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つきまとい
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鈴原 メイの異様さに薄ら寒さを感じながら、三人は逃げるようにキャンパスを後にした。このまま弘夢と和臣が住むマンションに向かうつもりだったが、何だかとてもイヤな予感がした。
「ねぇ、このまま公共交通機関で動くのまずくない?」
美加が周囲に視線をやりながら言った。
「俺もそう思うぞ」
悠貴も同意の声をあげる。
「わかった。タクシーで行こう」
二駅ほどの距離だ。さほど料金はかからない。まだ渋滞の時間でもないから、スムーズに帰宅できるだろう。
途中、スイーツの店に立ち寄りそのままマンションへ帰った。
「うひょ~ホントに広いな!」
リビングに入っただけで悠貴が驚きの声をあげた。
「もしかしてここ、家具家電付き?」
「うん。そうじゃない部屋もあるけど俺たちはそれこそPC機器以外は持ってなかったから」
「イイな~私も御園生に就職して、こんな社宅マンションに住みたい!」
瞳をランランと輝かせて美加が言う。弘夢は悠貴と顔を見合わせて苦笑した。
「あのね、美加。社員の一般公募は少数なんだ。俺の場合は技術系だからいいんだけど、他部署は数ヶ国語話せないとダメだそうだよ?」
「え、何それ!?」
多国籍に展開する企業は国内でも数多存在する。しかし御園生のこの条件は確かに厳しすぎる。
「兄貴の話だとさ、優秀な人材を確実に得られる手があるんだそうだ。しかもほとんどが貴族らしいから」
「そっか~じゃあ無理だね」
美加の気持ちもわかる。御園生は基本的に男女で給金のさは付けない。部署や役職、勤続年数などで変化はするが。
「俺や和臣さんは技術職だから言語はそこまでは求められないけど、それでも最低、英語くらいは日常会話程度には話せた方がいいらしい」
スイーツを食べながら将来の話をする。こうして三人で久しぶりに会話すると本当に、何もかもが昔と変わらないように感じられた。
そうこうしている内に和臣から連絡が来た。仕事が終わって帰宅すると言う。弘夢たちは食器を食洗機に入れて、すぐに移動する準備をして、マンションのエントランスへと出た。
ほどなく和臣が帰って来た。弘夢たちはエントランスを出て合流する。
「おかえりなさい、和臣さん」
「ただいま」
笑顔で『おかえり』を言う弘夢を、軽く抱き寄せて『ただいま』を言う。いつもならばこれにKissが付くのだが、流石に玄関前でしかも美加と悠貴がいるので控えた様子だ。
「お~熱い熱い」
「ホント。何だか急に夏が来たわ」
あてられた二人が笑いながら言う。
「どうだ、羨ましいだろう」
和臣は余裕だ。逆に弘夢は真っ赤になって和臣の背中を叩いた。その様子を美加と悠貴がニヤニヤして眺めている。
少し前には考えられなかった光景だった。
「じゃあ行こう。二人とも何が食べたい?」
「美味しいもの!」
と美加が言う。
「服装こんなだしな。堅いところは無理だろ?」
「ドレスコードのないそれなりのレストランもあるぞ?」
ドレスコードのある高級店は弘夢の方がごめんだ。肩が凝る。
結局、近くにあるレストランへ向かうことになり、和臣がこれから大丈夫か連絡を入れた。
三人揃ってエントランスからすっかり夜の帳がおりた外へ。
「う~、外は寒いわね。ダウンジャケットでも結構冷えるわ」
淡い藤色の首元を押さえて美加が言った。
明るいうちはそれなりに穏やかな気温だったのが、日が落ちて気温が下がり始めた様子だった。マンションの部屋は空調が一定に整えられているため、この気温差が三人にはわからなかったのだ。
「うわ」
悠貴が小さく叫んで弘夢を振り返った。
「ん?......あ、ウソ」
悠貴が見ていた方向を見た弘夢は言葉を失った。鈴原 メイが向かい側の路地の入口に立って、こちらをジッと見つめていたからだ。
「どうした?」
弟と恋人が固まったようになり、美加までもそちらを見て小さく悲鳴をあげたので、和臣が驚いて弘夢を守るようにしながら問いかけた。
「タクシーで来たからつけられてないと思ったのに......なんて人!」
美加が恐怖半分、怒り半分で言い、弘夢が彼女のことを和臣に話した。
「どうやらストーカータイプらしいな、弘夢、これは社の保安部に相談するぞ?」
「うん。ここまで突き止められちゃったら皆にどんな迷惑がかかるかわかんないし」
心底、怖いと感じていた。
「とりあえず食事に行くぞ」
弘夢が怯えているのを感じて、和臣は抱き寄せるようにして歩き出した。二人も彼女を気にしながら後に続く。すると彼女は一定の距離を保ちながら、確かに三人の後を追って来る。
「これ、ヤバくないか?」
煌々と照らされた街灯の光の下でもわかるくらい、そう言った悠貴の顔は蒼醒めている。
「学食で私たちのテーブルに割り込んで来た時から、ちょっとアブナイ人なのかもと警戒してたけど......」
美加も怖がっているのがわかる。
「あ~でも、弘夢の婚約者が兄貴だってバレたな、こりゃ」
