れられない人生からの唯一の逃げ道としての『死』を望んだ。あの時の玲にとっての唯一つの選択肢だった。
「玲?お~い、聞いてる?」
要に覗き込まれるようにして言われて、自分が考え込んでいたのに気付いた。
「あ、ごめん......何の話?」
「いや、大した話じゃないんだけど......なあ、何が問題?」
「え?」
「凄く悩んでますって顔してた」
「......」
「兄さんには言えない事?あ、言う時間ないか、今は」
「ううん......ボクの問題だから」
「だったら話しなよ。もう俺たちは家族なんだからさ」
そう言われて思わず要の顔を見た。彼は頷いてにっこりと笑った。
「遠慮はやめてくれよな?俺は後悔してんだ」
「後悔?何を?」
「まずは兄さんに確認しないであの女の事をお前に話した事。で、もっと側に付いてて守れなかった事......とかさ」
「要がわるい訳じゃないと思うけど......あの女ひとの事は要もわからなかったんだし......ボクが連れて行かれたのは、要には関係ない事だよ?たまたまあのタイミングだっただけだと思うから」
「それでも俺はもっとなにかできたんじゃないのかって、後悔しかないんだよ!」
「ごめんね」
「何で謝るわけ?玲は悪くないだろ?」
「でも原因はボクだから」
「確かにあの従兄弟とかってのはお前絡みだけど、あの女は関係ないだろ?」
「でも......」
少なくとも自分さえいなければ、茉莉子の件はああも複雑にはならなかったはずだ。
「それさ~兄さんに構ってもらえなくて寂しい~って病気だろ?」
「え?」
「余計な事ばっかり考えちゃうんだよな?わかった、兄さんに伝えとく」
「え?え?」
玲には要が言っている意味がわからない。だが自分の不安定さを樹に言われるのは、多忙な彼に迷惑をかけてしまうからいやだと思う。
「えっと、よくわからないんだけど......樹さんに言わなくていいよ?忙しいんだから、迷惑かけたくない」
と取り敢えず釘を刺しておいた。要は不満そうだったが玲が睨んだのでそのまま黙った。
「大学復帰は四月から?」
「だってもう講義終わってるでしょ、今期のは?」
「まあね。お陰でバイト三昧だけどさ、俺は」
「もう少ししたら卒業絡みのパーティ増えるよね?その辺からバイトは復帰したいんだよね。ここにいつまでもこもってるのは嫌だから」
「だろうな......ジムとか利用しても限界あるだろえし」
「うん、それ。ボクさ、鍛えても筋肉太んないの」
「へえ~ま、ムキムキの玲は想像つかないけどさ」
「何それ、何気に酷くない、要?」
「何で?」
「ボクだって男なんだからもうちょっとこの細いだけの身体、なんとかしたいと思うよ?」
「そんな事したら兄さんが泣くよ?折角の美人がだいなしになるあって」
「美人って......ボク、女の子じゃない」
自分の容姿が人の目を惹くらしいのは、玲も自分自身で自覚はしている。しかし『美人』と呼ばれるのは嬉しくはなかった。
「はいはい、ごめんなさい」
両手を上げて頭を倒してそう言った要の頭を、玲は傍にあった雑誌を手に取って軽く叩いた。
「悪いとは思ってないくせに......」
「イヤだって......玲の顔って俗に言う『イケメン』とは違うと思うし、美青年って逆に妖しくない?」
「妖しいって......ボクは妖怪か何か?」
「あの兄さんを変えちゃったんだから、なんと言われても文句は言えないんじゃないかな?」
実は玲、要のこの言い分が今一つ理解できない。玲にとっての樹は優しい人間だからだ。
「あのね、それって酷くない?実のお兄さんでしょ?」
「何が?兄さんが男として酷い奴だったのは、『契約』なんてさせられた玲が一番知ってるでしょ?」
「あれはボクを援助する為だよ。何もなくお金もらうのボクが嫌ってたから......」
「はいはい、誤魔化さないの!親切心から援助するのに、なんで身体を要求するの?普通に考えて非道な行為でしょ!」
あの頃、樹の申し出に戸惑った記憶はある。だが彼を『酷い』とは思った事がない。自分の気持ちに気が付いてショックを受けたし悩んだ。樹に背を向けられるのが怖かった。
「あれ?玲、兄さんを酷い奴だって思ってないの?」
「......うん」
呆れられるのを覚悟で頷いた。
「うわっ!何それ!兄さんって付き合う相手にそう思わせちゃうわけ?それとも玲限定?」
「だ・か・ら!何で樹さんの事を酷いって言うの、要。うちの異母兄ならまだしも、樹さんはいい人じゃないか」
