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家族愛
しおりを挟む数日後、清方先生が来てくれた。疲れているのか、少し顔色が悪い。それなのに来てくれたのが申し訳なくて嬉しい。
「義勝君に聞いたのですが、朔耶と随分、仲良しになったそうですね」
「うん。お兄さまって呼ぶ約束した」
「叔父なのに?」
「3歳しか違わないよ?僕だったら…嫌だ」
「彼をそう呼んで苦しくなったりしませんか?」
僕は首を振った。あんな事になる前に『兄』と呼ぶなと言われた話をしてみた。
「そうでしたか。葉月、少しだけ…これだけは聞いてください。幸彦君と那津彦君も苦しんでいたのです。ご両親の事、君との事、学校や将来の事。あの部屋で微睡んでいる時間は、過ぎ去ってしまったのでしょう」
「うん…」
先生の言う事は何となくわかる。でも女の子と付き合う事は違う気がする。
那津彦兄さんのシャツに着いた口紅の色を思い出した途端、一気に吐き気がこみ上げて来た。ベッドの横にある入れ物を掴んで吐いた。
気持ち悪い……気持ち悪い……気持ち悪い……頭の中がグルグルする。
先生はナースコールを押すと何か難しい言葉を言った。すぐに義勝先生がやって来た。注射器を持ってる。清方先生が顔を背けて離れた。ああ、そうだ。何かに苦しんでいるのは僕だけじゃないんだ。
吐くだけ吐いて横になると義勝先生が手にした注射を打った。眠くはならないけど…ちょっと頭がボウっとする。
「申し訳ありません、義勝君」
「いえ」
義勝先生は頷いてから部屋を出て行った。
「少しぼんやりしますが、気持ち悪いのは治まったでしょう?」
僕は頷くと右手を差し出した。先生はそれを握ってくれた。
「あのね…」
ボウっとした頭では考え事は難しい。
「何ですか」
「先生の事…お父さんって…呼びたい…」
それを聞いた先生の顔が笑顔になった。
「呼んでくれるのですか?私をあなたの父親にしてくれるのですか、葉月」
そっか…先生は待ってくれてたんだ。僕が本当の家族になりたいと思う時を。
「ありがとう…お父さん…」
嬉しかった。僕を家族にしたいともう誰も思わないんじゃないか。そう思ってたから。清方先生が……お父さんが僕を養子にしたのは、誰かが引き受けなければいけなかったからだ。だからずっとお父さんって呼んじゃいけないって思ってた。
何だか安心したら眠くなった。
「お父さん…」
そう呼んで続いて何かを口にしたけど…僕の記憶には残らなかった。
僕の家族は忙しい。合間の時間を僕の為に費やしてくれる。僕は独りきりになる時間がある。読書も携帯もPCもない。今の僕には良くないからって言われた。
部屋の中なら起きて動いて良い許可が出たから、する事はないけど病室内をウロウロする。
食欲はまだ余りない。雫さんが買って来てくれたプリンを冷蔵庫の中から出した。
これ美味しいんだ。一度に全部食べられなくて、特別に蓋が閉められる容器に入ってる。独りきりだと…つい考え事をしちゃうんだよな。
その日、何故そんな事をしてしまったのか。後々になってもわからない。
僕は言い付けを破って廊下に出た。ここはエレベーターホールや待合室と、合成樹脂でコーティングされたドアで隔てられてる。当然、ドアは透明で向こう側が見える。僕はそこへ引き寄せられるように歩いて行ったんだ。
すると兄さんたちが待合室から飛び出して来た。来るなって言ったのに……ドアの向こうで二人とも叫んでる。声は聞こえない。
ダメだ……気持ち悪い。気持ち悪い……嫌だ……嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ……!!