幾度か和臣は弘夢をキャンパスに迎えに来て、悠貴とも顔をあわせている。その頃にはまだ彼女を知らないから、二人が兄弟であるのは知っていると考えた方が良さそうだ。
で、和臣が紅一点の美加ではなく弘夢を庇い、兄として弟を庇う訳でもなく弘夢だけを庇い守っている姿は、二人の関係を安易に想像できるのではないだろうか。
「双方の親族も了承している関係だから、俺たちにやましいところはないが?それでも弘夢が大学の友人関係で困るならば、確かに気にはなるな」
全身を震わせている弘夢に優しい視線を向けながら、和臣は弟と美加を振り返りながら答えた。
「えっと大学での対処の方法がないか、聞いてみようかしら?」
「誰にだ?」
「え?知らない、悠貴?間もなく卒業だからあまり登校してないけど、四年生に弘夢と同じような立場の人いるの」
「はあ?」
「あんた、ホントにいろんなこと知らないわね」
恐怖に震えながらも、頭の片隅でお花畑の人は何も見ないのだと弘夢は呆れる。同時に自分がそうならないようにとも思う。
「その人ってかなりの美形か?」
和臣がまた振り返って言った。
「そうそう。あ、そっか、御園生の傘下だっけ」
「詳しいな?」
悠貴が言う。
「うん。秋ぐらいからスカウトされてそこの会社のバイトしてるの。
社長のパートナーがく在学してるし、社長の弟さんも......この人にスカウトされたんだけど、大学の学生なのよ」
「あ~その人たちなら面識がある」
『あ~』というのが和臣と悠貴、まるで同じで美加と視線をあわせて苦笑する。
「ひょっとして前に出向した所?凄く綺麗な人がいたって言ってたの」
弘夢が和臣に問いかけた。
「そうだ。
美加、嵯峨野さんのところでバイトしてたのか?」
「そうよ。要さんにスカウトされたの」
和臣と美加だけがわかっている事情らしい。
「ああ、そうか。要さんと玲さんは桜華の学生か」
やはり和臣は面識があるらしい。
「えっとね、要さんは私たちのリーダーだから、相談があったらメールでも何でもして欲しいって。だから明日にでもしてみるわ。弘夢がキャンパスでイジメられるのはいやだもの」
美加はいつも弘夢の味方だった。もちろん、彼女が困ったらいつでも手を貸す準備は弘夢にもある。
「では大学の方での弘夢は頼めるか?」
和臣が美加と悠貴に言った。
「当然よ!でも学部が違うからそこをカバーできるようにしないと」
美加はキッパリと了承を口にする。対して悠貴は困り顔で頷くだけだ。
「悠貴は無理しなくていい。そうだな、彼女が何かしてるのを見たり聞いたら、俺と弘夢に知らせてくれ」
「悠貴、青城さんにはこのことは話さないでね」
和臣の言葉に重ねるように美加が言った。
「わかってる」
暗い顔で答えた様子を見て、弘夢と和臣が顔を見合わせた。美加も頷いた。
「とりあえず消化に悪い話はこの辺にして、レストランに急ぎましょ。私、お腹空いた!」
美加の元気な言葉にに全員が笑う。
「そこまで堅苦しい店じゃないが、個室を予約した。話はゆっくりしよう」
「個室ってそんなに長く借りれるの?」
少しホッとした顔で弘夢が言った。
「昼間は商談に使われたりする。幾つかあるのの一つだし、一番小さいのだから大丈夫さ」
弘夢が落ち着いたのがわかったのか、和臣は今度は手を繋いで歩く。やはり照れくさい弘夢はチラリと美加に視線をやると、彼女は笑いながら手で顔を扇いでみせた。
ほどなくレストランに到着し、個室に案内された。
テーブルが一つ、椅子が六脚用意されている。角の観葉植物以外は飾りもない部屋だ。
着席すると四人は渡されたメニューを開く。和臣のメニューにはそれぞれの対価が記入されているが、他の三人のメニューには記載されていない。あくまでも和臣が全額支払うことになっている。
「どうする?コース頼んで単品を追加するか?」
彼のメニューにはどれくらいの金額が記載されているのだろう?気になって仕方がない弘夢は横合いから覗き込んだ。
すかさずヒョイとばかりに和臣が避けて閉じ、弘夢に向かって苦笑する。
「遠慮しなくていいぞ?」
和臣が言う。
「元よりする気ない」
と悠貴が涼しい顔で答えた。
「いつぞやは弘夢だけ焼肉に誘ってたからな。その分、今日は食べる」
アルバイトの紹介と告白されたあの日、二人で焼肉を食べに行ったことをまだ根に持ってるらしい。
「ふん。お前一人なら連れて行ったさ。俺はお前の彼女は嫌いだと言ってるだろ」
「......」
和臣の辛辣な言葉に悠貴は黙ってしまう。さすがに和臣も弟の様子がおかしいと感じたようだった。
「何かあったのか?」
こう問いかけると悠貴は溜息混じりに頷いた。
「俺さ......兄貴たちに触発されて麗巳に卒業したら結婚しようって言ったんだ」
「プロポーズしたのか」
「まだそこまで重いものじゃなかった。OKもらったら指輪買いに行って、正式にしようとは考えてたけど」
常日頃の悠貴らしくなく、ボソボソとした話し方だった。
「NOだったの?」
美加が心配顔で問いかけ、悠貴は頷いた。
「付き合うのと結婚は別だと言われた」
「え?『恋愛』じゃなくて『付き合う』?」
では麗巳にとっては悠貴は『恋人』ではなかったのか?
