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心の変化
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帰ってすぐに母親の呼び出しを受けて、忙しいと断ったが断り切れずに帰宅した。玄関で荷物とコートを、という執事にすぐに出るからとさがらせて、母親がいるという居間に向かった。
「まあ、樹さん、おかえりなさい。何日ぶりかしらね、帰っていらっしゃるのは」
普段は遊び歩いて帰って来ない癖にと心の中で毒付く。
「いろいろと忙しいもので」
完全な仮面家族に上辺だけの挨拶も虚しく思う。それでも玲の笑顔を思い出して踏みとどまった。
「あら、そうなの。
でね、今日はあなたに紹介したい方がいるの」
母親の言葉でソファに座っていた女が立ち上がった。
「茉莉子さん、こちらが私の上の息子の樹ですわ」
「初めまして、一木 茉莉子と申します」
しまった......と思った。玲への気持ちに浮かれていて、この可能性を失念していた。
「不意打ちはないでしょう、お母さん。ちゃんと予定をくださらないと」
「あなたは帰ってこないではありませんか」
「少なくとも佐伯に命じてくだされば、ちゃんと時間を開けました。今日はそこまでの時間がないのですが」
「あら、こちらを優先なさいな」
「それは出来ません。仕事は仕事。私事は私事。減り張りができないのは企業経営者としては失格です」
「まだあなたは経営者ではないでしょう」
「お忘れですか?私は私の会社を経営しているのを」
「ああ、お義父さまが遊びだと仰ってたあれね」
この女に何を言っても無駄だった、という事実を思い出した。彼女が興味を持っているのは他者の『家柄』『身分』『資産』、そして贅沢気ままに遊ぶ事だけだ。嵯峨野の財産を食い潰し続けている、まさに白蟻のような女。樹が人生で一番に嫌悪し、憎んでいる女だ。
考えてみれば女相手に恋愛感情を持てず、どこか蔑むような気持ちがあったのはこの女が原因かもしれない。この最低最悪な女が母親で、自分の体内に同じ血が流れているかと思うと虫唾が走る。
「要件は済みましたね。では私は行きます」
「失礼ではありませんか、樹さん!」
そんなものは知るかと心で吐き捨てて踵を返した。
「いいえ、お忙しい中に来てくださったのですから。こうして紹介していただけましたもの。また日を改めて」
背後で可愛らしく殊勝な言葉を言っているが、何となく直感でこの女は母親と同じかそれ以下だと思った。
なおも引き留めようとする母親の声を無視して、樹は嵯峨野邸を後にした。
すぐに佐伯に電話して事情を話し、後を頼んだ。次いで天羽 榊に電話をする。
「今、いいか?」
『かまへんけど、どないしはった?何や切羽詰まった声やな?』
「至急、情報が欲しい。母が女を連れてきた。多分、貴族だと思うんだが......何となく裏がありそうな感じがする」
『名前は?』
「一木......茉莉子だったと思う」
『え......それは......樹、うちへ来れるか?マンションの方や。この前会ったやろ?彼が詳しい事知っとるさかい、ここへ呼んでおくから』
警察官が彼女に詳しい?それとも個人的な知り合いか?
『詳しい事は兎も角会ってからや』
「わかった。すぐに向かう」
『待ってるわ』
向う先を知られたくはないので通りに出てタクシーを拾い、榊が住む高層マンションに到着するとエントランスで彼が待っていた。
「貴之に話したら詳しく事情を聞きたいそうや」
「わかった」
「これから案内するのはここの最上階、貴之の上司の部屋や」
説明をしながら榊が歩き出すのに、頷きながらついていく。
最上階の部屋には先日、顔を合わせた貴之以外に二人の男がいた。そこで一木 茉莉子が関わった事件の話を聞く。
彼女は大学のサークルを隠れ蓑にした、結婚詐欺グループの一人だったという。まだ参加したばかりで周囲の行為が詐欺だとわからなかったと証言して、両親が雇った弁護士の力もあり起訴猶予になったらしい。
「知らなかったはずはないんです。彼女は私たちの前で暴言を吐いています」
ほっそりとしているが意志がハッキリしているイメージの青年が言った。彼は彼女の元許婚者で、新進気鋭の画家御厨画伯本人だと紹介された。
「それでわざわざ来ていただいたのは、彼女が貴族籍を剥奪されているという事実と、そちらに貴族令嬢として顔を出してはいないかという確認です。それに余り良くない輩と最近は一緒にいるらしいので、何某かを企んでいる可能性があります」
「母は彼女が貴族令嬢だと信じて、私と会わせたと思います」
「彼女は自分をよく見せるのが上手ですが、化けの皮はすぐに剥がれます。頭良く計算で立ち回っているつもりなんです。子供の時から自分の失敗やイタズラを、誰かの責任にすり替えるのがうまかった......」
彼の婚約破棄の理由はその様なところにあったのだろうと樹は想い、言葉を敢えて発せずに頷いた。
が、次の瞬間、ある事が引っかかった。
「あの、彼女は誰かに危害を加えるような事は......」
樹の問い掛けに三人が視線を交わらせて頷いた。
「多分、自分で実行するのは少ないかと」
「となると周囲にいる者たちがやりかねないな。その辺はどうなんだ、貴之?」
「有り得ますが......調査を開始したばかりなので、曖昧な事しかわかりません」
既に彼女は彼らの調査対象に入っていた?
「あ、説明します。彼女がかつての仲間で、同じく猶予になった者と共に動いている報告があったのです」
「その標的に私が選ばれた?」
「そうなりますね」
成瀬 雫と名乗った人物は落ち着いた口調でそう言った。
「私としては時間が経過すればくい込まれると感じます。母は気付いてはいないようですが、彼女はそれとなく母や私の身なり持ち物及び、家の値踏みをしている様に見えました。出来れば早々に断りたいのですが」
金目当てでしかも詐欺師など傍に寄られるのもおぞましいと樹は感じていた。
「それは構わないのですが、あなたに危害が及ぶ可能性も考えられます」
「私は多分、付け回されるくらいじゃないかな?」
「そやけどな、樹。あの子や弟は危ないかもしれへんで?
