一片の契約

翡翠

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契約関係

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 部屋に満ちるのは甘やかな声と身動きに動くシーツの擦れる音だけ。高級なベッドは軋みすらしない。

 自分を組み敷く男に溺れながらも、玲は心の片隅で自分自身を冷めた想いでみつめていた。

 彼の名前は秋月 玲あきづきれい桜華おうか学園大学の二回生だ。

 そして彼を組み敷く男の名は、嵯峨野 樹さがのいつき。友人である嵯峨野かなめの兄だ。

 友人の兄と何故にこういう関係になったかと言うと、それは昨年の夏休みに遡らなければならない。嵯峨野家はかなりの資産家で、事業も手広く展開している。玲は要に頼まれて系列ホテルで開かれたパーティーに、臨時のアルバイトを依頼された事だった。事前のレクチャーと当日の三時間の拘束。それだけで五万円という破格の金額に、バイトを休んで参加した。そこまでの金額に至ったのは、人員が集まらないという事からだった。その理由は要の兄の樹の人選の厳しさにあったらしい。最初に理由を聞いた時は尻込みした。自分が通るとは思わなかったからだ。

 生まれつき色素が薄く、淡い栗色の髪は高校までずっと、教師に目を付けられて嫌がらせとも言える指導のネタだった。白過ぎる肌色は幼い頃にはイジメの対象になり、中高では同性の目を引いた。当然ながら友人はできず、大学へ進学するまではずっとひとりだった。

 要とは混雑する学食を避けて行った、学内のカフェテラスで同席になって顔見知りになった。とはいっても玲は人見知りが激しい。穏やかに微笑んでくれた彼に、俯いて返事を返すのがやっとの状態だった。

 次に彼に会ったのは……人気のない教室だった。顔も覚えていない先輩に言いがかりをつけられて無理やり連れ込まれたのだ。似たような事は中学時代からあった。教師に指導室で襲われた事もある。

 幸運な事にいつも何某かで強姦しようとする男たちから逃れられて来た。だがこの日は逃れられる気がしなかったのだ。連れ込まれた教室は普段から滅多に使用されていない。図書館への近道として前の廊下を誰かが通る事は稀にあるが、閉館の時間を過ぎたあの時は静まり返ってしまっていた。

 ついに逃れられない時が来た。

 玲はそう観念した。こういう場合は多分……抵抗しない方が良いのだろう。だが望まぬ行為は吐き気と悪寒と恐怖しか呼ばない。たとえこの身を引き裂かれたとしても、このような事を自分は望んではいないのだという意思表示になる。抵抗しなければこの男だけではなく、他の男も同じ事を望んで来る。

 恐怖よりも嫌悪が勝った。

「やめろ!!放せ!!この変態やろう!!」

 相手の一瞬の怯みを玲は見逃さなかった。まだ動かせる膝を相手の腹に決めた。驚いた男の束縛の力が緩んだ。身をよじって男から離れる。

「逃がすものか」

 欲望に赤く染まり歪んだ顔で男が再び掴みかかって来る。玲は弾かれたように立ち上がると教室前部のドアへ向かった。だがドアに手を伸ばした時、男に背後から抱き付かれた。

「つかまえたぞ」

 耳元で熱い息が吹きつけられるのが気持ち悪い。嫌悪に全身が総毛立つ。

「は、な、せ」

 片手で腰に回された手を引っ掻くようにして抗いながら、ドアに伸ばした手で重いドアを必死になって開けようとした。

 助けて……誰か、助けて……

 ドアノブを掴ませないとする男の手と掴もうとする玲の手。玲は必死に声を上げて助けを求めた。

「誰もこねえよ」

 どちらかと言うと両家の子息・子女が多いこの学校では珍しい口の利き方をする。そう思ったのがあだになった。一瞬のスキをついて男の手がドアへと伸ばしていた手を掴んだ。

「放せ!!イヤだ!!」

 もうダメだと思って諦めかけた時だった。突然、目の前のドアが開いたのだ。

「彼を放していただけませんか」

 要だった。いつも浮かべている笑顔は当然ながらなく、玲の背筋がゾクリとする程の無表情だった。

「聞こえませんでしたか?友人である秋月 玲は嫌がっています」

 抑揚がない声で要は男を見据えて言った。

「てめぇ……何様のつもりだ!」

 男は精一杯の虚勢を張っているのが玲にもわかるくらいに明らかだった。年齢は男の方が上だが迫力では要に負けている。そこは多くの人々を従える富豪の子息の持つ品格なのかもしれないと、このような状況下でありながら玲は思ったのだった。