「うわああああああ!!」
自分が叫んでいるのはわかった。
「葉月さま!」
「誰か、義勝先生か周先生を!」
看護師さんたちの叫び声が遠い。
その後の記憶が……ない。気が付いたらベッドに縛り付けられていた。頭が痛い。
「気が付いたか?気分は?それを今、外すのは出来ないから我慢しような」
「僕…どうしたの?」
義勝先生を見上げて言った。
「セキュリティードアの前で錯乱状態になったんだよ。君は頭を壁に何度も打ち付けた。一応、検査では異常が発見されてはいないが、何かあったらすぐに言うように」
錯乱して頭を壁に打ち付けた……兄さんたちはそれを見た訳だ。
「気になってるだろうから、話しておこう。君の兄さんたちは君の状態を目撃した訳だ。大変ショックを受けて今、清方先生のカウンセリング中だ。君と会わせられない理由をやっと納得したようだ」
ああ、朔耶お兄さまが怒ってたのはそういう事だったんだ。僕の状態を兄さんたちは多分、ちゃんと説明を受けていたんだ。なのに毎日ここへ来て僕に会わせろって言ってたんだ。兄さんたちはちゃんと礼儀をわきまえた人間だった筈。
どうして?
わからない。
そこへお父さんが戻って来た。
「意識、回復しました」
義勝先生が報告すると真っ直ぐに僕の側へ来た。
「ごめんなさい…」
「謝らなくて良いのですよ」
そう言って僕の手を握り締めてくれた。
「どこも痛くありませんか?」
「うん」
「あとで雫がケーキを持って来てくれるそうです」
「うん」
答える度に胸が熱くなる。僕はお父さんの手をギュッと握り締めた。
「葉月が悪いのではありませんからね。自分を責めてはいけませんよ?」
「はい」
でもきっと兄さんたちを変えてしまったのは僕だ。だからこの手を離さなければ。
「お父さん、兄さんたちに手紙書いちゃダメ?僕、ちゃんとお別れを言いたい」
「しばらく様子を見てからにしましょう」
「うん。あのね…僕、気持ち悪いって思った。兄さんたちが女の子に触れた手で僕に触れた事が。女の子を抱いて…それでも僕を抱いた事が。
僕はあんな事があったから、本当はこんな事を言ってはいけないのかもしれない。僕は汚いんだって…わかってる。それでも嫌だったんだ!女の子を見た目で僕を見て、女の子に話し掛けた声で僕き話すが!
嫌だ…嫌だ…嫌だ…」
嫌悪感が僕にパニックを起こす。拘束された状態で僕はもがいた。僕は僕の中にいて僕が叫んでいる声を聞いていた。
ああ……誰か助けて……誰か止めて……僕が壊れてしまう。助けるのも止めるのも無理なら、どうか……僕を殺して。
壊れるのは嫌だ。だから殺して………
結局、手紙を書く事が出来たのは、11月末に退院してからだった。僕はお父さんに見守られるようにして、兄さんたちにお別れの手紙を書いた。
そして……返事は来なかった。
12月に入って雫さんは一気に忙しくなった。だから僕はお父さんと一緒に過ごす事が増えた。朔耶お兄さまと三日月さんは、代わる代わる来て勉強を教えてくれていた。春からは通信制の高校で勉強する事にした。
アルバイトは当分、お休みをいただいた。本当は辞めようと思ったんだけど、来年の春から社員になるように言われた。無理をしないで良いからって、夕麿さまが仰ったんだ。でも御園生ホールディングスって、傘下の企業に就職するのも難しいって聞いてる。僕はまだちゃんと英語すら話せない。左手がちゃんと動かないから、入院中に障害者認定が出た事もあるらしい。雑用って仕事で僕は経営スタッフルーム選任になる。所属は一応、秘書課なんだって。凄く特別にしてもらってる。僕は皆さんの行為に甘える事にしたんだ。
春までに病気の治療を進めるように。
これが条件。薬を山のように飲んで勉強は短時間。あとは音楽を聴いたり、楽器の演奏を習ったりして過ごす。最上階のお父さんと雫さんの部屋と下の階のお祖母さまとお祖父さまの部屋。2つだけを行き来してる。
誰も兄さんたちの事を口にしない。僕も訊かない。みんなの優しさに包まれて、今は吐き気もパニックも錯乱も起きない。この頃みんなして訊いて来るのはたった一つの事。
「クリスマス・プレゼントは何が欲しい?」
幾つかあげてみたけど…全部もらえそうでちょっと戸惑っている最中だ。だって会社の皆さんからも、訊かれたんだもの。
ただお父さんにはちょっと違うお願いをした。僕がもっと元気になったら、家族みんなで旅行に行きたいって。子供の時からの憧れなんだ。神林の両親は、忙しい人たちだった。お父さんと雫さんも忙しいけど、お願いしてみた。僕が落ち着いたら行きましょうって、約束してくれたんだ。
