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夢のあと
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新しい年が明けた。大晦日に要が御節を届けてくれたりしたが、玲は一人で新年を迎えて最初の仕事の日まで、アパートの部屋で外出する事もなく過ごした。
旅行の後、樹からの連絡はメールも電話もなく、当然ながら顔を合わせる事もなかった。大学が始まって要に樹がヨーロッパへ新年早々に出張に出た事を知らされた。帰国はいつになるのかはわからないと言う。
「兄さんも大変だよな~」
「要だって卒業したらそうなるんじゃない?」
「え~ないない!俺は気楽な次男坊!」
呑気な、とは思う。だが上に兄弟がいる分には確かに回って来る負担は少なくなる。本人がやる気を出して積極的に関わらない限りは。
「あ!いたいた!」
不意に背後から声がした。振り返ると要の取り巻きで、いつも女性の話や合コンの話をしている井吹という男がいた。
「井吹、お前、合コンに行くんだろ?こんな所でウロウロしてていいのか?」
要がからかうように言う。
「それそれ!それなんだよ!」
「だから何?」
玲は彼が苦手でいつもと同じく会話には加わらない。彼は人の恋愛や交遊関係を根掘り葉掘り知りたがる。樹との事を暴かれてしまいそうで嫌なのだ。
「なぁ、頼まれてくれない?都合が悪くなった奴がいて、人数が足らないんだ。この通りだ!」
「え~やだよ。俺は彼女いるし」
「玖実ちゃんには俺から連絡して謝っておくから!」
本当に困っているらしいが元より玲には関係がない事だ。
「じゃ、要。ボクは先に帰るよ」
「え!?」
井吹が驚いた様な声をあげた。
「いやいやいやいや、秋月、今の話聞いてたっしょ?」
「人数足らないから要を連れて行くんでしょ?」
「秋月っちも一緒に」
「は?わけわからないんだけど?ボクを誘ってどうするの?他の人あたりなよ」
冗談じゃない。女漁りの連中は嫌だ。間違いなく玲に寄ってくる奴がいる。第一、玲は昔から女性に敬遠されるのだ。間違いなく顔を合わせた途端に不快な顔をされるだろう。
「あ~俺もそれは賛成しない。玲に責任はないけれどトラブルになる可能性がある。もし何かあったら兄の会社の仕事に穴があく。お前では代理にはならんぞ?」
「だ・か・ら!要が一緒に来れば良いんだよ!ホント、いてくれるだけでいいから!二人の参加費は持つからさ」
自分の都合でしか話さない。こちらが迷惑だと言っても彼はいつも理解できない様に思えるのだ。
「そういう問題じゃない」
要が本気で怒り始めた。以前に何となく彼が口にした言葉から判断すると、井吹はいつの間にか要の取り巻きの中にいたらしい。誰かに聞いても彼を誘った、連れてきたという者はいなかったそうだ。
樹のような大人の落ち着いた雰囲気はないけれど、要も女の子たちが騒ぐタイプの『イケメン』だ。まして嵯峨野家は戦前ならば経済に貢献したとして、勲功貴族に叙せられてもおかしくない家柄。気立ての良い優しい彼女がいるから、無闇に迫られる事はなくなったが入学当初は大変だったと聞く。
もしかしたらわざと人数を足らなくしたのではないか......と懸念する。玲を誘えば要は必ず心配して一緒に来る。何となく井吹の計算みたいのを感じて不快になった。
「要、行こう」
腕を掴んで促すと要も頷く。
「なあ、つれないこと言うなよ~」
「要は人寄せじゃない」
本当に頭に来る。要が裕福な家庭の子息だからってだけで、寄り集まって来る人間に不快な目に合わされた経験があるらしいのはわかってる。樹も似たような事を口にした事があるが、彼は少なくとも後継者としての覚悟でやり過ごして来たらしいが、要にはそれがあるとは思えない。もしかしたら兄程の年齢になればそうなるのかもしれないが。
「お前、本当につまらない奴だな」
井吹が突き刺さるような口調で言った。
「何でお前が要の取り巻きにいるのか、ずっと不思議だったよ」
それはこっちのセリフだと言いたかった。
「お前、要の金目当てだろ?」
要自身から金品を受け取った事はない。大晦日に彼が届けてくれた御節も、樹からの好意だった。だが樹の愛人として契約して金品を与えられている以上、井吹の言葉に反論する事はできなかった。
「図星だろ?」
言葉をなくしている玲を見て、完全に腹をたてたのは要だった。
「玲が答えないのは仕事関係で俺と兄に関わってるからだ。玲は働き者だし気もつく。この通り綺麗で見栄えがするから、派遣の要請もかなり来る。そういう事に恩義を感じてくれてるんだ」
そう言って彼はしみじみと井吹を眺めた。
「な、なんだよ」
「お前こそ何で俺の周りにいる?玲は俺自身が引っ張りこんだからさ。でも、お前を呼んだ記憶はないんだけど?」
玲も大概に辛辣な事を口にするが、要の言葉は恐らくはこれまでも数多く発せられたものという感じがした。
今度は井吹が絶句する番だった。
「まあ、いいだろう。玲、今回はこいつのお願いを聞いてやろう」
「え?合コンに行くの、要?」
「お前もな」
こう言われてギョっとしたが、すぐに溜息を吐いて承諾した。
「これっきりだからね。あと、トラブってもボクは責任とらないよ?」
「玲が悪い訳じゃないだろ、いつも。合コンの代金は俺が出すから。
それでいいな、井吹?ただしこれっきりだ。二度と勝手な事を言うなよ?」
「今回の件は悪かったよ。でも......そいつは何考えてんのかわからない。だから気を付けた方がいいぞ!きっととんでもない事を裏でやってるに違いない」
悔し紛れの言葉だとはわかっているが、真実を突いているのは確かだった。
「井吹、それ以上、俺の親友を誹謗中傷するなら、二度と俺の側に来れないようにするぞ!」
親友……そう言ってもらう資格は裏切っているに久しい自分にはない。申し訳なくて胸が痛い。ましてや彼の兄に片恋しているなどと、天地がひっくり返っても口にする訳にはいかない。
「要......」
「まさか、俺の片想いじゃないよな?」
ドキリとしたが懸命に笑顔で答えた。
「樹さんがボクの味方ばかりするって、この前は拗ねてじゃないか」
「あ、お前、ここでそれを言う?」
苦虫を噛み潰したような顔をする彼に、玲は声をあげて笑った。けれども傍らで井吹が刺すような眼差しを向けているのが感じられた。
玲は常に要に躊躇する事なく意見を言う。間違っている事もズバリと口にする。周囲の人間が彼を利用しようとするのも許さない。秘かに『御意見番』なんて言われてるのも知ってる。けれど要は危なっかしいのだ。世間知らずのお坊ちゃんが世間のわずかな破片だけ知って、物事を判断している感じがして心許なく見える。自分だってそうわかっているわけじゃないけれども、少なくとも要よりは人の狡さや汚さを見て来た。
人は些細な事で安易に裏切る。他人を利用する事しか考えない者も、自分の損得しか関心がない者も多い。まして要は現代の大財閥の次男坊だ。家を継ぐ重荷がない分身軽で、世間的には羨望の対象になる。特に女子たちには理想の結婚相手だろう。まさに高級な蜜に群がる昆虫たちだ。中には美しい蝶もいるが、蝶のふりをした蛾もいる。時には毒蛾だっているだろう。要は本当に善い奴だと思うし、弟が酷い目に遭えば樹が悲しむだろう。だから自分が止められる事、防げる事はするつもりだった。
いつかは彼らの元を去る日が来る。せめて思い出だけは良いものを残して消えたい。ここに自分がいたという記憶が残って欲しいから。
合コンは予想通り荒れた。
相手方の女性たちも結構な美人揃いだったが、玲には彼女たちにはない輝きの様なものがあった。着ている服は樹のプレゼントで、あの一件の後に買い与えられたものだ。当然ながらデザインは一見シンプルに見えるがブランド品であった。念入りに化粧を施し派手なブランド品で身を固めた彼女たちよりも、玲の方がずっと美しく清楚に見えた。女性たちは異性を意識した姿だが、玲は異性も同性も今は気にしていない。今の玲の心には樹への想いしかない。ましてここに揃った男女は皆、自分と同じ大学生だ。どう頑張ってみたところで樹とは、彼らは子供過ぎて足元にも及ばないと感じられた。
同時に参加していた男たちも同じく感じた様に、女性を適当にあしらって何とか玲と話そうと躍起になる。対する玲は寡黙で横にボディガードよろしく陣取っている要を促して、彼女たちに話を振らせる。すると男たちが要と玲の間を嫉妬して絡んで来る。要の注意がそちらに向いて女性たちが不機嫌になる。最後には怒った女性たちが立ち去ってお開きになった。
「だから言ったのに......」
うんざりした玲が帰り支度を始めると要も立ち上がった。それを引き止めようとする男たちが店の外まで付いてきて騒ぐ。
「お前ら、実は出来てんじゃねぇの?」
唐突な言葉を投げ付けたの井吹だった。
「それ、さっきの仕返し?つまんない事を言って楽しい?」
一気に腹をたてた玲が鋭く切り返した。自分でも驚く程の冷たく鋭い声だった。
井吹が一瞬、ギョっとした顔で怯んだ。いつになく玲が冷ややかに怒気を発している。要でさえも言葉は辛辣でも、もっと穏やかに怒る姿しか見た事がなかった。まるで彼の周囲だけ温度がぐんと下がったかのように感じられた。他の男たちも狼狽して後退る。
「なんだよ!」
一気に沸点に達したように井吹が叫び、玲と睨み合う。冷気をまとうような玲と熱くなって歯軋りする井吹。まさに化学反応でも起こしそうな雰囲気だった。
まずいと思ったのだろう。要が玲を庇うように動いた。
「俺の親友を侮辱するな、とさっき言ったよな?」
目の前に要の背中を見て、こんな時なのに玲は樹の背中を思い出していた。兄弟だな、と思う程に似ているのだ。
樹に逢いたい......