「こいつが俺を誘ったんだぞ……」

「ボクはそんな事してない!」

 ああ、まただ…と玲は思った。この手の奴はいつも玲が誘ったのだと主張する。そしていつもそれを受け入れて、非難の言葉を投げ付けて来るのだ。今更、友人を欲しいとは思わなかったが、だからと言って傷付かないわけじゃない。軽蔑され嫌悪されて結局は近付いて来なくなる。

 だからずっと誰とも関わらずにいた。決して誘ったわけじゃないという事実を誰も信じてはくれないのであれば、そうする以外にどんな選択肢があるというのか。

 玲は目を伏せて要の口から非難の言葉が飛び出すのを待った。

「そんなわけがないでしょう。彼は人見知りですから、そんな真似はできる人間じゃありません」

「……」

 今まで誰も言ってくれなかった言葉。玲が誰かに言って欲しかった言葉が、混雑したカフェテラスで一度同席しただけの相手が口にした。

「どう見ても暴力を振るっているとしか見えないあなたと友人、どちらがより信じられるのか。説明しなくてもわかると思いますが?それとも校内の警備員を呼んで白黒つけますか?俺は友人の助けを求める声を聞いたと証言します」

 その言葉に視界が霞んだ。引き剥がそうと握った男の腕を掴んだままだった手の上に暑い涙が溢れ落ちる。玲はこの男からだけからではなく、これまで自分を非難して軽蔑してきた周囲の悪意の中から今、ここで救い出されたような気持ちになった。

 自分が不利だと思ったのか、玲を突き飛ばして逃げて行った。

「ありがとう……」

 そう言うのがやっとだった。

 こうして玲は要と親しくなった。彼はいつも玲を庇うように側にいてくれた。



「玲、お得なバイトあるんだけどやらないか?」

 夏休み、バイトに明け暮れているとかかって来た電話。それが樹と出逢うきっかけになった。

「連れて来たよ、兄さん。彼が玲だ。希望通りだと俺は思うけど」

 面接はパーティが行われるホテルの一室だった。

「要、お前はもういい」

「はいはい。じゃあな、玲。兄さん、俺の大事な友だちを苛めるなよ?」

 要が出て行き、玲は樹と二人になった。

 高級スーツを優雅に美しく着こなした樹は、玲にはどちらかというと怖い相手だと感じた。これまで玲を最も嫌悪して軽蔑の眼差しを向けたオトナには、彼のような誰からも尊敬されるタイプが最も多かった。

「要から君の事を聞いたので申し訳ないが、君の身元と身辺の調査をさせてもらった」
 
 要からこの話を聞かされた時に嫌な予感はしたのだ。そしてこのバイトは無理だと悟った。玲が置かれている状況を知って雇ってくれるところは、万年人手不足のコンビニとファミレスくらいなものだ。もっともなぜこの様な状態に置かれているのかまでは、当事者である玲と両親と兄、周囲の極一部くらいだ。調査くらいでは表向きにはならない。だからこそ調べた相手はいぶかり、玲が犯罪者か何かのように思うらしい。

「君が独立戸籍にいる理由を良かったら話してもらえるかな?」

「それは……僕が家族の望む人間でなかったからです」

「話したくはないか……わかった。無理強いは私も好きではない。

 では当日は午後からここへ来てくれたまえ。パーティは18時から20時までだ。その後会場の片付けを行う為、大体、21時くらいに君の仕事は終わる」

「え?あの…」

「採用だよ、秋月 玲くん」

 金額と要への感謝の気持ちで引き受けたバイトだったが、通常のバイトのシフトを代わってもらった事が問題になった。元々あまり折り合いが良いとは言えなかったバイト先の店長が、これ幸いと何癖をつけて来てさすがに嫌気がさした。辞めると告げると次を連れて来いと言うのだ。困り果てた玲が要に相談するとすぐに樹に伝わり、彼が弁護士を紹介してくれた。弁護士を介した結果、無事にバイトを辞める事ができた。