貴之、あの件は樹の事調べた彼女たちのマウンティングみたいなもんやないんか?」
榊の言葉にギョッとする。もし自分の縁談絡みならば本当に玲には申し訳なく思う。
「可能性はある。そう思われますよね、室長?」
「そうだな。犯罪者は常と言って良い程、まずは弱者から狙う。
嵯峨野さんご兄弟は護身術は?」
「軽くならば私はも弟も......そうか、玲は流石に」
「写真はおありですか?」
遥かに身分が上の相手が、普通に丁寧に話してくれる。樹は身が縮まる思いだった。
「1番最近のものがこれです」
スマホの中の写真は、旅行中に撮ったものだ。リラックスした笑顔が美しいと思う。
「拝見します」
そう言ってスマホを受け取った彼は息を呑んだ。
「前にも増して綺麗になってへんか?」
覗き込んだ榊が言う。
「ええ顔してはるな。これは恋するもんの顔や。樹、罪な事はええ加減にやめたらどないや?」
相変わらず柔らかな口調で、榊は厳しい事を口にする。
「それなんだが......彼と一緒になろうかと思っている。だから今回の件は困るし不愉快に思っている」
樹の真摯な言葉に一瞬、場が静まり返った。
「樹......あんた、自分が言ってゆうてる事がどないなもんかわかってはる?」
「わかっているつもりだ。だが......素直な感情から出た答えに従うのは悪い事だろうか?」
「あの子には?」
「まだだ。このゴタゴタを何とかしてからにしようと考えてる。
だから......彼女やその周囲にいる人間が彼に危害が及ぶのは防ぎたい。
私はどうすれば良いのでしょうか?」
自分がどれ程に無力であるのかを、樹は今更ながら痛感していた。想う相手一人自分で守る術を知らず、こうして誰かに頼ならければならない現実が苦しかった。自分はまだ両親すら説き伏せる場に立ててはいないのだから。
「一木 茉莉子が彼の事に気付いているのか。気付いているならばどこまで、何をどう知っているのか、によって状況は変わりますが......この場合は最悪の事態を想定するのが普通です」
「最悪の事態......」
もはや絶句するしかなかった。こんな事に彼を巻き込んでしまうなんて......すぐにでも会いに行きたかった。マンションへ連れ帰って閉じ込めてしまいたい。全てが解決するまで傍にずっと付いていたい。
これまでに味わった事がなき感情が渦巻いていた。様々なことをスマートにオトナにこなしていたつもりだったのに、自分がこんなに何も出来ない情けない人間だった事に心底ガッカリする。
「雫さん、貴之、私からもお願いや……本人前にしてなんやけど、彼はどこか人生を斜に構えて見とる奴やった。この子の事も酷いと本気で思て、非難もしました。そやけど……今の彼は別人や。こないな顔するんはこれまで見た事あらへん」
「榊……」
「しっかりしぃや!あんたが凹んでたら護れるもんも護られへんで!」
背中を軽く平手で叩かれて、樹は力なく頷いた。
「一度確認してみましょう」
「どのようにして?」
「偶然を装ってどこかで彼と接触してみてください。ただしそれ以外は極力接触を控える事。彼、秋月 玲さんにはこちらから警護を付けます。あ、所轄にはさせませんから。ただ、うちの部署は慢性的な人手不足なので、御園生の警備部門に優秀な人材を派遣してもらえるように要請します。
ただし申し訳ないのですが、費用はもっていただかなくてはなりません」
「それは構いません。玲を守る為だったら惜しいとは思いません」
「もう一つ、彼女たちの犯行を見極めないと我々も手は出せません。ですので多少は泳がせて監視する必要があります。もちろん、万が一の事態には万全の備えはします」
樹がわざわざここに呼ばれた本当の理由がこれだったのかと納得した。だが同時に彼らの言葉は玲を囮に使うといく意味だ。
「それは……承諾しかねます」
「お気持ちはわかります。ですがもし逮捕時に取りこぼしががあった場合、秋月さんもあなたももっと危険になります。窮鼠猫を噛む、です。お願いできませんか」
「できません。しかも玲には知らせないままでしょう?彼がどんなに恐い想いをするか……無理です!」
彼らのいう『囮』がどの程度までなのかもわからない。玲はこれまでも十分に恐い目に遭っているのだ。
「いくらなんでもあんまりやあらしまへんか?本人の承諾もなく、これまでの彼の周辺の事もあるやおへんか」
榊が困惑している樹に代わって抗議してくれる。
「だがな、榊。俺たちもはっきりとした証拠もなしには手は出せないんだ」
「貴之まで!あんた……雫さんも、自分の大切な人を囮にできはるか?よう考えってみい!」
樹を庇うようにして榊が激昂する。すると黙っていた御厨敦紀が口を開いた。
「私ならば……それが貴之の役に立つならば引き受けます」
「御厨君、もしそれで大怪我して取り返しのつかへん事になったら、一番後悔するんは恋人を囮にした貴之やで!私やったらようせんわ。通宗をそないな危険に晒すやなんて。まして本人には教えへんて……」
自分の代わりに声を荒げてくれる友人を今更ながらあり難く思う。
「だけどな、他に方法は今の所はないんだ。俺たちは顔が割れている。できれば室長だってこんな事はしたくはないんだよ」
「少し考える時間をください」
「樹!」
「嵯峨野が彼女のターゲットになるのは理解出来る。取り込まれたのがあの母ならば仕方がない部分もある。だが今の時点では私たちはあくまでも契約による愛人関係でしかない。外の人間にそれがどこまで通じるかはわからない。だが同時に今の私の気持ちもわかりはしないだろう」
できれば囮には玲ではなく自分がなりたかった。
