一片の恋敵

翡翠

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身勝手な恋敵たち

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 新しいストーカーが増えないかと二人が心配する一ヶ月間は何もなかった。鈴原 メイですら姿を見せず、メールも来ていない。キャンパスでもバイト先でも住んでいるマンションでも、拍子抜けするくらいの平穏な日々が流れた。

 その夜、幾分帰宅が遅くなったので、夜間も開いている社食で夕食を済ませ、散歩しながら明日の朝食のパンを買ってマンションに向かって歩いていた。

 妙にマンション前が騒がしい。二人は身を隠しながらそっとのぞき込んだ。

「え⁉」

「うわっ⁉」

 思わず声が出て慌てて口を押さえた。幸いにも向こうには聞こえてはいない様子だ。

 マンション前であろうことか、鈴原 メイと崎森 かなえが言い争いをしているのだ。意味がわからない。

 弘夢と和臣は顔を見合わせて首をひねった。彼女たちはそれぞれ違う相手を狙っている。本来ならば共闘しそうなものだが、何ゆえに今にも掴み合いが始まりそうな状態で、辺りに響き渡る言い争いをしているのだろう?

 少し聞き取り難いが二人の会話に耳を傾けてみる。

「だから言ってるでしょ!あなたと私は思う方が別なのだから、それぞれが自分の思う方を追えばいいのよ!」

「あなたこそどうしてわからないの!あの男は悪魔の手先なのよ!」

 話が嚙み合っていない……あきれ半分で弘夢は笑った。

「どこまで行っても和臣さんは鈴原さんには悪魔の使いなんだ」

「よしてくれ」

 彼のどこをどう見てその様なことを言うのかと首を傾げてしまう。

「和臣さんが悪魔だったら世の中は悪魔だらけだよ」

 和臣より自分の方がずるいと思う。悠貴があれほど好きだったのに、告白されてコロリと心変わりして、今はもう婚約までして一緒に住んでいる。悪魔だと言うならば自分の方じゃないのか。

「さて、どうするかな?」

「裏?」

「どうだろうな。ここのところお前に付いてる方は姿を現さなかった。何か企んでるかもな」

「あ~あり得る」

 怖さとげっそり感が心の中に押し寄せる。そんな弘夢に和臣は慰めるように背中を叩いて、スマホを取り出した。

 小声で何事かを話している。雰囲気からして相手はマンションのコンシェルジュらしい。

「よろしく頼みます」

 通話を終えた和臣がホッと息を吐く。

「大通りに出てタクシーに乗る」

「何で?帰らないの?」

「裏の駐車場側にも誰かいるらしい」

「……マジ?」

 瞬時に硬直した弘夢に和臣が渋い顔で頷く。

「で、タクシーでどこいくの?」

うちの系列ホテルに部屋をとってくれた」

「それはありがたいけど……俺、明日講義あるんだけど?」

「着いたら連絡入れることになっているから、相談するんだな」

「相談って……着替えはどうするんだよ?」

「用意してもらえる」

「は?俺はともかく和臣さんはスーツだろ?それも?」

「らしい。うちの会社はそういうところが太っ腹だぞ?」

「え?後で請求されないの?」

「聞いている話ではそうだ。これも福利厚生というわけだな」

「福利厚生?おかしくない?」

「普通は。それだけの収益がある企業だということだろう。穴蔵あなぐら部所の俺たちにはわからないさ」

 世界展開する大企業で、扱うものも多岐にわたっているのは弘夢も知っている。国内には同じ様な企業が数社あって、御園生はそのトップにいるのだとも。

「御曹司たちが経営するようになって、いろいろと改革したらしい。福利厚生は厚くなったが無駄な経費の見直しなどが、かなり厳しく徹底させたそうだ」

 セキュリティを含めた情報処理系はコスト喰いだ。優秀な人材を集めれば人件費もうなぎのぼりになる。その節約のために外部発注したり、短期に人員を技術派遣などで補う企業も多い。