今の状況を忘れそうになる。些細な事が彼への思慕を巻き起こす。隠しても封印しても、自覚して認めてしまった想いは、わずかな綻びや隙間から外へ出ようとあがく。けれどもこれは外に出してはならないのだ、絶対に。そっと胸に手を置いて唇を噛み締めた。
「要?」
不意に聞き慣れた声がして要と玲は同時に振り返った。
「兄さん?」
ヨーロッパに行っているはずの樹が立っていた。恐らくは向こうで購入したのであろう、見た事がない栗色のコートを着ている。
「あれ?出張は?ヨーロッパじゃなかったの?」
「仕事が片付いたらから帰って来た」
「っていつ!?俺、聞いてない!」
「昨日の夜遅く空港に到着してすぐにホテルに入ったから」
「で、朝から仕事してたわけか。お疲れさん」
「土産を買ってきたから都合の良い時にマンションの方へ来なさい」
「わかった、玲の分もあるんだよな?」
要の言葉に樹の視線がチラリと井吹に動いた。そして玲に笑顔で話し掛けて来る。
「もちろんだ。要と一緒に取りにおいで」
「はい。あ、おかえりなさい」
自然に零れる笑顔に自分で戸惑う。
「ありがとう、ただいま。弟は言ってくれないのにね」
「え、あ、おかえりなさい。これでいいだろ?」
不貞腐れて言う要に噴き出す。他の者からも微かに抑えた笑いが漏れる。
笑いながら視線を動かした玲の笑顔が固まった。樹の背後、隠れる様に女性が立ってこちらを睨み付けていたのだ。デートの邪魔をした様なものだからと、玲は小さく頭を下げると更に睨まれた。
玲の行動に気付いた樹が彼女に視線を移し、軽く眉をひそめて何かを囁いた。
「二人ともこんな所で何をしてるんだ?」
すぐに要の方に向き直って言った。
「ん?ああ、合コンが終わったとこ」
「合コン?お前が?それに秋月くんも?」
敢えて玲を姓で呼ぶ。樹との関係は知らなくても、玲が特別扱いされている事実はある。要にしても井吹のような人間がいる場所で、そういった事を見せてしまうのは良くないと感じる。
「付き合いって奴。俺と玲は人数合わせ。でもこれから帰るところ」
「そうだな。そういうのは私は余り賛成しない」
「今回だけって約束だからさ。そもそも俺は彼女いるし、玲は好きじゃないみたいだし」
要と樹が話している間もやはり、女性はじっとこちらを睨み続けていた。
「後で連絡してくれ」
「わかった、玲と相談して行く日決めて連絡する」
「じやあな」
「じやあ」
互いに軽く手を上げて別れる二人。玲は樹に軽く頭を下げた。それにも彼は手を上げてから踵を返して、傍らの女性を連れてその場を立ち去った。
「う~ん」
立ち去る兄の姿を眺めつつ、要が首を傾げながら唸った。
「どうかしたの、要?」
「いや......一緒にいた人さ、多分、年末に見合いした相手だと思うんだけど、兄さんは余り乗り気じゃなかったんだよな」
「見合い......お金持ちは大変だね」
見合いという言葉に少しショックを受けながら呟いた。
「俺もそう思うから、金持ちとかは関係ないんじゃない?」
二人は井吹の存在を完全に忘れて歩きだした。もちろん、玲を誘って二次会を望んでいた男たちも。彼ら自身も樹の登場に呑まれていたと言えた。大学生の彼らとはスペックもスキルも格段に上の樹に、真っ向から張り合える者はいないだろう。玲が浮かべた笑顔を見ても勝ち目はないと思ったらしい。
「樹さん、結婚、するの?」
内側にある動揺を隠して言葉が途切れ途切れになる。
「どうなんだろ?ただ、結婚の事で両親と揉めてるのは確かだ。今回の出張だって半分嫌がらせみたいなもんだったからさ」
「揉めてる?樹さんなら引く手数多でしょ?」
「それがさぁ......何かね、兄さんの出す条件が無茶苦茶なんだよ。そんな女はいるか?ってくらいに」
「そうなの?でも嵯峨野の家を任されるのが奥さんでしょ?仕方がないんじゃないの?」
「身も蓋もないな、玲。でも俺には結婚したくないって言ってるようにも聞こえる。まだ遊んでいたいんじゃないかな?山程に相手がいるから。あのマンションだってその為に高い金出して借りてるんだから」
要の言葉が玲の予想を肯定して......自分もその一人でしかない事実に心が重くなった。
「仕事を頑張ってる分、自由でいたいんだろうな。ずっとそのままではいられない事ぐらいは、兄さんもわかっているんだろうけど。つくづく俺は次男で良かったと思うぜ」
「そうだね。要は気楽だよね……ボクはもっと気楽だけど」
そう、今ここで突然人生が終わってもわずかな友人が悲しむかもしれないが、すぐに玲が存在した事など彼らの記憶の奥に忘れ去られるだろう。たとえ誰かが墓標を刻んでもすぐに忘れられて訪れる人もなく、苔生して土と雑草の中へと埋もれて消えるのだろう。
それでいい……と思う。好きな人に契約以外で振り向いてはもらえないのならば、忘れ去られて消えてしまうのが正解の気がする。ただ、すぐには死は訪れはいない。自ら生命を絶つのは自分の主義ではない。だから天が定めた生命の終焉までは生きて行かなければならないのだ。だから大学を卒業までは続ける。
「バイトばっかりしてるのに?」
「うん。確かにお金はないよ。今だって樹さんと要にお世話になってばかりだし。でもボクがどこかに行っても誰も困らないもの」
「……え?」
要が驚いた顔をしたので、玲は笑って言葉を続けた。
「今はどこかに行こうって思わないけどね。大学はちゃんと卒業したいと考えてる」
「玲......」
「ほら、今日もやっぱりだったけど、ボクってトラブルメーカーだからね。1ヶ所にずっといない方がいいのかも。人がたくさんいる都会なら大丈夫かなって思ったのに」
この空の下に自分のいる場所はあるのだろうか。ここに一緒にいようと言ってくれる人はいるのだろうか。それが樹であったならどんなに幸せだろう。
でも……決して叶う事がない願いなのだとわかっている。だから天に祈るのは好きな人の幸せ。たくさんの重荷を背負っている樹が、健康で笑っていられるようにと。
「さ、帰ろう。酔い冷めして寒くなって来ちゃった」
うっかりと口にしてしまった言葉を今更引っ込める事はできない。きっと今の言葉は要の心に残る。もっと良い事だけ覚えて欲しい。もしかしたら樹との事がバレてしまう日が来るかもしれない。軽蔑され憎まれるかもしれない。それは仕方がない事だった。
要と話をしてアパートまで送ってもらう。崩れてしまいそうな心を何とか保って、送ってもらった礼を言って部屋に入った。ふらふらとベッドに近付いて身を投げ出す様に横たわった。
「結婚か……」
玲を睨んでいた女性の姿を思い出す。細っそりとした身体にブランド物のドレスワンピース、裕福な家庭の令嬢であると一目でわかった。樹も彼女の事をとても気を遣っているように見えた。
決して自分には届かないもの。樹の側に居続ける事。
今回の出張の土産もわざわざ要と一緒に、と言うからには二人では逢えないという意味だろう。このまま終わりになるのかもしれない。契約の話が最初にあった時、彼は同性との関係は立場上表に出すわけにはいかないと言っていた。結婚話が具体的に持ち上げっている今、玲の存在は最も知られたくはないはずである。かといって要の友人でもあるゆえに切り捨ててしまうのは難しいだろう。何よりも要が不審に思う。一番自然で要にも周囲にも不審に思われない方法は、契約関係だけを終了させる事だと思える。もちろん、契約と言う事情を知っているらしい樹の秘書の佐伯が、玲との関係が解除されるのであるから文句を言わないだろう。あとは玲が大学卒業後に二人の前からいなくなればすべては終わる。元よりそういう約束だった。解除の時期が早くなっただけだ。
何度も何度も自分に言い聞かせる。気付いてしまった恋心は封印して、以前のように在ればいいと考える。要との友人関係も少しずつ距離を取れば、去るものは追わずな彼とはやはりゆっくりと離れる事ができるだろう。