「そりゃ、異母兄と比べたら大抵の人間は善人になるよ。玲、基準がそもそもおかしいの!」
それはわかっているが......樹は酷いと言われるような人間とは思っていない。
「ああもう!わかった、わかった。まったく......完全に痘痕もエクボだな、お前」
「うるさいよ、要」
再び赤く頬を染めた玲は、誤魔化すように冷めきった紅茶を飲んだ。
「ホントに可愛いよな~玲は」
「可愛いって言うな!」
「はいはい」
ニヤニヤ笑う彼を憎たらしく思うけれども、反論ができない玲は俯いて火照る顔を隠すか、相手を睨む事しかできない。しかしその有様もまた要が『可愛い』と思うのだとは気付かずにいた。
要は夜9時を過ぎた辺りに帰って行った。
散々からかわれたが、彼がいなくなった部屋は閑散として静かだった。かすかに空調の音が聞こえるくらいで、TVを観ない為に他の音はしない。
玲はしばらくリビングのソファで膝を抱えて座っていたが、気を取り直して立ち上がった。キッチンに立って帰ってくる樹の夜食と朝食を作り出した。樹は夜食はほとんど摂らないが、一応は用意しておく。残っていたら次の日の玲が朝食にする。逆に朝食は必ず食べて行く。食器は軽く洗って食洗機に入れておいてくれる。
玲には樹は優しいと感じる。食器はテーブルに残してくれていても、玲は普通に思える。玲が大学に復帰したりバイトを再開したら、こういう心遣いは普通に感じるのかもしれない。けれども今はこの部屋で一日中過ごしているのだから、何もかもを任せてくれてもいいのにとさえ思ってしまう。
食事をつくり終えるとバスルームに向かう。大きなバスタブに湯を張って入浴剤を入れて、ゆったりと湯に入った。脱衣場で眺めた自分の身体の怪我はまだまだ生々しい。青黒いアザ。首の指痕。ジッと見ていると気持ち悪くなるので、早々に目をそらせてバスタブに逃げ込んだ。
樹は書類の整理が一段落して、背を椅子に預けてホッと息を吐いた。両親からの嫌がらせを予想して、社は御園生が所有しているビルに移転した。以前よりも広くなったが、移転後の整理やら足らなくなった人員の補充やらで四苦八苦していた。
以前にメインバンクとして利用していた銀行が、取引の中止を一方的に言って来た。既に御園生が推奨している銀行に替えて、両親へのダミーに残していただけなので、即刻解約した。預金残高もほとんど残ってはいない。これに騙されて圧力をかけたつもりでいるのだろうか?もちろん社は今は御園生の傘下で、樹は経営を任されているに過ぎない。当然ながらこの事は本社に報告した。両親だからと手心を加えるつもりは無い。第一、樹に圧力をかける余裕はそろそろなくなって来ているはずだ。
前々から計画していた事ではあるが、本来はもう少し時間をかけるつもりだった。もっと社が軌道に乗ってから......と。しかし玲の事や母親が結婚相手をゴリ押しして来たのを見て、道を塞がれる前に手を打つ必要が出て来た。友人の伝をつかってまで御園生に身売りしたのは『寄らば大樹の陰』だった。御園生を現在実質的に動かしているのは誰であるかは知っているし、彼らの後ろには経済界の頭ドンと呼ばれる人物もいる。両親共に安易に手を出せないのを見越しての決断だった。佐伯も一族と縁を切ってまで自分についてきてくれた。だからこそ潰される訳にはいかない。
同時に御園生から仕事が回って来るので、事業としては良い方向へ動き出した。御園生関連のみの請負ではなく、これまでの顧客も受けて良い約束になっているので、登録人員を増やす事になった。同時に大学を卒業した登録者を社員として雇用した。困ったのは最高ランクの登録者の補充がなかなかに難しい事だった。教育は順次してはいるが、それでものになるのはわずかだ。残念ながら持って生まれた資質と育った環境に培われた立ち振る舞いは修正が難しい。時間をかければ何とかなる者もいるにはいる。だが今はその時間がないのだ。
樹は初めて玲に会った時を思い出していた。容姿の美しさはもちろんだが、その立ち振る舞いの美しさにも目を奪われた。彼の異母兄にはそれ程の品位は見られなかった。あれはどこから培われたものなのだろうか?そういう観点でみれば本当に不思議な子だと思う。
ぼんやり物思いにふけっているとデスクの上でスマホが振動し始めた。手に取って見ると要からのメールだった。
『玲に会った。心持ち痩せた気がすんだけど?
