一片の恋敵

翡翠

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さらなる女難

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 美加と悠貴が奔走してくれたこともあって、弘夢がキャンパスでほぼ一人になることが少なくなった。

 美加が相談した相手はキャンパス内で顔が広く、しかも高位の貴族の子息とも知り合いだそうで、あっという間にメイのつきまといが知れ渡った。ゆえに彼女を牽制したり、弘夢に近付けないように配慮してくれる学生もいた。

 幼馴染みの二人以外とさほど仲良くすることもなかった弘夢は、こんなにも自分を気にかけてくれる学生がいるのを心底驚いていた。もちろん、そこには美加が相談した嵯峨野 さがのかなめや、彼の兄のパートナーであるれいの力もあるだろう。同じく話を聞いて動いてくれた摂関貴族の子息の尽力もあるとは思う。

 何よりも大学側がこの件を問題視してくれていることだ。

 弘夢たちが通う桜華学園大学は、貴族や良家の子女子息がも数多く所属している。現在所属している中で最も身分が高いのが、弘夢のために動いてくれた一年上の学生であるが、やはりこの様なことは学園の警備上の問題もかかわってくる。

 まずはメイと両親を呼んで厳重注意をしたらしいが、伝えられた内容から察するに彼女の親は逆に大学側に抗議したらしい。父親が子供の恋愛に大学が口を出すな、と。そして娘が運命だと言うならそうであるのだから、引き裂くようなマネはするなと怒鳴ったらしい。

 また母親は何か意味のわからない呪文のようなものを唱え、神罰だの悪魔の所業などと呟いていたらしい。

 これらは学園に通う摂関貴族の子息の父親が理事で、この話し合いに立ち会ってくれた上で知らせてくれたものだ。本来はそこまでは知らされたりはしないのだが、彼らのあまりの異常さに弘夢の身を心配して警告として話してくれたのだ。

「何だそれは?カルトの信者か?」

 聞いた話をそのまま和臣に伝えれば、彼も信じられないらしく驚きの言葉の後に絶句した。

「むしろ危険が増したかもしれないぞ?」

「え~困るよ、それ。俺だけじゃない、みんなに影響出るかもしれないじゃん!」

 弘夢には困惑と恐怖しかない。自分に害があるのはもちろん嫌だし怖いが、協力してくれるみんなに害が及ぶのは本当に怖い。弘夢のために親切で動いてくれているのだ。その彼らに何某かの影響を及ぼされるのは絶対に嫌だ。

「う~ん、上層部の言うようにお前に護衛付けるかな」

「護衛?」

うちの系列に警備会社あるからな」

「いやいやいや、どれだけお金かかるよ、それ」

 警護というのだから普通の警備員よりも一日の費用が高いだろう。如何に和臣の給料が高く、弘夢の時給が高くても、雇えるものではない金額になるはすだ。

「いや、お前は卒業後にうちの社員に内定が確定しているし、社員である俺のパートナーでもある。社員と家族を守るのも企業としての責任だというのが、上層部の方針なんだよ。だから費用は会社持ちだ」

「ええ⁉」

 いくらなんでもそんな企業があるのだろうか。御園生は福利厚生が強い企業で知られているが、これはいくらなんでもその領域を超えてはいないか。

「護院家の子息がこの件を心配してくださっている。当然、護院家の要請もあるだろう」

 弘夢には貴族のことはよくわからない。そもそも大抵はPCに向かっているか、美加と一緒が多かったのでさほど不自由は感じてなかった。悠貴ほどではないにしても、弘夢もまた学生たちの噂などには疎い。こんな事態になるまで取り立てて友だちをつくろうとはして来なかったし、必要だと思ってもいなかった。幼馴染みとは親しくして来たが、半ば身内的な気分でもあった。悠貴に対する想いはありはしたが、今から思えば既に諦めていたように思える。ただ誰かを想い続ける自分でいたかったのかもしれない。美加との取り合いも楽しかったのもある。恋に恋して悠貴を想う自分に酔っていたのだろう。


 だから誰ソレが貴族とかも知らないでキャンパス生活をしていた。一応はバイト先の上司は貴族らしいが、身分で選ばれたのではなく実力だと言う。確かに彼は良い上司だと思う。見るべきところはちゃんと見ていると感じるし、問題が起こった時の対処も的確で速い。何よりもよく動く人なのだ。口癖は「貴族だからといって遠慮も特別もいらない。私は社員として働く一人である」だった。