また一人になる……彼らの優しさと温かさを知ってしまったから、この先は辛いものになるかもしれない。だが自分にはきっと一人が相応しいのだ。今日の合コンがいい例だ。望む望まざるに係わりなくトラブルを呼ぶ。自分が人目、特に同性の劣情を煽る容姿をしているらしいのは自覚している。そして大抵の女性からは敬遠され、時として嫌われたり憎まれたりするのもわかっている。樹と一緒にいた女性もきっと同じなのだろう。
閉鎖的で人間関係が良い意味でも悪い意味でも濃厚な故郷とは違って、人が多過ぎて互いの関係が気迫になっているといわれる都会ならば、自分が置かれる状況もかなり違うのではないかと期待していた。実際に要と知り合って友人の一人に引き入れられるまでは、誰も玲に干渉しては来なかったのだ。要との付き合いは玲にたくさんの事をもたらした。けれどもこうなってしまうと後悔しかない。彼が悪いのではなく、樹の申し出を受けてしまった自分がいけないとは自覚している。要は純粋に好意で仲間に誘ってくれたのだから。
……それでも、やり場のない想いをぶつけたくなる。要と出会わなければ、親しくならなければと。彼と無関係ならば樹との出逢いもなかった。誰かを想う辛さも苦しみも悲しみも知らないでいられた。自分は一人なのだと思って生きていけた。誰にも理解されず、必要とされないのには慣れていたのだから。
誰かを恨むものでもなく、すべては自分の感情であるのは痛いほどわかってはいる。それでも今はどこかにぶつけなければ心が壊れてしまいそうだった。
「樹さん......樹さん......」
名前を呼ぶだけで涙が溢れる。あの旅行を最後に今日まで樹には会ってはいない。メールも大晦日の御節のお礼と新年の挨拶を送ったが、彼からの返信はとうとうなかった。年末の多忙な時期に見合いして、両親と揉めて......要から聞いた事実は彼の結婚がそう遠くないのを示している。
「お終いなんだろうな」
彼がバイセクシャルで、実は同性の方が好き、という事実はきっともう封印されてしまうのだろう。だから玲に要の、弟の友人の一人に戻って欲しい。今日の言葉はそれを知らせる為になのだろう。あの女性も要も、街中で他の人もいたから。彼からの直接の連絡は来ないのだろう、もう。
「マグカップ、まだ受け取ってないのにな......無理かな。二つとも引き受けるのに」
あれは樹には邪魔になるだろうから、思い出に両方とも欲しいと思うが......こんなわがままを言っても良いのかもわからない。玲は報われない想いに心を奪われたまま、眠れぬ夜をベッドの上で過ごした。
「玲!」
学部が違う要となかなか顔を合わさないままに週明けを迎え、恐らくは要も多忙だったのかメールもないままだった。
「要、何か久しぶりな気がするね。合コンの夜以来だっけ?」
「ああ、もう聞いてくれよ!井吹の奴、彼女にある事ない事吹き込みやがって......大変だったんだ」
「そうなの?それは大変だったね。それにしても彼は何がしたいんだろね。で、誤解は解けたの?」
「何とかね」
「そっか、良かった」
「まったくだよ!あんな奴のくだらない言動で、大事な彼女と友人を天秤にかけたくない!」
「うん。ありがとうね、要」
彼の友人としての想いに心底感謝する。自分はその友情を裏切る事をして来たのに。
「で、兄さんのお土産なんだけどね。テーブルに置いておくからって連絡が来たんだ」
「勝手に入って持って帰るの?樹さん、忙しいんだね」
「まだ父と冷戦状態でさ。母は何か理解したみたいなんだけど。詳しくは俺も教えてはもらえないんだよ」
結婚が本決まりになるのだろう。
「じゃあ、鍵も返さないと......」
「うん、あのマンションも引き払うみたいだ。郊外に良い分譲を見付けたからそれを買うって」
「結婚、秒読みなのかな?」
「どうなんだろ?ただ、そこはセキュリティが今の倍くらいは厳重で、兄さんの留学時代の友人も住んでる所だって」
「え?嵯峨野の本邸に住まないの?」
「兄さんはあまり家が好きじゃないんだと思う」
「そっか。お土産の事は了解した。あ、まだボクの荷物が残ってるから、今回と......あと一回は鍵を持っててもいいか、樹さんに聞いてくれる?」
「直接連絡すれば?玲ならいいと思うよ?」
「ううん。ボクは部外者だから遠慮しておくよ」
「相変わらずだな~わかった、聞いて返事するよ」
少しだけの時間の猶予。あの部屋から自分がいた痕跡を消して、樹の後の憂いをなくしてくれればいい。思い出はたくさんもらったのだから。
「で、要。今日の講義はいつ終わるの?図書館前のカフェで待ち合わせする?」
暦の上では春だけれど、まだまだ寒い北風の中、玲は自分の春は失われたと感じていた。
「ああ、あれだ」
樹のマンションの部屋のリビングに入ってすぐ、テーブルの上に置かれている包みに気付いた要が指差して言った。二人で近寄ってみると各々の名前が書かれたカードが添えられていた。
「カードが付いてるって事は俺と玲の土産の中身は違うって事だな」
「みたいだね」
返事をしながら見回すと以前よりもリビングが片付けられている気がした。既にここを引き払う準備を始めているのだろう。
「じゃあ、ボクは置きっぱなしの荷物ちょっとまとめてくる」
「手伝おうか?」
「なに言ってんの。また誰かに変な勘繰り入れられたらどうするの。井吹が流した噂、信じそうなの幾らでもいるんだよ?」
「あいつ、ホントにただじゃおかねえ!絶対に許さないぞ!」
井吹が流した噂は悪意に満ちたものだった。玲と要との仲だけではなく、次のターゲットとして裕福な兄の樹を狙っていると。要とは本当に親しくて『親友』とまで言って大事にしてくれている友人だが、樹の事は背景としての事実があるだけに玲は何も言えない。だが噂として広まるのはキャンパスの中だとはいえ、決して良いことではないのは何も知らない要ですら思っている。
「多分、今回と次とで終わるから大丈夫だよ」
「はいはい」
面倒な事態になったと要はうんざりしている。玲と普通にキャンパスのカフェでお茶をしていても、周囲の注目を集めてひそひそ話のネタになっている。あからさまに薄笑いを浮かべて通りすぎる者、からかい半分に二人の関係を訊いてきて揶揄する者、今日の待ち合わせでは説教をする者まで現れた。
さすがにこれには玲がキレた。
「事実かどうかを確認しないでそういうのって、ボクはともかく要とお兄さんだけじゃなくて、彼らの家を侮辱してるってわかってる?名誉毀損で訴えられる覚悟、あるんだよね?君はボクが要とそういうのを匂わせる何かをしてるの見たの?」
「いや......だって、井吹が......親しい人間が言ってるのだから」
「彼とはボクも要も親しくなんかない!」
「だな。勝手に周辺につきまとって、俺から何か美味い汁でも吸えると思ってたんだろうな」
「え......そうなの?」
要が苦笑して付け足した言葉に相手が驚く。
「ついでに言うと兄にはこの前の合コンの後で初めて会ったはずなんだよね、井吹は。それもちょっとだけ」
「え?え?」
「確かにボクは要にも、要のお兄さんにもいろいろとお世話になってる。申し訳けないと思うくらいだよ?でも幾ら親しいからって......」
樹との契約は終わった。要とは元より友人関係以外何もない。後々の二人に何某かの憂いを残してはならないと思うと、口惜しさに目が潤む。
これにはさすがの相手もギョっとなった。
「玲、もういいから」
要が慌てて肩に手を置いた。
「根も葉もない嫌がらせに俺たちも困ってるんだ。井吹は勝手に俺たちを合コンのメンバーに入れていたり、他にもいろいろとあったのは事実だ。それで退くならば何も言わないつもりだった。しかしこれは俺や玲の問題としてではなく、嵯峨野として黙っている訳にはいかない。取り敢えず兄の耳には入れるつもりでいる。
君、悪いけどこの話をする奴にこれ、逆に話してくれないかな?」
逆に真実と脅しの様なものを広めさせようという要の作戦らしい。
「わ、わかった。その、ごめん」
「嫌がらせで事実じゃないってわかったならいいよ」
要が笑顔で答えた。その笑顔を真っ直ぐに見られない。彼は玲と樹の関係を微塵も疑ってはいなかった。
「取り敢えずはあれで鎮静化すると思うぞ?」