 弁護士はパワーハラスメントで告訴や労働局に訴える方法も薦めてくれたが、事を荒立てたくはなかったし、あの店長の顔をもう見たくはなかった。ゆえにバイトを辞められればそれで良いと答えた。

 結果、礼と弁護士費用の支払いの相談に、要に都合を聞いてもらった上で樹に会う事になった。指定されたのはパーティが行われたホテルのロビー。玲は約束の時間より早く来て、待ち合わせや歓談の為に設置されているソファに座った。

 通り過ぎる人々は場違いな服装の玲をジロジロと見る。コットンシャツに古びたジーンズの者などここにはいない。そんな事はわかっていた。バイトの時はお仕着せがあった上に、地下の従業員通用口から出入した為に服装は気にならなかったのだ。これでは樹に恥をかかせてしまうかもしれない。だが学費はともかく生活費をバイトで賄っている身としては、殆どが食費に消えてしまうのでこれが精一杯できる服装だったのだ。

 樹は約束通りの時間に現れた。相変わらず仕立ての良いスーツを着て、モデルのように真っ直ぐに美しく歩いて来る。ロビーにいる女性たちが小さな歓声をあげて、彼に注目しているのがわかった。

「待ったかい?」

「いえ、ボクがはやく来ちゃっただけですから」

 弟の要もかなりの美形だが兄の樹はおとなである分、落ち着きと洗礼された雰囲気をまとっている為、魅力は遥かに上だといえるかもしれなかった。

「レストランを予約してある」

「え?あの……」

 礼と弁護士の費用について相談するだけのつもりだった。

「でもボク、こんな服ですし……」

 ここにいるだけで場違いだという眼差しで見られたのだ。ホテルのレストランが入れてくれる筈がない。

「個室だから大丈夫だよ」

 優しい笑顔で答えると樹は玲の腕に手を添えた。近付いた樹からはコロンの香がする。それだけで頭がクラクラして胸の鼓動が高くなった。

「気になる?では調達しよう、おいで」

 柔らかな口調と優しい笑顔に暗示にでもかかったかのように、玲は疑問を考える事が出来ずに促されるままにホテルに入っているブランド店へと入った。

「彼に似合う……そうだな、あまり堅苦しくない服を」

 奥のソファに座った樹が言うと、店員が幾つかの服を運んで来た。

「こちらさまは肌もお綺麗ですし、少しはっきり目のお色がお似合いかと存じます、嵯峨野さま」

「ではそれで揃えてみてくれ」

「承知いたしました」

 玲は値札を見て絶句した。1ヶ月分の収入よりもシャツ一枚の方が高い……数千円のファストファッションすら、時として購入を躊躇ためらう生活をしているのだ。季節の変わり目には古着屋をハシゴして、大学やバイトへ向かう為の服を何とか揃えている。目の前で店員に指図する男と自分とは根本的な価値観が違うのだ、と改めて感じさせられてしまった。おそらく要も同じであろうと考える。

「どうかしたか、秋月くん」

 シャツを手にしたまま黙っている玲を見て、樹が不思議そうな顔で問いかけて来た。

「え……その、ここの商品はボクには高価過ぎます」

 彼はきっとスーパーの安売りに走り回った事もないだろう。1円、10円の不足が人間を苦しめる事実も知らない。このシャツ1枚の値段でどれだけの生活ができるのかさえも。

「君の感覚ではこれはNOか。では……これは落ち着いた場所に着いてからと思ったのだけど、今度パーティの派遣スタッフの育成をする会社を設立する事になった。そこで君をスカウトしたいんだ。