日向兄弟は揃って容姿がいい。和臣は今はインドアだが文武両道だ。悠貴は兄に成績では幾分劣るが、高校時代はテニスで全国ベスト5に常に名を連ねていたし、今も大学のテニスサークルに所属している。
「なるほどねぇ。彼女にとってあんたは周囲に自慢できるアクセサリーだった訳ね」
美加は得心がいったとばかりに言う。
「和臣さんに言い寄ったのもそれプラス経済力かしら。ブランド好きな女らしいわね」
「ついでにめんどくさい奴が寄って来るのを防げる」
「要するに防虫剤?」
美加と和臣は辛辣な言葉を交わす。聞いた悠貴はさらに落ち込んだ。
「俺には凄く仲良く見えてたんだけど?」
「実際、仲は良いと思ってた」
彼は本当にショックを受けている様だ。
「お花畑が実は幻想だって気付いたってことね。まったく、何年かかってんのよ」
美加にしてみれば恨み辛みは山ほどあっても、彼女を庇う余地も悠貴を労る気にもなれない。彼女自身の行動も彼女に操られるままの悠貴の言動も、美加も弘夢も充分過ぎるほど傷付けられ不快な思いを味あわされた。
弘夢の傷は和臣によって癒されたが、美加の傷は誰も癒せてはいない。だからここで悠貴に対して毒を吐いたとしても、止めることはできないし、したくはない想いがあった。
「言いたいこと言うな......」
「当たり前でしょ。あんたはこれまで弘夢や私に何をして来たのか、ちゃんと記憶してるわよね?そのほとんどが彼女の言いなりでってのもわかってるの。
で?あんたは自分だけが責められるって言うわけ?」
「......」
美加のストレートな言葉に悠貴は二の句が告げない。やっと自分が何をして来たのか理解したらしい。
「......ごめん」
悠貴はずっと兄の和臣と比べられて来た。和臣はなんでもソツなくこなす。学校の成績も優秀で就職は国内トップクラスの大企業だ。しかも小学校の頃からめちゃくちゃにモテた。麗巳に出会う前には悠貴の好きな子が、和臣を想っているということも多々あったらしい。彼にとって兄はコンプレックスの原因だった。どうしても乗り越えられない山の様な存在だったのだ。
その兄が選んだのが弘夢だったのには驚いた。弘夢は悠貴からすると美加と共に自分の周囲にいつもいる幼馴染み。麗巳が間に入ってからは確かに距離ができてはいた。それでもいつも自分の近くにいるという感覚だった。弘夢が和臣と恋人同士になり、気が付けば美加も遠くなっていた。
二人が同棲を始め、双方の身内で正式に婚約が決まった。弘夢をみつめる和臣の眼差しは優しく、見つめられる側の弘夢は頬を染めてはにかむ。双方の両親が温かに微笑んで見守る。その光景が悠貴には羨ましかったのだと言う。
だから......悠貴は将来を考えた。麗巳とならば兄たちに負けない、幸せな未来があると。
「えっと、彼女は悠貴に何て言ったわけ?」
さすがに弘夢も気になる。
「俺との結婚は考えてない、とだけ」
力なく答えた。
青城 麗巳。彼女は何を考えて高校時代から悠貴の傍にいたのだろう?そこまでの思い入れがなかったのであれば、何ゆえに弘夢と美加を遠ざけようとしていたのだろうか。
断っても執拗に付きまとってくるメイのことも相まって、弘夢は『女』がわからなくなってきた。幼馴染みの美加は曲がったことが嫌いな真っ直ぐな女性で、弘夢には正に『唯一無二の親友』であるのに。
「だから彼女はやめておけと言ったんだがな......」
和臣が呟いた。彼に誘いをかけた事実だけではなく、和臣は和臣なりに麗巳に対して何かを感じていた様子なのだ。
「何がどうであるかは小さなことだ。だがより集まれば無視はできない。だがそれよりも残念なことに人間には、周囲を巻き込んで振り回して不幸にするのがいる。本人は自分の好きなことだけを選んでるだけなのだろうが。そして、時として犯罪に繋がることもある」
何かそのような経験でもあるのだろうか。淡々と語る和臣の言葉にはリアルさがあった。
「経験でもあるのかよ」
弘夢の感じたことを悠貴も感じておる。
「俺じゃないけどな。高校の時の先輩がストーカー被害に遭って、精神を病んで今も入院している。優しくて細やかな気遣いをする人だった。恋人もいて同じ大学に進んで......卒業したら結婚すると言っていた。だが恋人の親友がストーカーの協力者になって、二人の関係の崩壊が始まった」
「壊れちゃったの?」
美加が悲しげに問いかけ、和臣は頷いて答えた。
「彼女は追い詰められて生命を断った。先輩はそのショックで精神を崩壊させてしまったんだ」
「ストーカー女はどうなった?」
悠貴も初耳らしい。青褪めた顔で聞いた。
「別の相手を見付けてどこかへ姿を消した」
「酷い……」
「殺傷沙汰にならなかっただけマシなのかもしれんが……誰も救われない」
和臣が言うことは確かだ。どこで誰にどんな相手がストーカーになるかわからない。顔見知りの場合も、親しい友人の場合も、見ず知らずの相手の場合もある。稀にストーキングされる人間にも原因があると言う者がいるが、本人が相手を認識していない状態でのケースも存在しているのだ。
「ストーカー被害の一番恐ろしいのは風評被害だ。被害者のあらゆることが噂として広がる。それをストーカー側の人間が悪意で流すものもある。先輩の彼女はそれで追い詰められた」
実際にストーカーに殺害された女性の家が、長きにわたり風評被害や自宅への嫌がらせにあった実例がある。塀等に猥雑な落書き、根も葉もない誹謗中傷の張り紙を一面に貼られる。罵詈雑言の電話が一日中かかってくる……等々、被害女性がどこにでもいる普通の人であってもだ。
世間は時が過ぎれば忘れる。だが嫌がらせを好んで行う人間や近隣住民は忘れない。罪なき被害者への冒涜は終わらない。
ただ駅ですれ違っただけ。毎日乗る電車の車両が同じだった。同じ駅で降りる……相手はこちらを知っていても、こちらは相手を認識していない場合もある。
もちろん、被害者は老若男女を問わないし、逆も然りである。
付き合った相手がストーカーになった例もある。警察が不介入だった時代、民事として取り合わなかった結果、被害者とその家族まで殺害した事例もある。
こういった事実を知らなくても、実際に付きまとわれるのは恐怖しかない。どこへ行ってもストーカーがそこにいるのだから。
現在でもただ付きまとわれるだけでは、相談はできるが捜査対象にはなり難く、まだまだ問題点は多数ある。
学食で三人のテーブルに割り込んで来られた時は、ただ鬱陶しく執拗な相手だという嫌悪感だった。しかし和臣と住むマンションを突き止めて来たのを見て、もう恐怖しか心には湧いてこなかった。
何に対する恐怖なのか。弘夢には自分自身に向けられるものよりも、恋人であり婚約者でもある和臣に、彼女がどの様な感情を向けて何をするかわからないことが怖い。