 護院家の子息も高い身分であるのに、とても優しくて気さくな人物だった。

 優しい人々の優しい気遣いに包まれて、弘夢は自分がとても恵まれているのだと初めて自覚したのだった。だからこそはやく解決して欲しいと願っている。

 弘夢は思う。世界中にたくさんの人がいるじゃないか……と。異性なら人口のおよそ半分もいる。何もわざわざ、異性に恋愛感情を持てない自分を選ばなくてもいいじゃないか。しかも容姿はどこにでもいるような平凡さで、性格はというとPCオタクで引きこもり気味な人間だ。鈴原 メイがどこの学部に所属しているのか知らないが、自分との接点がどうしてもわからなかった。



 週末、明日からの休みをどうするのかと思っていた弘夢の部屋に、渋い顔をした和臣が遣って来た。

「弘夢、俺、明日はちょっと実家に帰って来るわ。お前はどうする?一緒に戻るか?」

「ん~いいよ、俺は。それよりここのところ二人していろいろ忙しかったし、家のことが溜まってんだよね」

「掃除なら頼めばいいだろ?」

「共有部分は頼んでるけど……ここは自分じゃないと」

 ここのコンシェルジュは言えばちゃんと適応するプロを派遣してくれはするだろう。それでも弘夢は自分でやりたかった、

「ならば俺の部屋も頼めるか?」

「わかった、やっておく」

 やっと二人でゆっくり週末を過ごせると思ったのに、肝心の和臣がいないのはちょっと残念ではある。だがわがままは言ってられない。わざわざ帰宅を促すのはよほどの要件があるのだろう。


 広い部屋に一人きりが寂しくて自室に篭ってしまったが、ふと気が付くと夕方になっていた。昼食を忘れていた。

「えっと……夕方には帰るって言ってたよな。夕食の材料あったかな?」

 外に出るなと言われているので、材料がなければデリバリーを頼まなくでならないだろう。

 ノロノロと立ち上がったタイミングでスマホが着信を知らせる。手に取ると和臣からのメールだった。

『今日、帰れなくなった。事情は帰ってから話すから。ごめん』

 これでこの週末は一人が決定した。

『了解』

 単純な返事をしたのは、いらぬ気を使わせないためだ。

『悠貴が美加とそっちへ今から行くと言ってるが、いいか?』

『別に良いけど……』

 彼の両親の用事は和臣にだけということなのだろうか。

『夕食は?と聞いてるが?』

『何かあったかこれから確かめるとこ』

『何かテイクアウトして行くそうだ。お前はおとなしく部屋で待っていてくれ』

『はぁ~い』

 何となく文面からただ事ではない気配がする。だからわざとおどけた返事を返した。

『時間ができたらまた連絡する』

 そう来て彼からのメールは途絶えた。

 しばらくして一階から二人の訪れが知らされた。元からここへの来客の出入りは管理されているが、今の弘夢は鈴原メイのストーカー行為があるため、常よりも厳しく訪問者を誰何すいかする様に指示が出ている。訪問者の顔をモニターで確認して、通してくれるように要請した。