「樹、ちょっとうちへ寄り」
よほど思い詰めた顔をしていたのだろう。榊が階下の自宅へ誘ってくれ、新婚ホヤホヤの部屋を初めて訪れた。
「いらっしゃいませ、嵯峨野さん」
まさに新妻という言葉がピッタリの通宗が出迎えた。彼とは仕事上での面識はある。榊が秘書として仕える方の伴侶の秘書として。
「ま、座り」
指し示されたソファに無言で腰を下ろすと、向かい側に座った榊が深々と溜息を吐いた。
「また、厄介なんに目ぇ付けられはったな。私は直接は会ってへんけど、貴族の間では一時かなりの噂になったんや。しでかした事が事やさかいな」
「母は気位と気分だけはまだ貴族だが、実際は籍を離れて久しい。そっちの情報が入らなかったのだろう」
「息子のあんたを前にしてアレやけど、正直に言うてあの女はあかへんな。自分の立場も役目も責任も義務も何もわかってへん。そやのに権利と我だけは通そうとしはる」
「最近はできるだけパーティとかに行かせないようにしてるんだが......どこから嗅ぎつけるのか、あちこちに出没して困っている」
「そやろな......で、ホンマにあの子と一緒になるんやな?」
「玲が私は嫌だと振らなければ」
「ああ~そら大いに有り得るわ」
「榊さん、ダメですよ、そんな事を言ったら。ここは旧都じゃないんですから」
キッチンから紅茶のセットを運んで来た通宗が小声で諌める。
「え、あ、堪忍」
謝罪の言葉は彼に向けられて発せられた。樹はその姿がおかしくて思わず噴き出した。
「何や?」
「いや、榊がデレてるのを初めて見た」
「どや、アテられたやろ?」
「はいはい、ご馳走さん」
言葉と共に肩を竦めてみせる。
「イギリス人も驚く堅物がな~」
「何を人の事ばかっり言うてはるんや。あんたも十分デレてるやろに」
「え?」
驚いて榊を見た樹に今度は彼が噴き出した。
「一回あの子の事口にする自分の顔、鏡で見てみ」
「ええ!?」
「あないな話の最中や言うのに、デレデレな顔して......噴き出さんようにするの大変やったで」
樹は自分の頬が一気に熱くなるのを感じた。
「うわっ、あんたが照れて赤くなんの初めて見たわ」
「......うるさい」
「ええ顔やな。それでええんやで、樹。あんたにそないな顔させるて、ホンマにええ子に出逢ったな」
ニコニコと笑う悪友の顔に苦笑いで返した。
榊はしばらくニヤニヤとしていたが、すぐに険しい表情に変わった。
「それでな、ここからが呼んだ本題や」
「聞こう」
「あんたが借りてるマンションやけどな、最近、オーナー変わったん知ってはる?」
「そう言えば......コンシュルジユがそんな事を言ってたな」
「彼らの顔ぶれ変わってへん?」
「何人かは」
「うちの不動産部門から耳打ちされたんやけど、あまりよろしゅうない人がオーナーにならはったらしい。辞めたんはその方針に反対した人らしいで」
「方針?」
「経費かさむさかい、人員減らしてセキュリティの質を落とすつもりやて」
「そんな......あそこはセキュリティが売りのマンションだぞ?」
「そやさかい引越し考えた方がええ。なんやったらここの下の分譲部分に空きがあるさかい、口利いてもええで。そんで数年後には多分、私らは新しいとこへ移るさかい、最上階を手に入れられるようにあの御方に打診しとこか?」
「それは助かるが......」
「ほな、決まりやな」
「お願いする」
彼の配慮に樹は素直な気持ちで頭を下げた。
「それて、ついでと言ったら語弊があるが、私の方から頼みがある」
「何や?私にでける事か?」
「あの御方にお願いがある」
「内容次第やな。つまらん事お願いしたら、私が夕麿さまに叱られるさかいな」
「わかってる。
玲との話を進めれば私は嵯峨野を出る事になるだろう。父は経営者としては問題があるが、嵯峨野の名は未だに力がある。私の社を全力で潰しにかかる。だから......我社を御園生の傘下に入らせてはもらえないだろうか。私が経営者として不適合であるならば、いつでも身を引く覚悟がある。一社員の立場でも構わない」
佐伯は樹に従うと言ってくれた。正規の社員を含めて社で働く者は既に百人を超えている。特に最高ランクに所属している者たちは、その職務内容による守秘義務の為に他のアルバイトをしていない者もいる。社が追い詰められれば一番の被害に合うのは彼らだ。
「わかった。あの御方の時間が取れるか、通宗、あんたの腕の見せ所やで」
「わかりました」
「話自体は私からまず、夕麿さまに。多分、反対はしはらへんやろ。第一、御園生としてもあんたのとこが派遣してくれる人材は有難い。パーティ自体の招待客は厳選できるけと、働いてくれる人は難しからな」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。お前の愚痴から始めた社だからな」
「そやから余計に反対はしはらへんやろ」
「よろしくお願いする」
たとえ今の立場にとどまれなくても、樹には未練はない。それで玲との未来が得られるのであれば何を惜しむ事があるというのだろう。
「兎も角、今日、雫さんが言いはった事をは守りな。あの子と連絡も控えるのは辛いやろうけど、できるだけ今は接触はせんとき。んで、弟さんは味方にでけそうか?」
「あれは悪気がないわけじゃないんだが、どうも物事を軽く見てしまうクセがある。今となっては殴られるのを承知で玲との事を打ち明けてもいいが……その後が逆効果になりそうで心配だ」
そう、どんな時にも要に悪意や策略があるわけではない。むしろ玲が心配するように彼はどこまでも無自覚に人が好い。本人は警戒心を持っているつもりらしいが、今一つ脇が甘いのだ。
