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第3章

§9

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俺は、震える手で動物病院の薬の袋を見た。

薬袋には、病院の電話番号がのっている。

導師になにが起こったのか、ちゃんと聞かなくちゃ。

黒電話に手を伸ばしたとき、呼び鈴がなった。

「はい、もしもし」

「病院行った? どうだった?」

尚子だった。

「導師が、導師がしゃべってくれないんだ!」

「は? 導師がしゃべらなくなったって?」

「どうしよう、なんで? なんでしゃべってくれないの?」

自分でも、自分の声が震えているのが分かる。

受話器の向こうで、尚子がため息をついた。

「そ、じゃあ元に戻って、よかったんじゃないの」

「なにが?」

「普通の猫に戻って、あんたも、変な寝言を言わなくなる」

「は?」

「黙ってたけどさ、病院連れて行こうかと、千里と相談してた。あんたが、いつまでもおかしなこと言ってたから」

「魔法使いになりたいって? 導師と修行してるって?」

「……、そう」

もう少しで、わざと受話器を落としてしまいそうだった。

自分がいま、ここで立っていられるのも、不思議なくらいなのに。

腹の底から、嫌な笑いがこみあげてくるのを感じている。

遠くでなにかの、大きな音が聞こえる。

「ちょっと心配してた。でも、導師の声が聞こえなくなったんなら、私は安心したよ」

外から聞こえる音が、家の近くで止まった。

「あんたも色々あって、疲れてたんだと思う。父さんが亡くなってから、ずっと一人でバタバタしてたし。少し休んで、ゆっくりしなさい。導師が無事で、よかったね」

俺は受話器を置いた。

再び鳴りだしたサイレンの音。

それは、香澄が救急車で運ばれていく音だった。

知らせに来てくれたのは、北沢くんだった。

菜々子ちゃんは、学校に来ていないらしい。

ずっと病院で付き添いをしているから、学校には来られないんだって。

そのことをレジの前で聞いたとき、俺は黙ってうなずいただけだった。

「お見舞いとか、行かないんですか?」

「どうして?」

「だって、気になるじゃないですか、どうなってるのか。僕は見に行けないし」

「行っても、しょうがないから」

北沢くんは、やれやれといったかんじで肩をすくめると、すぐに帰っていってしまった。

彼はもう、居間に上がってお菓子を食べたりなんかしない。

導師は隣でずっと毛づくろいをしていて、それが終わったら、丸くなって目を閉じた。

今思えば、恋とか、つき合うとか、何も考えていなかった中学の頃、なんで俺は、あの時、あの場所で、香澄に告白したんだろう。

どうして二人きりで、あの時あの場所にいたのかすら、もう覚えていない。

とても暑かったから、もしかしたら、運動会の練習かなにかだったのかもしれない。

気が強くて、いつもクラスの中心にいた香澄が、一人で座っていた。

俺はなぜか、香澄を探していて、香澄は真っ青な顔で校舎の陰に座っていて、保健室に行こうって誘ったけど、嫌がった。

お腹が痛いって、彼女は泣いていた。

だったら、なおさら保健室に行けばいいじゃないかって言ったのに、うずくまったまま、かたくなにそこを動かなかった。

彼女は何かを恐れ、怖がっていた。

それが何かは分からなかったけど、その時になぜか俺は「君のことが好きだから」って、言った。

彼女はそれを聞いて、笑って、笑って、泣いたんだ。

その時に俺は、本当はどうすればよかったのか、それが分からなくて、ずっと考えてて、多分今でも、そのことを考え続けている。

自分が今でも一人でいる理由が、その全てだなんて思ってはないけど、そこで立ち止まったまま、動けていないのは多分事実。

だから、お腹の大きくなった、変わってしまった香澄が目の前に現れた時に、自分だけが取り残されたような気がして、ますますどうすればよかったのか答えが見えなくなって、ただ一人でずっと悩んでいた自分がバカみたいに思えて、情けなくて、悔しかったんだ。

レジ台から立ち上がる。

俺は、香澄に謝らなくてはいけない。

彼女はきっと、また笑うだろう。

ワケ分かんないって、いつの話しだって、彼女自身も、そんなことがあったことすら、覚えていないかもしれない。

でも、そうしなければ、そうすることが、俺が自分で前に進む、今度こそ、俺が本当に香澄から解放される、儀式になるんだ。

立ち上がった俺を、導師が見上げる。

導師はあれから、一言も声をかけてはくれないけど、多分、頑張れよって、言ってくれてる。

俺は、導師の頭をひとなでしてから、香澄の待つ病院へと向かった。
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