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第10章
第8話
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襦袢の上に浴衣を羽織ると、廊下に出た。
閉めきった部屋では独りでいても蒸し暑い。
襖を開け放し、廊下から縁側に出る。
自分の部屋から見える風景を眺めた。
数歩も歩けばすぐ行き詰まってしまうような土塀に、背の高い数本の木が植わっている。
本当はあの花のことだって、そんなには好きじゃない。
柱にもたれて歌を唄う。
子供の頃に、よく鞠をつきながら歌った歌だ。
もう随分長いこと唄っていなかったのに、それは自然と声に流れてくる。
すりむいたところからは、まだ血がにじんでいた。
家に帰りたいと、初めて思った。
「落ち込んでいるのかと思うていたのですが……」
現れたその人は、そんなふうに言った。
「お元気そうでなにより」
私がにっこりと微笑んで見せたら、隣に腰を下ろした。
「手まり唄です。晋太郎さんは、手まりで遊んだことは、ありますか?」
「ありませんよ、そんなの」
「あはは、そうでしょうね」
私は唄う。
晋太郎さんの遊んだことのない、手まり唄を。
「大事がないなら、私は戻ります」
「はい、大丈夫です」
ひらひらと手を振った。
「私のことなど、どうぞお気になさらずに」
「足をひねっていたようだと、聞きましたが」
「あぁ、平気です。たいしたことないので」
その足をにゅっと突き出す。
足首をかくかくと元気よく動かして見せた。
「ね、大丈夫でしょ?」
笑顔で返した私に、この人はため息をついて立ち上がる。
「少し休んだら、皆のところに顔を出しなさい。心配しています」
「はい。すみませんでした。ご心配をおかけして」
背中を見送る。
泣いたら負けだと分かっているのに、その姿が見えなくなったとたんに、何かが頬を伝う。
夕餉の支度の時刻になって、何事もなかったかのように土間へ戻った。
奉公人たちに「あら大丈夫なのですか?」なんて言われたりなんかして、これ以上この家での評判を落とさぬよう、丁寧に頭を下げる。
「お騒がせして、申し訳ありませんでした」
それからは黙って身を粉にして働いた。
夜になりようやく一人になると、どっと疲れが押し寄せる。
早めに寝床を整えると、横になった。
ひねった足はまだ痛い。
その痛みに目を閉じる。
遅れてやってきたその人に何か言われるかと思っていたけれども、何も言われなかった。
その日はなかなか寝付けぬまま、気づけば朝になっていた。
閉めきった部屋では独りでいても蒸し暑い。
襖を開け放し、廊下から縁側に出る。
自分の部屋から見える風景を眺めた。
数歩も歩けばすぐ行き詰まってしまうような土塀に、背の高い数本の木が植わっている。
本当はあの花のことだって、そんなには好きじゃない。
柱にもたれて歌を唄う。
子供の頃に、よく鞠をつきながら歌った歌だ。
もう随分長いこと唄っていなかったのに、それは自然と声に流れてくる。
すりむいたところからは、まだ血がにじんでいた。
家に帰りたいと、初めて思った。
「落ち込んでいるのかと思うていたのですが……」
現れたその人は、そんなふうに言った。
「お元気そうでなにより」
私がにっこりと微笑んで見せたら、隣に腰を下ろした。
「手まり唄です。晋太郎さんは、手まりで遊んだことは、ありますか?」
「ありませんよ、そんなの」
「あはは、そうでしょうね」
私は唄う。
晋太郎さんの遊んだことのない、手まり唄を。
「大事がないなら、私は戻ります」
「はい、大丈夫です」
ひらひらと手を振った。
「私のことなど、どうぞお気になさらずに」
「足をひねっていたようだと、聞きましたが」
「あぁ、平気です。たいしたことないので」
その足をにゅっと突き出す。
足首をかくかくと元気よく動かして見せた。
「ね、大丈夫でしょ?」
笑顔で返した私に、この人はため息をついて立ち上がる。
「少し休んだら、皆のところに顔を出しなさい。心配しています」
「はい。すみませんでした。ご心配をおかけして」
背中を見送る。
泣いたら負けだと分かっているのに、その姿が見えなくなったとたんに、何かが頬を伝う。
夕餉の支度の時刻になって、何事もなかったかのように土間へ戻った。
奉公人たちに「あら大丈夫なのですか?」なんて言われたりなんかして、これ以上この家での評判を落とさぬよう、丁寧に頭を下げる。
「お騒がせして、申し訳ありませんでした」
それからは黙って身を粉にして働いた。
夜になりようやく一人になると、どっと疲れが押し寄せる。
早めに寝床を整えると、横になった。
ひねった足はまだ痛い。
その痛みに目を閉じる。
遅れてやってきたその人に何か言われるかと思っていたけれども、何も言われなかった。
その日はなかなか寝付けぬまま、気づけば朝になっていた。
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