「いらっしゃい」

 笑顔でドアを開けて迎えると二人は顔を見合わせて複雑な顔をした。

「どうかしたの?」

 弘夢の問いかけに二人はまた顔を見合わせて、今度は酷く困った顔をした。それに気付いた美加が口を開いた。

「取り敢えず入れてもらいましょう、悠貴」

 この言葉に買って来た物を抱えた悠貴が頷いた。

「どうぞ」

 不安が胸を過るが、敢えて明るい顔で二人を招き入れた。

「やっぱり広いわね~」

 リビングを見回して美加が言う。

「ここの広さを話したら、うちの母が羨ましがってたわよ。私に御園生に就職して、社宅マンション借りろって言うのよ」

「そりゃ無理だろ、美加」

「何でよ」

「御園生は世界展開してるから、数ヶ国語話せないとダメだぜ?な、弘夢」

「みたいだね。それとも今からSEの勉強する?それだと基本的には英語だけだよ」

「英語?弘夢、できたっけ?」

「酷いな、美加。PC関連は基本的には英語なんだけど」

「え?そうなの?」

 弘夢の言葉に悠貴が噴き出す。

「その様子なら無理だろ、美加」

「むぅ……」

 悠貴のからかいに美加がむくれる。

「そんなことないよ?30代後半や40代になってから資格取って転職する人もいるからさ 」

「そうなの?」

「うん。要はやる気じゃないのかな?」

 他愛ない話でお茶を濁すのは、三人共が和臣が実家に帰った理由についての話題を口にしたくなかったからだ。

 何があったのかを話したがらない二人と、そこに何か恐ろしいことが待っているように感じている弘夢。双方の不安が共鳴している様に見えた。

「……」

「……」

「……」

 不意に会話が途切れた。さすがに肝心の話を避けて続けるのが難しくなって来たのだ。

 互いに視線を合わさない様にして黙り込む。

「えっと……」

 覚悟を決めたのか、悠貴が口を開いた。

「肝心なこととか詳細は明日、兄貴から直接聞くべきだけどさ……」

 彼はそこまで言ってスッと弘夢を見つめた。

「うん」

 悠貴は言い難い話をしようとしてくれている。それは幼馴染みとして、和臣の弟としての自分を考えているのかもしれない。

「うちの親父の取引先のさ、重役の娘ってのがどこかで兄貴を見初めたらしい」

「……」

「それで親父の会社に圧力かけて、見合い話を強制して来たんだ。もちろん、お前とのことがあるから親父は断ったらしい。兄貴には既に婚約者がいて、一緒に住んでいるって」

「それなのに見合いだけでもしろって言われたんですって、おじさまは」

「……うん」

「相手は親父の会社での立場だけじゃなく、会社そのものに影響が出る可能性があるらしい」

「卑怯よね、和臣さんにだって和臣さんの気持ちがあるわけてしょ。第一、そんな無理強いで引っ付いても幸せにはなれないわよ」

 美加の言葉に悠貴が頷いて同意する。

「鈴原メイに続いて今度は和臣さん。あなたたち、厄祓いにでも言って来たら?二人共に女難の相満々じゃないの」

 美加は呆れ半分、怒り半分という顔だった。

「一応、兄貴はお前の件の様に、今回のことについては上司に相談済みらしい」

 鈴原メイの件は完全にストーカーになっていて、弘夢のバイト先でもある会社に迷惑がかかる可能性がある。だが和臣の件はどうなのだろう?社に直接影響があるわけではない。相手が今後、どの様な行動をするかはわからないが、あくまても個人の問題になっしまうのではないか。

「弘夢、誤解するなよ?うちの両親は兄貴とお前のことは了承してるし、それが二人の幸せならば良いと言ってる。うちの両親とお前の両親は以前にも増して仲良しだ」

「うん」

「うちなんかね、仲間外れになりたくないからって、何か焦ってるのよ」

 美加が笑って言った。

「親父はもしも上層部が、今回の縁談の無理強いを続けるようならば、転職することも考慮している」

「そんな……」

「俺も驚いた。でもさ、子供の幸せを一番に考えるのが親の役目、だって親父もお袋も笑うんだよ」

 彼ら兄弟の両親は弘夢にとっても、優しくて厳しい良きおじさんとおばさんだった。

 弘夢の両親は結婚してすぐに今の家をローンで購入、二人の独身時代に貯めた全財産を頭金にして。ゆえに中学を卒業するまで共働きで、小学校に進んでからはお隣にお世話になっていた。

 二人も三人も一緒。そう言って和臣や悠貴に対するのと変わらぬ扱いをしてくれた。だから弘夢にとってはお隣の夫婦は、血の繋がりこそなくても親戚のようなものだった。そして今は和臣との結び付きで、二人は義理の両親になろうとしている。

 本音を言うとお隣の夫婦にも、自分の両親にも申し訳ない気持ちがある。弘夢自身は自分が同性愛者であることを否定したり、嫌ったりはしてはいない。悩んだこともありはしたが、自然界にも存在していると知ってホッとした。自分は異常者ではないのだと。それでも双方の両親に孫の顔を見せられない辛さや悲しさはある。

 米国などではどちらかの精子を使っての代理母で、子供をつくるゲイカップルもいる。養子をもらう方法もあり、施設等からの場合は異性愛カップルよりも審査は厳しいものの認可はおりている。

 だから子供は育てられる。だが……弘夢の両親は仕方がないにしても、お隣夫婦は本当に納得しているのだろうか。確かに悠貴がいて、彼は異性愛者であるから孫は誕生するだろう。それでも和臣が過去に女性との付き合いがあった事実は、二人の気持ちの根本にあるのではないだろうか。