「でも完全には消えないって想うんだよね。ボクはともかく、要が事実無根の話の対象になるのは嫌だ」
「ありがとな。玲は本当に俺と兄さんの事を考えてくれる」
「だってお返しできないもの。
さ、ここはいいから先に帰って」
「わかった」
「明日、大学でね」
「ああ、明日な」
帰って行った要に玲は心の中で謝った。偽りを口にしているのは玲も同じなのだ。
樹への想いと要への申し訳なさに泣きながら、玲は滞在中に借りていた部屋の荷物を整理した。今日、出来るだけ持って帰って、日を改めて残りを運び出す事にした。もちろん、樹の引越しを聞いて荷物を引き取る話は、要を通じて樹に伝わっている。そうでなければ入る時に持っていなかった大きな荷物を持っては出られない。1階に常駐しているコンシェルジュが許可しないからだ。
来る時には折りたたんでいたキャスター付きのビニール製のバックに詰め込めるだけ詰め、次の時にすぐに持って出られる様に残りもきちんと整理した。衣類も何もかもあの一件の後で樹が買ってくれた物だ。本当は返さなければなりないのだろうが、小柄な玲の衣類を樹も要も着れはしない。だから素直に受け取る事にした。
バックを引っ張り、もう一方の手にヨーロッパの土産を抱えて、玲は自分のアパートの部屋に戻った。
どうやら要は他の人間にも似たような事を話したらしく、次の週には嫌がらせの噂も玲を誹謗中傷する人もほとんどいなくなり、代わりに井吹の悪評が広がっていた。要の取り巻きたちが常日頃に思うところがあったらしく、二人が知らない事も彼らの話題にあった。
そして......結果として井吹の姿がキャンパスから消えた。どこかの国へ留学という形で退学したという噂だった。恐らくは嵯峨野から名誉毀損で訴えられるのを恐れたのだろう。何しろ要は実際には樹に噂の事は話してはいないと笑っているからだ。
「キャンパスの事は俺の問題。兄さんには関係ないし、忙しいのに煩わせるのはどうかって思うからさ」
聞くとメールにも短く返事が返されるだけらしい。
「うん、そうだね。でも要にも彼女さんにも申し訳なかったね、ごめん」
「何で玲が謝るわけ?」
「いや、だって」
自分と関わらなければこんな事は起こらなかった。言葉にできない想いを飲み込む。
「いやもだってもない。玲、今回の事もこれまでの事も、お前は悪くない」
「要......ありがとう」
その言葉が嬉しい。いつも何かの問題が起こる度に、玲が悪いのだと言われて周囲の冷たい眼差しに耐えて来た。自分では何かの過ちを犯した覚えはない。だからずっと自分が人と関わるのが悪いのだと思って来た。だから誰も知らない、知る人のいない都会に出て来た。この街でたくさんの人の中に埋没して、でも極力人との関わりを少くして生きようと思っていた。
それを覆したのが要で......樹だ。
これは許されるのか......と不安を抱えながら、どこか人恋しい部分があったのかもしれない。だから差出されたてを取ってしまった。樹には......彼にとっては迷惑に違いない想いを持ってしまった。
やってはいけないと自らの戒めを破ったから、井吹はこんな事をやったのだ。ただ要にぶら下がっていい目をみたいと思うだけだった彼を、不愉快な言動に走らせたのはきっと自分の中の『何か』だ。
幼い頃から何かとトラブルの中心に自分がいるのが普通だった。父親も祖父母も......周囲のおとなたちも、すべての元凶は玲にあると口々に言った。自分で何かをしなくても、トラブルは吸い寄せられる様に起こる。その内に玲自身もトラブルの大半が、自分を対象にした性的な欲望に起因するのだとわかって来た。実際にその様な行動に出ない人間は逆に、異常なまでの嫌悪感を玲に対して示して来るというのも悟った。
要はどちらにも属さない稀有な人間だとも言えるからこそ、友人として心を許していた部分もあった。けれども井吹のやった事と周囲の反応を見てわかった。やはり玲が要の側にいるとあらぬ疑いを持たれるのだと。噂が広がって行き真実と信じた人間が多かったのは、やはりどこかで疑っていた者が多かったのだと感じる。噂は玲がキレて否定したのと、要の言葉で一応は収束した。だが、表面的にはだ。どこかで未だに疑念は彼らの中で燻っているだろう。
『自分』という存在が人と人の繋がりを無茶苦茶にしてしまう。要との友情もそうだ。樹との事が知られれば、仲の良い兄弟の結び付きが壊れてしまう気がする。自分の胸の中の想いが知られればもっと。
忘れていた忌まわしい事実。幼少時から周囲のおとなに刷り込まれていたものを、誰かが責める事は決してできないし、安易な言葉で覆す事も難しい。何故ならば本人にとってはそれが当たり前だからだ。違う考え方があるのを理解はしても、それは自分とは遠いものであると考えてしまう。違う育ち方や条件を持った人間の想いであると。まして揉め事などの原因が幼かった自分に求められれば、子供と言うのは安易に信じ込んでしまうものだ。特に玲のように周囲の全てが同じ事を繰り返し言い続ければ、本人の中で揺るぎない真実となって本人の心に深く根差してしまう。
深く根をおろした人間の価値観は幾ら周囲の誰かや何かの経験が上の葉や枝を刈り取っても、残った根によって瞬く間に新たな成長を遂げる毒草だけの庭のようなものだ。そして人は自らの心の毒に汚染され苦しむ存在なのだ。それが玲と真逆の他人を誹謗中傷などして攻撃する人間でも同じである。それもまた心の庭に毒草を育てている。種は多分、本人が蒔いたのではないだろう。大抵は周囲のおとなが元々の種を何かの形で蒔いているのだ。もちろん、全ての人間が成長過程で必ず種は蒔かれている。よき種であるのか……毒草であるのか、どれくらいの割合であるのか、種類はどのようであるのかはそれぞれだろう。人はその中から自らの意思で育てる種を無意識に選択して成長する。似たような経験をしても同じ価値観にならないのは、個々の選択の段階が違うからではないだろうか。
それでも稀に玲のように『自分』を全否定される中で育つ人間がいる。それでもなお選択の余地が皆無ではない筈であるが、わずかな想いさえも潰してしまうおとながいると人間はある種の洗脳状態になってしまう。
要と樹が玲にもたらしたものは結局、大きな反動として更なる呪縛へと彼の心を向かわせ、口を開けて待ち構える暗黒の孤独に導きつつあった。
要との年齢に相応しい付き合いがもたらした喜びも、触れ合い求められる温もりで知ってしまった多幸感も、玲は美しい夢の中にひと時の間だけまどろんでいたに過ぎなかった。目が覚めてしまった今、目の前に広がるのはやはり自分自身に対する明日の希望が見出せない現実だけだった。
「それでもボクは……生きていかなきゃ」
誰も聞く人がいない呟きだけが、今だけは自分の居場所であるアパートの部屋に響いて消えた。
旅行の後、樹からの連絡はメールも電話もなく、当然ながら顔を合わせる事もなかった。大学が始まって要に樹がヨーロッパへ新年早々に出張に出た事を知らされた。帰国はいつになるのかはわからないと言う。
「兄さんも大変だよな~」
「要だって卒業したらそうなるんじゃない?」
「え~ないない!俺は気楽な次男坊!」
呑気な、とは思う。だが上に兄弟がいる分には確かに回って来る負担は少なくなる。本人がやる気を出して積極的に関わらない限りは。
「あ!いたいた!」
不意に背後から声がした。振り返ると要の取り巻きで、いつも女性の話や合コンの話をしている井吹という男がいた。
「井吹、お前、合コンに行くんだろ?こんな所でウロウロしてていいのか?」
要がからかうように言う。
「それそれ!それなんだよ!」
「だから何?」
玲は彼が苦手でいつもと同じく会話には加わらない。彼は人の恋愛や交遊関係を根掘り葉掘り知りたがる。樹との事を暴かれてしまいそうで嫌なのだ。
「なぁ、頼まれてくれない?都合が悪くなった奴がいて、人数が足らないんだ。この通りだ!」
「え~やだよ。俺は彼女いるし」
「玖実ちゃんには俺から連絡して謝っておくから!」
本当に困っているらしいが元より玲には関係がない事だ。