彼女の背景がどの様なものであるのかもここにいる誰も知らない。知っているのは鈴原 メイという名前、桜華学園大学の学生であるというのだけ。所属学部すらわからない。
そもそもどこで弘夢を知ったのだろうか?彼はサークルには所属せず、和臣の紹介があるまでアルバイトの経験はない。桜華には高校もあるが、弘夢たちはそこの卒業生でもない。家からさほど遠くない公立高校の卒業生で、そこにはメイはいなかった。弘夢にとっては先日、校門前のロータリーで声をかけられるまで、どこかですれ違っていても認識しないほどの他人だった。
「兎も角、弘夢を守らなきゃ」
美加の言葉に和臣と悠貴が頷いた。
「私は要さんに相談、和臣さんは会社に相談。悠貴は学年上だから予定を後で見せてよね」
「わかったが……美加、何でお前が仕切る?」
了承をしながらも不満を言う悠貴に、和臣と弘夢が苦笑する。
「だってあんたは自分から何もしないじゃない。だから何をするかを決めてあげてるの」
容赦がない返事に悠貴が言葉に詰まる。
「キャンパスの中はできるだけ弘夢を一人にしたくないけど……そもそもあの子、学部どこなのかしら?同じ学年?」
「多分、学年は同じだとは思うんだけど」
弘夢も首を傾げる。突然現れたという印象しかない。
「あとは友だち動員して、学食の席をうめることだな」
空いている席が一つでもあれば、今日のように無理やり割り込んで来るだろう。
「悠貴にそれ、できるの?」
「あのな……それくらいは可能だ」
「じゃ、期待してるわ」
美加の言葉はどこまでも辛辣である。悠貴は溜息で応えるしかなかった。
食事後、美加と悠貴は和臣がタクシーを呼んで代金を渡し、一緒に帰宅させた。
弘夢と和臣は肩を並べて二人の部屋へと歩き出した。人々が行き交う通りを抜け、マンションの前に出る通りへ移った瞬間、和臣が足を止めた。
何だろう、と弘夢がマンションの方へ視線を向けてすぐに理由がわかった。煌々と灯った明かりに照らされたマンション前の路上に、ポツリと人影があるのが見えたからだ。かなり離れているのとこちらがやや暗いため、おそらくはまだ気付かれてはいないだろう。
「和臣さん……どうしよう」
弘夢は震える手で和臣の腕にすがり付いた。
「裏から入ろう」
そう言って弘夢を促して踵を返した。足早に数ブロック先の道を左折する。この間に和臣はマンションのコンシェルジュと者の保安部に連絡を入れていた。
弘夢の心には恐怖しかない。彼女と自分にどのような接点があったのかすらわからないのだ。少なくとも同じ学部の学生ではない。一年生は確かに一般教養が中心で、学部に関係なく講義を受けはする。そのどこかで接点があるのかもしれない。
まだまだキャンパスでの友人は多くない。美加といることが多いためか、決して多いとは言えない状態だ。だから友人絡みでメイが周囲にいた記憶もない。ひたすらにつきまとわれる『恐怖』しか感じない。
和臣と悠貴の兄弟のような美形ではない。
悠貴みたいにスポーツで注目を浴びたこともない。
平凡な性格で……PCのオタクに過ぎない。
そもそも異性に恋愛感情を持ったこともない。
部屋に入ってホッと息を吐いた瞬間、ポケットの中のスマホの着信音が鳴った。
「え?誰?」
弘夢は親しい人の着信音はそれぞれ分けている。音だけで誰から来たのかわかるように。
しかし、今なっているのは見知らぬ番号からだ。キャンパスの友人からならば着信音まで設定していなくても、番号の交換をしているから、相手の名前が液晶画面に表示される。
嫌な予感に出るのをためらっていると和臣に取り上げられた。
「はい……どなたかな?」
スピーカーにして和臣が出る。相手は何も言わない。
「もしもし?」
もう一度呼びかけてみるが返事はない。
弘夢は片手で口を押さえて液晶画面を見つめている。
しばらく無言でいると相手が切った。
すぐに和臣が着信拒否をする。
「彼女……かな?」
「多分」
「俺、彼女に教えてない」
「周囲にいる誰かに聞いたのだろう」
あの迫力で来られたら怖くて教えてしまう者がいても責められはしない。
「困ったな、この調子でかけて来られたら」
泣きたい気分の弘夢に更に追い打ちがかかる。メールの通知音が鳴り響いた。ギョッとした弘夢が和臣を見上げた
。 届いたメールの送信者のアドレスは『watasihaunmeinoaite』だった。
「開くぞ?」
自分で開く勇気はなかった。ただ和臣の言葉にすがるように頷いた。
『どうして私を避けるの?あなたは私の運命の相手なのだから、ちゃんと迷わないで私のところに来てほしい。ああ、周囲が私たちの運命に導かれた結びつきを阻もうとしているのね。
私とあなたの運命は神様が決められたこと。きっと私たちが結ばれることで世界の何かが変化するのだわ。だからそれを望まない悪魔たちが彼らを使って邪魔をするのね。
あなたの側にいた男。彼は魔王の側近に違いないわ。あなたに魅了の魔法をかけて心を縛り付けている。だからあなたは運命の相手の私へ向けないのでしょう?
大丈夫。きっと真実の愛は悪魔の魔法くらい打ち破れるわ。だから私を信じて。あなたの側にいるわ。阻むものがいくら姿を現そうとも、神様の加護があるから打ち砕ける。私は必ずあなたを救い出して運命を取りもどうすから、待ってて。
わかってるわ。あなたがちゃんと私を想ってくれてるのは。だってさっきも私をジッと見つめていたでしょう、熱いまなざしで。恥ずかしがりね。でもあの男の後ろに隠れてはダメよ。その男はあなたを誘惑して私たちの運命の絆を破壊しようとする、恐ろしい悪魔なのだという真実を忘れないで。
あなたの味方はは私だけなのよ。ほかの誰も信じてはダメ。
私を信じて。私だけを見て。あなたの愛するメイはいつもあなたの近くであなたを見ているわ。私があなたの愛を感じているように、私の愛も感じてちょうだい』
この内容に二人とも絶句した。正常な精神状態の人間が書いたとは到底思えない。
「これはやばいな……」
和臣はそう呟くとまたどこかに電話をかけた。次いで今のメールを自分のスマホに転送するとそれを誰か、複数の相手に転送した。すぐに電話がかかって来て和臣が出て、弘夢を抱き寄せたまま話し込む。
耳に飛び込んで来る言葉を聞いていると相手は社の保安部の人間ではない気がする。だとしたら警察関係者か?
どんどん大事になっていく事態に弘夢は不安で胸が満たされしまう。
ずっと悠貴だけを見つめて来た。でも彼は異性愛者だ。諦めが胸を満たした時、和臣からの告白は嬉しかった。歓喜という言葉がピッタリするくらいに。
今は和臣しか見えないし、見たくはない。
自分の悠貴に対する行動も彼女とおなじであったのだろうか。彼も今の自分のように感じていたのだろうか。だからあんな辛辣な言葉を投げてきたのだろうか。
自分はけして魅力的な人間ではない。美加がいなかったら人付き合いも苦手になっていたかもしれない。
本当にどうすればよいのだろう……?