 しかし御園生は外部には基本的に依頼しない。セキュリティをプログラミングしたのは外部の人間らしいが、半ば身内的な立場の人物らしい。

 弘夢にはこの会社は謎だらけだ。素直に和臣にそう言ってみると、彼も笑いながらこう答えた。

「すべてを把握している人間はトップたけだろう。俺たちは表の社員よりわからないことだらけだ」

 もしかしたら大企業というものはそのようなものであるのかもしれない。弘夢は勝手にそう得心したのだった。



「おはよう」

「あ、おはよう」

 田上に送られて門を通った瞬間に声をかけられて、驚いて身構えてしまった。しかし声をかけて来たのが悠貴だったのでホッと全身の力を抜いた。

「いつになく警戒してるな、何かあったのか?」

 弘夢はおもむろに悠貴の腕を掴んで人がいない角へ移動した。そこで先日の買い物での出来事と昨晩のことを説明した。

「はあ?なんだそりゃ。え~っと崎森?聞いたことがないな。少なくとも兄貴の元カノじゃないみたいだな」

「うん。サークルで一緒だったって」

「大学の頃か。皇立大のわりには遊んでたからな」

「それは俺も覚えてる」

 和臣自身の口からも付き合っていた相手とは聞いていない。彼はいまさら過去のことで弘夢に嘘を吐いたりしない。しても意味がない。幼馴染ゆえにある程度は昔の所業はバレているからだ。

「しかしあの鈴原ってのはおとなしそうに見えるのにな。女は怖え」

「この前まで彼女がいたくせに何言ってんだか」

 その彼女に散々、嫌がらせをされたのではあるが。

「それを含めてだよ」

 不思議なものだ。こうして話していても何も感じない。目の前にいるのは単なる幼馴染だ。本当に自分は恋に恋して美加と過ごすのが楽しかっただけなのだろう。今となっては悠貴の何をどう見て長い間、側にいるのを望んでいたのかがわからなかった。

「弘夢?」

「え?あ、ごめん」

「大丈夫か?」

「うん……ちょっといろいろあり過ぎて混乱してるかな?」

 そっとしていて欲しいと望むのは贅沢なのだろうか。

「あ~こんなところにいた!」

 駆け寄ってきたのは美加だった。

「何々、どうしたの?」

 たった今弘夢に聞いたことを弘夢の代わりに悠貴が話す。もう弘夢には繰り返すだけで疲れてしまう。

「はあ?信じられない!バカじゃないの⁈」

 美加は休日にかなえに会っているだけにこの事態に心底驚いていた。

「弘夢、大丈夫?」

「多分……」

 大丈夫だと言えないのが悔しい。

「まったくあんたと和臣さんのことは身内ではもう決定してることで、恋敵ライバルに今から立候補しても手遅れよ」

 恋敵……弘夢にそんな相手がぞろぞろといるはずはないが、和臣の周囲にはたくさんいるような気がする。何しろこれで二人目、いや見合いの相手まで入れたら三人か。彼の気持ちを疑う訳ではない。そんな感情は欠片もない。彼を想う自分の気持ちにも揺らぎはない。

「まあ、あんたたちの仲はこんなくだらないことでどうにかなったりしないってわかってるけど」

「うん。ありがとう、美加」

 美加の言葉に胸が熱くなる。思わず拳を握りしめた弘夢の肩を悠貴が軽く叩く。こんな時に信頼できる友だちがいるのは幸せだ。

「さ、講義が始まるぞ」

 悠貴に促されて弘夢も美加も歩き出す。

 私立桜華学園大学。弘夢はこのキャンパスが好きだ。このところ田上の車で通ってはいるが、駅から学園坂と呼ばれる急坂を降りて正門前まで歩く、坂の下から続く壁伝いに。正門も向こうは木々の中に様々な時代に建てられた校舎が並ぶ。赤煉瓦の図書館、ガラス張りが美しいカフェテリア。赤い屋根の校舎は図書館の次に古い物で、女子大学だった頃からある教育学部がある。その向かいにある白い建物は悠貴と美加が通う経済学部がある。一番新しい建物は一番奥にある医学部で数年前に新しく建てられたそうだ。