「じゃ、要。ボクは先に帰るよ」
「え!?」
井吹が驚いた様な声をあげた。
「いやいやいやいや、秋月、今の話聞いてたっしょ?」
「人数足らないから要を連れて行くんでしょ?」
「秋月っちも一緒に」
「は?わけわからないんだけど?ボクを誘ってどうするの?他の人あたりなよ」
冗談じゃない。女漁りの連中は嫌だ。間違いなく玲に寄ってくる奴がいる。第一、玲は昔から女性に敬遠されるのだ。間違いなく顔を合わせた途端に不快な顔をされるだろう。
「あ~俺もそれは賛成しない。玲に責任はないけれどトラブルになる可能性がある。もし何かあったら兄の会社の仕事に穴があく。お前では代理にはならんぞ?」
「だ・か・ら!要が一緒に来れば良いんだよ!ホント、いてくれるだけでいいから!二人の参加費は持つからさ」
自分の都合でしか話さない。こちらが迷惑だと言っても彼はいつも理解できない様に思えるのだ。
「そういう問題じゃない」
要が本気で怒り始めた。以前に何となく彼が口にした言葉から判断すると、井吹はいつの間にか要の取り巻きの中にいたらしい。誰かに聞いても彼を誘った、連れてきたという者はいなかったそうだ。
樹のような大人の落ち着いた雰囲気はないけれど、要も女の子たちが騒ぐタイプの『イケメン』だ。まして嵯峨野家は戦前ならば経済に貢献したとして、勲功貴族に叙せられてもおかしくない家柄。気立ての良い優しい彼女がいるから、無闇に迫られる事はなくなったが入学当初は大変だったと聞く。
もしかしたらわざと人数を足らなくしたのではないか......と懸念する。玲を誘えば要は必ず心配して一緒に来る。何となく井吹の計算みたいのを感じて不快になった。
「要、行こう」
腕を掴んで促すと要も頷く。
「なあ、つれないこと言うなよ~」
「要は人寄せじゃない」
本当に頭に来る。要が裕福な家庭の子息だからってだけで、寄り集まって来る人間に不快な目に合わされた経験があるらしいのはわかってる。樹も似たような事を口にした事があるが、彼は少なくとも後継者としての覚悟でやり過ごして来たらしいが、要にはそれがあるとは思えない。もしかしたら兄程の年齢になればそうなるのかもしれないが。
「お前、本当につまらない奴だな」
井吹が突き刺さるような口調で言った。
「何でお前が要の取り巻きにいるのか、ずっと不思議だったよ」
それはこっちのセリフだと言いたかった。
「お前、要の金目当てだろ?」
要自身から金品を受け取った事はない。大晦日に彼が届けてくれた御節も、樹からの好意だった。だが樹の愛人として契約して金品を与えられている以上、井吹の言葉に反論する事はできなかった。
「図星だろ?」
言葉をなくしている玲を見て、完全に腹をたてたのは要だった。
「玲が答えないのは仕事関係で俺と兄に関わってるからだ。玲は働き者だし気もつく。この通り綺麗で見栄えがするから、派遣の要請もかなり来る。そういう事に恩義を感じてくれてるんだ」
そう言って彼はしみじみと井吹を眺めた。
「な、なんだよ」
「お前こそ何で俺の周りにいる?玲は俺自身が引っ張りこんだからさ。でも、お前を呼んだ記憶はないんだけど?」
玲も大概に辛辣な事を口にするが、要の言葉は恐らくはこれまでも数多く発せられたものという感じがした。
今度は井吹が絶句する番だった。
「まあ、いいだろう。玲、今回はこいつのお願いを聞いてやろう」
「え?合コンに行くの、要?」
「お前もな」
こう言われてギョっとしたが、すぐに溜息を吐いて承諾した。
「これっきりだからね。あと、トラブってもボクは責任とらないよ?」
「玲が悪い訳じゃないだろ、いつも。合コンの代金は俺が出すから。
それでいいな、井吹?ただしこれっきりだ。二度と勝手な事を言うなよ?」
「今回の件は悪かったよ。でも......そいつは何考えてんのかわからない。だから気を付けた方がいいぞ!きっととんでもない事を裏でやってるに違いない」
悔し紛れの言葉だとはわかっているが、真実を突いているのは確かだった。
「井吹、それ以上、俺の親友を誹謗中傷するなら、二度と俺の側に来れないようにするぞ!」
親友……そう言ってもらう資格は裏切っているに久しい自分にはない。申し訳なくて胸が痛い。ましてや彼の兄に片恋しているなどと、天地がひっくり返っても口にする訳にはいかない。
「要......」
「まさか、俺の片想いじゃないよな?」
ドキリとしたが懸命に笑顔で答えた。
「樹さんがボクの味方ばかりするって、この前は拗ねてじゃないか」
「あ、お前、ここでそれを言う?」
苦虫を噛み潰したような顔をする彼に、玲は声をあげて笑った。けれども傍らで井吹が刺すような眼差しを向けているのが感じられた。
玲は常に要に躊躇する事なく意見を言う。間違っている事もズバリと口にする。周囲の人間が彼を利用しようとするのも許さない。秘かに『御意見番』なんて言われてるのも知ってる。けれど要は危なっかしいのだ。世間知らずのお坊ちゃんが世間のわずかな破片だけ知って、物事を判断している感じがして心許なく見える。自分だってそうわかっているわけじゃないけれども、少なくとも要よりは人の狡さや汚さを見て来た。
人は些細な事で安易に裏切る。他人を利用する事しか考えない者も、自分の損得しか関心がない者も多い。まして要は現代の大財閥の次男坊だ。家を継ぐ重荷がない分身軽で、世間的には羨望の対象になる。特に女子たちには理想の結婚相手だろう。まさに高級な蜜に群がる昆虫たちだ。中には美しい蝶もいるが、蝶のふりをした蛾もいる。時には毒蛾だっているだろう。要は本当に善い奴だと思うし、弟が酷い目に遭えば樹が悲しむだろう。だから自分が止められる事、防げる事はするつもりだった。
いつかは彼らの元を去る日が来る。せめて思い出だけは良いものを残して消えたい。ここに自分がいたという記憶が残って欲しいから。
合コンは予想通り荒れた。
相手方の女性たちも結構な美人揃いだったが、玲には彼女たちにはない輝きの様なものがあった。着ている服は樹のプレゼントで、あの一件の後に買い与えられたものだ。当然ながらデザインは一見シンプルに見えるがブランド品であった。念入りに化粧を施し派手なブランド品で身を固めた彼女たちよりも、玲の方がずっと美しく清楚に見えた。女性たちは異性を意識した姿だが、玲は異性も同性も今は気にしていない。今の玲の心には樹への想いしかない。ましてここに揃った男女は皆、自分と同じ大学生だ。どう頑張ってみたところで樹とは、彼らは子供過ぎて足元にも及ばないと感じられた。
同時に参加していた男たちも同じく感じた様に、女性を適当にあしらって何とか玲と話そうと躍起になる。対する玲は寡黙で横にボディガードよろしく陣取っている要を促して、彼女たちに話を振らせる。すると男たちが要と玲の間を嫉妬して絡んで来る。要の注意がそちらに向いて女性たちが不機嫌になる。最後には怒った女性たちが立ち去ってお開きになった。
「だから言ったのに......」
うんざりした玲が帰り支度を始めると要も立ち上がった。それを引き止めようとする男たちが店の外まで付いてきて騒ぐ。
「お前ら、実は出来てんじゃねぇの?」
唐突な言葉を投げ付けたの井吹だった。
「それ、さっきの仕返し?つまんない事を言って楽しい?」
一気に腹をたてた玲が鋭く切り返した。自分でも驚く程の冷たく鋭い声だった。
井吹が一瞬、ギョっとした顔で怯んだ。いつになく玲が冷ややかに怒気を発している。要でさえも言葉は辛辣でも、もっと穏やかに怒る姿しか見た事がなかった。まるで彼の周囲だけ温度がぐんと下がったかのように感じられた。他の男たちも狼狽して後退る。
「なんだよ!」
一気に沸点に達したように井吹が叫び、玲と睨み合う。冷気をまとうような玲と熱くなって歯軋りする井吹。まさに化学反応でも起こしそうな雰囲気だった。
まずいと思ったのだろう。要が玲を庇うように動いた。
「俺の親友を侮辱するな、とさっき言ったよな?」
目の前に要の背中を見て、こんな時なのに玲は樹の背中を思い出していた。兄弟だな、と思う程に似ているのだ。
樹に逢いたい......