弘夢には答えが見えなかった。
「ねぇ、このまま公共交通機関で動くのまずくない?」
美加が周囲に視線をやりながら言った。
「俺もそう思うぞ」
悠貴も同意の声をあげる。
「わかった。タクシーで行こう」
二駅ほどの距離だ。さほど料金はかからない。まだ渋滞の時間でもないから、スムーズに帰宅できるだろう。
途中、スイーツの店に立ち寄りそのままマンションへ帰った。
「うひょ~ホントに広いな!」
リビングに入っただけで悠貴が驚きの声をあげた。
「もしかしてここ、家具家電付き?」
「うん。そうじゃない部屋もあるけど俺たちはそれこそPC機器以外は持ってなかったから」
「イイな~私も御園生に就職して、こんな社宅マンションに住みたい!」
瞳をランランと輝かせて美加が言う。弘夢は悠貴と顔を見合わせて苦笑した。
「あのね、美加。社員の一般公募は少数なんだ。俺の場合は技術系だからいいんだけど、他部署は数ヶ国語話せないとダメだそうだよ?」
「え、何それ!?」
多国籍に展開する企業は国内でも数多存在する。しかし御園生のこの条件は確かに厳しすぎる。
「兄貴の話だとさ、優秀な人材を確実に得られる手があるんだそうだ。しかもほとんどが貴族らしいから」
「そっか~じゃあ無理だね」
美加の気持ちもわかる。御園生は基本的に男女で給金のさは付けない。部署や役職、勤続年数などで変化はするが。
「俺や和臣さんは技術職だから言語はそこまでは求められないけど、それでも最低、英語くらいは日常会話程度には話せた方がいいらしい」
スイーツを食べながら将来の話をする。こうして三人で久しぶりに会話すると本当に、何もかもが昔と変わらないように感じられた。
そうこうしている内に和臣から連絡が来た。仕事が終わって帰宅すると言う。弘夢たちは食器を食洗機に入れて、すぐに移動する準備をして、マンションのエントランスへと出た。
ほどなく和臣が帰って来た。弘夢たちはエントランスを出て合流する。
「おかえりなさい、和臣さん」
「ただいま」
笑顔で『おかえり』を言う弘夢を、軽く抱き寄せて『ただいま』を言う。いつもならばこれにKissが付くのだが、流石に玄関前でしかも美加と悠貴がいるので控えた様子だ。
「お~熱い熱い」
「ホント。何だか急に夏が来たわ」
あてられた二人が笑いながら言う。
「どうだ、羨ましいだろう」
和臣は余裕だ。逆に弘夢は真っ赤になって和臣の背中を叩いた。その様子を美加と悠貴がニヤニヤして眺めている。
少し前には考えられなかった光景だった。
「じゃあ行こう。二人とも何が食べたい?」
「美味しいもの!」
と美加が言う。
「服装こんなだしな。堅いところは無理だろ?」
「ドレスコードのないそれなりのレストランもあるぞ?」
ドレスコードのある高級店は弘夢の方がごめんだ。肩が凝る。
結局、近くにあるレストランへ向かうことになり、和臣がこれから大丈夫か連絡を入れた。
三人揃ってエントランスからすっかり夜の帳がおりた外へ。
「う~、外は寒いわね。ダウンジャケットでも結構冷えるわ」
淡い藤色の首元を押さえて美加が言った。
明るいうちはそれなりに穏やかな気温だったのが、日が落ちて気温が下がり始めた様子だった。マンションの部屋は空調が一定に整えられているため、この気温差が三人にはわからなかったのだ。
「うわ」
悠貴が小さく叫んで弘夢を振り返った。
「ん?......あ、ウソ」
悠貴が見ていた方向を見た弘夢は言葉を失った。鈴原 メイが向かい側の路地の入口に立って、こちらをジッと見つめていたからだ。
「どうした?」
弟と恋人が固まったようになり、美加までもそちらを見て小さく悲鳴をあげたので、和臣が驚いて弘夢を守るようにしながら問いかけた。
「タクシーで来たからつけられてないと思ったのに......なんて人!」
美加が恐怖半分、怒り半分で言い、弘夢が彼女のことを和臣に話した。
「どうやらストーカータイプらしいな、弘夢、これは社の保安部に相談するぞ?」
「うん。ここまで突き止められちゃったら皆にどんな迷惑がかかるかわかんないし」
心底、怖いと感じていた。
「とりあえず食事に行くぞ」
弘夢が怯えているのを感じて、和臣は抱き寄せるようにして歩き出した。二人も彼女を気にしながら後に続く。すると彼女は一定の距離を保ちながら、確かに三人の後を追って来る。
「これ、ヤバくないか?」
煌々と照らされた街灯の光の下でもわかるくらい、そう言った悠貴の顔は蒼醒めている。
「学食で私たちのテーブルに割り込んで来た時から、ちょっとアブナイ人なのかもと警戒してたけど......」
美加も怖がっているのがわかる。
「あ~でも、弘夢の婚約者が兄貴だってバレたな、こりゃ」
幾度か和臣は弘夢をキャンパスに迎えに来て、悠貴とも顔をあわせている。その頃にはまだ彼女を知らないから、二人が兄弟であるのは知っていると考えた方が良さそうだ。
で、和臣が紅一点の美加ではなく弘夢を庇い、兄として弟を庇う訳でもなく弘夢だけを庇い守っている姿は、二人の関係を安易に想像できるのではないだろうか。
「双方の親族も了承している関係だから、俺たちにやましいところはないが?それでも弘夢が大学の友人関係で困るならば、確かに気にはなるな」
全身を震わせている弘夢に優しい視線を向けながら、和臣は弟と美加を振り返りながら答えた。
「えっと大学での対処の方法がないか、聞いてみようかしら?」
「誰にだ?」
「え?知らない、悠貴?間もなく卒業だからあまり登校してないけど、四年生に弘夢と同じような立場の人いるの」
「はあ?」
「あんた、ホントにいろんなこと知らないわね」
恐怖に震えながらも、頭の片隅でお花畑の人は何も見ないのだと弘夢は呆れる。同時に自分がそうならないようにとも思う。
「その人ってかなりの美形か?」
和臣がまた振り返って言った。
「そうそう。あ、そっか、御園生の傘下だっけ」
「詳しいな?」
悠貴が言う。