「年内は無理やけど、年明けたらできるだけ早いうちにここへ移れるように手配するよて」
「わかった。年末年始は予定が詰まっていてマンションには戻れないが、松が明けたら準備を進めておく事にする」
そう言って樹は彼らの住むマンションを後にした。
本当はメールだけでも交わしたかったが、相手は何をするかわからない人間で、大学の誰かに金品などを与えて玲のスマホに細工をしている可能性も示唆された。つまり玲とのやり取りが相手に筒抜けになっていかもしれないと。ゆえに要を間に挟んで連絡を取るしかなく、当然ながら色恋沙汰の会話はできない。それでもせめて一人で年末年始を迎える彼の為に注文したおせち料理を、要に届けさせて簡単なメモを隠して渡した。
しばらく忙しいと。
そして本当に忙しくなった。何事かを察知したのか父親が、ヨーロッパからの新プロジェクトの打ち合わせに行くようにと命令して来た。しかもしっかりと契約を交わして具体的な話を詰めるまで帰って来るなと。拗こじれれば月単位の時間が必要になる。自分が不在の間に彼女たちが玲に危害を加えないか不安だったが、複数の人間で本人にも気付かれないように警護を付けると約束してもらって、なおも後ろ髪を引かれながら樹はフランス行きの飛行機に搭乗した。
「お前ら、実は出来てんじゃねぇの?」
今日、二人が義理で合コンに参加した話を、玲の警護をしている人物から聞いた。例の一木 茉莉子が樹と彼の関係を察知しているのか、試すにはちょうど良いと言われて後を佐伯に任せて駆け付けた樹の耳に、真っ先に飛び込んで来た言葉がこれだった。
「それ、さっきの仕返し?つまんない事を言って楽しい?」
根拠もない中傷に腹を立てたらしい玲が冷たく鋭く言い返し、言われた相手がギョっとした顔で怯んだ。要でさえも驚いて玲を見ていた。樹も彼のこんな顔は見た事がない。
「なんだよ!」
我に返ったらしい相手が声をあげるが、完全に玲の気迫に呑まれているのがわかる。面立ちが整って美しいからか、冷ややかに腹を立てている彼から発せられる雰囲気は凄まじい。
すると同じように我に返った要が玲を庇うように進み出て言った。
「俺の親友を侮辱するな、とさっき言ったよな?」
よく言った!と樹は心の中で叫んだ。
玲が要の後ろで泣きそうな顔をしているのを見て、樹は今が声を掛ける時だと思った。
「要?」
いわれている通りに玲にではなく弟に声をかけた。
「兄さん?」
振り返った要が酷く驚いた顔を向けて言う。
「あれ?出張は?ヨーロッパじゃなかったの?」
「仕事が片付いたらから帰って来た」
「っていつ!?俺、聞いてない!」
「昨日の夜遅く空港に到着してすぐにホテルに入ったから」
「で、朝から仕事してたわけか。お疲れさん」
「土産を買ってきたから都合の良い時にマンションの方へ来なさい」
「わかった、玲の分もあるんだよな?」
完全に不意を突かれた暴言男が、樹と要を交互に見て困っている。それを余裕の目で見て鼻で笑ってから答えた。
「もちろんだ。要と一緒に取りにおいで」
「はい。あ、おかえりなさい」
さっきまで泣きそうになっていたのに、ふわりとした優しい笑顔で言われて顔が緩みそうになる。
「ありがとう、ただいま。弟は言ってくれないのにね」
「え、あ、おかえりなさい。これでいいだろ?」
不貞腐れて言う要に周囲が噴き出した。玲も笑っていたがすぐにその表情が強張った。樹は嫌な感じがして彼の視線を追うといつの間にか近付いて来ていた一木 茉莉子が、玲に鋭い視線を向けながら横に立って腕を取った。不快さに振り払いたくなったが邪険にして、玲に何かされたらたまったものではない。
「手を放してはくれないか。私はまだ今回の縁談に対して何の返事もしていないが」
だが彼女は言葉を思いっきり無視して玲だけを見つめている。兎に角ここは収めて立ち去らなければ……と要を見た。
「二人ともこんな所で何をしてるんだ?」
「ん?ああ、合コンが終わったとこ」
「合コン?お前が?それに秋月くんも?」
先程の暴言男が無理を言ったのは聞いてはいる。だがわざと彼らがここにいる不自然さを強調したのは、分を弁えない暴言男に対する非難と牽制だった。
「付き合いって奴。俺と玲は人数合わせ。でもこれから帰るところ」
「そうだな。そういうのは私は余り賛成しない」
「今回だけって約束だからさ。そもそも俺は彼女いるし、玲は好きじゃないみたいだし」
要の言葉に同意するように玲が小さく頷いた。だがすぐに樹から視線を外して息を呑み視線を落とす。茉莉子がまだ玲を睨んでいた。本当に忌々しい女だと内心で舌打ちした。
「後で連絡してくれ」
ここから離れないと玲が危険だと感じて、要に対して言葉を紡いだ。
「わかった、玲と相談して行く日決めて連絡する」
「じやあな」
「じやあ」
互いに軽く手を上げて踵を返す間際、玲が要の横で頭を下げるのが見えた。本当はこのまま彼を連れ去ってしまいたかった。この腕に抱いてこの想いを告げたかった。だが今はじっと耐えるしかない。
しかし玲には樹が茉莉子と行動していた様に見えただろう。彼は何と思っただろう。年末に母親が樹に強制的に自分が選んだ女と見合いさせた話は、彼女が家族にも周囲にも自慢げに喋っている為、要も承知のはずであった。当然ながら玲の耳にも入る事は覚悟しなければならない。それが今の樹には辛かった。
今の樹の縋る縁は旅行先で一緒に作った思い出と揃いのマグカップだけだった。
「まあ、樹さん、おかえりなさい。何日ぶりかしらね、帰っていらっしゃるのは」
普段は遊び歩いて帰って来ない癖にと心の中で毒付く。