それにちょっとした拍子に寂しそうな顔をしてた。兄さん、忙しい理由もなにもわかってるけどさ、玲を一人ぼっちにずっとしてるんなら意味なくない?
玲の為なはずだよね?だけどこのままだと玲は良くない結論出すかもしんないけど?
ホント、いなくなっても文句は言えないんじゃないかな?絶対に悪い方向へ考えが行ってるよ、あれは?
あんな広い所に一人で閉じこもってたら、俺でも病むよ。一日だけでもいいから早く帰ってやんなよ。
俺の親友、大事にしてくれよな?』
『いなくなるかも』と言われて、樹はスマホを握りしめたまま愕然とした。そこへ佐伯が「これなんですが......」とファイルを手に入って来た。
「どうかなさいましたか?」
思わずスマホと佐伯を交互に見てしまい、彼が軽く眉を動かせて聞いてきた。樹は無言で要からのメールをスマホを手渡して見せた。
「要様の仰る事は一理ありますねえ......秋月君は言わば『幸せ慣れ』してない人ですから。それにお伺いした異母兄という人物の物言いから判断して、マイナス方向へと思考するようになってるんではありませんか?」
「わかってるつもりだったのだが......」
「ここのところ、殺人的な忙しさでしたから。旦那様と奥様の動向も気になります。もしかしたら既に秋月君の事を突き止めていらっしゃるかもしれません」
「多分、突き止めているだろうと私も思っている」
「あちらと秋月君、双方への第一の対策として、まず婚姻届を出されるのをオススメします」
「なるほど......先に既成事実をつくる、か」
「秋月君はそれで一安心するでしょう。あちらへの牽制にもなりますし、同性婚したという理由で投げ出してくださるかも。少なくとも奥様の対策にはなるでしょう」
「ははは......あの人がキレそうだ」
「思う壷ではありませんか」
「確かに」
「では本日はこのままお帰りになられてください。明日は午後からご出社を」
「任せていいか?」
「はい」
「じゃ、頼んだ」
樹自身、忙しさに玲と会話すらままならない状態に行き詰まった感じがしていた。それを仕事で必死に誤魔化していたのだが、部屋に一人でいる玲の現状まで気持ちが回ってなかったのだ。
近くで大慌てで荷物をまとめて飛ぶように帰って行く樹の後ろ姿を見て、佐伯が普段の鉄面皮からは想像できないくらいに笑っていたのを知る者はいない。
エレベーターが降りて来るのすらもどかしい。やっと乗ると今度は昇っていく時間が長く感じてしまう。高層マンションのエレベーターゆえに高速で昇降しているというのに、逸る気持ちは待つ事を忘れてしまっている様だった。指紋照合と静脈照合の双方で解除するロックにもイライラする。同時にこんな自分に苦笑すらする。まるで以前の自分とは別人になってしまったようだった。
「ただいま......??」
ドアの開閉音でいつも玲がリビングから出迎えに来てくれるのに、今夜は室内が静まり返っていた。脳裏に要のメールの言葉が蘇る。樹は慌てていつも玲がいるリビングに向かったが......部屋の中には誰もいない。
「玲?」
彼の部屋も無人だ。
「どこだ?」
懸命に自分を落ち着かせて冷静になろうとする。その効果だろうか。バスルームの小窓に明かりが着いているのに気付いた。
「玲?」
ドア越しにバスルームへ声をかけると水音がして、ドアが心持ち開いた。
「え?あ、樹さん?おかえりなさい......えっと、気付かなくてごめんなさい」
隙間から顔だけ出しているのは、恥ずかしいのだろう。彼のこういう可愛らしさを愛しく感じる。
「ここにいたら玄関の音は聞こえないから、当たり前だと思うよ、玲。
......ただいま」
「おかえりなさい」
ニッコリ笑う顔が綺麗で可愛い。
「私も入ろうかな?」
「え......はい。すぐ出ますね」
「出なくても構わないよ。一緒に入ろう」