 そして弘夢の通う学部は医学部に近い位置にあるそこそこに古い建物だ。完全に独立した建物で全体に高速のネット環境が整えられ、空調もどこよりも最新式の物が採用されている。

 本当は今日の登校は止められたのだ。二人の女性の目的はそれぞれ別でも、彼女たちが弘夢の方へ来る可能性が高かった。今日はバイトは休んでホテルへ戻るように言われている。

 自宅マンションには安全が確保されてから。もっとセキュリティの強い社宅マンションへ引っ越すこともすすめられていた。

 弘夢としては引っ越しはしたくない。今のマンションは会社にもキャンパスにも程よい距離で、ショッピング街とも遠からず近からずなのだ。

 セキュリティの強固なマンションは、旧市街地と新市街地の境目にあるらしい。どちらかというとセレブな街にあり、駅まではバス停いくつか分ある。つまりショッピング街などからも遠くなるし、通学通勤にも時間がかかるようになる。

 第一、部屋を専有している機材をバラして梱包して、移動後はまた解いて再セッティングする手間を考えたらゾッとする。

 解決にはどうすれば良いのか、答えは出る訳ではないのについつい考えながら歩いてしまう。

「弘夢」

 正門前でいきなり横から声をかけられて飛び上がった。

「ひゃあ!」

 思わず飛び出した声に赤面した。悠貴だった。

「すまん、驚かせるつもりじゃなかった」

 笑いながら謝罪されても謝られた気がしない。

「笑ってるくせに」

 ぷぅと頬を膨らまして言うと悠貴は、慌ててもう一度謝罪の言葉を口にするがやはり笑っている。

「まだ笑ってる……」

 弘夢はそう言いながらつられて笑い出した。

「帰るんだろ?」

「うん。今日はバイトも休みになっちゃった」

 本当に楽しくて学びも多い職場なので、働くことが苦になった記憶がない。

「そこまで兄貴と一緒にいたいのかよ」

「え?」

 そっぽを向いて呟いた彼の言葉がよく聞き取れなかった。急に不機嫌になった様に見えるのは気のせいだろうか?

「俺、行っても良いか?」

「え、あ、うん。多分」

 マンションに帰るのではなく、ホテルへ向かうのだとはここでは口にできない。

 そこへ田上が運転する車が横に停車した。

「お待たせしましたか?」

「ううん。今さっき出て来たばかり」

 悠貴を促して乗り込む。車が発進してから悠貴が一緒に来ることを田上に説明した。

「御一緒は構わないのですが、本日は少し寄り道をしていただきます」

「寄り道?」

 まっすぐホテルへ行かないのか?と問い返す。

「どうも後を付け回されてるんです。私があなたを何処へ連れて行くのか、探りたい様子がうかがえます」

 メイは家族揃ってカルト宗教の信者で、その仲間を動員して弘夢を追い回すことにしたらしい。

「マジか?あの女だけじゃなく、一家揃って頭おかしいとは聞いてたが……そこまでするか、普通?」

 悠貴がギョッとする。

「マンション、完全に包囲されてんの。だから昨夜からホテル」

「うわ~たまらんな、それは」

 連れて行かれたのは御園生系列のレストラン。二人は勧められるままに個室に入り、田上に迎えが来るまでレストランからではなくこの部屋から出ないように言われた。

「レストランの個室ってこんなんなんだ」

 弘夢も悠貴も初めての場所で、他に誰もいないのを良いことにあちこちを見て回る。部屋の広さ自体は六畳間程だろうか。ここへ入る前に通過した廊下にはまだ二つほどドアがあった。おそらくはそこも個室で用途や人数に合わせて、広さや仕様が違うのではないかと考えられた。

 そうしていると軽食と飲み物が運ばれて来た。

「食べ物まで来たってことは時間がかかるってことだよね」

 彼らは弘夢と悠貴がここへ入ったのは見ている。そして何某かの用事で田上が二人を残して離れたことも。個室に案内されたのは彼らのうちの誰かが普通に客を装って入店して、二人の出入りを見張る可能性が高いと考えられたからだろう。そこまで予想して支持を出す誰かが会社側にはいるということでもある。