今の状況を忘れそうになる。些細な事が彼への思慕を巻き起こす。隠しても封印しても、自覚して認めてしまった想いは、わずかな綻びや隙間から外へ出ようとあがく。けれどもこれは外に出してはならないのだ、絶対に。そっと胸に手を置いて唇を噛み締めた。
「要?」
不意に聞き慣れた声がして要と玲は同時に振り返った。
「兄さん?」
ヨーロッパに行っているはずの樹が立っていた。恐らくは向こうで購入したのであろう、見た事がない栗色のコートを着ている。
「あれ?出張は?ヨーロッパじゃなかったの?」
「仕事が片付いたらから帰って来た」
「っていつ!?俺、聞いてない!」
「昨日の夜遅く空港に到着してすぐにホテルに入ったから」
「で、朝から仕事してたわけか。お疲れさん」
「土産を買ってきたから都合の良い時にマンションの方へ来なさい」
「わかった、玲の分もあるんだよな?」
要の言葉に樹の視線がチラリと井吹に動いた。そして玲に笑顔で話し掛けて来る。
「もちろんだ。要と一緒に取りにおいで」
「はい。あ、おかえりなさい」
自然に零れる笑顔に自分で戸惑う。
「ありがとう、ただいま。弟は言ってくれないのにね」
「え、あ、おかえりなさい。これでいいだろ?」
不貞腐れて言う要に噴き出す。他の者からも微かに抑えた笑いが漏れる。
笑いながら視線を動かした玲の笑顔が固まった。樹の背後、隠れる様に女性が立ってこちらを睨み付けていたのだ。デートの邪魔をした様なものだからと、玲は小さく頭を下げると更に睨まれた。
玲の行動に気付いた樹が彼女に視線を移し、軽く眉をひそめて何かを囁いた。
「二人ともこんな所で何をしてるんだ?」
すぐに要の方に向き直って言った。
「ん?ああ、合コンが終わったとこ」
「合コン?お前が?それに秋月くんも?」
敢えて玲を姓で呼ぶ。樹との関係は知らなくても、玲が特別扱いされている事実はある。要にしても井吹のような人間がいる場所で、そういった事を見せてしまうのは良くないと感じる。
「付き合いって奴。俺と玲は人数合わせ。でもこれから帰るところ」
「そうだな。そういうのは私は余り賛成しない」
「今回だけって約束だからさ。そもそも俺は彼女いるし、玲は好きじゃないみたいだし」
要と樹が話している間もやはり、女性はじっとこちらを睨み続けていた。
「後で連絡してくれ」
「わかった、玲と相談して行く日決めて連絡する」
「じやあな」
「じやあ」
互いに軽く手を上げて別れる二人。玲は樹に軽く頭を下げた。それにも彼は手を上げてから踵を返して、傍らの女性を連れてその場を立ち去った。
「う~ん」
立ち去る兄の姿を眺めつつ、要が首を傾げながら唸った。
「どうかしたの、要?」
「いや......一緒にいた人さ、多分、年末に見合いした相手だと思うんだけど、兄さんは余り乗り気じゃなかったんだよな」
「見合い......お金持ちは大変だね」
見合いという言葉に少しショックを受けながら呟いた。
「俺もそう思うから、金持ちとかは関係ないんじゃない?」
二人は井吹の存在を完全に忘れて歩きだした。もちろん、玲を誘って二次会を望んでいた男たちも。彼ら自身も樹の登場に呑まれていたと言えた。大学生の彼らとはスペックもスキルも格段に上の樹に、真っ向から張り合える者はいないだろう。玲が浮かべた笑顔を見ても勝ち目はないと思ったらしい。
「樹さん、結婚、するの?」
内側にある動揺を隠して言葉が途切れ途切れになる。
「どうなんだろ?ただ、結婚の事で両親と揉めてるのは確かだ。今回の出張だって半分嫌がらせみたいなもんだったからさ」
「揉めてる?樹さんなら引く手数多でしょ?」
「それがさぁ......何かね、兄さんの出す条件が無茶苦茶なんだよ。そんな女はいるか?ってくらいに」
「そうなの?でも嵯峨野の家を任されるのが奥さんでしょ?仕方がないんじゃないの?」
「身も蓋もないな、玲。でも俺には結婚したくないって言ってるようにも聞こえる。まだ遊んでいたいんじゃないかな?山程に相手がいるから。あのマンションだってその為に高い金出して借りてるんだから」
要の言葉が玲の予想を肯定して......自分もその一人でしかない事実に心が重くなった。
「仕事を頑張ってる分、自由でいたいんだろうな。ずっとそのままではいられない事ぐらいは、兄さんもわかっているんだろうけど。つくづく俺は次男で良かったと思うぜ」
「そうだね。要は気楽だよね……ボクはもっと気楽だけど」
そう、今ここで突然人生が終わってもわずかな友人が悲しむかもしれないが、すぐに玲が存在した事など彼らの記憶の奥に忘れ去られるだろう。たとえ誰かが墓標を刻んでもすぐに忘れられて訪れる人もなく、苔生して土と雑草の中へと埋もれて消えるのだろう。
それでいい……と思う。好きな人に契約以外で振り向いてはもらえないのならば、忘れ去られて消えてしまうのが正解の気がする。ただ、すぐには死は訪れはいない。自ら生命を絶つのは自分の主義ではない。だから天が定めた生命の終焉までは生きて行かなければならないのだ。だから大学を卒業までは続ける。
「バイトばっかりしてるのに?」
「うん。確かにお金はないよ。今だって樹さんと要にお世話になってばかりだし。でもボクがどこかに行っても誰も困らないもの」
「……え?」
要が驚いた顔をしたので、玲は笑って言葉を続けた。
「今はどこかに行こうって思わないけどね。大学はちゃんと卒業したいと考えてる」
「玲......」
「ほら、今日もやっぱりだったけど、ボクってトラブルメーカーだからね。1ヶ所にずっといない方がいいのかも。人がたくさんいる都会なら大丈夫かなって思ったのに」
この空の下に自分のいる場所はあるのだろうか。ここに一緒にいようと言ってくれる人はいるのだろうか。それが樹であったならどんなに幸せだろう。
でも……決して叶う事がない願いなのだとわかっている。だから天に祈るのは好きな人の幸せ。たくさんの重荷を背負っている樹が、健康で笑っていられるようにと。
「さ、帰ろう。酔い冷めして寒くなって来ちゃった」
うっかりと口にしてしまった言葉を今更引っ込める事はできない。きっと今の言葉は要の心に残る。もっと良い事だけ覚えて欲しい。もしかしたら樹との事がバレてしまう日が来るかもしれない。軽蔑され憎まれるかもしれない。それは仕方がない事だった。
要と話をしてアパートまで送ってもらう。崩れてしまいそうな心を何とか保って、送ってもらった礼を言って部屋に入った。ふらふらとベッドに近付いて身を投げ出す様に横たわった。
「結婚か……」
玲を睨んでいた女性の姿を思い出す。細っそりとした身体にブランド物のドレスワンピース、裕福な家庭の令嬢であると一目でわかった。樹も彼女の事をとても気を遣っているように見えた。
決して自分には届かないもの。樹の側に居続ける事。
今回の出張の土産もわざわざ要と一緒に、と言うからには二人では逢えないという意味だろう。このまま終わりになるのかもしれない。契約の話が最初にあった時、彼は同性との関係は立場上表に出すわけにはいかないと言っていた。結婚話が具体的に持ち上げっている今、玲の存在は最も知られたくはないはずである。かといって要の友人でもあるゆえに切り捨ててしまうのは難しいだろう。何よりも要が不審に思う。一番自然で要にも周囲にも不審に思われない方法は、契約関係だけを終了させる事だと思える。もちろん、契約と言う事情を知っているらしい樹の秘書の佐伯が、玲との関係が解除されるのであるから文句を言わないだろう。あとは玲が大学卒業後に二人の前からいなくなればすべては終わる。元よりそういう約束だった。解除の時期が早くなっただけだ。
何度も何度も自分に言い聞かせる。気付いてしまった恋心は封印して、以前のように在ればいいと考える。要との友人関係も少しずつ距離を取れば、去るものは追わずな彼とはやはりゆっくりと離れる事ができるだろう。