「いろいろと忙しいもので」
完全な仮面家族に上辺だけの挨拶も虚しく思う。それでも玲の笑顔を思い出して踏みとどまった。
「あら、そうなの。
でね、今日はあなたに紹介したい方がいるの」
母親の言葉でソファに座っていた女が立ち上がった。
「茉莉子さん、こちらが私の上の息子の樹ですわ」
「初めまして、一木 茉莉子と申します」
しまった......と思った。玲への気持ちに浮かれていて、この可能性を失念していた。
「不意打ちはないでしょう、お母さん。ちゃんと予定をくださらないと」
「あなたは帰ってこないではありませんか」
「少なくとも佐伯に命じてくだされば、ちゃんと時間を開けました。今日はそこまでの時間がないのですが」
「あら、こちらを優先なさいな」
「それは出来ません。仕事は仕事。私事は私事。減り張りができないのは企業経営者としては失格です」
「まだあなたは経営者ではないでしょう」
「お忘れですか?私は私の会社を経営しているのを」
「ああ、お義父さまが遊びだと仰ってたあれね」
この女に何を言っても無駄だった、という事実を思い出した。彼女が興味を持っているのは他者の『家柄』『身分』『資産』、そして贅沢気ままに遊ぶ事だけだ。嵯峨野の財産を食い潰し続けている、まさに白蟻のような女。樹が人生で一番に嫌悪し、憎んでいる女だ。
考えてみれば女相手に恋愛感情を持てず、どこか蔑むような気持ちがあったのはこの女が原因かもしれない。この最低最悪な女が母親で、自分の体内に同じ血が流れているかと思うと虫唾が走る。
「要件は済みましたね。では私は行きます」
「失礼ではありませんか、樹さん!」
そんなものは知るかと心で吐き捨てて踵を返した。
「いいえ、お忙しい中に来てくださったのですから。こうして紹介していただけましたもの。また日を改めて」
背後で可愛らしく殊勝な言葉を言っているが、何となく直感でこの女は母親と同じかそれ以下だと思った。
なおも引き留めようとする母親の声を無視して、樹は嵯峨野邸を後にした。
すぐに佐伯に電話して事情を話し、後を頼んだ。次いで天羽 榊に電話をする。
「今、いいか?」
『かまへんけど、どないしはった?何や切羽詰まった声やな?』
「至急、情報が欲しい。母が女を連れてきた。多分、貴族だと思うんだが......何となく裏がありそうな感じがする」
『名前は?』
「一木......茉莉子だったと思う」
『え......それは......樹、うちへ来れるか?マンションの方や。この前会ったやろ?彼が詳しい事知っとるさかい、ここへ呼んでおくから』
警察官が彼女に詳しい?それとも個人的な知り合いか?
『詳しい事は兎も角会ってからや』
「わかった。すぐに向かう」
『待ってるわ』
向う先を知られたくはないので通りに出てタクシーを拾い、榊が住む高層マンションに到着するとエントランスで彼が待っていた。
「貴之に話したら詳しく事情を聞きたいそうや」
「わかった」
「これから案内するのはここの最上階、貴之の上司の部屋や」
説明をしながら榊が歩き出すのに、頷きながらついていく。
最上階の部屋には先日、顔を合わせた貴之以外に二人の男がいた。そこで一木 茉莉子が関わった事件の話を聞く。
彼女は大学のサークルを隠れ蓑にした、結婚詐欺グループの一人だったという。まだ参加したばかりで周囲の行為が詐欺だとわからなかったと証言して、両親が雇った弁護士の力もあり起訴猶予になったらしい。
「知らなかったはずはないんです。彼女は私たちの前で暴言を吐いています」
ほっそりとしているが意志がハッキリしているイメージの青年が言った。彼は彼女の元許婚者で、新進気鋭の画家御厨画伯本人だと紹介された。
「それでわざわざ来ていただいたのは、彼女が貴族籍を剥奪されているという事実と、そちらに貴族令嬢として顔を出してはいないかという確認です。それに余り良くない輩と最近は一緒にいるらしいので、何某かを企んでいる可能性があります」
「母は彼女が貴族令嬢だと信じて、私と会わせたと思います」
「彼女は自分をよく見せるのが上手ですが、化けの皮はすぐに剥がれます。頭良く計算で立ち回っているつもりなんです。子供の時から自分の失敗やイタズラを、誰かの責任にすり替えるのがうまかった......」
彼の婚約破棄の理由はその様なところにあったのだろうと樹は想い、言葉を敢えて発せずに頷いた。
が、次の瞬間、ある事が引っかかった。
「あの、彼女は誰かに危害を加えるような事は......」
樹の問い掛けに三人が視線を交わらせて頷いた。
「多分、自分で実行するのは少ないかと」
「となると周囲にいる者たちがやりかねないな。その辺はどうなんだ、貴之?」
「有り得ますが......調査を開始したばかりなので、曖昧な事しかわかりません」
既に彼女は彼らの調査対象に入っていた?
「あ、説明します。彼女がかつての仲間で、同じく猶予になった者と共に動いている報告があったのです」
「その標的に私が選ばれた?」
「そうなりますね」
成瀬 雫と名乗った人物は落ち着いた口調でそう言った。
「私としては時間が経過すればくい込まれると感じます。母は気付いてはいないようですが、彼女はそれとなく母や私の身なり持ち物及び、家の値踏みをしている様に見えました。出来れば早々に断りたいのですが」
金目当てでしかも詐欺師など傍に寄られるのもおぞましいと樹は感じていた。
「それは構わないのですが、あなたに危害が及ぶ可能性も考えられます」
「私は多分、付け回されるくらいじゃないかな?」
「そやけどな、樹。あの子や弟は危ないかもしれへんで?