僕もみんなにプレゼントをしたくて、ネットでいろいろ探してる。外に買い物には行けないので。アルバイトでもらったお金は少しだけど僕は懸命に考えたんだ。安物ばっかりだけどもらってもらえるかな。
クリスマスは御園生家のパーティーがあるそうだ。会社の方のパーティーは無理だけど、そっちには出てみようと思う。
そんなある日、前日からお祖父さまとお祖母さまの部屋にいた僕を雫さんが迎えに来た。兄さんたちと神林の両親との最後の話し合いに僕も立ち合う事になったんだ。場所は僕の為にお父さんたちの部屋。
僕はまえもって奥で薬をたくさん飲んでから、周先生とリビングへ行った。
僕は下を向いて出来るだけ兄さんたちを見ないようにした。みんなから少し離れた場所に僕は座った。すぐに周先生が僕の脈を調べてお父さんに頷いた。
弁護士さんを交えて難しい話し合いが進む。
「お前たちは結局、どうする事にしたんだね?」
神林のお父さんが言った。
「俺は…UCLAに留学する事にした」
「幸彦、あなた正気で言ってるの?幾らかかると思ってるの?」
少しヒステリックに神林のお母さんが言う。
「その事ですが、御園生家が所有するビバリーヒルズの屋敷が、蓬莱皇国からの留学生の為の寮になっています。私たちもかつてそこで過ごしたので住み心地は保証します。
来年の春以降、幸彦君が滞在出来るように手配もしました。また学費も御園生の奨学金があります。こちらも申請してあります」
僕が知らない間に、そういう話が進んでいたんだと知る。
「話が上手すぎでしょう。何が交換条件なんです?」
お母さんは何がしたいんだろう?
「条件は御園生家への貢献。私と周は系列の病院に席を置いています。雫はキャリア警察官ですが、所属部署は御園生所有のビルにあります。多くの者が御園生系列の企業に就職しています。決して悪い条件ではない筈です」
御園生ホールディングスって、良い企業だと思うけどな。
「お前はそれで良いんだな、幸彦?」
「はい」
「ならば好きにしなさい」
「ありがとう」
これで幸彦兄さんのアメリカ留学が決まった。
「俺は国内で進学する。希望校も決めてある」
「将来はどうするんだ?」
「出来れば国家公務員Ⅰ種試験を受けて、官僚になりたい」
僕は凄く驚いた。これまで那津彦兄さんからそんな話を聞いた事がない。
「わかった。それで住居はどうするんだ?」
神林のお父さんの言葉に、那津彦兄さんが僕をチラリと見た。
「兄さんの渡米までは今の部屋に住まわせてもらう。その後はどこかに部屋を借りたい。うちのマンションに戻っても今の学校は遠いから」
ああ…これで本当にお別れなんだ。僕はお父さんを見た。あるものをお父さんに預けてある。僕に頷いて、お父さんは兄さんたちの前に、それぞれある物をそっと置いた。
「貯金通帳?」
兄さんたち名義の通帳には僕が本当の両親から、もらったお金が半分ずつ入っている。
「葉月から君たちへの贈り物です」
「え?」
「葉月にはもうこれは必要ありません。私はそれなりに個人財産を持っていますから。これは君たちにこそ必要でしょう」
僕は兄さんたちと会話は多分まだ無理だ。ここに座っていられるだけでも、少しは良くなったと思う。
「その…葉月、君はこれから…」
神林のお父さんが言い淀む。
「葉月は既に就職先が決まっています。学校へ通うのはまだ問題がありますので、同時に通信制高校で勉強をさせます」
「就職?」
「ずっとアルバイトをしていた会社が、葉月を望んでくれましたので」
お父さんは神林の両親に誇らしげに微笑んでそう答えた。兄さんたちの視線が僕に向けられる。
「葉月…ありがとう」
「大事に使わせてもらう」
二人に頷いて僕は周先生を見た。吐くほどじゃないけど少し気分が悪い。多分もう限界。お父さんが飛んで来て頬や首筋に触れた。脈をとった周先生も頷いた。
「雫、葉月を連れ出してください。どうやら限界のようです」
「わかった」
僕は雫さんに抱き上げられて、リビングを無言で出た。兄さんたちの方や神林の両親の方を見なかった。
これで全て終わった。僕はこれで完全に護院 清方の息子になった。僕をベッドに降ろして雫さんがこう言った。
「葉月、そろそろ俺も名前じゃない呼び方して欲しいんだけどな?」
「え?」
「清方がお父さんなら、俺だって父親だろう?」
はあ…何でそうなるかな?