また一人になる……彼らの優しさと温かさを知ってしまったから、この先は辛いものになるかもしれない。だが自分にはきっと一人が相応しいのだ。今日の合コンがいい例だ。望む望まざるに係わりなくトラブルを呼ぶ。自分が人目、特に同性の劣情を煽る容姿をしているらしいのは自覚している。そして大抵の女性からは敬遠され、時として嫌われたり憎まれたりするのもわかっている。樹と一緒にいた女性もきっと同じなのだろう。
閉鎖的で人間関係が良い意味でも悪い意味でも濃厚な故郷とは違って、人が多過ぎて互いの関係が気迫になっているといわれる都会ならば、自分が置かれる状況もかなり違うのではないかと期待していた。実際に要と知り合って友人の一人に引き入れられるまでは、誰も玲に干渉しては来なかったのだ。要との付き合いは玲にたくさんの事をもたらした。けれどもこうなってしまうと後悔しかない。彼が悪いのではなく、樹の申し出を受けてしまった自分がいけないとは自覚している。要は純粋に好意で仲間に誘ってくれたのだから。
……それでも、やり場のない想いをぶつけたくなる。要と出会わなければ、親しくならなければと。彼と無関係ならば樹との出逢いもなかった。誰かを想う辛さも苦しみも悲しみも知らないでいられた。自分は一人なのだと思って生きていけた。誰にも理解されず、必要とされないのには慣れていたのだから。
誰かを恨むものでもなく、すべては自分の感情であるのは痛いほどわかってはいる。それでも今はどこかにぶつけなければ心が壊れてしまいそうだった。
「樹さん......樹さん......」
名前を呼ぶだけで涙が溢れる。あの旅行を最後に今日まで樹には会ってはいない。メールも大晦日の御節のお礼と新年の挨拶を送ったが、彼からの返信はとうとうなかった。年末の多忙な時期に見合いして、両親と揉めて......要から聞いた事実は彼の結婚がそう遠くないのを示している。
「お終いなんだろうな」
彼がバイセクシャルで、実は同性の方が好き、という事実はきっともう封印されてしまうのだろう。だから玲に要の、弟の友人の一人に戻って欲しい。今日の言葉はそれを知らせる為になのだろう。あの女性も要も、街中で他の人もいたから。彼からの直接の連絡は来ないのだろう、もう。
「マグカップ、まだ受け取ってないのにな......無理かな。二つとも引き受けるのに」
あれは樹には邪魔になるだろうから、思い出に両方とも欲しいと思うが......こんなわがままを言っても良いのかもわからない。玲は報われない想いに心を奪われたまま、眠れぬ夜をベッドの上で過ごした。
「玲!」
学部が違う要となかなか顔を合わさないままに週明けを迎え、恐らくは要も多忙だったのかメールもないままだった。
「要、何か久しぶりな気がするね。合コンの夜以来だっけ?」
「ああ、もう聞いてくれよ!井吹の奴、彼女にある事ない事吹き込みやがって......大変だったんだ」
「そうなの?それは大変だったね。それにしても彼は何がしたいんだろね。で、誤解は解けたの?」
「何とかね」
「そっか、良かった」
「まったくだよ!あんな奴のくだらない言動で、大事な彼女と友人を天秤にかけたくない!」
「うん。ありがとうね、要」
彼の友人としての想いに心底感謝する。自分はその友情を裏切る事をして来たのに。
「で、兄さんのお土産なんだけどね。テーブルに置いておくからって連絡が来たんだ」
「勝手に入って持って帰るの?樹さん、忙しいんだね」
「まだ父と冷戦状態でさ。母は何か理解したみたいなんだけど。詳しくは俺も教えてはもらえないんだよ」
結婚が本決まりになるのだろう。
「じゃあ、鍵も返さないと......」
「うん、あのマンションも引き払うみたいだ。郊外に良い分譲を見付けたからそれを買うって」
「結婚、秒読みなのかな?」
「どうなんだろ?ただ、そこはセキュリティが今の倍くらいは厳重で、兄さんの留学時代の友人も住んでる所だって」
「え?嵯峨野の本邸に住まないの?」
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「そっか。お土産の事は了解した。あ、まだボクの荷物が残ってるから、今回と......あと一回は鍵を持っててもいいか、樹さんに聞いてくれる?」
「直接連絡すれば?玲ならいいと思うよ?」
「ううん。ボクは部外者だから遠慮しておくよ」
「相変わらずだな~わかった、聞いて返事するよ」
少しだけの時間の猶予。あの部屋から自分がいた痕跡を消して、樹の後の憂いをなくしてくれればいい。思い出はたくさんもらったのだから。
「で、要。今日の講義はいつ終わるの?図書館前のカフェで待ち合わせする?」
暦の上では春だけれど、まだまだ寒い北風の中、玲は自分の春は失われたと感じていた。
「ああ、あれだ」
樹のマンションの部屋のリビングに入ってすぐ、テーブルの上に置かれている包みに気付いた要が指差して言った。二人で近寄ってみると各々の名前が書かれたカードが添えられていた。
「カードが付いてるって事は俺と玲の土産の中身は違うって事だな」
「みたいだね」
返事をしながら見回すと以前よりもリビングが片付けられている気がした。既にここを引き払う準備を始めているのだろう。
「じゃあ、ボクは置きっぱなしの荷物ちょっとまとめてくる」
「手伝おうか?」
「なに言ってんの。また誰かに変な勘繰り入れられたらどうするの。井吹が流した噂、信じそうなの幾らでもいるんだよ?」
「あいつ、ホントにただじゃおかねえ!絶対に許さないぞ!」
井吹が流した噂は悪意に満ちたものだった。玲と要との仲だけではなく、次のターゲットとして裕福な兄の樹を狙っていると。要とは本当に親しくて『親友』とまで言って大事にしてくれている友人だが、樹の事は背景としての事実があるだけに玲は何も言えない。だが噂として広まるのはキャンパスの中だとはいえ、決して良いことではないのは何も知らない要ですら思っている。
「多分、今回と次とで終わるから大丈夫だよ」
「はいはい」
面倒な事態になったと要はうんざりしている。玲と普通にキャンパスのカフェでお茶をしていても、周囲の注目を集めてひそひそ話のネタになっている。あからさまに薄笑いを浮かべて通りすぎる者、からかい半分に二人の関係を訊いてきて揶揄する者、今日の待ち合わせでは説教をする者まで現れた。
さすがにこれには玲がキレた。
「事実かどうかを確認しないでそういうのって、ボクはともかく要とお兄さんだけじゃなくて、彼らの家を侮辱してるってわかってる?名誉毀損で訴えられる覚悟、あるんだよね?君はボクが要とそういうのを匂わせる何かをしてるの見たの?」
「いや......だって、井吹が......親しい人間が言ってるのだから」
「彼とはボクも要も親しくなんかない!」
「だな。勝手に周辺につきまとって、俺から何か美味い汁でも吸えると思ってたんだろうな」
「え......そうなの?」
要が苦笑して付け足した言葉に相手が驚く。
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「え?え?」
「確かにボクは要にも、要のお兄さんにもいろいろとお世話になってる。申し訳けないと思うくらいだよ?でも幾ら親しいからって......」
樹との契約は終わった。要とは元より友人関係以外何もない。後々の二人に何某かの憂いを残してはならないと思うと、口惜しさに目が潤む。
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「玲、もういいから」
要が慌てて肩に手を置いた。
「根も葉もない嫌がらせに俺たちも困ってるんだ。井吹は勝手に俺たちを合コンのメンバーに入れていたり、他にもいろいろとあったのは事実だ。それで退くならば何も言わないつもりだった。しかしこれは俺や玲の問題としてではなく、嵯峨野として黙っている訳にはいかない。取り敢えず兄の耳には入れるつもりでいる。
君、悪いけどこの話をする奴にこれ、逆に話してくれないかな?」
逆に真実と脅しの様なものを広めさせようという要の作戦らしい。
「わ、わかった。その、ごめん」
「嫌がらせで事実じゃないってわかったならいいよ」
要が笑顔で答えた。その笑顔を真っ直ぐに見られない。彼は玲と樹の関係を微塵も疑ってはいなかった。