笑顔でそう言うと玲は見る見るうちに真っ赤になった。ドアの向こうに隠れている身体もきっと赤くなっているのだろう。
「......は、はい」
困ったような顔をして、消え入りそうな声で答えてドアが閉まった。本当に可愛い。
よくよく思い返せば、これまで付き合って来た女たちはいつも、挑戦的で恥じらいを見せる者はいなかったように思う。それはそれで魅惑的ではあるが、『可愛い』と感じた記憶はない。だがその様な相手を選んでいた自分がいたのは否定はしない。その方が楽であったし、相手も単なる快楽の相手を求めていたに過ぎない。時折付き合いが長くなって勘違いする女もいたが、一貫して『遊び』である姿勢を崩した事はなかった。
友人の天羽 榊に言わせれば『性悪なタラシ』に分類されるのかもしれないが、付き合う時には欲しがるものは買い与えたし、最高級のレストランで食事して最高級のホテルラウンジでカクテルを呑み、ホテルを望むならば展望の良いホテルの部屋を取った。もちろん、ただの一度だって彼女たちに財布をバックから出させた事はない。『一夜の遊び』の代価としては十分だったはずだ。ただ彼女たちに心が動いた記憶は、ただの一度もなかった。既に顔も名前も記憶してはいない相手もいる。相手だってほとんどがそんなものだろう。買い与えたブランド物は既に金銭に替えられているだろう。
玲だけは違ったのだ。手付かずで知識もさほどないとわかっていて求めたのは初めてだった。『処女』よりも経験を積んだ相手の方が楽であるし、互いの官能を堪能できる。樹には光源氏のような未経験な相手を『自分好みに育て上げる』趣味趣向はない。
今更ながら自分の素直な気持ちを受け入れられなかったのだとわかる。最初から玲に惹かれていたのだ。ただ認めたくはなかっただけだ。気にそまぬ相手でも女性を妻に迎えて、嵯峨野の後継者をつくらなければならないのだという呪縛に縛られていた。あまりにも心に深く突き刺さった呪いゆえに、自分を否定し、玲を物のように扱う事で逃げていた。けれども......本心は正直だった。女たちには絶対にやらなかった事......旅行に行く、マンションに同居する等の選択をしていた。もっともっと早く気付くべきだった。そうすれば玲を苦しめなかったのに......衣類を脱いでバスルームにはいり、愛しいひとの小柄な身体を抱き締めて後悔してる自分がいる。
「寂しかった?」
わかり切ったことを問う。すると玲は樹の腕の中でコクリと頷いた。
「ごめんね。あともう少しで終わるから」
「はい」
玲の笑顔は自分の寂しさよりも、多忙な樹を気遣っているように見えた。
軽くシャワーを浴びた樹は、玲を誘ってバスタブに入った。
恥ずかしそうにしている彼を抱き寄せて軽く口付けてから囁いた。
「それでね、明日は午後から出社なのだけど、玲にお願いがあるんだ」
「お願い?ボクにできる事ですか?」
「君しかできない」
「何でしょう?」
「婚姻届を出したい」
「え?」
「式はちゃんとする。式場も押さえてある。だけどあの男の存在を考えたら、君を『秋月』の姓でいさせたくない、それに......こうして一緒にいられる時間が少ないからこそ、今は確かな証が欲しい」
「樹さん......」
樹を見上げる瞳があっという間に潤んだ。
「返事をもらえるかな?」
「はい......嬉しいです......ボクを、お嫁さんにしてください」
「喜んで。幸せになろう」
「はい」
周囲に対してどちらかと言うと強気な顔をする玲。こんなに不安げで素直で健気な顔は多分、樹しか知らないだろう......と思うと頬が緩む。
「では約束して欲しい」
「約束?」
「あのね、幸せは与えるものでももらうものでもない。二人が協力して紡いで行くものなんだよ」
「二人で?」
「そう、二人で作らないと本物にはならないんだ。ある方の言葉をお借りすると、幸せは織物と同じなんだそうだ。縦糸と横糸が必要なんだって」