「お父さんが二人じゃこんがらがる」
一応、文句を言ってみた。
「それは…そうだな。ならば清方がお母さん…痛ッ!」
僕に飲み物を持って来たお父さんが、カップを置いて手にしていたトレイで殴った。
「何をする、清方!?」
「誰がお母さんですか、あなたという人は!私を女扱いしたら、ただではすませませんからね!?」
そりゃそうだ。幾ら抱かれる側だって僕も絶対にヤダ。
「雫さん、サイテー」
ちょっと言ってみる。すると雫さんはベッドの角に座って言った。
「くっすん…俺も家族に入れて欲しいのに…親子でイジメる…」
するとお父さんがもう一度、トレイで頭を殴った。
「暴力反対!」
「私たちはセクハラ反対です」
面白い。二人はよくこういう漫才みたいな事をする。
「ほら、まだ来客中なんです。行きますよ、雫」
「はいはい」
今のはきっと僕の気分を変える為にわざとだ。
だから考えておくよ、雫さんの呼び方を。
クリスマスは御園生家のパーティに出席した。ホテルの大広間でたくさんの人がいるパーティ。これホームパーティの域を超えてるよね?
僕はここで出席者に紹介された。護院 清方の息子として。
人が多い場所はまだ長時間いる事が出来ないので、僕はお父さんと早々に引き揚げて来た。車の中はパーティでいただいたプレゼントで一杯になっていた。家に帰るとここにもたくさんのプレゼントがあった。
………その中に兄さんたちからのプレゼントもあった。アルバイトのお金で買ったとカードに書いてあった。三人のイニシャルが付いたストラップ。きっと兄さんたちもお揃いで持ってる。
お父さんは心配したけど気分は悪くはなってない。でも今は僕にはこれを付ける気持ちはない。
「お父さん…これ、預かってて」
何かの引き金になりそうで手元に置いておくのは怖かった。
「わかりました。預かっておきましょう」
ストラップの入った箱とメッセージカードを手渡した。
お祖母さまとお祖父さまからは毛皮のコートだった。カードにはこう書かれていた。
『まだまだあなたは病気の最中なのだから、これを着て冷やさないようにしなさい』と。
年が明けたら、アルバイトに復帰させてもらう事になってる。
朔耶お兄さまと周先生からは、システム手帳と万年筆。三日月さんと長与先生からは、ノートPCを入れるビジネスバック。会社の皆さまからはカシミヤの手袋とマフラーなど、本当にたくさんいただいた。
中でも嬉しかったのは武さまと夕麿さまからのプレゼント。携帯ゲーム機と山ほどのソフトだった。その中には様々な学習ソフトもあった。
そして………
「私からはこれを」
手渡されたのはクレジットカード。お父さんのカードの家族カードらしい。
「ありがとう」
日常生活に必要とは思わないけど、会社の人と動く時には必要になるかもしれない。
「雫は帰って来てからと言っていました。ねぇ葉月、そろそろ彼を名前以外で呼んであげてください」
「そうしたいんだけど…わからなくて…」
パパじゃどこかのショタコンのエロオヤジみたいだし…黙ってたら滅茶苦茶、カッコイイおじさんなんだよな。あ、おじさんなんて言ったらまた拗ねるかな?