「弘夢、あんた余計なことを心配してるでしょ?」

「余計なこと?そりゃ何だ?」

 美加の指摘に弘夢が狼狽し、悠貴が怪訝な顔をして問い返した。

「この前、玲さんが言ってたんだけどね……」

 美加は弘夢の懸念と寸分違わぬことを、彼も心配して悩んだ話を聞いたと言った。

「あ~なるほどな。散々酷ぇこと言った俺があれだけど、わかんないことはないな」

「何であんたがわかるのよ」

「生物は子孫残すのが役目、みたいな考え方は今でもポピュラーだからさ」

「確かにそうかもそれないけど、誰かと誰かが同性愛者で子供いなくても、世界が滅ぶわけじゃないじゃないの。すべての人間が同性愛者になるわけじゃないでしょ」

 だからこそ少数派マイノリティであるのだが。

「家族の崩壊になるって言う人もいるわね。でも同性愛云々じゃなくても、崩壊している家庭はいくらてもあるわ」

 美加の言葉は確かな説得力がある。彼女のアルバイトの雇い主がゲイ夫婦であるのも関係しているのかもしれない。

「うん……本当に俺は和臣さんと結婚していいのかな……?」

 不安を吐露してみる。

「あのな、弘夢。うちの両親はこれまで兄貴が連れて来た女を気に入らなかったんだ」

「え?」

「何しろ当の兄貴がそこまで乗り気ではなかったみたいだったし」

「は?」

 意味がわからない。

「ま、麗巳のこともうちの親は嫌ってたけど」

「そう……なの?」

「親というのは私たちが見えないものが、見えている部分があるのかもしれないわね」

 美加が初めて聞く日向家の息子たちの恋愛事情に、溜息を吐きながら呟いた。

「かもしれない。兄貴が弘夢のことを言い出した時も、驚きはしたけど嫌がりはしなかったな」

「え?それだけ?」

 弘夢にすればお隣が揉めたりしなかったかが、とても気になっていたのだ。ここへ引っ越してくる時はとてもにこやかに送りだしてはくれた。しかし内心はどうであったのか、ずっと不安だったのだ。

「ああ。お袋なんか弘夢だったら素直で真っ直ぐな子だからいいってさ。兄貴も拍子抜けしてたよ」

「それ、いつ頃?」

「えっと……確か、弘夢をバイトのスカウトしにキャンパスに迎えに来たののちょっとあとくらいだったと思う」

 あの時にバイトの話をしたけれど同時に告白をされて、悠貴への片恋に疲れて嫌気がさしていたのもあって、付き合ってみようと思ったのだ。もちろん承諾した限りはいい加減な気持ではなかった。

「あ~俺もすぐに両親に言ったけな」

 誰も反対しない……自分たちは何と恵まれているのだろうか。今更ながら弘夢は心から感謝した。

「兎に角、兄貴の見合いの件は心配するなって。自分で何とかするって断言してんだ」

「うん」

 自分たちのことを理解してくれる身内や親しい友人がいるのは、本当に本当に心強く有り難いものだ。一人ならきっと不安で仕方なかっただろう。

「悠貴、美加、ありがとう」

「礼なんか言うな」

「ホントよ」

 弘夢の感謝の言葉に悠貴が照れた。それを見た美加は笑って言った。

「ずっとこんなことが続いたりしないから、弘夢はちゃんと気をしっかり持って和臣さんと仲良くね」

「う、うん」

 改めて言われると顔が熱くなる。

「な~に赤くなってんだよ」

 悠貴が笑って言う。

「和臣さんがアンタにデレデレなのわかる気がするわ。ね、悠貴」

「だな」

 二人が笑う。弘夢はさらに赤くなって横を向く。

 とりとめない話題に笑う、拗ねる。また笑う。三人の間で揺蕩う穏やかな時間は、それぞれの心を優しく包んだ。

「さて、そろそろ帰るか」

「そうね」

「弘夢、一晩だけの寂しさだから我慢しろよ」

「悠貴は……またそんなことを言う!」

 あれほど恋い焦がれた相手と交わす冗談。その『想い』は追憶の彼方にある。今は和臣だけを『想う』自分がいる。

「待って。タクシー呼んでもらうから」

「でも……」

「ここ、駅までは少し距離あるし、タクシーで帰った方が俺も和臣さんも安心する。代金は俺が出すから」

「いいの?」

 美加が少し首を傾げて問い返す。

「うん。ここに移ってからはあんまりお金使わないんだよ」

 キャンパスには歩いて駅に出て後は電車で通学しているが、バイト先は歩いて行ける距離だ。しかも面倒な時は三食社食で摂れる。近くのスーパーも系列店なので、社員割引がある。