「いつになったらこれ、終わるのかな……」

 弘夢はいい加減疲れて来ていた。美味しそうな料理を前にしながらげっそりする。

「弘夢」

「何?」

「あのさ、兄貴と別れる気ないか?」

「はあ?どういう意味?ああ、悠貴は何かずっと反対してたもんな」

「いやそうじゃなくて……その、俺と付き合わないか?そうしたらうざい奴の半分以上は消えるぜ?」

「えっと……冗談だよね?俺が困ってるから言ってるジョークだろ?」

 ビックリしすぎて声が震える。

「こんなの冗談で言えるかよ」

 真っ直ぐに彼の瞳が弘夢を見据える。その真っ直ぐさに恐怖を感じて視線をそらした。だが戸惑いよりも沸々と心の奥底から怒りが沸きあがって来る。

「あのさ、俺と和臣さんのこと、散々馬鹿にして嫌がらせしたよね?まさか忘れたか言わせないよ」

 和臣と付き合いだす前にも悠貴には数々の暴言で傷付けられた。今更なかったことにされてはたまらない。

「それは……」

「まさかあの麗巳のせいだとは言わないよね?」

「悪かった、あいつに責任を擦り付ける気はない」

 素直に謝罪する姿になんだか悲しくなった。悠貴を想うことは弘夢にとって幼い頃にかかってしまった魔法のようなものだった。恋も愛も本当は知らずに、ただ目の前の彼を追いかけていた。こちらを振り向いても彼の開いた口からあふれ出るのは、意地悪で辛辣な言葉ばかりだった。気が付けば日常になり新たな恋を見つける術もわからずに、美加という同志がいるのも相まってズルズルと引きずって来た。

 和臣が解けない魔法の呪縛を優しく砕いてくれたからこそ、本当の恋と愛を知って未来へ踏み出す道が開けた。今は自分の目標も以前よりはっきりして、和臣と歩く未来への夢や希望もある。幼い頃の夢や幻ではない、自分の意思と足で歩き進める未来だ。

「悠貴は同性愛者じゃないだろう?バイセクシャルでもないよね。多数派である異性愛者だろう。俺を馬鹿にするネタでも見付けたの?それとも和臣さんを侮辱したいの?」

 彼を淡く想っていた過去は一気に吹っ飛んだ。むしろ彼が和臣の実弟であるのが不思議に感じられる。

「違う!本当に俺は……」

 テーブルに置いた手に手を重ねられかけて、弘夢は慌てて手をひっこめた。

「じゃあ、聞くけど……付き合うって意味わかってる?出かけて食事して終わりじゃないのわかるだろ?」

「当然だろ!」

「ふうん。単刀直入に聞くけどさ、悠貴は男とできるの?女とは経験あるよね?」

「……」

 生々しい問いかけではあるが大事なことだ。同性に疑似的な恋愛感情を持つことがある。また性的な欲望が激しくなる十代に同性愛まがいの行為をする者もいる。これはある意味で本能的なもので、チンパンジーなどにもみられる。

 だが人間の恋愛は他の生物の生殖行為とは異なる。育った環境や周囲の影響などが大きくかかわって来る。少なくとも日向家では同性愛への理解はある。ゆえに和臣との恋愛と婚約は受け入れられ、優しく温かく見守ってもらっている。

「結局はお前も俺と和臣さんの邪魔をしたいだけだろ?最低だな、友だちだと思っていたのに……お前はいつも俺を傷付けることしかできないんだよ。少しは自覚しろ」

 ここを出るなと言われたが、このまま悠貴と一緒にいるのは我慢がならない。もっと惨い言葉を口にしてしまいそうで怖い。彼が同性愛をどう思っていようとも、和臣の弟なのだという事実は変わらない。この先に家族としての付き合いが待っているのに、決定的な決裂から不仲にはできればなりたくはない。だから取り返しがつかないことを口走る前にここを離れたかった。