「うん。秋ぐらいからスカウトされてそこの会社のバイトしてるの。
社長のパートナーがく在学してるし、社長の弟さんも......この人にスカウトされたんだけど、大学の学生なのよ」
「あ~その人たちなら面識がある」
『あ~』というのが和臣と悠貴、まるで同じで美加と視線をあわせて苦笑する。
「ひょっとして前に出向した所?凄く綺麗な人がいたって言ってたの」
弘夢が和臣に問いかけた。
「そうだ。
美加、嵯峨野さんのところでバイトしてたのか?」
「そうよ。要さんにスカウトされたの」
和臣と美加だけがわかっている事情らしい。
「ああ、そうか。要さんと玲さんは桜華の学生か」
やはり和臣は面識があるらしい。
「えっとね、要さんは私たちのリーダーだから、相談があったらメールでも何でもして欲しいって。だから明日にでもしてみるわ。弘夢がキャンパスでイジメられるのはいやだもの」
美加はいつも弘夢の味方だった。もちろん、彼女が困ったらいつでも手を貸す準備は弘夢にもある。
「では大学の方での弘夢は頼めるか?」
和臣が美加と悠貴に言った。
「当然よ!でも学部が違うからそこをカバーできるようにしないと」
美加はキッパリと了承を口にする。対して悠貴は困り顔で頷くだけだ。
「悠貴は無理しなくていい。そうだな、彼女が何かしてるのを見たり聞いたら、俺と弘夢に知らせてくれ」
「悠貴、青城さんにはこのことは話さないでね」
和臣の言葉に重ねるように美加が言った。
「わかってる」
暗い顔で答えた様子を見て、弘夢と和臣が顔を見合わせた。美加も頷いた。
「とりあえず消化に悪い話はこの辺にして、レストランに急ぎましょ。私、お腹空いた!」
美加の元気な言葉にに全員が笑う。
「そこまで堅苦しい店じゃないが、個室を予約した。話はゆっくりしよう」
「個室ってそんなに長く借りれるの?」
少しホッとした顔で弘夢が言った。
「昼間は商談に使われたりする。幾つかあるのの一つだし、一番小さいのだから大丈夫さ」
弘夢が落ち着いたのがわかったのか、和臣は今度は手を繋いで歩く。やはり照れくさい弘夢はチラリと美加に視線をやると、彼女は笑いながら手で顔を扇いでみせた。
ほどなくレストランに到着し、個室に案内された。
テーブルが一つ、椅子が六脚用意されている。角の観葉植物以外は飾りもない部屋だ。
着席すると四人は渡されたメニューを開く。和臣のメニューにはそれぞれの対価が記入されているが、他の三人のメニューには記載されていない。あくまでも和臣が全額支払うことになっている。
「どうする?コース頼んで単品を追加するか?」
彼のメニューにはどれくらいの金額が記載されているのだろう?気になって仕方がない弘夢は横合いから覗き込んだ。
すかさずヒョイとばかりに和臣が避けて閉じ、弘夢に向かって苦笑する。
「遠慮しなくていいぞ?」
和臣が言う。
「元よりする気ない」
と悠貴が涼しい顔で答えた。
「いつぞやは弘夢だけ焼肉に誘ってたからな。その分、今日は食べる」
アルバイトの紹介と告白されたあの日、二人で焼肉を食べに行ったことをまだ根に持ってるらしい。
「ふん。お前一人なら連れて行ったさ。俺はお前の彼女は嫌いだと言ってるだろ」
「......」
和臣の辛辣な言葉に悠貴は黙ってしまう。さすがに和臣も弟の様子がおかしいと感じたようだった。
「何かあったのか?」
こう問いかけると悠貴は溜息混じりに頷いた。
「俺さ......兄貴たちに触発されて麗巳に卒業したら結婚しようって言ったんだ」
「プロポーズしたのか」
「まだそこまで重いものじゃなかった。OKもらったら指輪買いに行って、正式にしようとは考えてたけど」
常日頃の悠貴らしくなく、ボソボソとした話し方だった。
「NOだったの?」
美加が心配顔で問いかけ、悠貴は頷いた。
「付き合うのと結婚は別だと言われた」
「え?『恋愛』じゃなくて『付き合う』?」
では麗巳にとっては悠貴は『恋人』ではなかったのか?
日向兄弟は揃って容姿がいい。和臣は今はインドアだが文武両道だ。悠貴は兄に成績では幾分劣るが、高校時代はテニスで全国ベスト5に常に名を連ねていたし、今も大学のテニスサークルに所属している。
「なるほどねぇ。彼女にとってあんたは周囲に自慢できるアクセサリーだった訳ね」
美加は得心がいったとばかりに言う。
「和臣さんに言い寄ったのもそれプラス経済力かしら。ブランド好きな女らしいわね」
「ついでにめんどくさい奴が寄って来るのを防げる」
「要するに防虫剤?」
美加と和臣は辛辣な言葉を交わす。聞いた悠貴はさらに落ち込んだ。
「俺には凄く仲良く見えてたんだけど?」
「実際、仲は良いと思ってた」
彼は本当にショックを受けている様だ。
「お花畑が実は幻想だって気付いたってことね。まったく、何年かかってんのよ」
美加にしてみれば恨み辛みは山ほどあっても、彼女を庇う余地も悠貴を労る気にもなれない。彼女自身の行動も彼女に操られるままの悠貴の言動も、美加も弘夢も充分過ぎるほど傷付けられ不快な思いを味あわされた。
弘夢の傷は和臣によって癒されたが、美加の傷は誰も癒せてはいない。だからここで悠貴に対して毒を吐いたとしても、止めることはできないし、したくはない想いがあった。
「言いたいこと言うな......」
「当たり前でしょ。あんたはこれまで弘夢や私に何をして来たのか、ちゃんと記憶してるわよね?そのほとんどが彼女の言いなりでってのもわかってるの。
で?あんたは自分だけが責められるって言うわけ?」
「......」
美加のストレートな言葉に悠貴は二の句が告げない。やっと自分が何をして来たのか理解したらしい。
「......ごめん」
悠貴はずっと兄の和臣と比べられて来た。和臣はなんでもソツなくこなす。学校の成績も優秀で就職は国内トップクラスの大企業だ。しかも小学校の頃からめちゃくちゃにモテた。麗巳に出会う前には悠貴の好きな子が、和臣を想っているということも多々あったらしい。彼にとって兄はコンプレックスの原因だった。どうしても乗り越えられない山の様な存在だったのだ。