 弘夢は一階のコンシェルジュにタクシーの手配を依頼してから、そういったここのいろいろな便利さを口にした。

「ふぇ~やっぱ凄いな」

「いいなぁ。やっぱり私も就職したいよぉ」

 手配を依頼したタクシーが到着した連絡を受けて、三人でエレベーターに乗り込む。すぐに一階に降りてエントランスを出入り口に向かって歩いた。

「都築さま」

 背後からコンシェルジュが声をかけて来た。

「あ、はい、何でしょう?」

「お二方は大丈夫とは思いますが、あなたはお出になられませんように」

「え?」

 見送ろうと思っていたのに彼の言葉に驚いた。

「あの女がいるのね?」

 すぐさま美加が意味を理解する。

「はい。周囲に配置してございます監視カメラに、かの女性の姿がございます」

「またか……」

 彼女はほぼ毎日のようにこの周辺を徘徊していたり、出入り口付近で待ち伏せしている。今の所は弘夢に護衛ボディガードが付いているため、近付いて来ることはない。

「ありがとう、出ないことにするよ。

 悠貴、美加、ここで俺は……やめとくよ」

「ああ、その方がいいな」

「ホントに厄介な女ね」

 二人が深々と溜息吐いた。

「あ、これ」

 財布から現金を出して手渡す。本来はタクシーの運転手に手渡すつもりだった。

「こんなにいらないわよ?」

「デリバリー代金込で」

「そっちは兄貴にもらってる。ま、釣りは月曜日にでも返すわ」

「ん。じゃ、二人とも気を付けて帰って。今日はありがとう」

「うん、またね、弘夢」

「月曜日にな」

 二人は笑顔で帰って行った。その間もコンシェルジュは弘夢の背後に控えていた。もしもメイが押し入って来たならば、彼が取り押さえる。ここのコンシェルジュは武術の心得もあるらしい。

「ありがとう」

 彼にも礼を言って弘夢は部屋に戻った。

 するとスマホが着信を告げている。メイからのメールだった。

『どうすればあなたを悪魔の牢獄から救い出せるのでしょう。悪魔たちがあなたを監視して、呪縛をさらに強めています。

 ても心配しないで。私が必ず助けるから、待っていて』

 また妄想の中にいる。

「俺は囚われのお姫様か何かか?」

 メールを読んだ途端に全身を駆け抜けた悪寒を振り払うように、つまらない戯言を呟いてみても恐怖は消えない。

「ここは大丈夫……ここは安全……」

 一階はエントランスとコンシェルジュたちが詰める部屋、そして裏と地下の駐車場への出入り口しかない。

 二階から上が住居になっているが、低層階はすべて窓には防犯の鉄柵が設置され、バルコニーやルーフテラスに出る掃出し窓は合金製の格子シャッターが閉められる。通常のシャッターではないのは、格子であると窓を開け放ってもシャッターさえ閉めていれば、内部への侵入が安易ではない。

 金属入りの窓ガラス、外壁や屋上のセンサーと監視カメラ、警備員とコンシェルジュの常駐など、ここマンションの防犯は徹底している。

 もちろん一般的なマンション社宅もあるらしいが、ここよりも厳重な場所もあるらしい。

 比較的に治安の良い国の最も治安が良い地域に住んでいるが、それでもすべての犯罪から逃れることは不可能だ。

 わかってはいる。わかってはいるが、『怖い』という気持ちは消えてはくれない。

 いつもは和臣がいるから怖さも解消されている。だが今夜は一人ならだ。誰も弘夢の恐怖をわかってくれる人はいない。

 メールは見なくても良いとは言われてはいるが、来ればつい見てしまう。彼女の妄想以外に何か悪いこと……身近な誰かに害が及ぶような内容がないか、心配と不安から見てしまう。見れば意味のわからない言葉の羅列に、恐怖感が湧き上がって来る。

 こんなのは『好き』とは違う。自分ならば相手が怖がることはしない。

 その反面で悠貴に付きまとっていた自分を振り返る。

 彼に迷惑はかけていた……あの様な辛辣な言葉を投げかけられる理由についてはあったと言える。申し訳なかった。謝罪もできていないのに、今日のように心配して来てくれる。ストーカー被害にあっているのを気にしてくれた上に、和臣とのことも普通に受け入れてくれている。