「縦糸と横糸......」
「だから私たちもそうであろう」
「はい」
嘘偽りはないが今は、樹には玲が必要なのだとはっきりとわからせるべきなのだ。これは榊からのアドバイスだった。彼のパートナーも不安定で、言葉が足らないと自分を追い詰める傾向があったそうだ。
「あんな、言葉で足りるんやったらある意味、楽な事やと思わへんか?ようわからへん事やったら動きようがない時もあるやろ?ちょっとした言葉で安心させられるんやったら、出し惜しみせぇへんといくらでも言うたり」
自分の気持ちがわからなくて何も言わない時があった。時期を見てと思っていたら問題が起こって、何も言えない状態になった。その間に愛する人は苦しみ続け、絶望していた。死を願う程に。
もう同じ過ちは繰り返してはいけない。愛する人を守り、これから先への道を歩いていくのだ。
まずは明日の婚姻届提出の前に、すっかり渇望した身も心も互いに満たさないといけない。明日は寝不足でも佐伯は怒らないだろう。
樹は今の想いを込めて再び玲に口付けをしたのだった。
バスルームからベッドに移動して、口付けを繰り返す。優しく啄む様に……だが次第に深くなっていく。触れ合えなかった時間を取戻そうとするかの如く。
「樹さん......樹さん......」
繰り返される口付けの合間に、愛しいひとの名前を呼ぶ。二度とないと思っていた。知ってしまった温もりを記憶に残したまま、これから先の人生をどう生きて行こうと考えては、悲しくて辛くて泣き続けた。彼が求めたのはベッドの相手で、愛情ではないとわかっていても、心に芽生えてしまった『想い』は消せはしなかった。
「玲、玲......私の玲......」
樹の唇から零れる言葉に胸が熱く震える。彼が呼ぶのは他の誰でもない、今ここにいる自分であるという感動に。彼の何もかもが欲しいと思った。得られないならば......という思いも過ぎった。これで終わると思った場面から救い出されて、彼は玲の手を取った。生涯の伴侶にと。
「樹さん......ボクはあなたのもの?」
彼の巧みな愛撫に呼吸を乱しながら、玲は縋るような眼差しで問いかけた。
「君がイヤだと言っても離さない。玲の全てを私のものにしたい」
告げられる言葉に胸も目蓋も熱くなる。
「うん......ボクは樹さんのものでいたい......でも、樹さんはボクのもの?」
彼に数多の女性の影を見て来た。『結婚』という『特別』をもらっても、彼を独占できないのかもしれない。自分にはふくよかな胸はない。美しく着飾って自信たっぷりに行動する彼女たちには敵わない気がしていた。
この新しいマンションに今のところは女性が入った痕跡はない。もしかしたら別にどこかに部屋があって、今度はそこに玲の知らない女性が招かれているのかもしれない。それでもいいと思った。樹の傍にいられるならば、自分が樹のものと言ってもらえるならば。けれども真実は知っておきたい。自分の立ち位置はわかっておかなければならない。たとえ彼を独占できなかったとしても、ここに必ず戻って来てくれるならば。
「もちろん、私は君のものだよ」
「本当?」
「嘘を言ってどうするの」
「だって......お付き合いしてた女の人いたでしょ?」
事実を口にするのが辛くて、そっと視線をはずした。知らないフリをしている方が良いのだとは思う。きっとその方が楽だろう。知らない顔でいれば上手く隠し続けてくれるだろうから。
不意に玲の顔を覗き込む様にして、樹が深々と溜息を吐いた。
ああ......聞いてはならない事を口にしてしまったのだと、れは自分の浅はかさに胸が苦しくなった。
「私に信用がないのは......要や榊に言わせれば自業自得なのだろうね。昨年末までは実際にそうであったし......」
「昨年末......?」