「取り敢えずはあれで鎮静化すると思うぞ?」
「でも完全には消えないって想うんだよね。ボクはともかく、要が事実無根の話の対象になるのは嫌だ」
「ありがとな。玲は本当に俺と兄さんの事を考えてくれる」
「だってお返しできないもの。
さ、ここはいいから先に帰って」
「わかった」
「明日、大学でね」
「ああ、明日な」
帰って行った要に玲は心の中で謝った。偽りを口にしているのは玲も同じなのだ。
樹への想いと要への申し訳なさに泣きながら、玲は滞在中に借りていた部屋の荷物を整理した。今日、出来るだけ持って帰って、日を改めて残りを運び出す事にした。もちろん、樹の引越しを聞いて荷物を引き取る話は、要を通じて樹に伝わっている。そうでなければ入る時に持っていなかった大きな荷物を持っては出られない。1階に常駐しているコンシェルジュが許可しないからだ。
来る時には折りたたんでいたキャスター付きのビニール製のバックに詰め込めるだけ詰め、次の時にすぐに持って出られる様に残りもきちんと整理した。衣類も何もかもあの一件の後で樹が買ってくれた物だ。本当は返さなければなりないのだろうが、小柄な玲の衣類を樹も要も着れはしない。だから素直に受け取る事にした。
バックを引っ張り、もう一方の手にヨーロッパの土産を抱えて、玲は自分のアパートの部屋に戻った。
どうやら要は他の人間にも似たような事を話したらしく、次の週には嫌がらせの噂も玲を誹謗中傷する人もほとんどいなくなり、代わりに井吹の悪評が広がっていた。要の取り巻きたちが常日頃に思うところがあったらしく、二人が知らない事も彼らの話題にあった。
そして......結果として井吹の姿がキャンパスから消えた。どこかの国へ留学という形で退学したという噂だった。恐らくは嵯峨野から名誉毀損で訴えられるのを恐れたのだろう。何しろ要は実際には樹に噂の事は話してはいないと笑っているからだ。
「キャンパスの事は俺の問題。兄さんには関係ないし、忙しいのに煩わせるのはどうかって思うからさ」
聞くとメールにも短く返事が返されるだけらしい。
「うん、そうだね。でも要にも彼女さんにも申し訳なかったね、ごめん」
「何で玲が謝るわけ?」
「いや、だって」
自分と関わらなければこんな事は起こらなかった。言葉にできない想いを飲み込む。
「いやもだってもない。玲、今回の事もこれまでの事も、お前は悪くない」
「要......ありがとう」
その言葉が嬉しい。いつも何かの問題が起こる度に、玲が悪いのだと言われて周囲の冷たい眼差しに耐えて来た。自分では何かの過ちを犯した覚えはない。だからずっと自分が人と関わるのが悪いのだと思って来た。だから誰も知らない、知る人のいない都会に出て来た。この街でたくさんの人の中に埋没して、でも極力人との関わりを少くして生きようと思っていた。
それを覆したのが要で......樹だ。
これは許されるのか......と不安を抱えながら、どこか人恋しい部分があったのかもしれない。だから差出されたてを取ってしまった。樹には......彼にとっては迷惑に違いない想いを持ってしまった。
やってはいけないと自らの戒めを破ったから、井吹はこんな事をやったのだ。ただ要にぶら下がっていい目をみたいと思うだけだった彼を、不愉快な言動に走らせたのはきっと自分の中の『何か』だ。
幼い頃から何かとトラブルの中心に自分がいるのが普通だった。父親も祖父母も......周囲のおとなたちも、すべての元凶は玲にあると口々に言った。自分で何かをしなくても、トラブルは吸い寄せられる様に起こる。その内に玲自身もトラブルの大半が、自分を対象にした性的な欲望に起因するのだとわかって来た。実際にその様な行動に出ない人間は逆に、異常なまでの嫌悪感を玲に対して示して来るというのも悟った。
要はどちらにも属さない稀有な人間だとも言えるからこそ、友人として心を許していた部分もあった。けれども井吹のやった事と周囲の反応を見てわかった。やはり玲が要の側にいるとあらぬ疑いを持たれるのだと。噂が広がって行き真実と信じた人間が多かったのは、やはりどこかで疑っていた者が多かったのだと感じる。噂は玲がキレて否定したのと、要の言葉で一応は収束した。だが、表面的にはだ。どこかで未だに疑念は彼らの中で燻っているだろう。
『自分』という存在が人と人の繋がりを無茶苦茶にしてしまう。要との友情もそうだ。樹との事が知られれば、仲の良い兄弟の結び付きが壊れてしまう気がする。自分の胸の中の想いが知られればもっと。
忘れていた忌まわしい事実。幼少時から周囲のおとなに刷り込まれていたものを、誰かが責める事は決してできないし、安易な言葉で覆す事も難しい。何故ならば本人にとってはそれが当たり前だからだ。違う考え方があるのを理解はしても、それは自分とは遠いものであると考えてしまう。違う育ち方や条件を持った人間の想いであると。まして揉め事などの原因が幼かった自分に求められれば、子供と言うのは安易に信じ込んでしまうものだ。特に玲のように周囲の全てが同じ事を繰り返し言い続ければ、本人の中で揺るぎない真実となって本人の心に深く根差してしまう。
深く根をおろした人間の価値観は幾ら周囲の誰かや何かの経験が上の葉や枝を刈り取っても、残った根によって瞬く間に新たな成長を遂げる毒草だけの庭のようなものだ。そして人は自らの心の毒に汚染され苦しむ存在なのだ。それが玲と真逆の他人を誹謗中傷などして攻撃する人間でも同じである。それもまた心の庭に毒草を育てている。種は多分、本人が蒔いたのではないだろう。大抵は周囲のおとなが元々の種を何かの形で蒔いているのだ。もちろん、全ての人間が成長過程で必ず種は蒔かれている。よき種であるのか……毒草であるのか、どれくらいの割合であるのか、種類はどのようであるのかはそれぞれだろう。人はその中から自らの意思で育てる種を無意識に選択して成長する。似たような経験をしても同じ価値観にならないのは、個々の選択の段階が違うからではないだろうか。
それでも稀に玲のように『自分』を全否定される中で育つ人間がいる。それでもなお選択の余地が皆無ではない筈であるが、わずかな想いさえも潰してしまうおとながいると人間はある種の洗脳状態になってしまう。
要と樹が玲にもたらしたものは結局、大きな反動として更なる呪縛へと彼の心を向かわせ、口を開けて待ち構える暗黒の孤独に導きつつあった。
要との年齢に相応しい付き合いがもたらした喜びも、触れ合い求められる温もりで知ってしまった多幸感も、玲は美しい夢の中にひと時の間だけまどろんでいたに過ぎなかった。目が覚めてしまった今、目の前に広がるのはやはり自分自身に対する明日の希望が見出せない現実だけだった。
「それでもボクは……生きていかなきゃ」
誰も聞く人がいない呟きだけが、今だけは自分の居場所であるアパートの部屋に響いて消えた。
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七年も経っても、未だに帝に番われず、未通(おとめ=処女)のままだった。
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『紫式部~実は、歴史上の人物がΩだった件』の紫式部の就職先・藤原彰子も実はΩで、男の子だった!?というオメガバースな歴史ファンタジー。
歴史や古文が苦手でも、だいじょうぶ。ふりがな満載・カッコ書きの説明大量。
フツーの日本語で書いています。
成り行き番の溺愛生活
アオ
BL
タイトルそのままです
成り行きで番になってしまったら溺愛生活が待っていたというありきたりな話です
始めて投稿するので変なところが多々あると思いますがそこは勘弁してください
オメガバースで独自の設定があるかもです
27歳×16歳のカップルです
この小説の世界では法律上大丈夫です オメガバの世界だからね
それでもよければ読んでくださるとうれしいです
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