 弘夢のその願いが通じたのか、ドアがノックされた。

「はい」

 弘夢が返事をすると見たことがない男が入って来た。とっさに身構える。悠貴が立ち上がり弘夢を庇う。

「あ、ご心配なく。私はこういう者です」

 男が差し出したのは警察手帳だった。

「警察の人?」

 これまではずっと御園生の警備会社の警護専任が付いてくれていた。一応は警察に被害届を出してはいたが、動いてくれるほどの被害が出ていないの現状では、マンション周辺への巡回を強化するくらいしか手を打てない様子だった。

「ただいまからこの案件は警察が引き継ぎます。私は渡会 杜夫わたらいもりおと申します。あなたが都築 弘夢さんですね」

「はい」

「で、こちらは?」

「日向 和臣の弟で、悠貴といいます」

 悠貴自身が自己紹介する。

「裏に車を待機させております。この部屋から表を通らずに出られますので一緒に来てください」

「はい」

 弘夢は立ち上がって渡会に歩み寄ってから悠貴を振り返った。

「悠貴、ありがとう。一人だったら不安だったよ、多分。迎えが来てくれたから」

 一緒に来るな、ここから帰れと暗に告げる。

「あ、ああ……また大学で」

 第三者がいる以上、悠貴も話を続けることはできないはずだ。彼が弘夢の拒絶をどう考えるかは彼自身の問題だ。

 案内されたのは昨日とは違うホテル。同じ御園生系列でもここは高級ホテルだ。普段の弘夢と和臣ならいくら金があったとしても、宿泊するのを躊躇するレベルだ。ここは最上階にVIP用の特別室があるそうで、セキュリティが滅茶苦茶に強固らしい。


 部屋に案内されて先ほどのことを思い出して、また心が重くなって悲しかった。あれはかつての自分が望んでいたものじゃない。

 仕事を終えてここに案内されて来た和臣が、暗い顔をしている弘夢を気にする。

「何があった?」

 ベッドに力なく座る弘夢の横に腰を下ろして、そっと肩を抱いて囁くように問いかけてきた。

「うん……」

「言い難いことか?」

「うん。でも、後から誰かから和臣さんが聞いたら……誤解がされそうだから、正直に話すよ」

 自分の和臣への気持ちを欠片でも一俊でも疑われたくはない。

「あのね……今日、ここに来る前にあの人たちを撒く意味でレストランに行ったんだ」

「レストラン?」

「そう、個室のあるレストラン」

「あ~御園生系列のにそういうのいくつかあるな」

「で、そこに悠貴がついて来たんだ」

「悠貴が?」

「うん。昨日のことを聞いて心配してくれたんだけど……それが突然、和臣さんと別れて付き合ってくれって言い出して」

「……」

「誤解しないでね。即座に断ったから。第一、悠貴はこっち側の人じゃないよ」

 黙り込んだ和臣に何と言って良いのだろう?弘夢のあの時の想いをちゃんと伝えられるか、わかって信じてもらえるか不安になる。

「本当に嬉しくなかったんだ。むしろ悲しかった」

 弘夢は言葉を懸命に探しながらも、悠貴に行った言葉を素直に口にした。

「悠貴は和臣さんの弟だから仲違いはしたくないんだけど……本当に腹が立ったし、悲しかった」

 和臣だけにはわかって欲しい。彼を想う心に嘘偽りはないし、一点の曇りも存在していない。

「信じて……俺が好きなのは和臣さんだけだよ」

 ここで信じてもらえなかったら、きっと先の先まで傷が残る。そうなればもう……この恋は続けられなくなる。二人の未来が消えてしまう。

 悲しくて辛くて、弘夢はすがるような眼差しで和臣を見た。すると彼は穏やかな笑みを浮かべて弘夢を抱きしめた。

「正直に話してくれてありがとうな、弘夢」

 優しい声がさらに続く。

「ちゃんと信じるよ。お前は俺には昔から嘘は言わなかった」

 一気にまぶたが熱くなって弘夢は顔を彼の胸に押し付けた。それでなくてもいっぱいいっぱいで、何をしていても周囲が気にかかって集中できない。本当に和臣がいなかったら爆発していた。