「そう、この想いに気付く昨年末まではね」
玲の頬にそっと手を添えて樹は言った。
「全て切ったよ。愛する人ができたのに不実はダメだろう?」
ふと視線を戻すと優しい眼差しが見おろしていた。
「本当に......ボクだけ?」
「そうだ」
嘘ではないと感じた。本当に彼は自分だけを選んでくれたのだと思うと涙が溢れた。
「ごめんなさい」
「謝らなくていい。君の気持ちもわかるからね」
「有難うございます......でもボク、恥ずかしいです。何だかすっかり弱くなっちゃったみたいで」
本当に自分はどうしてしまったのか。樹のちょっとした事にすぐに涙が溢れそうになる。こんな弱い筈ではなかったのに。
「それはきっと君がこれまで張っていた心のバリアみたいなのがなくなったからじゃないのかな?」
「心のバリア?」
「そう。君はずっとそうやって他人との距離をとってきた。でも要が強引に友だちになって、これまで壁になっていたそれに最初の傷をいれたのだろうね。
私としては弟に先を越されたのはちょっと悔しいのだけどね」
軽くウィンクして言う。玲は思わず赤面した。
「玲、私は家を出たからこれまでのようには行かないだろう。でも君ならば私の傍らにいてくれると信じている」
「ボクがどんな役に立つのかわからないけれど......できる事をやりたいです」
できない事をできるとは言えない。自分ができるものを確実にやって、その上で必要な事があるならば学んでみたい......と玲は素直に口にした。
「それでいい。もっとも玲は自分で思っているよりもできる人間だと私は思うけどね」
いくらなんでもそれは買い被り過ぎだと抗議しようとしたが、話は終わりとばかりに口付けで塞がれてしまった。
途中で話をしてしまった為に一度冷めた熱が帰って来る。今度は喋らさない、とばかりに樹の愛撫にも熱が篭っていた。互いの気持ちを再確認したからだろうか?素直に愛する人を想う事ができる歓びからだろうか。これまでよりも触れられた部分が熱い。
「あ......ダメ、樹さん......」
「ん?ダメ?何が?それともどこが、かな?」
玲の呟きに答える樹も常になく楽しそうだ。
「ん、んん......あッ......」
このまま溶けて『自分』という形が無くなってしまいそうで、思わず樹の背にしがみついた。彼は笑みを浮かべて玲を抱き返し、繰り返し繰り返し『愛してる』と甘い囁きを口にする。
玲の心は初めての時の様に震え、身体も初めて受け入れるように緊張した。幾度も重ねた肌である筈なのに、最初から全てをやり直す様な感覚が玲を戸惑わせた。
樹は玲の様子をうかがいながら、ゆっくりと緊張を解こうと優しく常になく丁寧に触れて来る。
「あ......あぁあ......」
旅行の夜以来の抱擁。好きで好きでどうにも止まらない気持ちを抱えて初めて、玲は樹を受け入れた。痛みはない。
「玲、玲......大丈夫か?辛くないか」
どちらが辛いのかと問い返したくなるような顔で樹が言う。玲は笑みを浮かべてこう言った。
「樹さん......大好き」
と。このまま人生が終わると誰かに言われても後悔はしない。
「ボク......幸せだよ......」
「私もだ」
胸を満たすこの想いを表す言葉を知らない。ただ揺さぶられるままに愛しい人の名前を呼ぶ。
「樹さん......樹さん......ダメ......も、もう......ボク......」
目の前がチカチカする。官能が身体の中で出口を求めるように螺旋の渦になっている気がして、今にも弾けそうになっていた。
「私も......玲、一緒に......!」
「ぁあああああ!!」
身体フワッと浮き上がる様な感覚と共に、全身が大きく震えた。頭が真っ白になって何もわからなくなる。どこかで樹が深く息を吐いたのは聞いたが、その後は何もわからなくなってしまった............