 そうなると服装にも気を使ってもらわなければいけない。だからこれは社からの支給品だという事だ。

 もちろん、君がこの話を断るというのであれば仕方がないけどね」

「ボクを?この前は急ぎだったのでわかりますが、もっと適任な人がいるのではありませんか」

 集められた人たちは皆、容姿の整っていて立ち振る舞いも佳かった。自分のような他者とは違い過ぎる容姿は、どちらかと言うと異端ではないかと思う。実際に最後に参加した玲が樹から紹介されると彼らは、ジロジロと眺めた挙句に仕事以外は無視をして来た。

「いや、私は君を気に入った。この前の仕事で手を抜かずに細やかな気遣いでいたのは、残念ながら君を含む数人だけだった。厳選したつもりだったが……チームワークを考えず、仕事が接客である事も理解しようとしない人間を私は必要とはしない」

 樹の口から出たのは驚くほど厳しい言葉だった。

「君のその価値観も優れていると私は思う。その点は親の金で遊んでいる要と違ってしっかりしている。

 この前のパーティで使用されていたのは大変に高価な食器類だった。主催者が身分ある方々だったからね。でももしあれが安物の食器であっても、君は丁寧に扱うはずだ、違うかい?」

「はい」

 たとえ一山百円で販売している食器だったとしても作った人がいて、買う人は自分が働いたお金で購入するのだ。そのどこに乱暴に扱って良いという理由があるというのだ?

「顧客に対してもそうだ。確かに身分ある方々には最大の敬意をはらう必要はある。だがそうでない顧客でも敬意を持って依頼を受けるのが当たり前だ。

 相手や物で態度を変える者はいらないよ、私は」

 玲は樹の言葉に息を呑んだ。同じ事を要が以前言っていた。そしてそれは他ならぬ玲の想いとも同じであった。

「要が言っていた。君のそういうところが気に入ったと。私も会って見て同感だった。だから是非に。うちに君が必要だ」

 自信に満ちた口調でこんな風に言われるとなぜだか自分が偉くなったような気がした。

「言っておくが弁護士の費用の事もうちの経費だからね」

 裕福な人はもっと傲慢だと思っていた。少なくともこれまでの人生では傲慢で自分勝手な人しかいなかった。彼らは金と権力さえあれば何でもできると思っていたし、実際に故郷ではそのように振舞っていた。それともあれは人間関係が狭い地方の片隅の都市であったからだろうか。ここのような都会では樹や要のようなのが普通なのだろうか。

「それでどうかな?」

「えっと……ボクで良いなら……」

「ありがとう!君じゃないとダメなんだよ。

 さあ、着替えて食事に行こう。マナーを覚えるのも仕事だからね」

「わかりました」

 こうして玲は樹の会社に学生の身分でありながら正式採用され、仕事を通じての交流が始まった。

 基本的に金曜日の夜と土日が玲の出勤日になり、それ以外の日々は社の予定と授業などの都合で合わせる事に決まった。依頼がない日は講師によって歩き方やテーブルマナー、イギリス英語などのレッスンが行われた。

 玲と同時に入社したのは3人で、要も仲間として加わった。経営は樹本人と彼の秘書である佐伯 冬彦さえきふゆひこだ。佐伯は樹の大学時代からの友人であり、嵯峨野一族に仕える家系の出身だった。玲は初対面で彼に苦手意識を持ってしまった。長身の彼が見下ように玲を見る目は、こちらの心を凍らせてしまいそうなほどに冷たかったのだ。彼に嫌われているのだな……と、理由すらわからないまま思った。けれどもそれは今に始まった事ではなかった。幼い頃から玲を訳もなく毛嫌いする人間がいた。同じ会社で仕事をするのはいつかトラブルになるかもしれないが、今はとにかく安定した収入が必要だった。

 学費は兎も角、日々の生活費を稼がなければ生きてはいけない。大学も学費以外に必要な費用がある。今が大変だからと言って大学を投げ出したら、その後の就職に苦労をする事になる。誰に何を思われて言われたとしても、石に噛り付く気持ちで卒業までは生活費を稼がなければならない。