「お前の愛情もたっぷり感じているからな、俺は」

 軽くウインクして茶目っ気たっぷりな口調で言うが、その眼差しは真剣そのものだ。

「うん……うん……」

 うれしくて胸がいっぱいで返事しかできない。同時に正直に話せて良かったと思う。

「夕食は食べたか?」

「レストランで軽いものを出してもらったけど……食べられなかった」

 元々食欲があまりない状態であれだ。食べ物も飲み物も口を付ける気にはなれず、悠貴と一緒にそのままにして迎えの車に乗ったのを口にすると今度は、あやすように背中をポンポンと叩かれた。

 ルームサービスに連絡するとどうやらこの部屋は、ディナーの手配までされていたらしく早々に、テーブルに料理が並べられた。

「ここ、高そうだよね?」

「そうだな。普段俺たちが利用しているタイプの倍以上はするんじゃないか?」

「ええ⁉だ、大丈夫なの、お金?」

「ん?昨夜のも払わなかったぞ?」

「え……会社持ち?」

「みたいだな。系列だからっていうのもあるんじゃないか?」

 豪華な食事付きで高級ホテル宿泊。面倒な女たちのお陰で贅沢をさせてもらっているのは、何だか不思議でおかしい。

「でも何で急に警察が入って来たのかな」

「あ~何か、例のカルト宗教団、別の事件関連でちょっと前から疑惑があったらしい。それで今回の件で動ける何かができたらしい」

「動ける何か?」

「そこまでは教えてはもらえなかった」

 これで無事に収まるのであれば願ったり叶ったりだ。

「いつまでここにいるわけ?それとも明日には別の所?」

「明日は二人ともこの部屋から出るなと命令された上に、明日は有休を取らされた」

「え、一日ここ?大学行けないの?」

「……悠貴にも顔を合わせ辛いだろ、ちょうどいいじゃないか」

「う、うん。美加に休むと連絡しておくよ」

 弘夢の言葉を信じたからこそ、今は悠貴に腹を立てているらしい。

「和臣さん、悠貴をぶん殴ったりしないでよ」

「何で止める?」

「あれは一時の気の迷いから出た妄言だって思いたいから」

 できれば聞かなかったこと、なかったことにしてしまいたい。今更の告白は空ろで中身のないものだった。昔ならば純粋に喜べたかもしれない。やっとこっちを見てくれたと。そこに至る経緯も事実も知っていながら、真意などなくても欲しがっていたことだからだ。けれどそこに悠貴の真実の愛はない。愛情が持つ温かさも優しさも感じられなかった。既に和臣を強く深く想っていたせいもあって、偽りの心から出た告白に感じたのは『冷たさ』だった。

 ゾッとした。これがついこの前まで追い続けて来た相手なのかと。ずっと自分を見守ってくれていた和臣の眼差しにも気付かず、こんな相手を想っている勘違いと自己満足に浸っていたのか。自分に猛烈に腹が立った。そしてこんな感情を起こさせた悠貴にもっと怒りを覚えた。だからあんな言葉を吐き出して投げつけた。

「だったらまだ許せるんだがな。それでもお前を泣かせた罪は重いぞ」

 口調は軽いが目は笑ってはいない。

「うん、ありがと。でも喧嘩はしないで欲しい。俺には兄弟はいないからわかんない分あるけど、やっぱり仲良い方が嬉しい。無理には言わないけど喧嘩だけはヤダ」

 和臣の手を握って訴える。

「わかった……喧嘩はしない、俺からは。あっちからかかってきたら知らんぞ?悪いのはあっちだからな」

 自分からは手を出さない。つまりは煽っても先に悠貴に手を出させて、反撃をするつもりなのだ。和臣は決して気性が荒い性格ではない。暴力に至る前に相手としっかり向き合うタイプだ。そこは近所の子供関係でも彼が一番年齢が高く、どこまでも『お兄ちゃん』を求められた結果だとも言えた。むろん元々の穏やかで包容力のある性格があってのことではあるだろう。