貴之、あの件は樹の事調べた彼女たちのマウンティングみたいなもんやないんか?」
榊の言葉にギョッとする。もし自分の縁談絡みならば本当に玲には申し訳なく思う。
「可能性はある。そう思われますよね、室長?」
「そうだな。犯罪者は常と言って良い程、まずは弱者から狙う。
嵯峨野さんご兄弟は護身術は?」
「軽くならば私はも弟も......そうか、玲は流石に」
「写真はおありですか?」
遥かに身分が上の相手が、普通に丁寧に話してくれる。樹は身が縮まる思いだった。
「1番最近のものがこれです」
スマホの中の写真は、旅行中に撮ったものだ。リラックスした笑顔が美しいと思う。
「拝見します」
そう言ってスマホを受け取った彼は息を呑んだ。
「前にも増して綺麗になってへんか?」
覗き込んだ榊が言う。
「ええ顔してはるな。これは恋するもんの顔や。樹、罪な事はええ加減にやめたらどないや?」
相変わらず柔らかな口調で、榊は厳しい事を口にする。
「それなんだが......彼と一緒になろうかと思っている。だから今回の件は困るし不愉快に思っている」
樹の真摯な言葉に一瞬、場が静まり返った。
「樹......あんた、自分が言ってゆうてる事がどないなもんかわかってはる?」
「わかっているつもりだ。だが......素直な感情から出た答えに従うのは悪い事だろうか?」
「あの子には?」
「まだだ。このゴタゴタを何とかしてからにしようと考えてる。
だから......彼女やその周囲にいる人間が彼に危害が及ぶのは防ぎたい。
私はどうすれば良いのでしょうか?」
自分がどれ程に無力であるのかを、樹は今更ながら痛感していた。想う相手一人自分で守る術を知らず、こうして誰かに頼ならければならない現実が苦しかった。自分はまだ両親すら説き伏せる場に立ててはいないのだから。
「一木 茉莉子が彼の事に気付いているのか。気付いているならばどこまで、何をどう知っているのか、によって状況は変わりますが......この場合は最悪の事態を想定するのが普通です」
「最悪の事態......」
もはや絶句するしかなかった。こんな事に彼を巻き込んでしまうなんて......すぐにでも会いに行きたかった。マンションへ連れ帰って閉じ込めてしまいたい。全てが解決するまで傍にずっと付いていたい。
これまでに味わった事がなき感情が渦巻いていた。様々なことをスマートにオトナにこなしていたつもりだったのに、自分がこんなに何も出来ない情けない人間だった事に心底ガッカリする。
「雫さん、貴之、私からもお願いや……本人前にしてなんやけど、彼はどこか人生を斜に構えて見とる奴やった。この子の事も酷いと本気で思て、非難もしました。そやけど……今の彼は別人や。こないな顔するんはこれまで見た事あらへん」
「榊……」
「しっかりしぃや!あんたが凹んでたら護れるもんも護られへんで!」
背中を軽く平手で叩かれて、樹は力なく頷いた。
「一度確認してみましょう」
「どのようにして?」
「偶然を装ってどこかで彼と接触してみてください。ただしそれ以外は極力接触を控える事。彼、秋月 玲さんにはこちらから警護を付けます。あ、所轄にはさせませんから。ただ、うちの部署は慢性的な人手不足なので、御園生の警備部門に優秀な人材を派遣してもらえるように要請します。
ただし申し訳ないのですが、費用はもっていただかなくてはなりません」
「それは構いません。玲を守る為だったら惜しいとは思いません」
「もう一つ、彼女たちの犯行を見極めないと我々も手は出せません。ですので多少は泳がせて監視する必要があります。もちろん、万が一の事態には万全の備えはします」
樹がわざわざここに呼ばれた本当の理由がこれだったのかと納得した。だが同時に彼らの言葉は玲を囮に使うといく意味だ。
「それは……承諾しかねます」
「お気持ちはわかります。ですがもし逮捕時に取りこぼしががあった場合、秋月さんもあなたももっと危険になります。窮鼠猫を噛む、です。お願いできませんか」
「できません。しかも玲には知らせないままでしょう?彼がどんなに恐い想いをするか……無理です!」
彼らのいう『囮』がどの程度までなのかもわからない。玲はこれまでも十分に恐い目に遭っているのだ。
「いくらなんでもあんまりやあらしまへんか?本人の承諾もなく、これまでの彼の周辺の事もあるやおへんか」
榊が困惑している樹に代わって抗議してくれる。
「だがな、榊。俺たちもはっきりとした証拠もなしには手は出せないんだ」
「貴之まで!あんた……雫さんも、自分の大切な人を囮にできはるか?よう考えってみい!」
樹を庇うようにして榊が激昂する。すると黙っていた御厨敦紀が口を開いた。
「私ならば……それが貴之の役に立つならば引き受けます」
「御厨君、もしそれで大怪我して取り返しのつかへん事になったら、一番後悔するんは恋人を囮にした貴之やで!私やったらようせんわ。通宗をそないな危険に晒すやなんて。まして本人には教えへんて……」
自分の代わりに声を荒げてくれる友人を今更ながらあり難く思う。
「だけどな、他に方法は今の所はないんだ。俺たちは顔が割れている。できれば室長だってこんな事はしたくはないんだよ」
「少し考える時間をください」
「樹!」
「嵯峨野が彼女のターゲットになるのは理解出来る。取り込まれたのがあの母ならば仕方がない部分もある。だが今の時点では私たちはあくまでも契約による愛人関係でしかない。外の人間にそれがどこまで通じるかはわからない。だが同時に今の私の気持ちもわかりはしないだろう」
できれば囮には玲ではなく自分がなりたかった。