 樹の社では学ばなければならない事がたくさんあった。それもいつかはどこかで役に立つのだと思い、玲は懸命に覚え実践した。

 玲の実家は地方の郷士の家系だが、大学でここへ来て自分の生まれ育った場所が田舎だと実感した。大学には要以外にも富豪の子息も子女も何人もいる。彼らは一概にスマートで華やか、そして自分の出自で他者を思い通りに動かそうとはしない。むしろそのような事をするのは成金と呼んで良いような、本人たちが威張るほどのスマートさも持ち合わせてはいない連中だった。

 この前に大学で絡んで来たのもこの部類に入る。玲が最も嫌い、近付いて欲しくはないと思う人間。だが昔から拒絶しても執拗に寄って来て、自分の言う事をきかせようとして暴力的になる。事が露見すれば全て、玲が悪いように吹聴する。

 要と親しくなってからは彼らが近付く事はなくなったのは嵯峨野一族が、大きな影響力を持っている証であるのだろう。この大学に学籍を置いている間だけは、その傘の下での恩恵に甘えさせてもらうつもりだった。

 大学の外では相変わらずだった。街を行き交う見目麗しい女性たちよりも、玲の方が遥かに危険だとも言えた。たとえ悲鳴を上げようとも女性ならば救いの手が入る。玲が子供の時ならばまだ誰かが駆けつけてくれたが、おとなになってしまった今では一応は視線を向けてはくれるが、すぐに何事もなかったかのように通り過ぎていくのがほとんどだ。相手の手から逃げ出して街を駆け抜けるのだけが、玲が身を守る唯一の方法だった。

 

 まさかこんな状況になるとは予想もしてはいなかった。 

 樹の社に勤め始めて最初のパーティだった。与えられた制服を着てアルコールの入ったグラスを乗せたトレイを手に、美しく着飾った人々の間を巡って歩く。あちこちから手が伸びて来てグラスが取られ、空になったトレイに空のグラスを回収して会場の片隅へ戻る。

 こうして説明すると簡単なように思われるが、これはこれで結構大変だった。会場にいる客たちは玲たちを見ない。ゆえに彼らが突然動いた時に避けるのは玲たちだ。グラスを取る時も視線を向けたり声をかけて来るのは極々一部。殆どがいきなり横合いから手を出す。うっかりしているとその手がトレイの上のグラスをなぎ倒してしまう。

 客たちが身に付けている衣装は皆、高級ブランドの製品ばかりだ。恐らくは玲の給料を全て出しても弁償はできないだろう。

 さりげなく優雅に機敏に客たちの間をすり抜け、空のグラスとアルコールに満たされたグラスを入れ替えて、素早く客たちの手元を見て動く……というのを繰り返していたら、一人の男と偶然視線が合ってしまった。

 まずい……と思った。だが相手は客だ。睨む事も無視する事も出来ない。玲は軽く会釈をして視線を外し、再び客たちの中へと踏み出した。

 緊張の中でその事はすぐに頭の中へ埋没してしまった。会場が広かったゆえに必然的に動き回る範囲が大きく、トレイの上のグラスもすぐになくなる為に息つく暇もなかった。

「疲れた……」

 与えられたホテル内のロッカーに向かうべく、人気のない従業員専用の階段を地下へと降りている最中だった。背後から急ぐような足音が迫って来る。ホテルマンは客の要望に応える為に、時としては従業員専用の通路を駆けると聞かされている為、邪魔にならないようにと玲は踊り場の隅に身を寄せた。

 すると足音が目の前で止まった。ゆっくりと顔を上げると立っていたのは先ほど、パーティ会場で視線が合った男がいた。

「こ、ここは…従業員専用です。お客さま、どうかお戻りください」

 声が震えていた。ここには誰もいない。客にホテルの裏側を気付かせない為にも、防音がしっかりと為されている。廊下へ通じる鉄製の厚い扉を閉めてしまえば、表の華やかな装飾に包まれた場所から無機質なコンクリートの場所になる。