 悠貴はというと真逆な部分がある。彼は弘夢や美加よりは一歳上であるが兄のように『お兄ちゃん』的な態度は一切なかった。何故ならば彼は幾分気分屋なところがあって感情の起伏が激しく、目上の人や何某かの影響を彼に与える人間に安易に左右される部分がある。これは麗巳に影響されて弘夢と美加に嫌味を言うなどの言動を繰り返していたのでもわかる。

 そして……悠貴の一番の問題は兄に対するコンプレックスだ。見た目はそれぞれに整っていて個性の違いがあるにしても甲乙は個人の好み次第だろう。ゆえに余計に兄と比べられることが彼は嫌うのだろう。大人たちの兄弟への比較は幼い時から繰り返されている。和臣が褒められた一番の理由は弟よりも五歳年上であったからだ。だが大人の一部は年齢の違いで『できること』『できないこと』が存在しているのを考慮できない。ただ見たままで感じたままを判断して子供を評価する。それが比較された子供たちにどの様な影響を、生涯にわたって及ぼす可能性がある事実を理解できない。

 日向家の場合は親戚に自分の感情や都合のままに言いたい放題する者たちがいる。彼らは何某かの一族の集まりで子供たちだけではなく、そこにいる人間もいない人間も身内も他人も関係なく言い放つ。大人たちは『また始まった』でスルーできるのだが、子供たちは純粋で真っ直ぐなだけに言われたことをそのまま受け取ってしまうのだ。

 自分の性格や欠点について、実は幼少時に大人が言った何気ない言葉が影響していることが多々ある。また嫌いな人間が実はこのような人々と似ていたりする。

 『優秀な兄』と『今一つな弟』という図式が悠貴の心の中にある。弘夢自身の認識から言えば確かに和臣は優秀で性格も好い。しかし決して悠貴に魅力がないわけではない。けれどいろいろな点で今は不利な立場に感じているのかもしれない。

「お前は優しいな」

 和臣は弘夢の手を握り返して言う。

「いやいやいやいや、俺は優しくない!優しかったら悠貴にもう少し違う言い方をしてる」

「そうか?俺はむしろきっぱりハッキリ拒絶するのも、優しさだと思うけれどな。中途半端に思わせぶりな返事をする奴がいるが、相手は妙な希望を持って迷うもんだ。拒絶は確かに言われた側には酷いと感じられるかもしれないが」

「えっと……そういうもん?」

「ま、通用しない相手もいるがな」

「あ~」

 鈴原 メイが彼の言葉に当てはまるが、もしかしたら崎森 かなえに対して和臣も同じことをした覚えがあるのだろう。この前のカフェのことでも彼女が勝手について来たというのが正直なところだろう。

 会話を続けながら食後のお茶を楽しんで、二人でバスルームへと向かう。先ほど興味津々であちこちのぞき回った弘夢が、この部屋のバスタブが大きなジャグジーバスなのを見つけていた。マンションのバスルームも広くて良いがさすがにジャグジーまではついてはいない。

 明日は二人ともここに閉じ込まなければいけない。時間はある。このところ和臣の仕事が忙しかったり、弘夢のストレスも相俟って触れ合う時間が短かったりなかったりだった。

「今夜は寝ず……だぞ?」

 パウダールームで弘夢の衣類をはぎ取りながら、実に楽しそうに言った。言われた弘夢は真っ赤になって潤んだ目で和臣を睨む。

 自分たちの家であるマンションの部屋に帰りたい……と言う弘夢の気持ちを和臣はわかっている。ここに籠ることで解決ができると信じたい。だから今は少しでも愛しい人の気持ちが晴れるようにしたい。一時的なものであっても。

 誰が邪魔をしようとも二人の間の愛情は揺らいではいない。

 長い長い夜の抱擁の始まりのくちづけを交わすのだった。




 

 




 




 


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