「樹、ちょっとうちへ寄り」
よほど思い詰めた顔をしていたのだろう。榊が階下の自宅へ誘ってくれ、新婚ホヤホヤの部屋を初めて訪れた。
「いらっしゃいませ、嵯峨野さん」
まさに新妻という言葉がピッタリの通宗が出迎えた。彼とは仕事上での面識はある。榊が秘書として仕える方の伴侶の秘書として。
「ま、座り」
指し示されたソファに無言で腰を下ろすと、向かい側に座った榊が深々と溜息を吐いた。
「また、厄介なんに目ぇ付けられはったな。私は直接は会ってへんけど、貴族の間では一時かなりの噂になったんや。しでかした事が事やさかいな」
「母は気位と気分だけはまだ貴族だが、実際は籍を離れて久しい。そっちの情報が入らなかったのだろう」
「息子のあんたを前にしてアレやけど、正直に言うてあの女はあかへんな。自分の立場も役目も責任も義務も何もわかってへん。そやのに権利と我だけは通そうとしはる」
「最近はできるだけパーティとかに行かせないようにしてるんだが......どこから嗅ぎつけるのか、あちこちに出没して困っている」
「そやろな......で、ホンマにあの子と一緒になるんやな?」
「玲が私は嫌だと振らなければ」
「ああ~そら大いに有り得るわ」
「榊さん、ダメですよ、そんな事を言ったら。ここは旧都じゃないんですから」
キッチンから紅茶のセットを運んで来た通宗が小声で諌める。
「え、あ、堪忍」
謝罪の言葉は彼に向けられて発せられた。樹はその姿がおかしくて思わず噴き出した。
「何や?」
「いや、榊がデレてるのを初めて見た」
「どや、アテられたやろ?」
「はいはい、ご馳走さん」
言葉と共に肩を竦めてみせる。
「イギリス人も驚く堅物がな~」
「何を人の事ばかっり言うてはるんや。あんたも十分デレてるやろに」
「え?」
驚いて榊を見た樹に今度は彼が噴き出した。
「一回あの子の事口にする自分の顔、鏡で見てみ」
「ええ!?」
「あないな話の最中や言うのに、デレデレな顔して......噴き出さんようにするの大変やったで」
樹は自分の頬が一気に熱くなるのを感じた。
「うわっ、あんたが照れて赤くなんの初めて見たわ」
「......うるさい」
「ええ顔やな。それでええんやで、樹。あんたにそないな顔させるて、ホンマにええ子に出逢ったな」
ニコニコと笑う悪友の顔に苦笑いで返した。
榊はしばらくニヤニヤとしていたが、すぐに険しい表情に変わった。
「それでな、ここからが呼んだ本題や」
「聞こう」
「あんたが借りてるマンションやけどな、最近、オーナー変わったん知ってはる?」
「そう言えば......コンシュルジユがそんな事を言ってたな」
「彼らの顔ぶれ変わってへん?」
「何人かは」
「うちの不動産部門から耳打ちされたんやけど、あまりよろしゅうない人がオーナーにならはったらしい。辞めたんはその方針に反対した人らしいで」
「方針?」
「経費かさむさかい、人員減らしてセキュリティの質を落とすつもりやて」
「そんな......あそこはセキュリティが売りのマンションだぞ?」
「そやさかい引越し考えた方がええ。なんやったらここの下の分譲部分に空きがあるさかい、口利いてもええで。そんで数年後には多分、私らは新しいとこへ移るさかい、最上階を手に入れられるようにあの御方に打診しとこか?」
「それは助かるが......」
「ほな、決まりやな」
「お願いする」
彼の配慮に樹は素直な気持ちで頭を下げた。
「それて、ついでと言ったら語弊があるが、私の方から頼みがある」
「何や?私にでける事か?」
「あの御方にお願いがある」
「内容次第やな。つまらん事お願いしたら、私が夕麿さまに叱られるさかいな」
「わかってる。
玲との話を進めれば私は嵯峨野を出る事になるだろう。父は経営者としては問題があるが、嵯峨野の名は未だに力がある。私の社を全力で潰しにかかる。だから......我社を御園生の傘下に入らせてはもらえないだろうか。私が経営者として不適合であるならば、いつでも身を引く覚悟がある。一社員の立場でも構わない」
佐伯は樹に従うと言ってくれた。正規の社員を含めて社で働く者は既に百人を超えている。特に最高ランクに所属している者たちは、その職務内容による守秘義務の為に他のアルバイトをしていない者もいる。社が追い詰められれば一番の被害に合うのは彼らだ。
「わかった。あの御方の時間が取れるか、通宗、あんたの腕の見せ所やで」
「わかりました」
「話自体は私からまず、夕麿さまに。多分、反対はしはらへんやろ。第一、御園生としてもあんたのとこが派遣してくれる人材は有難い。パーティ自体の招待客は厳選できるけと、働いてくれる人は難しからな」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。お前の愚痴から始めた社だからな」
「そやから余計に反対はしはらへんやろ」
「よろしくお願いする」
たとえ今の立場にとどまれなくても、樹には未練はない。それで玲との未来が得られるのであれば何を惜しむ事があるというのだろう。
「兎も角、今日、雫さんが言いはった事をは守りな。あの子と連絡も控えるのは辛いやろうけど、できるだけ今は接触はせんとき。んで、弟さんは味方にでけそうか?」
「あれは悪気がないわけじゃないんだが、どうも物事を軽く見てしまうクセがある。今となっては殴られるのを承知で玲との事を打ち明けてもいいが……その後が逆効果になりそうで心配だ」
そう、どんな時にも要に悪意や策略があるわけではない。むしろ玲が心配するように彼はどこまでも無自覚に人が好い。本人は警戒心を持っているつもりらしいが、今一つ脇が甘いのだ。