「貴族の家では父親を『おもうさん』と呼びます。お父さんよりも格が上の呼び方ですから、そう呼んでは如何でしょう?」
「おもうさん? わかった、そうする」
大晦日、近くの神社に二年詣りに皆で行った。僕は皆にプレゼントされたコートや手袋、マフラーや帽子で、完全武装してたからとても温かだった。
願う事は一つ。兄さんたちの幸せ。僕はもう…幸せだから。でも多分、二度と恋はしない。誰かを好きになるのが怖い。また同じ事になりそうで前に進めない。
お父さんにそう言ってみたら、今はそれでも構わないって。皆は気休めの慰めを言わない。それが僕には嬉しい。
皆でお祖母さまとお祖父さまの部屋に集まって御節をいただいく。僕と朔耶お兄さまと三日月さんは、それぞれにお年玉をもらった。えっと…ぽち袋じゃなくて普通の祝い袋。
ぶ、ぶ厚い…マジ?朔耶お兄さまと三日月さんは平然としてるけど…僕は中を覗いて仰け反った。
「こここここ…れ…幾ら入ってるの!?」
狼狽する僕を見て全員が笑い転げる。
「葉月、これが普通」
「嘘だ!」
子供にこんな大金を渡す大人なんてあり得ない。僕の叫びにまた笑い声があがる。
「いいえ?これが普通です。お蔭で高校の株式投資の授業での資金として充分でしたね」
「株式…投資…?高校で?」
金持ちの感覚はわからない…学校までそんな風なものなの?
「葉月、幾ら金持ちの行く学校でも、高校生が株式投資など普通は出来ない。俺たちの卒業した学校が特殊なんだ」
おもうさん…ってまだ言いにくいけど…がそんな話をする。
どんな学校何だろう?でも何だか先輩後輩の結び付きが固いみたいなんだよね。僕の周囲にいる人々は極々一部を除いて、みんなその学校の出身者なんだ。名前はみんなが時々口にしているけど…良くわからない。
僕はずっと兄さんたちしか見ていなかった。他の誰も眼中になかった。だから友達と呼べる相手がいない。でもこの前のクリスマス・パーティーで、朔耶お兄さまと三日月さんの弟 御影 月耶さんを紹介された。那津彦兄さんと同じ歳だけど元気で笑顔の明るい人だ。
「メアド教えろ」
そう言われてメアド交換して、今ではすっかりメル友だ。ちょっと武さまに似てるってお兄さまに言ったら、本人には絶対に言わないようにって言われた。何でだろう…?まあいいや。
だけどこんなたくさんのお年玉……どうしよう?お金で買える欲しいものは、手に入れてしまったから…使い道がない。
「おもうさん、このお金はどうしたら良い?」
「将来の為に増やすか?」
「増やす?僕、株式投資とかわからないよ?」
うん、それは絶対に無理だ。
家族に包まれて僕は幸せだった。
でも………夜、部屋で一人になるとやっぱり思い出す。最近は気持ち悪さは感じなくなった。代わりに僕を苦しめるのは、兄さんたちの温もりの記憶だった。
幸彦兄さんのキス。
那津彦兄さんの愛撫。
受け入れたそれぞれの熱と大きさと形。
僕の心も身体も…忘れていない。忘れる事は出来ない。兄さんたちの匂い、汗…それらが僕をどれくらい熱くしたかを。僕の心も身体も如何に満たされていたかも。
失ってわかった事がたくさんある。愛はたとえ相手が背を向けても消えたりしないんだと。
僕はまだ…二人を愛してる。だから泣かない。この想いを抱いて生きていく。未来はわからない。でもきっと誰かを好きになったとしても、その人は兄さんたちにどこかが似ているんだ。
僕は…忘れはしない。背中を追いかけてはいけないから。ここに踏みとどまっていつかは笑顔で兄さんたちと愛し合った日々を、大切な大切な宝物に出来るように頑張る。
これは僕自身の為。でも同時に兄さんたちの為。兄さんたちがこれから自分たちの道を、歩いて欲しいと思うから。
幸彦にいさん……
那津彦兄さん……
愛してる。
ありがとう……
僕、幸せだったよ。
正月明けのアルバイト再開は大忙しだった。左手の包帯も取れて僕は手を隠すのはやめた。冬休み中は勉強を兼ねてとアルバイトが増えた。
「葉月、これコピーな?」
「お茶淹れました!」
御園生ホールディングスのビルの広い最上階の半分を占めている経営チームの執務室を、僕は右へ左へと飛び回る。まだ疲れやすいので隣にある、武さまの為の休息室を使わせてもらっている。
でもちょっと威張れる事がある。僕のお年玉を全部、ここの人たちに託した事。皆さんは経営だけでなく、株式投資や先物取引なども行っている。おもうさんにすすめられてお願いしてみたのだ。
武さまが笑いながら引き受けてくださった。
「損はさせない」
そう言われた。だから僕は全部お任せした。
ちなみにそれが僕の今年もらったお年玉の全部だと言ったら、武さまだけが僕の気持ちをわかってくれた。ここで一番偉いのが武さまだとお兄さまが教えてくださったけど…何で、この人だけ感覚が僕と変わらないんだろ?