 もし彼に何か困ったことが起こった時は全力でできることをしよう。

 

 眠ることもできないまま、様々なことが頭の中を通り過ぎて行く。ゴロゴロしているうちに窓の外が白み始めたのまでは記憶しているが、バッテリーが切れた機械のようにぷっつりと暗転した。

 気が付くと昼近くだった。ノロノロとパジャマのままリビングに行く。当然ながらそこには誰もいない。深々と溜息を吐いて、朝食と昼食の合わさったものでも摂ろうとキッチンへ行って冷蔵庫を開ける。

「あ……空っぽだっけ」

 昨夜の夕食は悠貴と美加が持って来たデリバリーだった。本来は夕方に和臣と共に近くのスーパーに行くはずだった。平日は二人とも多忙なため、いつも土・日に一週間分を購入してある程度の下ごしらえや作り置きをしておく。もちろんそれだけでは足らないこともあるので、大学からの帰宅途中に買い足すこともある。だから日曜日の今日は冷蔵庫の中はほぼ空なのだ。

「面倒だからランチでも行くかな」

 もちろん弘夢一人で外出は止められている。壁に掛けられている固定電話の受話器を取り、マンションの内線番号をプッシュした。

『はい、どうなさいましたか?』

「えっとランチに出たいのですが」

『デリバリーもできますが』

「あの……何かありましたか?」

『実は彼女が門前にいます』

「え……ずっとですか?」

『私は九時に交代したのですが、その時にはいました。交代した者の話によると昨夜、お客さまが帰られた後に一度いなくなり、八時頃に再び姿を見せた様子です』

 マンションの周囲を取り囲む監視カメラには死角はない。配置した人間がかなり優秀なのだろう。同時に通常の倍のカズガ設置されているのも普通はありえない。

「わかりました。デリバリーにします」

 デリバリーはすべてネットで注文できる。届いた商品は一階で受け取られ、連絡をもらって自分で取りに行くか、部屋に運んてもらう。

 弘夢は運んでもらう方を選択した。一階に降りて外からは見えない仕組みになっているものの、特殊複合ガラス越しに彼女を目撃したくなかった。

 特殊複合ガラスは光の反射を利用して、内部が覗きにくくなるものである。省エネなどの効果もあるが、太陽光を反射するために多用はできない。周囲の建物に反射した光が行ってしまうからだ。

 それでも内側から外はクリアに見える。場所によっては植え込みなどがあるが、いつもメイがいるのは出入口の近くで、エントランスからは丸見えになる場所だ。

 外に出て食事と買い物をに行きたかったが、彼女は側に誰かがいても突撃して来る場合がある。依頼すれば社が付けてくれた警護の人が来てはくれる。ただ、申し訳ない気持ちと煩わしさを同時に感じてしまうのだ。

 社の勧めによってストーカー被害の届も出している。彼女は何度か連行されて厳重注意も受けている。しかし実質的な被害が出ているとは言えないために、未だに厳重注意にとどまっているのが現状だった。

「はあ……」

 和臣との間は幸福そのもので何の不満もない。むしろ恵まれ過ぎだと思うほどだ。

 ふと思う。小中学生の頃はたとえ振り向いてはくれなくても、悠貴を想うことが楽しかったし、幸せだと思っていた。ずっとそのままの状態で、まるでスニーカーを履いた少年の心のままで、未来も歩いて行けると信じていた気がする。何も変わらずにいられると思っていた。

 現実は……もっと複雑で重かった。ただ『好き』だけでは前に進めないのかもしれない。自分はまだ恵まれている。少なくとも双方の家族の賛成を得られている。

 それでも和臣は俗にいうイケメンで、大企業勤めのエリートだ。これからも今回の様な話は来るだろう。

 もちろん和臣を信じてはいる。ただそれだけでは済まされない『何か』が絶対に起こらないとは言い切れない。その時に自分は何ができるのだろうか。

 答えも出口も見えない想いだけが、頭の中をグルグルする。考えていても仕方がないのはわかっている。けれど一人でいるとどうしても考えてしまう。

「あ~もう!ほんっとに俺は馬鹿だよな」

 声に出して自分を戒めてみても、やはり沈んだ心は浮かび上がらなかった。



 

 


 



 
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