その兄が選んだのが弘夢だったのには驚いた。弘夢は悠貴からすると美加と共に自分の周囲にいつもいる幼馴染み。麗巳が間に入ってからは確かに距離ができてはいた。それでもいつも自分の近くにいるという感覚だった。弘夢が和臣と恋人同士になり、気が付けば美加も遠くなっていた。
二人が同棲を始め、双方の身内で正式に婚約が決まった。弘夢をみつめる和臣の眼差しは優しく、見つめられる側の弘夢は頬を染めてはにかむ。双方の両親が温かに微笑んで見守る。その光景が悠貴には羨ましかったのだと言う。
だから......悠貴は将来を考えた。麗巳とならば兄たちに負けない、幸せな未来があると。
「えっと、彼女は悠貴に何て言ったわけ?」
さすがに弘夢も気になる。
「俺との結婚は考えてない、とだけ」
力なく答えた。
青城 麗巳。彼女は何を考えて高校時代から悠貴の傍にいたのだろう?そこまでの思い入れがなかったのであれば、何ゆえに弘夢と美加を遠ざけようとしていたのだろうか。
断っても執拗に付きまとってくるメイのことも相まって、弘夢は『女』がわからなくなってきた。幼馴染みの美加は曲がったことが嫌いな真っ直ぐな女性で、弘夢には正に『唯一無二の親友』であるのに。
「だから彼女はやめておけと言ったんだがな......」
和臣が呟いた。彼に誘いをかけた事実だけではなく、和臣は和臣なりに麗巳に対して何かを感じていた様子なのだ。
「何がどうであるかは小さなことだ。だがより集まれば無視はできない。だがそれよりも残念なことに人間には、周囲を巻き込んで振り回して不幸にするのがいる。本人は自分の好きなことだけを選んでるだけなのだろうが。そして、時として犯罪に繋がることもある」
何かそのような経験でもあるのだろうか。淡々と語る和臣の言葉にはリアルさがあった。
「経験でもあるのかよ」
弘夢の感じたことを悠貴も感じておる。
「俺じゃないけどな。高校の時の先輩がストーカー被害に遭って、精神を病んで今も入院している。優しくて細やかな気遣いをする人だった。恋人もいて同じ大学に進んで......卒業したら結婚すると言っていた。だが恋人の親友がストーカーの協力者になって、二人の関係の崩壊が始まった」
「壊れちゃったの?」
美加が悲しげに問いかけ、和臣は頷いて答えた。
「彼女は追い詰められて生命を断った。先輩はそのショックで精神を崩壊させてしまったんだ」
「ストーカー女はどうなった?」
悠貴も初耳らしい。青褪めた顔で聞いた。
「別の相手を見付けてどこかへ姿を消した」
「酷い……」
「殺傷沙汰にならなかっただけマシなのかもしれんが……誰も救われない」
和臣が言うことは確かだ。どこで誰にどんな相手がストーカーになるかわからない。顔見知りの場合も、親しい友人の場合も、見ず知らずの相手の場合もある。稀にストーキングされる人間にも原因があると言う者がいるが、本人が相手を認識していない状態でのケースも存在しているのだ。
「ストーカー被害の一番恐ろしいのは風評被害だ。被害者のあらゆることが噂として広がる。それをストーカー側の人間が悪意で流すものもある。先輩の彼女はそれで追い詰められた」
実際にストーカーに殺害された女性の家が、長きにわたり風評被害や自宅への嫌がらせにあった実例がある。塀等に猥雑な落書き、根も葉もない誹謗中傷の張り紙を一面に貼られる。罵詈雑言の電話が一日中かかってくる……等々、被害女性がどこにでもいる普通の人であってもだ。
世間は時が過ぎれば忘れる。だが嫌がらせを好んで行う人間や近隣住民は忘れない。罪なき被害者への冒涜は終わらない。
ただ駅ですれ違っただけ。毎日乗る電車の車両が同じだった。同じ駅で降りる……相手はこちらを知っていても、こちらは相手を認識していない場合もある。
もちろん、被害者は老若男女を問わないし、逆も然りである。
付き合った相手がストーカーになった例もある。警察が不介入だった時代、民事として取り合わなかった結果、被害者とその家族まで殺害した事例もある。
こういった事実を知らなくても、実際に付きまとわれるのは恐怖しかない。どこへ行ってもストーカーがそこにいるのだから。
現在でもただ付きまとわれるだけでは、相談はできるが捜査対象にはなり難く、まだまだ問題点は多数ある。
学食で三人のテーブルに割り込んで来られた時は、ただ鬱陶しく執拗な相手だという嫌悪感だった。しかし和臣と住むマンションを突き止めて来たのを見て、もう恐怖しか心には湧いてこなかった。
何に対する恐怖なのか。弘夢には自分自身に向けられるものよりも、恋人であり婚約者でもある和臣に、彼女がどの様な感情を向けて何をするかわからないことが怖い。
彼女の背景がどの様なものであるのかもここにいる誰も知らない。知っているのは鈴原 メイという名前、桜華学園大学の学生であるというのだけ。所属学部すらわからない。
そもそもどこで弘夢を知ったのだろうか?彼はサークルには所属せず、和臣の紹介があるまでアルバイトの経験はない。桜華には高校もあるが、弘夢たちはそこの卒業生でもない。家からさほど遠くない公立高校の卒業生で、そこにはメイはいなかった。弘夢にとっては先日、校門前のロータリーで声をかけられるまで、どこかですれ違っていても認識しないほどの他人だった。
「兎も角、弘夢を守らなきゃ」
美加の言葉に和臣と悠貴が頷いた。
「私は要さんに相談、和臣さんは会社に相談。悠貴は学年上だから予定を後で見せてよね」
「わかったが……美加、何でお前が仕切る?」
了承をしながらも不満を言う悠貴に、和臣と弘夢が苦笑する。
「だってあんたは自分から何もしないじゃない。だから何をするかを決めてあげてるの」
容赦がない返事に悠貴が言葉に詰まる。
「キャンパスの中はできるだけ弘夢を一人にしたくないけど……そもそもあの子、学部どこなのかしら?同じ学年?」