玲が目を覚ました時は樹の腕の中にいた。
「おはよう、玲」
柔らかな声と笑顔が降ってくる。
「おはようございます......えっと、今、何時ですか?」
「九時半を少し過ぎたくらいかな」
「え!?」
時間を聞いて玲は慌てた。
「ご、ごめんなさい!」
「何が?」
樹は玲を抱き寄せながらクスクスと笑っている。
「だって......朝ご飯......」
「今日くらい外でもいいだろう?」
「え......あ、はい」
樹の言葉に目を丸くしながらも、彼がそう言うのであれば良いのだと了承する。
「ん?ああ、玲は朝食を外で摂った事がないんだね」
「はい」
玲にとって『外食』は贅沢で、大学の学食すら滅多に利用はしない。そう考えてみると昨年の春、カフェで要に出会ったのはこうして樹に寄り添う為の運命だった気がする。
「ん?でも要とは大学のカフェで同席したのがきっかけだったよね?」
「あれは......当時やっていたバイトのシフトを頼まれて代わったので、お礼としてランチのチケットをもらったんです」
シフトを代わった相手はランチ・チケットの綴りから一枚ちぎって手渡してくれたものを手に、なくさないうちにと次の日のランチに出向いたのだ。しかしカフェは満席でようやく空いた席に座った途端に、要に相席を求められたのだ......というのを樹に話してみる。
「なるほど、不思議な縁だね。それがなければ私は君に逢っていなかったのだから。これはもう、神さまの思し召しだと思うしかない」
玲の髪を優しく撫でながら樹が呟く。これまで玲は『神』を信じた事はない。信じられる『何か』が存在してはいなかったのだ。けれども樹の腕の中にいて、これからも傍らにいられるという事実は、確かに神の存在を信じても良いのではないかと思えて来る。
「ボクは......これまで神さまがいるかどうかなんて考えた事がありません。でも、今は信じられるような気がします」
けれども......玲にとっての一番の神さまは樹だと思っていた。孤独の中に自分自身を閉じ込めて、ひたすらに一人で生きて行こうと考えていた。誰かと過ごす時間は自分には縁がないものであるとさえ思って来た。最初の頃は要の気遣いすら邪魔に感じた。本人が聞いたら怒るだろうが。
「これからは私がいる。要もいる。君はもう一人でいなくていい」
「はい」
誰かがいる。それがこんなにも心休まるものなのだとこれまで知らなかった自分は、これまでの人生が凄く勿体なかった気がした。故郷では難しかっただろうが、大学に入ってからならばいつでも誰かと仲良くなれたはずなのにと。けれども過去は変える事は不可能だ。戻ってやり直す事もできはしない。だから今この瞬間からこれまでとは違う生き方をする、樹の傍らで。新しい自分になるのだと玲は思った。
その後、二人でシャワーを浴び、樹が差し出した婚姻届にサインをした。カフェで遅めの食事を摂り、役所に婚姻届を提出、無事に受理され二人は晴れて結婚した。
「指輪を注文しよう」
玲にすれば届けを出しただけで十分であるのに、樹はちゃんと式を挙げると言う。既に場所は押さえてあり、そこは同性婚もOKなのだと言う。
「指輪交換は式でするとして......でも、結婚した証みたいなのはいるね。取り敢えず仮の物も購入しよう」
既にかなり高額な品物と思える婚約指輪ももらっているというのに、この上に仮の結婚指輪で、式に正式な指輪を交換する......という樹の思考に玲はついていけない。
しかしあれよあれよもいう間に宝飾店に連れて行かれ、店舗の奥のVIP室に座っている自分がいる。
樹はというと差し出された見本やパンフレットを楽しげにみつめていた。
「う~ん、やっぱり他の人がしているようなのは裂けたいな、ね、玲?」
「え?え?」
突然に話を振られて慌てる。その様子に樹は笑いながら左手を取った。
「この婚約指輪のようにやはり特注したい。デザインからお願いできるかな?」
「二ヶ月ほどお時間をいただく事になりますが......」
「かまわないよ?式は六月だから十分間に合う」
「承知致しました」
玲が戸惑っている間に樹はさっさと注文をしてしまう。彼が個人としても資産家であるのは理解してはいる。しかし実家と決別し、社をグループ企業の傘下に入れてしまった今、今後はこれまでのようにはできないのではないか......という懸念もある。
「あの、あの......」
ここで事実を問う事はできない。彼の立場にキズがつく。何をどう表現すればいいのかわからなくて、玲は樹の袖を掴んでオロオロした。
すると彼は玲にそっと耳打ちした。
「君が思っている事はわかってるよ。だけど今日だけはわがままを許して。それに貴金属は資産のひとつになる」
と言って微笑んだ。
―――『資産』、中東やインド等では銀行を今一つ信用しない風習がある。なので金等の貴金属を購入して貯める事が多い。特に金は宝石よりも換金がしやすく、アクセサリーとしても好まれているのだ。樹にすれば何かあった時の為にも、玲に遺せるものを用意しておきたい。法的に守られている部分はあっても、アクセサリー等の形で渡しておければ誰かからの干渉を回避出来る。そんな事があってはもちろん困るのだが。
「これを許してくれたら後は玲の意見をちゃんときくよ」
「わかりました、約束ですよ?」
樹には樹の考えがある。問えば必ず答えてくれるだろう。玲は頷いて高価な指輪を受け入れる事にした。
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