「そんな事を言って焦らすつもりか?こんな人気のない場所に誘い込んでおいて」

「誘ってなどいません!ここから出て行ってください」

 怖かった。ここでは逃げる場所がない。ホテルの従業員もこの時間は表の仕事に忙しい時間だ。

 ……助けは来ない

「本当に悪い子だ。仕事をしながら男を漁って」

 こういう奴にはもう何をどう言っても通じはしない。逃げ場所もない。助けも来ない……玲は絶望で目の前が真っ暗になった気がした。

 強姦は人間の尊厳を否定する犯罪だと言える。人の心を破壊する行為だ。

「誰か……助けて……」

 しぼり出した声が虚しくコンクリートの壁に響き消えていく。逃れられない現実に視界が歪んだ。

 玲がどんなに抵抗しても、相手は身長でも体格でも勝っている。小柄で華奢な身体では到底敵うとは思えない。だからといってこんな奴の好きにさせてたまるか……とも思う。最終的に屈するしかないとしても。

 悲鳴を上げ暴れて抗う都度、相手は玲を殴って意志を挫こうとしてくる。痛みに恐怖が呼び起こされるのは、生物が本来的に持ち合わせている身を守る為の本能だ。通常であれば身が竦んで動けなくなる。玲も例外ではなかった。痛みがもたらす恐怖に一度は、心の中も目の前も真っ暗になった。これまでなのか……と諦めかけた次の瞬間、鮮やかに脳裏に浮かび上がった顔があった。

 樹だった。そうだ。彼にだけは軽蔑されたくない。真逆の誤解をされたくはない。理由など思い付く余裕がない。

 冷たいコンクリートの上に引き倒されても、玲は渾身こんしんの力で抵抗を続けた。口の中は血の味がする。胸や腹も痛みというよりも熱く感じる。先ほど倒れる時に身体の下になった右腕は、灼熱の焔で炙られているかのように熱く痛い。

 ……このまま殴り殺せばいい。そうすれば誘ったなどという、ふざけた嘘は言えなくなる筈だ。一度だってそんな事をした覚えはない。この容姿が悪いというのならばその拳で破壊しろ。そして……自分の劣情を果たしたいのならば死体にでもすればいい!

 白かったシャツは引き裂かれてボタンが飛び、口や鼻から流れ出た鮮血が赤いシミを描いていた。

 次第に意識が朦朧もうろうとして来る。暴力を振るい続ける男の顔が歪み、声も音も頭の中で鈍く反響し始めた。

 もうダメか……限界か、諦めて意識を手放そうとした時だった。階下の何処かで鉄の扉が開閉する音が聞こえた。

「……誰……か、た…す…け…て…」

 残った気力を振り絞って発した声は、本当に音として紡がれたのかさえ、今の玲にはもう判断がつけられなかった。もし届かなかったとしたならばこのままこんな場所で、自分は惨めに死んでいくしかない運命なのだと、まるで他人の事のように感じている自分が不思議だった。

「誰かいるのか!?」

 誰かが叫ぶ声が頭の中に反響する。これは現実に聞こえる声なのだろうか。それとも最後の望みに縋りたい想いが聞かせている幻聴なのだろうか。

 いや、本物である筈がない。本物であるのならばこの男はここから逃げ出すはずだ。しかし男はなおも玲を殴り続けている。

 「助け……て……」

 来ないだろう救いに縋るように弱々しく呟いた後、玲はとうとう意識を手放したのだった。




「……く……おい!秋月くん!」

 誰かの呼ぶ声がする。体中が熱と痛みに包まれているのに……このまま捨てておいて欲しいと思う。それなのに意識は呼びかけに応えるようにゆっくりと鮮明になった。

「……痛い……助けて……」

 死んでも良い、むしろ死んでしまいたいとさえ思ったというのに、自分は何て欲深いのだろうか。まだ生きようと救いを求める自分を浅ましいと思う、別の自分が存在しているように感じた。