「多分、学年は同じだとは思うんだけど」
弘夢も首を傾げる。突然現れたという印象しかない。
「あとは友だち動員して、学食の席をうめることだな」
空いている席が一つでもあれば、今日のように無理やり割り込んで来るだろう。
「悠貴にそれ、できるの?」
「あのな……それくらいは可能だ」
「じゃ、期待してるわ」
美加の言葉はどこまでも辛辣である。悠貴は溜息で応えるしかなかった。
食事後、美加と悠貴は和臣がタクシーを呼んで代金を渡し、一緒に帰宅させた。
弘夢と和臣は肩を並べて二人の部屋へと歩き出した。人々が行き交う通りを抜け、マンションの前に出る通りへ移った瞬間、和臣が足を止めた。
何だろう、と弘夢がマンションの方へ視線を向けてすぐに理由がわかった。煌々と灯った明かりに照らされたマンション前の路上に、ポツリと人影があるのが見えたからだ。かなり離れているのとこちらがやや暗いため、おそらくはまだ気付かれてはいないだろう。
「和臣さん……どうしよう」
弘夢は震える手で和臣の腕にすがり付いた。
「裏から入ろう」
そう言って弘夢を促して踵を返した。足早に数ブロック先の道を左折する。この間に和臣はマンションのコンシェルジュと者の保安部に連絡を入れていた。
弘夢の心には恐怖しかない。彼女と自分にどのような接点があったのかすらわからないのだ。少なくとも同じ学部の学生ではない。一年生は確かに一般教養が中心で、学部に関係なく講義を受けはする。そのどこかで接点があるのかもしれない。
まだまだキャンパスでの友人は多くない。美加といることが多いためか、決して多いとは言えない状態だ。だから友人絡みでメイが周囲にいた記憶もない。ひたすらにつきまとわれる『恐怖』しか感じない。
和臣と悠貴の兄弟のような美形ではない。
悠貴みたいにスポーツで注目を浴びたこともない。
平凡な性格で……PCのオタクに過ぎない。
そもそも異性に恋愛感情を持ったこともない。
部屋に入ってホッと息を吐いた瞬間、ポケットの中のスマホの着信音が鳴った。
「え?誰?」
弘夢は親しい人の着信音はそれぞれ分けている。音だけで誰から来たのかわかるように。
しかし、今なっているのは見知らぬ番号からだ。キャンパスの友人からならば着信音まで設定していなくても、番号の交換をしているから、相手の名前が液晶画面に表示される。
嫌な予感に出るのをためらっていると和臣に取り上げられた。
「はい……どなたかな?」
スピーカーにして和臣が出る。相手は何も言わない。
「もしもし?」
もう一度呼びかけてみるが返事はない。
弘夢は片手で口を押さえて液晶画面を見つめている。
しばらく無言でいると相手が切った。
すぐに和臣が着信拒否をする。
「彼女……かな?」
「多分」
「俺、彼女に教えてない」
「周囲にいる誰かに聞いたのだろう」
あの迫力で来られたら怖くて教えてしまう者がいても責められはしない。
「困ったな、この調子でかけて来られたら」
泣きたい気分の弘夢に更に追い打ちがかかる。メールの通知音が鳴り響いた。ギョッとした弘夢が和臣を見上げた
。 届いたメールの送信者のアドレスは『watasihaunmeinoaite』だった。
「開くぞ?」
自分で開く勇気はなかった。ただ和臣の言葉にすがるように頷いた。
『どうして私を避けるの?あなたは私の運命の相手なのだから、ちゃんと迷わないで私のところに来てほしい。ああ、周囲が私たちの運命に導かれた結びつきを阻もうとしているのね。
私とあなたの運命は神様が決められたこと。きっと私たちが結ばれることで世界の何かが変化するのだわ。だからそれを望まない悪魔たちが彼らを使って邪魔をするのね。
あなたの側にいた男。彼は魔王の側近に違いないわ。あなたに魅了の魔法をかけて心を縛り付けている。だからあなたは運命の相手の私へ向けないのでしょう?
大丈夫。きっと真実の愛は悪魔の魔法くらい打ち破れるわ。だから私を信じて。あなたの側にいるわ。阻むものがいくら姿を現そうとも、神様の加護があるから打ち砕ける。私は必ずあなたを救い出して運命を取りもどうすから、待ってて。
わかってるわ。あなたがちゃんと私を想ってくれてるのは。だってさっきも私をジッと見つめていたでしょう、熱いまなざしで。恥ずかしがりね。でもあの男の後ろに隠れてはダメよ。その男はあなたを誘惑して私たちの運命の絆を破壊しようとする、恐ろしい悪魔なのだという真実を忘れないで。
あなたの味方はは私だけなのよ。ほかの誰も信じてはダメ。
私を信じて。私だけを見て。あなたの愛するメイはいつもあなたの近くであなたを見ているわ。私があなたの愛を感じているように、私の愛も感じてちょうだい』
この内容に二人とも絶句した。正常な精神状態の人間が書いたとは到底思えない。
「これはやばいな……」
和臣はそう呟くとまたどこかに電話をかけた。次いで今のメールを自分のスマホに転送するとそれを誰か、複数の相手に転送した。すぐに電話がかかって来て和臣が出て、弘夢を抱き寄せたまま話し込む。
耳に飛び込んで来る言葉を聞いていると相手は社の保安部の人間ではない気がする。だとしたら警察関係者か?
どんどん大事になっていく事態に弘夢は不安で胸が満たされしまう。
ずっと悠貴だけを見つめて来た。でも彼は異性愛者だ。諦めが胸を満たした時、和臣からの告白は嬉しかった。歓喜という言葉がピッタリするくらいに。
今は和臣しか見えないし、見たくはない。
自分の悠貴に対する行動も彼女とおなじであったのだろうか。彼も今の自分のように感じていたのだろうか。だからあんな辛辣な言葉を投げてきたのだろうか。
自分はけして魅力的な人間ではない。美加がいなかったら人付き合いも苦手になっていたかもしれない。
本当にどうすればよいのだろう……?
弘夢には答えが見えなかった。
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