「年内は無理やけど、年明けたらできるだけ早いうちにここへ移れるように手配するよて」
「わかった。年末年始は予定が詰まっていてマンションには戻れないが、松が明けたら準備を進めておく事にする」
そう言って樹は彼らの住むマンションを後にした。
本当はメールだけでも交わしたかったが、相手は何をするかわからない人間で、大学の誰かに金品などを与えて玲のスマホに細工をしている可能性も示唆された。つまり玲とのやり取りが相手に筒抜けになっていかもしれないと。ゆえに要を間に挟んで連絡を取るしかなく、当然ながら色恋沙汰の会話はできない。それでもせめて一人で年末年始を迎える彼の為に注文したおせち料理を、要に届けさせて簡単なメモを隠して渡した。
しばらく忙しいと。
そして本当に忙しくなった。何事かを察知したのか父親が、ヨーロッパからの新プロジェクトの打ち合わせに行くようにと命令して来た。しかもしっかりと契約を交わして具体的な話を詰めるまで帰って来るなと。拗こじれれば月単位の時間が必要になる。自分が不在の間に彼女たちが玲に危害を加えないか不安だったが、複数の人間で本人にも気付かれないように警護を付けると約束してもらって、なおも後ろ髪を引かれながら樹はフランス行きの飛行機に搭乗した。
「お前ら、実は出来てんじゃねぇの?」
今日、二人が義理で合コンに参加した話を、玲の警護をしている人物から聞いた。例の一木 茉莉子が樹と彼の関係を察知しているのか、試すにはちょうど良いと言われて後を佐伯に任せて駆け付けた樹の耳に、真っ先に飛び込んで来た言葉がこれだった。
「それ、さっきの仕返し?つまんない事を言って楽しい?」
根拠もない中傷に腹を立てたらしい玲が冷たく鋭く言い返し、言われた相手がギョっとした顔で怯んだ。要でさえも驚いて玲を見ていた。樹も彼のこんな顔は見た事がない。
「なんだよ!」
我に返ったらしい相手が声をあげるが、完全に玲の気迫に呑まれているのがわかる。面立ちが整って美しいからか、冷ややかに腹を立てている彼から発せられる雰囲気は凄まじい。
すると同じように我に返った要が玲を庇うように進み出て言った。
「俺の親友を侮辱するな、とさっき言ったよな?」
よく言った!と樹は心の中で叫んだ。
玲が要の後ろで泣きそうな顔をしているのを見て、樹は今が声を掛ける時だと思った。
「要?」
いわれている通りに玲にではなく弟に声をかけた。
「兄さん?」
振り返った要が酷く驚いた顔を向けて言う。
「あれ?出張は?ヨーロッパじゃなかったの?」
「仕事が片付いたらから帰って来た」
「っていつ!?俺、聞いてない!」
「昨日の夜遅く空港に到着してすぐにホテルに入ったから」
「で、朝から仕事してたわけか。お疲れさん」
「土産を買ってきたから都合の良い時にマンションの方へ来なさい」
「わかった、玲の分もあるんだよな?」
完全に不意を突かれた暴言男が、樹と要を交互に見て困っている。それを余裕の目で見て鼻で笑ってから答えた。
「もちろんだ。要と一緒に取りにおいで」
「はい。あ、おかえりなさい」
さっきまで泣きそうになっていたのに、ふわりとした優しい笑顔で言われて顔が緩みそうになる。
「ありがとう、ただいま。弟は言ってくれないのにね」
「え、あ、おかえりなさい。これでいいだろ?」
不貞腐れて言う要に周囲が噴き出した。玲も笑っていたがすぐにその表情が強張った。樹は嫌な感じがして彼の視線を追うといつの間にか近付いて来ていた一木 茉莉子が、玲に鋭い視線を向けながら横に立って腕を取った。不快さに振り払いたくなったが邪険にして、玲に何かされたらたまったものではない。
「手を放してはくれないか。私はまだ今回の縁談に対して何の返事もしていないが」
だが彼女は言葉を思いっきり無視して玲だけを見つめている。兎に角ここは収めて立ち去らなければ……と要を見た。
「二人ともこんな所で何をしてるんだ?」
「ん?ああ、合コンが終わったとこ」
「合コン?お前が?それに秋月くんも?」
先程の暴言男が無理を言ったのは聞いてはいる。だがわざと彼らがここにいる不自然さを強調したのは、分を弁えない暴言男に対する非難と牽制だった。
「付き合いって奴。俺と玲は人数合わせ。でもこれから帰るところ」
「そうだな。そういうのは私は余り賛成しない」
「今回だけって約束だからさ。そもそも俺は彼女いるし、玲は好きじゃないみたいだし」
要の言葉に同意するように玲が小さく頷いた。だがすぐに樹から視線を外して息を呑み視線を落とす。茉莉子がまだ玲を睨んでいた。本当に忌々しい女だと内心で舌打ちした。
「後で連絡してくれ」
ここから離れないと玲が危険だと感じて、要に対して言葉を紡いだ。
「わかった、玲と相談して行く日決めて連絡する」
「じやあな」
「じやあ」
互いに軽く手を上げて踵を返す間際、玲が要の横で頭を下げるのが見えた。本当はこのまま彼を連れ去ってしまいたかった。この腕に抱いてこの想いを告げたかった。だが今はじっと耐えるしかない。
しかし玲には樹が茉莉子と行動していた様に見えただろう。彼は何と思っただろう。年末に母親が樹に強制的に自分が選んだ女と見合いさせた話は、彼女が家族にも周囲にも自慢げに喋っている為、要も承知のはずであった。当然ながら玲の耳にも入る事は覚悟しなければならない。それが今の樹には辛かった。
今の樹の縋る縁は旅行先で一緒に作った思い出と揃いのマグカップだけだった。
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