「今、救急車を呼んだ。しっかりするんだ」

「樹…さん?」

 何と都合の良い幻だろう。彼がここにいるはずがない。

「ごめん…なさい…」

 頼るべき家族もなく誰も本当の玲を見はしない。それでも樹には優しくしてもらった。赤の他人に縋られても迷惑だろうけれど、この幻に今は縋り付いていたいと思った。

「ああ……暗いよ……」

 これで自分の人生は終わりなのかもしれないと思いながら、玲の意識は暗い闇の泥のように重く深い場所へと急速に堕ちていった。



「……ですから、秋月くんはそんな事をする子ではりません!」

 どこかで声がする。

「どうして警察は加害者側の言い分ばかりを採用するんです!」

 ああ、これは要の声だと思った。するとその前のは樹さんか?どうしたのだろう?何を揉めているのだろう?目を覚まさないといけない。けれど目蓋が重くて持ち上げられない。身体を動かそうと思うのに……鈍い痛みと違和感がある。自分の身体の下にあるベッドの感触も違和感がある。ここは自分の部屋じゃない?

「玲?」

 カーテンを引き開ける音がして要の呼ぶ声がした。

「か…なめ?ここ、どこ?」

 問いかけた自分の声が驚くほど掠れている。

「ここは病院だよ、玲。良かった、三日も目を覚まさないから心配した!」

 三日も目を覚まさなかった?

「ボク……どうしたのかな?」

「え……覚えてないのか!?

 兄さん、先生を!」

「今、呼んだ。

 落ち着きなさい、要。こういう時には記憶が混乱する場合があるらしいから。

 秋月くん、吐き気や痛みは?」

「吐き気……ない……痛み……痛み……」

 何故に身体が痛い?自分の状態を知りたくて記憶を辿る……

 ドックン……!!

 心臓が飛び跳ねるような感覚と同時に、一瞬にして途切れる前の事が押し寄せて来た。

「ああ……ああ……」

 押し寄せて来たのは恐怖だった。殺されても良いと思っていた筈であるのに、生きているという事実が本能を呼び覚ます。暗闇に包まれて意識を失ったのと対照的に、今度は玲の視界が真紅に染まっていくようだった。ここにいるという事は助けられたという事だ。頭ではそれはわかっている。わかっているのに心が納得しない。身体のあちこちに感じる痛みは現実を玲に突き付けて、強い閉塞感と恐怖を煽る。

「助けて……」

 こんな事を言っても無駄なのに……と思うと開けられない目から涙が流れ落ちるのを感じた。

 どんなに望んでも求めても、家族から捨てられた玲は独りぼっちだった。身体はこうして助けられても、傷付いた心に寄り添ってくれる人はいない。結局は行き場のない苦しみや悲しみを抱いたままで、また孤独に生きていかなければならないだけだ。

「大丈夫だ、もう君を恐ろしい目に合わせる奴はいないよ」

 声がしてそっと優しく指先に触れられた。人の温もりを失って久しかった玲は、また静かに頬を涙で濡らした。

「玲、俺もいるよ。だから安心して」

 要の声がすぐ近くからした。

「刑事さん、これでもまだ玲が誘ったって言いますか?」

 要の幾分険を含んだ言葉に唸って応えた人物がいた。

「刑事?」

 彼がここにいたという事は、あの男は逮捕されたのだろうか。

 玲が何かを問いかけようとした時、ドアが開く音がした。

「意識を回復されたと聞きましたが?」

「はい、つい先ほど。痛みがあるようです」

「わかりました、ちょっと診てみましょう」

 医師が近付いて来る足音がした。

「痛みは我慢できるレベル?出来ないレベル?」

「少しずつ…強くなってます」

「わかった。鎮痛剤を点滴に入れるね。今日はもう夕方だけど、明日は病院の精神科の先生と話してもらえるかな?」

「精神科……?」

「秋月さんはとっても怖い想いをしたでしょう?だからね、そういうのが必要なの」

 年配の女性らしい医師の柔らかな言葉は、玲がこれまでかけられた事のない種類の事だった。

「はい……わかりました」

「じゃあ、もう一度眠りなさい。怪我の治療の為にも、疲れた心の為にも今は眠るのが一番よ」

「はい……先生……」

「付き添いの方はお一人だけ。あとの方はお引取りを。いらっしゃるだけで患者さんが疲れてしまいます」

 彼女の言葉に玲は少しだけホッとした。このまま眠ってしまったとしても、今は一人になるのが怖かったのだ。

 でも誰が残ってくれるというのだろう……?


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