不思議だなあ……
僕はここで仕事をしている時は、忙しさや難しい事などに頭が占領されてしまう。余計な事が入る余地がなくなる。それが有り難い。
ある日、昼食を地下の社員食堂で摂った後、少し疲れて休息室で横になっていた。そこへ武さまが来た。慌てて起き上がろうとする僕を、手で制してこう言った。
「無理しなくて良い。俺は今のところは元気だから」
この人は身体が弱いと聞いている。
「勉強は進んでるか?」
「はい」
「そうか」
元気だって言ったけど…顔色が悪い気がする。僕はベッドから出た。何か言おうとする彼に僕はこう言った。
「喉が渇いたから」
そう言って部屋を出て秘書の通宗さんに武さまの様子を告げた。すぐに夕麿さまに知らせが行き、周先生が駆け付けて来た。そのまま武さまは周先生と一緒に帰ってしまった。
「葉月君、知らせてくれてありがとう」
雅久さんがそっと言ってくれた。
午後からはもっと忙しくなったけど、僕はPCで渡された原稿を入力する仕事をさせてもらえた。ちょっとは社会人に近付いた気分で、僕は通宗さんの車でいつもより早く帰って来た。すると…マンションのエントランスで僕は幸彦兄さんと会ってしまった。
僕は咄嗟に通宗さんの後ろに隠れた。もちろん見事なくらいに鉢合わせしたのだから、そんな事をしても無駄なのはわかる。どうやら兄さんは予備校へ行くところらしい。
「天羽さん、お帰りなさい」
「ただいま。今から予備校ですか?」
「はい」
兄さんの視線を感じる。多分、発作は起きない筈だけど、身体が震えて止まらない。発作を起こした時の曖昧な記憶が、僕に言い知れぬ恐怖を呼ぶ。僕が僕を傷付けるのは仕方がない。でももしかしたら兄さんを傷付けるような事をするかもしれない。兄さんはきっと避けたり逃げたりしないだろう。僕にはそれが怖い。
でも…愛しているから僕は兄さんたちを傷付けたくない。僕はこの時、自分しか見えなかった。後で考えると僕の態度は兄さんを、拒絶しているようにしか見えなかったんじゃないかと思う。それは兄さんを責める行為だ。
病院で錯乱して暴れて、自分の頭を壁に打ち付けた僕。それを目の当たりにした兄さんたちは、何を感じて何を思ったのだろう。12月に聞いた兄さんたちのこれからも、あの事と無縁ではない筈だ。
兄さんはしばらく僕を見ていたけど、通宗さんが首を振ったので小さな声で挨拶をして行ってしまった。僕はその後ろ姿を通宗さんに縋り付いて見送った。
「大丈夫?高子さまに連絡するね?」
お父さんやおもうさん。朔耶お兄さまや周先生が不在の時には、お祖母さまが僕の側にいてくれる。僕がひとりで苦しまないようにと。少しでも気が晴れるようにと。
程なくお祖母さまが降りて来た。
「通宗さん、ありがとう」
「いいえ、私がもっと気を付ければ良かったんです。不注意でした」
彼は悪くないのにそう言って頭を下げた。
「葉月、気分は悪くないの?」
エレベーターに乗りながら、お祖母さまは僕を抱き締めてくださった。僕は自分の感じた事をそのまま話した。
「そう。清方はもう大丈夫だと言っていましたけど、あなたにすれば不安でしょうね」
お祖母さまは本当にお母さんそのものの方だ。
「あなたの大好きなプリンを買ってありますよ」
「ありがとうございます、お祖母さま」
僕は少しずつは食べられるようにはなったけど、一時は完全な拒食症状態だった。
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